小倉日明教会

『わたしの霊を御手にゆだねます。 −十字架の上での、主イエスの最後の祈り−』

ルカによる福音書 23章 44〜49節

2025年9月7日 聖霊降臨節第14主日礼拝

ルカによる福音書 23章 44〜49節

『わたしの霊を御手にゆだねます。 −十字架の上での、主イエスの最後の祈り−』

【奨励】 川辺 正直 役員

■パスツールと狂犬病ワクチン

 おはようございます。私たちが生きているこの日本で、狂犬病についてのニュースを聞くことはまずないかと思います。狂犬病は主に狂犬病ウイルスを保有するイヌ、ネコおよびコウモリなどの動物による咬傷や引っかき傷から病原体が侵入することによって感染する感染症です。発熱等のかぜ症状から始まり、不安感、恐水症、麻痺、および幻覚などの神経症状を呈し、昏睡から呼吸障害により死に至ります。潜伏期間は通常1〜3ヶ月で、犬に咬まれてからワクチンの接種により発症予防が可能ですが、発症した場合の狂犬病の致死率は現代でも、ほぼ100%という恐ろしい感染症なのです。

 1831年に狼が東フランスの村で人々を襲い、8人が死亡するという事件がありました。噛まれた人への手当は、ケルススという人が提案していた咬傷部の焼灼(しょうしゃく)であったのです。皮なめし業者の8才の息子は狼に噛まれた人たちが焼印を押される時の恐ろしい悲鳴を聞いていたのです。この少年こその後の微生物学者ルイ・パスツールであったのです。

 パスツールは、微生物学者として当時恐れられていた狂犬病にも取り組んだのです。パスツール狂犬病に感染させたウサギの脊髄を乾燥させることによって、狂犬病ワクチンを開発して、犬への予防注射法を確立することができたのです。しかし、人への注射は全く別問題です。ところが、1885年7月6日、9歳の少年ジョゼフ・メイステルが全身を狂犬に噛まれるという事件が起こります。まだ実験段階のであったため、パスツールはワクチンの使用をためらったのですが、主治医に説得されて、責任問題を恐れず、最終的にワクチン接種を決意し、60時間後から、11日間に12回にわたってワクチンを接種し、少年は発症を免れたのです。まもなく傷口も癒えて、無事に全快し、文字通り九死に一生を得たのです。メイステル少年は、このときのパスツールの恩に報いるために、後年パスツール研究所の守衛となったのです。

 本日は主イエスが十字架で亡くなられた場面を読みます。主イエスの十字架上での最後の祈りには、どのようなメッセージが込められているのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■主イエスの死

 本日の聖書の箇所のルカによる福音書23章44〜45節を見ますと、『既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。』とあります。の聖書の箇所で、不思議なことが起きているのです。『全地は暗くなり、それが三時まで続いた。』とあります。主イエスが十字架に架けられたのは、午前9時です。そして、現在は12時頃になっているのです。ここまでに、3時間位経過しているのです。そして、12時頃から午後3時まで、全地が暗くなったのです。暗闇になったのです。この暗闇は、神様の裁きを象徴しているのです。この間、主イエスの状態はどのような状態であったのでしょうか。御子イエスは、父なる神様との断絶を経験していたのです。主イエスの人間性の部分が、父なる神様と断絶していた、つまりこのことが霊的な死というのです。霊的な死というのは、神様との関係が切れてしまうことを言います。この間、全地が暗くなっています。暗黒が覆っているのです。永遠に神様との関係が切れてしまうというのは、どれほどのことなのかということを考えますと、誰もが心が張り裂けんばかりになってしまうのではないでしょうか。主イエス・キリストを通して、神様と和解することなく、暗黒の運命をたどるということを考えますと、だれもが辛くなって来るのではないでしょうか。主イエスは罪のないお方であるのに、罪人の一人となり、今、霊的な暗黒を通過しているのです。これは、私たちが通過するべき霊的な暗黒であったのです。それを、御子である主イエスが通過して下さっているのです。十字架上の主イエスの苦しみは、肉体的な苦しみに注目して語られることが多いと思いますが、聖書はそうではないのだということを伝えているのです。肉体的な苦しみは当然のこととしてありますが、それ以上に、父なる神様との断絶という霊的な苦しみがあったと思います。

