【奨 励】 役員 川辺 正直
■ソルジェニツィン作、『収容所群島』
おはようございます。さて、旧ソ連の作家で、反体制のために長い間弾圧されていた人物に、ソルジェニツィンという人がいます。彼の作品『収容所群島』の中に、ある実話エピソードが描かれています。モスクワにある、ブトゥイルキという監獄の中で板張りだけの寝床にいた一人の老婦人のことです。彼女は、二年前流刑地から脱走してきたロシア正教の司教を、自宅に泊めてかくまった、という罪によってこの監獄の中に入れられてしまったのです。しかし、彼女は取り調べを受けている間、役人に対して実に堂々としていたのです。
「私は司教様をお泊めするという名誉に与ったのよ。」
係官は尋問します。
「それで彼はモスクワからどこに行ったのだ?」
「知っていますがね。絶対に言いません。」
この司教は信者たちの助けで、すでにフィンランドに亡命していたのです。取り調べ官たちは交替で連日、脅したり賺したりしますが、彼女は最後まで口を割らず平然としていました。そして最後に次のように述べたのです。
「私を粉々にしても白状させることなんかできません。あなたがたは上役が怖い。それにお互いを怖がっている。そして私を殺すことも怖がっている。だって私を殺してしまえば、手がかりがなくなりますからね。でも私は何も怖くないよ。今すぐにでも、神さまの前に立てるのですから。」
彼女の勇気の理由は何でしょう。死んで神の前に立ったとき、少しも恐れる必要がないということであったのです。なぜ恐れる必要がないのでしょうか。キリストの十字架の贖いの死を信じていたからです。
『収容所群島』のこの一人の老婦人のエピソードは、苦難の中にあって、揺らぐことなく信仰に立ち続けるキリスト者の姿に、私たちは力を与えられる思いが致します。
■世があなたがたを憎むなら、
さて、前回に続き、本日もヨハネによる福音書の中の、最後の晩餐の席からゲッセマネの園に移動する中で、主イエスが弟子たちに語られた最後のメッセージを学んでゆきたいと思います。この聖書の箇所の背景に流れているのは、聖書の時代区分が、律法の時代から恵みの時代へと移行しつつあるということです。
本日の聖書の箇所の15章の18節から19節には、次のように書かれています。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」
ここで、「世」という言葉が繰り返し出てきます。ここで、「世」と訳されている言葉は、ギリシア語の「コスモス」という言葉です。この「コスモス」には、3つの意味があります。従って、福音記者ヨハネがどの意味で使っているかを知るためには、文脈をよく理解しておく必要があります。さて、「コスモス」の3つの意味の1つ目は、宇宙のことです。神様が整えて、とても秩序正しいシステムをお作りになられています。それが、コスモスなのです。女性が使用する、最近は男性も使用するようですが、顔を整える化粧品のことを英語で「コスメティックス」と言いますが、これは「コスモス」から出た言葉なのです。従って、「コスモス」の1つ目の意味は、宇宙のこと、神様の御手による作品のことを意味しています。次に、2つ目の意味は、宇宙の中で、最も大切な星である「地球」、あるいは、「地上」、その「地上に住む人々」のことを言います。従って、2つ目の意味では、「人間たち、人類」のことを指すことがあります。ヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言うときの「コスモス」、「世」は、「宇宙」ではなく、「人々」のことを指す「コスモス」です。そして、3つ目の「コスモス」は何かと言いますと、神様に敵対するこの世のシステム、神様に敵対するシステム化された社会のことを「コスモス」と言います。本日の聖書の箇所で出てくる「世」、「コスモス」は3つ目の神様に敵対するシステム化された社会を指しています。そして、神様に敵対するシステム化された社会を支配しているのが、サタンです。ヨハネによる福音書の14章の30節には、次のように書かれています。
「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」
