【奨 励】 役員 川辺 正直
■あなたの人生を分けた過去の(大きな小さな)出来事は何でしたか?
おはようございます。各メディアにライターとして執筆されている奥井隆さんという方が人生を分けた過去の出来事は何でしたかという問いに答えた書いたエッセイがあります。次のような内容です。
こんにちは。リクエスト、ありがとうございました。私が小学校2年生の運動会の時のことです。私は両親と一緒に、昼休みのお弁当を食べることになりました。当時、運動会の昼食は家族で食べることが習わしでした。
さあ、お弁当を広げようとなった時、突然母が少し離れた場所に座っていた女の子を見て、父に話しかけました。
「ねえ、あの子…、どうしたのかしら?」
「きっと、片親なんだろう。ちょっと、聞いてくる」
そう言って父はすっと立ち上がると、担任の先生の所へ行き、ひとことふたこと言葉を交わしたようでした。戻ってきた父が言いました。
「あの子 お母さんがいないらしいよ…」
と、次の瞬間、父と母は一緒に立ち上がり、その子の前に歩み寄りました。一人でお弁当を食べている彼女の前で体をかがめ、何か話しかけました。
父と母はその子を連れて戻ってくると、母がこう言いました。
「さあ! 一緒に食べましょ」
その子のお弁当は質素なもので、確かおにぎりだけだったように記憶しています。母と父は折詰のお弁当を広げると真ん中に置き、彼女に遠慮なく食べるよう勧めました。
私が3年生の運動会の時、父と母は1年前と同じようにその子を招き、我々はまた一緒にお弁当を食べました。正直なところ、その時の私は少し気恥ずかしく感じていました。
「なんで、うちの家は家族だけで食べずに、あの子を連れてくるんだ?」当時の私はそう感じていました。私は母に聞いてみたことがあります。
「なんであの子と一緒に、お弁当を食べるの?」
母は微笑みながら、こう答えました。
「あの子はね、お母さんがいないから一人で食べなきゃいけないの。かわいそうでしょ」
当時の私は、その言葉を聞いても、あまり納得できませんでした。
私が4年生になった春、母が脳血栓で倒れ帰らぬ人となりました。そして半年が過ぎ運動会が開催されたとき、私は一人で祖母が作ってくれた弁当を広げました。
食べながら涙が頬を伝い、あの時の惨めな思いといったら、それ迄に経験したことなどなかったものでした。私の頭の中に3年生の運動会の記憶が蘇りました。父と母があの子を招いて一緒にお弁当を食べたことを思い出しました。
一人でお弁当を食べながら私が知ったのは、父と母がどれほど優しい人たちであるかということでした。それは、私が父と母を心から尊敬した瞬間でした。
人生は時として残酷ですが、そういった目に遭って初めて人の道を教えられることがあります。今の母も先の母と同じく心優しい人です。私には誇れる親が3人もいるのです。
本日は主イエスが十字架に架けられた場面を読みます。主イエスと一緒に十字架に架けられた犯罪人と、どのような会話を交わしたのか、そしてそのことには、どのようなメッセージが込められているのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■主イエスをののしった犯罪人
本日の聖書の箇所のルカによる福音書23章39節を見ますと、『十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」』とあります。本日の聖書の箇所で、2人の犯罪人が右と左に十字架に架けられているのです。この2人の犯罪人は、同時に象徴的には、人類の代表のような2人なのです。この2人は犯罪人なのです。つまり、全人類は犯罪人なのです。アダムが犯した罪の影響を受けている全人類は、神様の目には、犯罪人なのです。その罪人である全人類は、2つのグループに分けられるということなのです。1人は主イエスを拒否して、滅びてゆく人です。もう1人は主イエスを信じて救われる人です。従って、本日の聖書の箇所で、主イエスを拒否している1人は、主イエスを拒否して滅びてゆく人々の代表になっていると思います。