 そして、その時に『神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。』とあります。つまり、この『神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。』ということは、主イエスの十字架での死、そして、父なる神様との断絶、主イエスの祈りが全て有効であり、この出来事以降、誰でも主イエスを通して、神様の臨在に近づけるようになったということを、象徴しているのです。神殿の垂れ幕が裂けたとありますが、この垂れ幕は聖所と至聖所を分けている垂れ幕で、大祭司が年に1度だけ、民全体の罪の赦しのための大切な日である『贖いの日』に、動物のきよめの血を持って、その垂れ幕を通って、中に入れたのです。ところが、その垂れ幕が上から下に、真ん中から裂けたのです。それはどういうことかと言いますと、もはや神様と私たちを遮るものがなくなったということなのです。主イエス・キリストという垂れ幕を通して、誰でも神様の臨在に近づけるようになったということです。なぜ、このことが起こったのかと言いますと、十字架上での主イエスの死が有効であり、父なる神様がそのことを認めたということを示していると思います。

■十字架上の主イエスの祈り

本日の聖書の箇所の46節を見ますと、『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。』とあります。この言葉は、主イエスの十字架上での最後の祈りとなります。主イエスは十字架上で次のような7つの言葉を語ったとされています。

No.

十字架上の主イエスの言葉

マタイ

マルコ

ルカ

ヨハネ

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

 

 

23:34

 

はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

 

 

23:43

 

婦人よ、御覧なさい。あなたの子です

見なさい。あなたの母です。

 

 

 

19:26-27

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか

27:45

15:34

 

 

渇く

 

 

 

19:28

成し遂げられた

 

 

 

19:30

父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。

 

 

23:46

 

 本日の聖書の箇所の46節で、主イエスは、十字架上で、大声で叫ばれたのです。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』。大切な祈りです。主イエスは、『父よ、』と呼びかけておられます。この『父よ、』という呼びかけを、主イエスは大声で叫ばれたのです。つまり、この言葉は何を意味しているのかと言いますと、主イエスは、今、無力な姿で犯罪人の1人として十字架に架けられて、死んで行こうとしておられるのです。ローマ兵たちは主イエスを殺そうとしているのです。主イエスは無力で何もできないと思うかもしれませんが、そうではないのです。主イエスはこの状況を支配しておられるのです。大声で叫ばれた主イエスはちゃんと状況を支配しておられるのです。そして、『父よ、』と呼びかけておられます。先程、父なる神様との関係が断絶したという話をしました。46節では、『父よ、』という呼びかけが、行われています。つまり、父なる神様との関係がここで回復しているということなのです。つまり、もっと言いますと、46節では、主イエスは霊的に死んだ状態から、霊的に復活した状態、つまり父なる神様との関係が回復された状態に、導かれたということです。主イエスは、肉体的に死んで、3日目に復活されました。ちょうどそれと同じ様に、主イエスは十字架上で霊的に死に、3時間後に霊的に復活されたということなのだと思います。すなわち、これらのことは平行記事となっているのだと思います。主イエスの場合は、霊的な死と復活が先に来たのだということで、そのことがあってから肉体的な死と肉体的な復活が来たのです。主イエスはこの箇所で、父なる神様との関係が回復し、霊的に復活されたということなのです。

 ここで、主イエスは『わたしの霊を御手にゆだねます。』と祈っておられます。これは、ご自分の命を罪の贖いの捧げ物として捧げたということなのです。ご自分から、ご自分の命を父なる神様に捧げた目的は罪の贖いのためなのです。ということは、この祈りは何を示しているのかと言いますと、主イエスの死は自発的なものであったということなのです。主イエスは自ら進んで、十字架について、死んで下さったということなのです。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』という、この祈りは厳粛な祈りですが、同時に、この祈りは実に日常的な祈りなのです。この祈りは、夜寝る時にユダヤ人たちが捧げる祈りなのです。今でも、この祈りを捧げるユダヤ人は沢山いるのです。寝る前に、『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』と祈るこの祈りは、寝ている間に召されたらよろしくお願い致しますという祈りなのです。この祈りが何を意味しているのかと言いますと、寝る前のこの祈りは父なる神様への信頼を表明しているのです。その究極的な形が、この46節の主イエスが死ぬ直前の最後の祈りとして『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』と祈られたのです。主イエスは、ここで父なる神様への深い信頼を表明されておられるのです。このような祈りを十字架の上で、死ぬ直前に、主イエスは捧げておられるのです。この祈りを聞いて、びっくりした人物がいるのです。それが、死刑を執行している兵士たちの1番のリーダーであるローマの百人隊長なのです。

