小倉日明教会

『わたしはあの人を知らない −ペトロの否認と主イエスのまなざし−』

ルカによる福音書 22章 54〜62節

2025年6月15日 聖霊降臨節第2主日礼拝

ルカによる福音書 22章 54〜62節

『わたしはあの人を知らない −ペトロの否認と主イエスのまなざし−』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                        役員 川辺 正直

向田邦子、『ゆでたまご』

 おはようございます。作家、脚本家として活躍された向田邦子さんの『男どき女どき』というエッセイ集に収められている『ゆでたまご』という作品があります。400字詰め原稿用紙2枚くらいの短い作品です。短い作品なので、お読みしたいと思います。

『ゆでたまご』                向田邦子

 小学校4年の時、クラスに片足の悪い子がいました。名前をIといいました。Iは足だけでなく片目も不自由でした。背もとびぬけて低く、勉強もビリでした。ゆとりのない暮らし向きとみえて、襟があかでピカピカ光った、お下がりらしい背丈の合わないセーラー服を着ていました。性格もひねくれていて、かわいそうだとは思いながら、担任の先生も私たちも、ついIを疎んじていたところがありました。

  たしか秋の遠足だったと思います。リュックサックと水筒を背負い、朝早く校庭に集まったのですが、級長をしていた私のそばに、Iの母親がきました。子供のように背が低く手ぬぐいで髪をくるんでいました。かっぽう着の下から大きな風呂敷包み出すと、「これみんなで」と小声で繰り返しながら、私に押しつけるのです。古新聞に包んだ中身は、大量のゆでたまごでした。ポカポカとあたたかい持ち重りのする風呂敷包みを持って遠足にゆくきまりの悪さを考えて、私は一瞬ひるみましたが、頭を下げているIの母親の姿にいやとは言えませんでした。

 歩き出した列の先頭に、大きく肩を波打たせて必死についてゆくIの姿がありました。Iの母親は、校門のところで見送る父兄たちから、一人離れて見送っていました。 私は愛という字を見ていると、なぜかこの時のねずみ色の汚れた風呂敷とポカポカとあたたかいゆでたまごのぬく味、いつまでも見送っていた母親の姿を思い出してしまうのです。

 Iにはもうひとつ思いでがあります。運動会の時でした。Iは徒競走に出てもいつもとびきりのビリでした。その時も、もうほかの子供たちがゴールに入っているのに、一人だけ残って走っていました。走るというより、片足をひきづってよろけているといったほうが適切かもしれません。Iが走るのをやめようとした時、女の先生が飛び出しました。

 名前は忘れてしまいましたが、かなりの年輩の先生でした。叱言の多い気むずかしい先生で、担任でもないのに掃除の仕方が悪いと文句を言ったりするので、学校で一番人気のない先生でした。その先生が、Iと一緒に走りだしたのです。先生はゆっくりと走って一緒にゴールに入り、Iを抱きかかえるようにして校長先生のいる天幕に進みました。ゴールに入った生徒は、ここで校長先生から鉛筆を1本もらうのです。校長先生は立ち上がると、体をかがめてIに鉛筆を手渡しました。

 愛という字の連想には、この光景も浮かんできます。今から四十年もまえのことです。テレビも週刊誌もなく、子供は「愛」という抽象的な単語には無縁の時代でした。私にとって愛は、ぬくもりです。小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動です。「神は細部にやどりたもう」ということばがあると聞きましたが、私にとっての愛のイメージは、このとおり、「小さな部分」なのです。

 このように向田邦子さんはゆでたまごと運動会のエピソードを通して、『愛』について語っているのです。本日の聖書の箇所で、ペトロは3度、主イエスを知らないと言って、つまづいたということが記されています。使徒たちのリーダー格のペトロのスキャンダルとも言うべき、ペトロが主イエスを否認したというエピソードが記されています。本日は、このエピソードがなぜすべての福音書に収められているのかということを考えながら、今日の聖書の箇所を読んで行きたいと思います。