主イエスの祈りを聞いても、主イエスの愛の姿を見ても、十字架で死ぬほどに、命を投げ出して、私たちを救おうとされる主イエスの姿を見ても、主イエスを拒否し、滅びてゆく人々の代表がこの聖書の箇所の犯罪人の1人なのです。もう1人は、主イエスを信じて救われる人々の代表なのです。それが次に登場するもう1人の犯罪人なのです。ところが、ここでの1人目の犯罪人は、主イエスのメシア性の主張を嘲りました。『お前はメシアではないか。』と言っているのです。そうであるなら、『自分自身と我々を救ってみろ』と挑戦的な言葉を投げつけたのです。メシアなのだから、自分自身を救い、我々を救ってみろと言ったのです。ところが、もう1人の犯罪人がいるのです。彼は救われる人々の代表なのです。
■神様を恐れる犯罪人
本日の聖書の箇所の40〜41節を見ますと、『すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」』とあります。このもう1人の犯罪人は心の変化をこの時に体験しています。前回、お話しました『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』という、主イエスの祈りの姿を見て、彼の心が変化したのだと思います。彼は、悪口を言っている仲間をたしなめ、神様を恐れなさいと忠告しているのです。自分たちは、当然の報いを受けているということを認めているのです。これは、罪の告白です。そして、『この方は何も悪いことをしていない。』と言っているのです。これは、ルカの視点でもあるのです。ルカは繰り返し、主イエスが無罪であることを、強調して来ているのです。ここでは、主イエスを信じた犯罪人の1人の口を通して、主イエスが無罪であることを伝えようとしているのです。『この方は何も悪いことをしていない。』。もう1人の犯罪人の心が変えられたのです。そして、このもう1人の犯罪人は、主イエスに対して信仰告白をするのです。それが、次の言葉なのです。
■わたしを思い出してください
次に、本日の聖書の箇所の42節を見ますと、『そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。』とあります。これが、この人の信仰告白なのです。『イエス様、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言っているのです。すごい言葉だと思います。この人は、十字架に架けられて、痛みと苦しみと恥ずかしさの中で、共に十字架に架けられている主イエスに信頼して、この言葉を口にしているのです。私たちは、この言葉をよく味わいたいと思うのです。すごい信仰が込められていると思うのです。主イエスは間もなく死のうとしているのです。その主イエスがいつか御国に入られるということを、この人は告白しているのです。
つまり、主イエスはいつか御国の位に就(つ)かれると信じたということなのです。ここでの『御国』という言葉は、神の国ということなのですが、当時のこの言葉の使い方から考えますと、これはキリストが地上に設立する王国のことなのです。ですから、今、まさに死のうとされているお方が1度死んで、やがて、地上に王国を設立するようになる。その時に、私を思い出してくださいということをこの人は告白しているのです。つまり、これだけの信仰告白をすることができるというのは、この人はそれまでに主イエスの説教を何度か聞いていたと考えられます。そのことを覚えていて、それがこの十字架に架けられているこの場面で、信仰告白となって実を結んだのだと思います。このことは、福音を直ぐには信じなくても、伝え続けるということが、とても大切なことだということを示していると思います。その人の心の中に、記憶の中に、神様の言葉が留まる、理解が広がる。そして、時が来た時に、やがて福音がはっきりと分かり、信仰告白へとつながる。そのようなことが起こるのだと思います。
