■新鮮な言葉
「初めに言があった。…言の内に命があった」
幼稚園や保育園の園長をしているときのこと、 こどもがふっとつぶやいた言葉をお母さんやお父さんが聞きとって、お便りをくださるのをとても楽しみにしていました。こどもは、言葉の意味がよく分からなくても、音の響きに敏感だったりします。まだ言葉に「慣れて」いないので、逆に「新鮮」なのです。そんなこどもたちの、ふとつぶやくコトバたちは、ユーモラスだったり、はっとさせられたりするものが、たくさんあります。
園児からの便りは、たいていお母さんが「うちの子は、こう言ってます」と代筆してくれたものですが、ときに「////〇、××」と、不思議な図柄がいっぱいに描かれたお便りがきて、横にお母さんの字で、「この『//×〇』は手紙のつもりらしいです。書きながら、こんなことを言っていましたので『翻訳』します」と、○×の横に、こどものセリフを添えてくださるお便りもありました。
三日月を見て、「お月さまが、ワレちゃった」と言ったこどもがいました。それも一人や二人ではありません。結構います。それは「真似」ではなく、こどもたちの心が同じように動いた、こどもたちのいのちが共鳴したことのあらわれでしょう。
お母さんたちが、そば屋さんで「わたしタヌキそば」「わたしは山菜そば」などと注文していたら、男の子が「ぼくは四歳そば」と言ったとか、「汚職事件」を「お食事券」と思い込んでた、というのもありました。
あるお母さんが、男の子を連れて、お友だちの家でのケーキづくりの講習会に参加しました。品のいい先生の指導で、ケーキは見事にできあがり、試食ということになりました。みんなも品よく構えて、誰もなかなか手をつけません。先生は、しきりにすすめます。「さ、どうぞ。おあがりになって。みなさん、おあがりになって」。と、さっきの男の子、やおらモゾモゾと靴下をぬいで、そうっとテーブルのうえに「おあがり」になったそうです。
■耳を傾けて
「初めに言があった。…言の内に命があった」
若いお母さんが、自分の二歳になる女の子の「つぶやき」を伝えてくれたお便りを思い出します。その子は、ブランコにやっと乗れるようになったので、嬉しくてたまりません。公園に散歩にいくたびに、まずブランコ乗りを堪能します。お母さんは女の子のブランコをゆすってやり、そのあと買い物などをして家に戻るというのが日課になっていました。
ある日のこと、いつもなら嬉々としてブランコをゆするわが子が、ふっと上を見あげたとたん、ゆするのも忘れ、口を開けたまま見あげっぱなしでいます。つられてお母さんも上を見ましたが、いつものように木々が揺れる空があるばかりです。お母さんは
「どうしたの?」
と聞いてみました。すると、女の子はひとさし指をまっすぐ伸ばして空をさし、ただひと言、きっぱりと言ったそうです。
「あお!」
女の子はプランコ同様、クレヨンも使い始めたばかりだったのでしょう。そして、「これはアカ」「これはアオ」と、色を塗りながら名前を覚えている最中だったに違いありません。ある日、ふと空を見あげます。すると空いちめん、クレヨンの「あお」。女の子はその瞬間、言葉とこの世界との不思議な関係に出会ったのだと思います。若いお母さんは、お便りに、このときの情景を綴って知らせてくださいました。そして、ユーモラスに「ねえ、園長先生。うちの子って『詩人』でしょう?」と、お便りを結んでいました。このお便りを読んで嬉しくなりました。
母親というのは、なかなかに忙しいものです。こどものテンポに合わせてばかりもいられません。ブランコをゆすってやりながら、アタマの中では買い物のことなど考えていたりして、上の空だったりします。そんなとき、こどもがぼんやり空を見あげていたりすると、「さっさとこぎなさい!」と言いたくなったり、「あお」とつぶやかれても「あたりまえでしょ」なんて言いかねません。なかなか、こどもの気分を、いっしょに味わうゆとりがないのです。
ある女子高校生からこんな手紙をもらいました。