■本当に、この人は正しい人だった

 次に、本日の聖書の箇所の47節を見ますと、『百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。』とあります。福音記者ルカはこの47節で、今度は百人隊長の口を通して、再び『本当に、この人は正しい人だった』と語らせているのです。百人隊長は主イエスが無罪であることを証言しました。『本当に、この人は正しい人だった』と言い、そして、神様を讃美したのです。この百人隊長は、本日の聖書の箇所では、名前は出てきていないのですが、教会史の中では、この百人隊長に関する伝承があるのです。この百人隊長の名前は、ロンギナスという名前で知られているのです。伝承によれば、彼は主イエスを信じる忠実なキリスト者となったと伝えられています。そして、この百人隊長は一生懸命伝道して、最後は殉教の死を遂げたと、伝えられています。主イエスの祈りは、この百人隊長の心を動かしたのです。

■神を讃美する者へと変えられる

 本日の聖書の箇所の48〜49節を見ますと、『見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。』とあります。『見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。』とありますので、群衆の中に、主イエスに好意的な人たちがいたということが分かります。『胸を打つ』というのは、悔い改めの仕草ですから、民衆たちも、『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます!』と叫ばれて、十字架で死なれた主イエスを目の当たりにすることを通して、悔い改めに導かれたのです。『帰って行った』と訳されている言葉は、ルカ福音書とその続きである使徒言行録に特徴的な言葉です。しばしば単に『帰って行く』というより、神様を讃美しながら帰って行く、という文脈で用いられます。ここでも民衆は悔い改めへと導かれ、神様を讃美しながら、それぞれの生活の場へと帰って行ったのではないでしょうか。それは神様を讃美し、神様を礼拝して生きる者へと変えられた、ということだと思います。もちろん民衆は、百人隊長のように『本当に、この人は正しい人だった』と信仰を告白したわけではありません。ですから民衆が悔い改めて、神様を讃美し、神様を礼拝して生きる者となった、というのは言い過ぎかもしれません。しかし、その芽生えが起こっていると言うことはできるのではないでしょうか。神様を讃美し、神様を礼拝して生きる者へと変えられ始めているのだと思うのです。主イエスの十字架によってもたらされた、暗闇ではなく光に覆われている世界に、人間の罪ではなく神様の恵みに覆われている世界に、招き入れられて、生き始めているのだと思うのです。

 そして、それ以外の人たちもいたのです。それは、『イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たち』のグループなのです。彼らは、『遠くに立って、これらのことを見ていた。』のです。この48〜49節の記述は、この後の主イエスの復活物語への序章とも言うべき内容だと思います。主イエスの最後の死の場面を見届けていたグループがいたのです。それは、主イエスを知っていた人々であり、同時に『ガリラヤから従って来た婦人たち』であり、これらの人々が主イエスの十字架を見ていたと言うのです。このことが、主イエスの復活物語が展開してゆくための伏線となっているのです。この『遠くに立って、これらのことを見ていた。』ガリラヤから従って来た婦人たちこそが、主イエスの死と葬りと復活の第一級の証人となったのです。そして、このことは同じように、今はまだ『遠くに立って』、主イエスの十字架を見つめている人たちであっても、主イエスの十字架のもとに集い、神様を讃美して生きるよう招かれているのです。