主イエスの説教を聞いていたと考えられるこの人は、当時のユダヤ人社会から見ると、宗教的部外者、社会的部外者であったと思います。つまり、犯罪人の中の犯罪人であったこの人が、何を信じたのでしょうか。主イエスが、自分が味わっているのと同じ苦しみの中で死んでゆこうとしているのを、この人は目撃しているのです。しかし、この人は、その主イエスが死に、やがて復活し、天に昇り、戻って来られ、これを再臨と言いますが、再臨して、地上に神の国を設立するということを信じたのです。この人が信じたのは、後の時代に、新約聖書を通して、私たちが信じているような、主イエスが十字架に死に、墓に葬られ、3日目によみがえり、天に昇り、やがて、戻って来られるという福音を正確に信じたのではないかも知れません。しかし、この人も、私たちが信じているような福音の原型とも言うべきものを理解し、信じたのだと思うのです。信じられないような、ものすごいことが十字架の上で起きているのです。私たちは、このことを決して当たり前のことだと考えてはいけないのだと思います。ですから、この人は『わたしを思い出してください』と言うのです。これはどういう意味かと言いますと、『私を救ってください』という意味なのです。この人は、『わたしを思い出してください』、すなわち、『私を救ってください』と信仰告白し、主イエスへの信頼を告白したのです。
長い時を経た現代にあっても、どのような状況にあっても、主イエスに信仰告白するならば、その人は救われるのです。私たちは、それが遅すぎると考える必要はないのだと思います。本日の聖書の箇所に登場する、このもう1人の犯罪人は社会的にも、宗教的にも、落ちこぼれた部外者なのです。犯罪人の中の犯罪人なのです。この人はこれから、何時間かの間に、十字架刑で死のうとしている人間なのです。しかし、この人でさえ、なお救われるのだと、聖書は語っているのです。この人の信仰告白を聞いて、主イエスは何と言われたのでしょうか。
■今日わたしと一緒に楽園にいる
本日の聖書の箇所の43節を見ますと、『するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』とあります。ここで、主イエスは、『はっきり言っておくが、』と言っています。この言葉は、これから言うことが非常に厳粛で、深遠な真理であるということを言っているのです。すなわち、『はっきり言っておくが、』というのは、とても大切な真理を言いますので、よく聞きなさいということなのです。そして、『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言うのです。神の国が、地上に設立されるのを待たなくてもよい、今日わたしと一緒に楽園にいると言っているのです。主イエスはこの人の信仰告白に応えられたのです。死んだ魂は黄泉(よみ)の世界に行きます。主イエスが語っておられる『楽園』というのは、義とされた者、信者が行く祝福の場所のことを言っているのです。死んだ魂は黄泉に行きますが、その黄泉には祝福の場所と苦しみの場所と2つに分かれているのです。その祝福の場所に主イエスは行かれる、あなたは今日私と共に祝福の場所である『楽園』にいますと、この人に約束を与えて下さったのだということです。それでは、主イエスがこの人に与えて下さった約束とは、どのようなものなのかということを次に考えてみたいと思います。
■花と鳥と雲、弁護士 平田友三
検察官をされていた平田さんは、担当されていた強盗殺人事件の被告人に死刑を求刑したことがありました。彼は、17歳の時に強盗殺人を犯し、懲役15年の判決を受け、10年余り服役して仮釈放となり、そのわずか2年後に2度目の強盗殺人を犯したのでした。平田さんは、捜査・公判を通じて次第にこの青年と心が通い合い、彼は、死刑判決確定後、洗礼を受けて自分の犯した罪を深く悔い改めたのでした。ずっと平田さんとの深い交流は続き、平田さんは、この死刑囚について、『花と鳥と雲』と題した随想で、次のように書かれています。長い文章ですので、一部を抜き出して、お読みしたいと思います。
『花と鳥と雲』 平田友三
死刑問題については種々論議があるが、このような死刑囚もいた、社会の片隅にこういう人生もあった、ということを知っていただきたくて、私の検事時代の経験で、大分以前の古い話であるが、三八歳で死刑の執行を受けたH君のことを記してみたい。