「わたしが友人関係でひどく悩んで落ち込んでいたとき、母に相談しました。母は黙って聞いていましたが、しばらくしてからこんな手紙をくれました、『お母さんに打ち明けてくれてありがとう。お母さんは何にもしてあげられないけれど、お母さんに話した分、苦しみは半分になると思います。これからは二人で悩もうね』。今までの人生でいちばんうれしかったことです」
こどもが何も話してくれない、と嘆く親がいます。いったい何考えているのか、全然わからない。話しかけても煙たがられるばかり。反抗期なのかしら、と。それは、親が本気で聞かないからでしょう。ちゃんと聞いてくれない人にせっせと話す人などいません。こどもは、親が自分の言うことを受け止めてくれないことをよく知り抜いているから、話す気になれないのです。
こどもたちたちは、その鋭敏な感受性で正確に、相手の聴く姿勢、受け入れる容量を読んでいます。こりゃダメだと思ったら、決して話しません。話したって、返ってくる言葉は決まっているからです。
「バカなこといってないで、勉強しなさい」
「そんなことでいつまでもウジウジしてるんじゃないの」
「おまえみたいなこといったって、社会じゃ通用せんぞ」
耳を傾け、聞いてくれる親をもつことは、どれほど幸せなことでしょうか。そして、さきほどの若いお母さんは、そのときに「どうしたの?」と尋ね、「あお!」というつぶやきを聞きとることができました。しかもそれは、お母さんにとっても、とても楽しいことだったのでしょう。そのことを、わざわざお便りに書いてきてくれたのですから。便りを書くというのは、なかなか億劫で面倒なものです。でも、そうさせるだけの感動を、この女の子はお母さんにプレゼントし、お母さんもそんな発見を「いっしょに味わう」ことで、女の子に「安心」をプレゼントしたのだと思います。
■闇の中の光
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている…」
ヨハネは今、「闇」の中に輝く「光」としてのイエス・キリストの姿を描いています。 闇の力がわたしたちの内に働く時、わたしたちの心は荒み、不安に捉われ、絶望し、神から愛されていることを見失います。そして呟きます、神がどこにいるというのか、神などいない、と。そんな闇の中で、わたしたちは、希望ではなく絶望を、信頼ではなく不信を、愛ではなく憎しみを抱きます。かけがえのない絆や関係は破壊され、歪められ、そして原初に存在したという、あの「混沌」と「深淵」の底へと引きずり込まれます。
その闇の深さ、大きさ、強さは、わたしたちの想像の及ぶところではなく、わたしたち人間の力の及ぶところではありません。わたしたちの手もとにあるちっぽけなペンライトをどれほど振りかざしたところで、世界の全体が明るくなるわけではなく、わたしたちの全身が温まるわけでもなく、まして永遠の希望を生み出すこともありえないのです。イエス・キリストの光は、どのようにしてわたしたちを照らし出してくれるのでしょうか。
魚釣りをしていた小さな乗り合い船での出来事です。その船が夕闇の迫る頃、強い潮に流されて岸からかなり遠く離れた沖合にまで流されてしまいました。釣り人たちがあわてふためくうちに、まもなく太陽は沈み、周囲は闇に包まれます。その夜は月もなかったため、自分たちのいる場所はおろか、方角も分からないという状況でした。だれもが必死になって船の灯りを振りかざし、自分たちのいる場所を確認しようとしますが、小さなカンテラをいくつ照らしたところで、その船を照らし出すこともかないません。焦りと絶望が釣り人たちを苛み始めたそのとき、船長が突然「灯りを消せ」と命じます。