闇がペトロをのみ込もうとしている

 本日の聖書の箇所の54節を見ますと、『人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。』とあります。主イエスは、ゲッセマネの園で逮捕され、大祭司の家に連れてゆかれました。これから、裁判が始まるのです。その前にルカは、ペトロの失敗を記録しているのです。ペトロがどのようにして躓いたかを書き記しているのです。そのことは、ルカによる福音書22章31節以下に記されている記事とつながっているのです。22章31〜32節で、主イエスはペトロにこのように言われていました。この主イエスの言葉はルカによる福音書だけが記している言葉です。『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』つまり、サタンの働きによって試練に直面し、その信仰が小麦のようにふるいにかけられるのはペトロだけではなく、『あなたがた』つまり弟子たち全員だというのです。そして、主イエスはペトロのために、信仰が無くならないように祈ったというのです。そして、過越の食事を終えた主イエスと弟子たちは、オリーブ山のふもとのいつものゲッセマネの園に行き、主イエスは弟子たちにサタンの誘惑に陥らぬように、祈りによる準備をするように教えられたのです。しかし、ゲッセマネの園で、弟子たちは祈りによる準備ができていなかったのです。そのため、主イエスが逮捕され、自分たちも逮捕される危険性が襲ってきた時に、弟子たちは逃げて行ったのです。ペトロも祈りによる準備ができていませんでした。ペトロは、自分だけは牢に入って死んでもよいという覚悟があるから(22章33節)、大丈夫という傲慢な心があって、失敗を引き起こすのです。

 本日の聖書の箇所では、22章34節の『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』という、主イエスの予告が成就するのです。しかし、ここでのポイントは、主イエスはそれでもなおペトロを愛し、ペトロのことを気にかけておられるということなのです。それでは、ペトロはどうしたのでしょうか。54節の後半に、『ペトロは遠く離れて従った。』とあります。ペトロは遠く離れてはいますけれども、主イエスの後にはついて行っているのです。ペトロの他に、もう一人主イエスの後をついて行った人がいるのです。それはヨハネなのです。ルカによる福音書には出てきませんが、ヨハネによる福音書18章15〜16節を見ますと、『シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。』とあります。これらの記述から、ペトロとヨハネはついて行ったということが分かります。ペトロとヨハネと言いますと、過越の食事の準備をしたのも、この2人でした(22章7〜8節)。彼らは特別な働きを、主イエスから与えられていたのです。そして、使徒言行録の時代に入ると、生まれたばかりのキリスト教会のリーダーとして、彼らが用いられるという予表があるのです。ペトロとヨハネが後を離れて、ついて行ったのです。ペトロとヨハネは、特別な弟子であることが分かります。そして、彼らが行った場所は、大祭司の家でした。これは、アンナスとカヤパの住居なのです。アンナスはカヤパの舅です。アンナスとカヤパの住居が、大祭司の家であったのです。あるいは、カヤパの官邸という言い方もされます。離れてついて行ったペトロは、ヨハネの手引によって、大祭司の家に入ります。

『わたしはあの人を知らない』

 次に、本日の聖書の箇所の55〜57節を見ますと、『人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。』とあります。

 ルカによる福音書に記載の内容は、基本的にマタイとマルコによる福音書に書かれている内容と一致するのです。ペトロはたき火を囲む人々の中に混じって、腰を下ろしていました。3月のエルサレムの夜というのは、冷え込むことが多いのです。春になっているとはいえ、夜はまだ寒いのです。そのため、たき火を焚いて暖を取らなければいけないような状況であったと思います。そこに、ペトロは人々に混じって、中に混じって腰を下ろしたのです。そこにいる人々の仲間になったということです。まさか、自分がペトロであって、主イエスの弟子であることを、言い当てられることはないだろうと思っていたことと思います。

 ところが、何が起きたのかと言いますと、ある女中がペトロがたき火に照らされて座っているのを目にしたのです。そして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言ったのです。ペトロはすぐにそれを否定して言います。『わたしはあの人を知らない』とペトロは言ったのです。もしも、ペトロが誰かに、主イエスのことは知らないと言え、と強制されたら、言わなかったことと思います。しかし、思いもかけずに、警戒もしていなかった女中に、突然、危機的状況に突き落とされるようなことを言われたのです。ですから、ペトロは主イエスの勧めに従って、祈りによる準備をしておくべきであったのです。正気になって、このペトロの言葉の意味を考えてみますと、とんでもなく恐ろしいことを言っているのです。口が裂けても言えないようなことを、ペトロは口走ってしまったのです。

 ルカによる福音書9章23節を見ますと、『それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」』とあります。これは、どのような人がキリスト者であるかということを定義している聖句です。キリスト者の生活の原則は、『自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』ということだと言っているのです。キリスト者というのは、自分のミッション、責務を背負って、キリストを告白する人だと言うのです。ところが、本日の聖書の箇所で、ペトロは何をしているのかと言いますと、それとは真逆のことをしているのです。主イエス・キリストを否定し、自分の身の安全を図っているのです。それが、ペトロのこのときの状態なのです。