同君の犯した事件は、結婚式の資金欲しさから洋品店の夫妻両名を殺害し金銭を奪取しようとしたものであり、当時の新聞には 「自分の欲望を満たすための残忍な犯行で、罪のない人を二人も殺した反社会的な性格は許されるべきでない」などと死刑判決の要旨として報道された。
検事の時、私はこの事件を捜査し、公判にも立会した。捜査時犯行を否認し、勾留延長後もアリバイを主張して、反抗的な態度で、私の取調べに対し暗い表情でせせら笑い、目をぎらぎら光らせていた。
私は惨殺の直後検視した被害者御夫婦の血まみれの姿を思い浮べながら、検討した証拠に基づき、「君は嘘をついている。しかし、説明したいこと、弁解したいことがあったら何でも聞く。突然両親を殺されて息子さん三人が遺体にすがって泣いていた。君は人間として、自分のしたことは正直に言わなければいけないと思う」など、こちらの気持が通じるよう調べ室の机の上に何も置かず気を散らさないようにし、きびしく追及し、一心に説得を続けたところ、苦しげに表情が変わり、顔に汗があふれ、「言います」と、犯行を全面的に自供するに至った。「ここだったかな」と、自分でペン書きした見取図に基づいて使用凶器のあいくちも小川の雑草の中から発見された。自供後は、別人のように明るい表情に一変した(これは重罪事件を自白する被凝者に共通の現象だったように思う)。
(中略)
捜査、公判を通じ心が通い合うことも多く、実の弟がしたことのように思えた(弟はいないが)。生育歴、金銭の奪取はなかったことその他、酌量すべき点はあったが、度重なる生命軽視の犯行であり、被害者や遺族の悲しみ、無念さ、その他の情状を併せ考え、上司の決裁を得て死刑を求刑した。弁護人は熱心に弁護されたが、判決も死刑の言渡しがあった。控訴する気はないと言ったが、弁護人は控訴を勧め、私も助言し、控訴はしたが、そこまでで、上告はせず、第一審の死刑判決が確定した。
(中略)
死刑判決確定後、暫くして、H君から面会してもらいたいという手紙をもらった。法に違反して重い罪を犯したからといって、その人の人間としての価値は否定することはできない。同君とは捜査、公判を通じ気持のふれ合うことがあった。拘置所へ他の事件の被疑者の取調べに行く際、所長の許可を得て、時間を割いて、他へ転勤するまで度々面会した。
同君の心の支えになるようなことは何も話してやれなかったが、キリスト教に入信していた同君は、面会室のガラス窓に顔を押しつけるようにして、一生懸命にいろいろ話した。自分の犯した行為に対する自責の言葉。聖書を繰り返し読んでいること。りっばな教誨師さんのこと。また全財産を被害者の遺族に贈って養老院へ入っていた養父が、亡くなる前々日に 「息子と一緒に次の世で暮したい」と泣き、そのために必要ならばとキリスト教に改宗する洗礼を受けたと聞きました、と話して涙を流した(この養父の人は、死刑判決を言渡して裁判官全員が退廷すると、私に「息子に一言」と断って近付き、「この馬鹿者!」と叫んでその顔を一回平手打ちし、あわてて私が制止すると、烈しくむせび泣いた。後で、私が「お父さんの気持はわかるね」と話すと、同君は深くうなずいた)。
(中略)
判決確定後死刑執行まで六年間文通した。同君から、私、妻、一人娘の美加宛てに二八〇通余りの手紙をもらった(その手紙は今も大事に保管してある)。出張した時には、私はその土地の絵はがきを貫い、景色の一番きれいそうなのを選び、それにへたくそな字を書いて同君に出したが、塀の外の景色を見る機会が全くないので楽しみにしてくれていた。
同君は子供好きで、私が口にしていた娘美加に手紙を書かせて下さいと願い、娘が小学校一年生当時から娘とひんばんに文通し、やがて一緒に習字を勉強したりして可愛がってくれた。その娘が六年生の時、「ぼくが苦しく淋しかった時、美加ちゃんのパパが、ぼくのとりとめのない話をじっとだまってまじめに聞いて下さる、そんな時が一番心のやすまる時でした」などと手紙に書いてくれたりした。
(中略)
死刑執行の時、私は司法研修所の検察教官をしていたが、同君が前から、執行の通知が来たらと係官に頼んであったので、電話連絡を受け執行前日に会うことができた。妻と中学一年生になっていた娘が前の晩泣きながら折った数十羽の千羽鶴と、娘が「おじちゃんと一緒に連れて打って下さい」と書きつけた,娘が大事にしていたこけし人形を持って会いに行った。