不思議に思いながらも、みんながそのとおりにしました。灯りが消えると、海の上は真暗闇です。ところが、その闇にだんだんと目が慣れてくると、まったくの闇と思っていた中から、遠くのほうに小さな明かりが、そう浜辺の町の灯りらしきものがボーッと見えてきました。こうして、帰るべき方角が分かり、皆が無事に帰ってくることができた、という話です。自分の灯りを消した時に、闇の中で初めて見えてきた浜辺の灯り。これこそ、自分のいる場所も分からずに漂流していた人々を導く、「まことの光」となりました。その「まことの光」に気づくためには、まず、最初に自分たちの手の中にある灯りを消さなければなりませんでした。わたしたちの手の中にある「自分の光」は、かえってわたしたちを惑わし、それを振りまわせば振りまわすほど、むしろ、わたしたち自身と事態を混乱させます。
「まことの闇」の中で、わたしたちの行くべき道を本当に指し示してくれるものは、「まことの光」でしかありえません。それに出会うためには、まず、最初に「自分の光」を消さなければならない。そのようにして初めて、わたしたちは、今なおわたしたちの周りに色濃く残っている「まことの闇」のもたらす厳しい現実の只中にありながらも、「自分の光」に頼るのではなく、「まことの光」を見出すことができるのではないでしょうか。
■静けさの内に
そのことを、ダビデがこう語り教えてくれています。
「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」(詩編三七・七)
主の前に静まるようにと教えています。この勧めは、今日もその意義を失っていません。主に向かって静まるということは、信仰者にとって最もふさわしいことです。神の前で静まろうとするとき、それを妨害するものがあまりにも多いからです。
この世の中は、いつも揺れ動いています。以前にも増して、そうです。争いは続き、いのちが奪われ、飢えと渇きもなくならず、闇が深まるその一方で、人々は、もっと速く、もっと楽に、もっと多く、もっともっと…と求め続けています。人間の心は、いつも揺れ動いていました。しかし今日ほど、それが極端な時代はありません。わたしたちは静けさと孤独を恐れているようです。何か静けさを打ち破るために、しゃべり続け、動き続け、何かをし続けていなければならないかのようです。この、うわべだけの騒々しい、静かになることのない時代に対して、「主の前に静まれ、沈黙して主に向かえ」という言葉ほど、今、必要とされている言葉はありません。
「あお」とつぶやいた女の子の言葉を、お母さんが静かに聞き取ることができたように、永遠の静けさを持つ御子イエス・キリストもまた、わたしたちの騒がしさの内にひそむ悩みに、じっと耳を傾けてくださっています。そして、静けさの中に現れる永遠の喜びと力をわたしたちに与えようと、切に願っておられるのです。ですから、休むことを知らず、疲れ果て、力を失い、霊性をなくしたすべての人に向かって、「沈黙して、主に向かいなさい。そこにあなたの必要とする静けさがある」とつぶやき、囁きかけられるのです。神は、嵐の中にも、地震の中にも、火の中にもおられず、静かに囁く声の中に現われました。わたしたちも、嵐や地震や火の中にあってなお、沈黙の中に静まることがなければ、神の声を聞くことができません。
静けさを求めましょう。もし、主の前に静まることができないなら、どこかわたしたちのうちに間違っているところがあります。神の光に照らし出されることを好まない罪があるのです。
仕事をしている時にも、主の前の静けさを求めましょう。
街に出て、道を歩いているときも、静けさを求めましょう。
休んでいるときも、静けさを求めましょう。 そうすれば、つぶやき、囁きかけてくださる、永遠の神の声を聞くことができます。御子イエス・キリストの光を見出すことができるでしょう。それは良心への語りかけであり、自分の光が消し去られることです。悩み苦しむ魂に、神ご自身が、恵みの言葉を直接囁きかけられ、まことの光で行く道を照らし出してくださいます。そのようにして、わたしたちの魂にいのちの息吹を注いでくださいます。沈黙して、主の前に向かいましょう。絶えず、主の前に静まりましょう。自分の光を消して、わたしたちの罪の闇の中で目をこらしましょう。そのようにして、主の恵みを、愛を、いのちを、平安と喜びの内に受け取ることができればと、心からそう願います。