ここでも、「世」という言葉が出てきます。福音記者ヨハネがここで語っているのは、聖書的世界観です。神様の目から見た時に、「世」の世界というのは神様に敵対するシステムで、サタンに支配されています。それに対立するのが「神の国」です。「神の国」を支配するのは、神様です。キリスト者が主イエスを信じ、主イエスに従っている状態は、「神の国」の国籍を持っていて、「神の国」に移されていると言うことができます。それ故、葛藤が生じて来るのです。さて、もう一度、18節を見てみましょう。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」(15章18節)
「世」という言葉と共に、「憎む」という言葉が繰り返し出てくることに気が付かれることと思います。「憎む」と訳されているギリシャ語の「ミセオー」という言葉は広い意味を持つ言葉です。「憎む」だけではなく「軽蔑する」という意味も持っているのです。「ミセオー」というギリシア語を選んだ福音記者ヨハネの第一言語であるアラム語の「セナー(憎む)」という言葉は、しばしば異教徒に対して使われています。思想信条や文化の異なる相手への軽蔑・差別・憎悪が、この18節の文脈の中の「憎しみ」と同じものだと思います。
■「世」の憎悪を受ける主イエス
主イエスはこの類の軽蔑・差別・憎悪を受けています。ヨハネによる福音書の中で、主イエスはガリラヤ出身者であるということで差別を受けています。7章52節です。「彼らは答えて言った。『あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」』。「あなたもガリラヤ出身者なのか」という差別発言を行ったのは、祭司長たち(サドカイ派)やファリサイ派の権力者たちでした。彼らは中央意識からくる「田舎」への蔑視だけではなく、ガリラヤ地方特有の文化である「国際性」をも毛嫌いしています。
また、ヨハネによる福音書の4章に書かれている主イエスとサマリアの女とのエピソードは広く伝わったのだと思います。サマリア人を軽蔑・差別・憎悪しているユダヤ人から、主イエスはサマリア人と同一視され迫害されるのです。8章48節を見ますと、「ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、」と書かれています。この差別発言は、ファリサイ派のユダヤ人たちによってなされたものです。彼らは主イエスを憎むあまりに、主イエスを殺そうと、石を投げつけようとさえします(8章59節)。
これらの主イエスが受けた軽蔑・差別・憎悪は、主イエス・キリストと結ばれた信仰者たちも受けると言うのです。キリスト者が、愛に生かされ、主イエス・キリストを証しする時、世から憎しみを受けるというのです。キリストの愛に生きると言うと、誰からも好意的に取られるに違いないと思うかもしれません。愛に生きる者が憎まれるなどということがあるのだろうかと思われるかと思います。しかし、キリスト者の証しは、人間が思い描く人類愛に生きることによってなされるのではありません。人間の愛とは全く異なる神様の愛に生かされるということを証言するのです。ですから、そこには「世」とは異なるものへの「世」の「憎しみ」が生まれて来るのです。
■その時が来たときに、
本日の聖書の箇所、16章1節〜3節には、どのように書かれているのでしょうか?
「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」
このように、会堂からの追放と殉教の死の2つが書かれています。これらのことが、現実的に「神の国」と「世」が対立したときに起きる葛藤だというのです。現代の日本に生きている私たちにとって、会堂からの追放という辞退の深刻さはなかなかわからないと思います。しかし、ユダヤ人にとって、最大の悲劇は会堂からの追放です。会堂はユダヤ人の宗教生活、社会生活、経済生活の中心です。ユダヤ人共同体の中心なのです。そこから追い出されるということは、ユダヤ人としての生活が不可能になるということです。そういうことが起きるよと、主イエスはおっしゃるのです。そして、それが実際に起こりました。起こったのは、紀元85年から90年の間のです。それ以前にも、個別に会堂から追い出されるということは起きていましたが、オフィシャルに紀元85年から90年の間に福音書記者ヨハネの指導するキリスト教会の人々が経験した、ユダヤ人キリスト者の会堂追放の出来事が起きたのです。何が起きたのかと言いますと、ユダヤ人の会堂での祈りに変化が起きたのです。