■わたしの霊を御手にゆだねます。

 本日の聖書の箇所の46節で、『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。』と記されていたことを、本日、一緒に学びました。主イエスがご自身の祈りの中で、『父よ、』と呼びかけている箇所は、決して多くはありません。『父よ、』と呼びかけは、受難の記事の中で集中して登場して来ます。とりわけ、ルカによる福音書では次の4箇所です。1ヶ所目が、10章21〜22節で、『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。』とあります。2ヶ所目が、22章42節で、『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』とあります。3ヶ所目が、23章34節で、『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』とあります。そして、4ヶ所目が、本日の聖書の箇所の46節の、『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』なのです。神様を『父』と呼ぶ主イエスの祈りは、『子』としての自分の使命と『父』に対する信頼と従順を表す言葉として、また、『父』のみこころの秘密を知る『子』として祈っていることが分かります。特に、十字架上の主イエスの祈りの最初の言葉と最後の言葉を、ルカは記しています。受難という危機的な状況の中で祈られた主イエスの言葉に、福音記者ルカが主イエスの存在をどのように理解していたかを知ることができると思います。特に、父なる神様に対する絶対的な信頼と従順の骨頂は、最後の祈りのことばである『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』において見事に結実していると思います。

 46節の主イエスの祈りは、主に対する信頼を歌った詩編31篇の6節の聖句となっています。詩編では、『まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。』となっています。『ゆだねる』という言葉は、通常、相手に対する最も深い信頼があることを意味していると思います。『ゆだねる』(commit)と訳されたギリシア語の言葉、パラティセーミィは、本来『~の前に置く』(set before)という意味の言葉です。世俗的な言い方をするならば、『まな板の上の鯉』のように、窮地に立たされても慌てることなく、自分の身を相手のなすがままにさせて、泰然としている状態を指す言葉なのです。そこから『ゆだねる』という意味が生まれているかと思います。それでは、神様にゆだねるとは、どういうことかを次に考えてみたいと思います。

■神様にゆだねるとは

 カソリックの司祭で、ノートルダム大学、イェール大学、ハーバード大学で教えたのち、晩年の10年間、カナダのラルシュ共同体の牧者として障がいを持つ人と共に生活し、プロテスタントにも大きな影響を与えた人に、ヘンリ・ナウエンという方がおられます。このヘンリ・ナウエンが『フライイング・ロドレース』というサーカス団の空中ブランコに夢中になったとき、空中ブランコサーカスのスターに演技についての秘訣を聞いた話を書いています。ナウエンは、『サーカスの観客は飛び手がスターだと思っているが、ホントのスターは受け手だということです。うまく飛べる秘訣は、飛び手は何もせず、全て受け手にまかせることなのです。飛び手は受け手に向かって飛ぶ時、ただ両手を拡げて受け手がしっかり受けとめてくれると信じてジャンプすることなのです。空中ブランコで最悪なのは飛び手が受け手をつかもうとすることなのです。』と書いています。

 そして、空中ブランコの演技の秘訣を聞いたナウエンは1つの啓示を得るのです。『恐れなくてもよいのだ。私たちは神さまの子ども、神さまは暗闇に向かってジャンプするあなたを闇の向こうでしっかり受けとめてくださる。あなたは神さまの手をつかもうとしてはいけない。ただ両手を拡げ信じる事。信じて飛べばよい。』のだと言うのです。

 神様が私たちを捕らえてくれることを信頼してジャンプすること、これが『ゆだねる』ということの意味だと思います。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』という主イエスの祈りの言葉の中には、完全なる謙遜、完全なる愛、完全なる明け渡し、徹頭徹尾の信頼と従順が告白されていると思うのです。父なる神様に対する揺るぎない信頼こそは、主イエスの生涯に一貫したものであったと思います。ここに、完成された信仰者の姿があると思います。このゆるぎない子としての父に対する完全な信頼と従順こそが、神と人とを結ぶ生命の絆だと思います。主イエスは、受難を通してこの生命の絆の栄光を現わして下さったのだと思います。私たちは、主イエスが罪人である私たちのために、ご自分の霊を父の御手にゆだねて十字架で死んで下さり、そのことによって私たちの罪を贖って下さり、父なる神様との関係をつなげて下さったのです。主イエスによって与えられた、この恵みの中で私たちも、自分の歩み、人生を父なる神様に信頼し、人生を歩む者とされて行くのだと思います。そして、いつか死を迎える時には、『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』と、父なる神様を信頼し、神様の御手に私たちの霊を安心してゆだねることができるようになりたいと思います。

それでは、お祈り致します。