『お前もあの連中の仲間だ』

 しばらく、そのまま時間が経過します。そして、本日の聖書の箇所の58節を見ると、『少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。』とあります。今度は、『ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」』とあります。ここで、ペトロは2度目に主イエスを否定しています。この記事の並行箇所のマルコによる福音書14章69節を見てみますと、『女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。』とあります。マルコによる福音書では、女中が再び登場して、『「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言い出した』となっています。ところが、ルカによる福音書では、『ほかの人が』となっているのです。しかし、これは必ずしも矛盾と言うことはできないかと思います。確かに2回目に言っているのは女中なのです。しかし、ルカはそこにはほかの人を出して来て、その話に加わって、ペトロに「お前もあの連中の仲間だ」と言わせているのだと思います。それは、時間の経過と共に、ペトロの緊張が高まって来ていて、さらに2回目は他の人まで加わってきて、ペトロを問いただしているのだと思います。ルカは、ペトロが受けている緊張の高まりを描写するために、ここで女中の指摘に同調する第3の人物を登場させているのだと思います。

『あなたの言うことは分からない』

 次に、本日の聖書の箇所の59〜60節を見てみますと、『一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。』とあります。『一時間ほどたつと、』と、ルカは時間の経過に注目しています。ペトロは1回目に主イエスを否定しました。そして、『少したってから、』、2回目に主イエスを否定します。そして、3回目はそれからさらに1時間ほどたって、否定したのです。なぜ、時間に関する情報が必要なのでしょうか。それは、ペトロがどれだけ緊張を高めていたかということを示す1時間であったのだと思います。今風に言えば、周囲からテロリストのように見られているのではないかというプレッシャーを感じて、周囲の人々の中に、疑惑の目を感じて、息苦しさを高めて行った1時間であったのだと思います。ですから、ペトロは3回、立て続けに知らないと言った訳ではないのです。時間の流れがあって、息苦しいような葛藤の高まりを感じながら、その苦しみの中からペトロは、『あなたの言うことは分からない』と、答えてしまっているのです。ペトロが通過していた精神的な葛藤を、私たちは想像することができるのではないでしょうか。大祭司の家の中庭で、人々の敵意が自分にも向くのではないかという緊張の中で、異質な存在として居続けることによって、極端な精神的葛藤の内にいたということを、想像することができるのではないでしょうか。福音記者ルカは、『また別の人が、』と書いています。その人が誰なのかと言いますと、ヨハネによる福音書18章26節には、『大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」』とあります。3回目の『また別の人が、』というのは、『大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者』であったというのです。ですから、ペトロが自分の親類の耳を切り落としたということをよく覚えていて、ペトロが危険な人物であると考えているということが分かります。そのペトロのことをよく覚えている人が、『園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。』と言ったのです。そして、本日の聖書の箇所の59節の後半を見ると、『また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。』とあり、自分の親類の耳を切り落とされた人が強く言い張ったということが分かります。『ガリラヤの者』とありますが、これは言葉の訛りと衣服で分かるのです。従って、あなたもガリラヤの者だと分かると、言い張ったのです。それに対して、『ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。』(60節)とあります。これは、最大級の否定です。これで、主イエスを否定するのは、3度目になるのです。するとどうなったのでしょうか。『まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。』とあります。これは、直ぐに鶏が鳴いたということなのです。22章34節で、主イエスが予告した通りのことが、ここで起きているということが分かります。このときの主イエスとペトロがどのくらい離れて立っていたかは分かりません。しかし、主イエスが引き出されてきて、裁判に向かう途中であったかと思います。

主は振り向いて

 本日の聖書の箇所の61〜62節を見ますと、『主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。』とあります。ルカは、主イエスの目線を書き記しています。『主は振り向いてペトロを見つめられた。』という、ルカだけが書き記したこの文章は、衝撃的な効果を生んでいると思います。この一文に、主イエスの愛が凝縮されていると思います。『振り向いて』と訳された『ストレフォー』というギリシア語の言葉は、ルカによる福音書では7回用いられていますが、主語はすべて主イエスです。そして、本日の聖書の箇所以外の6回は、振り向いた直後に主イエスの言葉が続いているのです(7章9節(百人隊長の僕の癒やし)、7章44節(罪深い女の赦し)、9章55節(サマリア人から歓迎されない)、10章23節(帰還した72人を喜ぶ)、14章25節(弟子の条件)、23章28節(十字架につけられる))。主イエスはいずれの聖書の箇所でも振り向いて、間違いを指摘し、教え、励ましを与えられています。本日の聖書の箇所には、大祭司の家の中庭で主イエスは何も言葉を語ってはいません。しかし、主イエスは赦しを与え、再出発を促すために、『振り向いて(ストレフォー)』、『見つめられた。』のだと思います。それゆえ、『振り向いた』主イエスに『見つめられた』ペトロの胸の中には、主イエスの言葉が響いたのだと思います。それが、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』という主イエスの言葉であったのだと思います。しかし、ペトロの胸の中に響いた主イエスの言葉は、それだけであったのでしょうか。そのことを次に考えてみたいと思います。