ユダヤ人には、会堂に集まってくると、毎週祈る伝統的な祈りがあります。18の祈りの項目があります。これを「シュモネー・エスレ」、あるいは、「18祈祷文」と言います。これに第19番目が追加されました。それは、主イエス・キリストを信じるユダヤ人を追い出すための祈りです。主イエスを信じるユダヤ人であれば、この祈りはできないという祈りです。ですから、主イエスを信じるユダヤ人がそのことを隠して会堂に来ても、19番目の祈りができないので、直ぐにわかってしまいます。あるいは、祈れないから、会堂に来ることができなくなります。この19番目の祈りの内容はどういうものかと言いますと、「背教者から全ての希望を取り去りたまえ、分派を作るものは直ちに滅ぶべし」というものです。この祈りが、ユダヤ人キリスト者をターゲットにしたものであることは明白です。この祈りができてから、一般のユダヤ人の共同体とユダヤ人キリスト者の共同体とは確実に分断されたのです。ユダヤ人キリスト者は、差別されているサマリヤ人と同様に、自治会館でもある会堂から追い出され、共同の礼拝も許されず、自由な商売もできずに、生命の危険にあっても保護されないということになったのです。これがユダヤ人社会における厳しい迫害の実態です。主イエスが語っておられる約60年後に、このことが成就したのです。
殉教の死も同じです。使徒言行録の7章を読みますと、最初に殉教の死を遂げたのは、ステファノであることが分かります。次が、使徒言行録の12章に記載されているヤコブです。ヨハネのお兄さんです。福音記者ヨハネは主イエスのこの言葉を書き記しながら、自分のお兄さんの死を思い出さずにはいられなかったと思います。そして、その後、ヨハネを除く使徒たち全員が殉教の死を遂げます。2節には、「しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」と書かれています。キリスト者を殺すという迫害をしているユダヤ人たちは、「自分たちは神に奉仕をしている」と考えているというのです。その代表は、回心する前のサウロだと言うことができると思います。これは何もこのユダヤ人キリスト者に対する迫害だけではありません。過去2000年間のキリスト教会の歴史と世界史の中で、「神の名において」行なわれてきた、キリスト教会の悲惨な歴史をも指すのです。歴史においても、また、私たちの小さな日常生活の間においても、同じように悲しみの涙を流し、苦難の中を歩まなければならない、「主よ、なぜ」と問わざる得ない現実が起きているのだと思います。
主イエスは会堂からの追放と殉教の死という迫害を弟子たちに予告します。では、なぜ主イエスは弟子たちにこのような過酷な迫害を予告したのでしょうか。
■高級車の約束
アメリカのロイ・エンゲルスという伝道者の証に、次のようなものがあります。ロイさんのお兄さんが油田で大金持ちになったのです。お兄さんは、弟のロイのために、ピカピカの高級車をプレゼントしたのでした。彼はルンルン気分で、そのプレゼントの高級車を停めている駐車場に行きました。そうしたら、ボロボロの服を着た、スラムから出てきたばかりの、何とも言えない臭いを発散している少年が車の中を覗き込んでいるのです。
「おじさん、これ新車でしょ」。
「うん、そうだよ。新車だよ」。
「おじさん、これいくらぐらいしたの?」
すると彼は言いました。
「実はおじさんも知らないんだ。おじさんのお兄さんが金持ちでね。プレゼントしてくれたんだ」。
するとこの少年は、突然、黙り込んでしまったのです。ああ、いけないことを言ってしまったなあ。自分も金持ちの親戚がいたらなあと、羨ましがっているのだなあと思って、申し訳ないという思いをしていたら、この少年がこう言ったのでした。
「おじさん、僕もこういうものをプレゼントできる人になりたいな」。
こういう車が欲しいと言ったのではなく、こういう車をプレゼントできる人になりたいな、と言ったのです。感動したロイさんは、君、一緒にドライブをしないか?と言うと、この子は、「乗ります、乗ります」と言ったそうです。そうして、二人は、ドライブに出かけたのでした。随分、走った後で、この少年が、「おじさん。悪いけど、僕のお家の近くまで行ってくれない?」。と言うのです。ああ、きっと友だちに自慢するのに違いないと思い、「うん、いいよ」と言い、そうして、スラムの中に入って行ったのです。そして、とある汚いビルの前に来た時に、少年は「おじさん、ここで停めて」言い、「5分でいいから、ちょっと停めて、待っていてくれない?」と言うのです。そして、彼は走って行って、そのビルの中に消えて行ったのですが、やがて、彼はゆっくり階段を下りて来たのです。彼の腕の中には、小児マヒで動けない弟がいました。そして、弟に向かってこう言ったのです。
「なあ、言っただろ。本当にピカピカの高級車に乗ったんだぞ。兄ちゃんはなあ。今日、これに乗ったんだぞ。それからなあ、よく聞け。兄ちゃんが大きくなったらなあ、これと同じ車を必ずお前に買ってやるからな。それまで、待っていてくれよ」。
そう言ったそうです。彼がロイさんから金持ちのお兄さんからプレゼントされたと聞いて、黙ったのは、羨ましいから黙ったのではなく、自分もお兄さんだ、自分にも弟がいる、あの弟に何をしてやるのだろうか、と考えていたというのです。彼が新車をスラムまで導いていったのは、自慢のためではなく、弟に誓いを建てるためだったのです。そして、彼が車に乗ったのは、弟のために試乗するためであったというのです。この弟思いのお兄さんは、すべての幸せを弟との関連の中で、考えていたのでした。
■思い出させるために
さて、主イエスが弟子たちに会堂からの追放と殉教の死という過酷な迫害を予告した理由は、この弟思いのお兄さんと似た理由なのではないでしょうか。4節には次のように書かれています。
「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなた方と一緒にいたからである」。
このように主イエスは告げているのです。「これらのこと」とは、13章から始まる、15章までに語られてきた主イエスの長い別れの説教の言葉を指しています。その中で、主イエスはいよいよ弟子たちと別れる時が来たことを、明らかにされました。弟子たちにとってはそれまでの主イエスとの生活は、まことに充実したものであったことでしょう。その弟子たちが今、主イエスと別れる時を迎えているのです。しかも、主イエスは殺されてしまう、弟子たちの気持ちというのは、そのような自分が予想もしていないこと、考えてもいない事が突然起きる、「こんなはずではない」「こんなはずではなかったのに」というものであったのではないでしょうか。
しかし、主イエスがご自身の死とその後の迫害の予告をされたのは、突然の迫害に弟子たちが不安と恐れと疑いに陥り、主イエスを証言することから、また信仰から離れることがないようにとの配慮です。弟子たちのそばから離れていく主イエスの愛の配慮です。弟子たちは主イエスと初めから一緒にいたのだから、その時が来ても、主イエスについて証言をすることができると、主イエスは言っているのです。弟子たちは証人として、主イエスの十字架への道を見なければならないのです。証人と言う言葉は後に殉教者という意味をも持つようになりました。この証人が伝えるのは命の言葉です。命の言葉であるからこそ、命をかけてでも伝えなければならない真理なのです。証人というのは、命の言葉の出来事に立ち会わされた人です。しかし、苦難の中で、命の言葉の出来事を証言するところに、弁護者、助け主なる聖霊が働かれるということを、主イエスは弟子たちに約束されているのです。この弁護者と言う言葉は、「パラクレートス」と言う言葉が使われていて、この言葉は「助ける」、「弁護する」、「傍らに呼ぶ」、「慰める」、「励ます」と様々な意味もあるのです。その時が来たら、弁護者、真理の霊が与えられ、共にいるということを、弟子たちに思い出させ、理解できるようにするため、主イエスは語っているのです。
神様に敵対する「世」で起きている軽蔑・差別・憎悪は、しかし、16章3節に「彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」とありますように、神様を知らないことから起きていることだと主イエスは語っています。私たちキリスト者は「神の国」に国籍を持つ者ですが、一方で、「世」に置かれている者でもあります。それ故、軽蔑・差別・憎悪に満ちたこの激動の時代にあって、私たちは命の言葉を証言することを、主イエスに招かれていると思います。私たちは、主イエス・キリストとの関係性の中で、神様の御心が成就するよう祈り続け、主イエスを証言して行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。