ペトロを見つめられた

 今日の聖書の箇所の61節の前半の『主は振り向いてペトロを見つめられた。』の中の『見つめられた。』と訳された『エンブレポー』というギリシア語の言葉は、新約聖書の中で、主イエスがペトロに対して用いている箇所がもう1箇所あります。それは、ヨハネによる福音書1章42節で、『そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。』と記されています。主イエスがシモンにペトロ(アラム語ケファ)というあだ名をつける場面であり、2人の初対面の場面です。この時にペトロは主イエスの弟子となったのでした。主イエスのペトロに対する温かい眼差しは、最初から最後まで一貫しています。ペトロが主イエスとの関係を3度に渡って否定しても、イエスはペトロとの関係を肯定し続けます。3度の否認というのは、ユダヤ的な文脈では、徹底的な否定、完全な否定なのです。それでもなお、主イエスはペトロに誠実なのです。22章32節の『「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」』という主イエスの言葉もまた、大祭司の家の中庭で、ペトロの胸の中に響いていたのだと思います。『しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。』という主イエスの言葉がペトロの胸の中で響いていたからこそ、この3度に渡るペトロの否認という深刻なエピソードがすべての福音書の中に記されているのだと思います。それはなぜかということを次に考えてみたいと思います。

主イエスのまなざしに支えられて

 本日、最初にご紹介しました向田邦子さんの『ゆでたまご』というエッセイの中で、向田邦子さんはポカポカとあたたかいゆでたまごのぬく味と運動会の徒競走に、ぬくもりと小さな勇気とやむにやまれぬ自然の衝動による『愛』を見ているのです。しかし、この『ゆでたまご』というエッセイに収められているエピソードは果たして、誰にとっても美談なのでしょうか。Iさんのお母さんや先生の行動は、受け取り手によっては美しいというよりは、迷惑だということもあるのではないでしょうか。同級生のお母さんから、まだポカポカ温かい、でかくて重くて、しかも汚れた風呂敷包みを押しつけられるのです。仲のいい同級生ならまだしも、向田さんはIさんのことを「性格もひねくれていて、かわいそうだと思いながら、疎んじて」いたのです。運動会で、走るのをやめたり、とびきり遅くなったりする生徒に、大人が駆け寄るという展開はめずらしくないかと思います。ようやくゴールした瞬間、まわりから拍手喝采が起こるということはよく見かける光景かと思います。しかし、このことで余計に恥ずかしい思いをした人はいるかもしれません。『ゆでたまご』はいい話ですが、何かいやな感じもじんわりと滲みてきます。しかし、それでも向田邦子さんは、愛という字を見ていると、ゆでたまごと運動会を思い出すと記しているのです。この向田邦子さんの優しいまなざしがこの『ゆでたまご』という作品の魅力なのだと思います。

 本日の聖書の箇所のペトロの3度に及ぶ否認というエピソードは、信仰のない者にとっては、キリスト教会のリーダーのとんでもないスキャンダルに過ぎないと思います。しかし、信仰のある者にとっては、どんなに主イエスとの関係を否定しても、主イエスはペトロ、そして、私たちとの関係を肯定し続けるという、主イエスの愛がどれほど深いかを示すエピソードであると思います。ペトロはこのエピソードを思い出しては泣き、このエピソードを語っては泣いたのだと思います。本日の聖書の箇所の62節の『そして外に出て、激しく泣いた。』という聖句は、古い写本にはなく、元々はルカによる福音書には記されていなかったと言われています。これは、私の勝手な想像ですが、ペトロが大祭司の家の中庭でのことを、思い出しては泣き、涙なくしては語ることができなかったことが伝えられて、後の人がこの一文を書き加えたのではないかと思います。

 本日の聖書の箇所は、私たちが信仰者として立てられているのは、どこまでも主イエスの祈りとまなざしが注がれているからだということを教えてくれていると思います。そして、私たちのありようがどのようなものであったとしても、主イエスは私たちの罪を赦すために十字架に架かって下さいました。主イエス・キリストの十字架と復活を受け入れるとき、私たちは主イエスのまなざしによって、主イエスの執り成しの祈りによって支えられているということを知るのです。私たちは、この主イエスのまなざしに支えられて、主イエスの愛に応えて、歩んで行きたいと思います。

  それでは、お祈り致します。