こんな嬉しそうな顔をしてくれてと、刑務官六名の厳重な誓戒の下に (その警戒はすぐ弛んだが)、テーブルを間にして話したが、私は悲しさに堪えられず、語るべき言葉を失った。憂うつに堪えず、学生時代から寸暇を惜しみ、あれこれ本を読みちらし生きることの意味を考えてきたが、こういう時にこそ同君に役立ちたいのに、信仰を持たず、思索も浅い私には、今日限り別れる日にこれという慰めの言葉も別れのあいさつもできず、痛恨の思いはいつまでも心に残った。
同君はかねて語っていたが、「人が生まれて悩みを受けるのは、火の子が上に飛ぶにひとしい」(ヨブ記五の七)と、神が与えてくれる永遠の命と比べたら、一番大きな人の悩みも人の命も火の子がパチパチッと上に飛んですぐ消えてしまうのと同じで、現世の命は瞬く間のことで、「三八歳で死のうが、八〇歳まで生きようが大した違いはありません」と笑顔を交えて淡々と語った。また、「取調べの時、ぼくがふてくされていて、平田さん、自白が取れず閉口してましたね」とか、二人の間の思い出話をして笑い合ったり、家内や娘の話をしたり、またかえってこちらを励ましてくれるなど話は尽きなかった。二時間程話して夕方別れる時、翌朝に迫った死を心では覚悟していても、身体は生きたかったのであろうか、別れる時握手した両手をいつまでも離さなかった。
同じような人間なのに、と帰りの新幹線のなかであふれる涙を怺えることができなかった。数日間コーヒーのような色をした尿が出た。
千羽鶴とこけし人形と私たち家族三人の手紙と写真を身につけて落ちついて刑の執行を受けたと風の便りに聞いた。
小包の表紙の宛名を自分で書き、切手も貼ってあって、遺品として送られてきた小包の中には、所内の音楽会、体育会で六年間に賞品としてもらったタオル二枚と石鹸二個が、何も上げられるものがないからと、使わずにそのまま美加あてに遺されてあり、娘は「こんな大切なものを。おじちゃんが自分で使えば良かったのに」と泣いた。また二か月前の中学の入学式の日の写真をもとにして鉛筆で一月余かかり執行の前の晩完成させたという娘の大きな肖像画と、毛筆で執行日の朝まで書き、硯と毛筆を洗ったあとは更にボールペンで書き綴って「長いこと家族の一員としてあつかってもらってぼくは世界一の幸せ者でした」と繰り返し過分の謝意を述べてくれ、「ぼくは今日希望と喜びをもって主のもとに出発します」と永生の命の喜びを述べた手紙が同封してあった。 (後略)
■今日わたしと一緒に
さて、本日の聖書の箇所で、信仰を告白した犯罪人は、この人が予想していた以上の祝福を受けたのです。主イエスが再臨して、神の国を設立される時ではなくて、『今日』なのだと言うのです。つまり、長く待つ必要はない、すぐに祝福が与えられるというのです。そして、さらに『わたしと一緒に』と言うのです。素晴らしいお方である主イエスが共にいて下さることが、救いの本質であると思いますので、だから、主イエスを信じて救われるということはどういうことかと言いますと、主イエスが共にいて下さるようになるということが救いの本質なのだと思います。人は、肉体の死を迎える時、孤独になります。私たちの親も、子どもも、家族も、親戚も、教会の兄弟姉妹も、誰も一緒に死の門をくぐってくれる人はいないのです。私たちは、孤独でその門をくぐるのです。しかし、その時に、信仰を告白した者には、一緒にいて下さる方がいるのです。それが、主イエス・キリストなのです。『わたしと一緒に』とおっしゃって下さるその方が、今日、試練の中にいる、1人1人と共にいて下さるのです。
そして、主イエスと一緒に『楽園にいる』というのです。つまり、最高の場所が用意されたということです。『今日』、主イエスと一緒にいることになる、この『楽園』というのは、主イエスの復活の前ですので、『アブラハムのふところ』と呼ばれる、祝福の場所なのです。因みに、主イエスの復活と昇天の後は、コリントの信徒への手紙二 12章2節に、『わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。』とありますように、『楽園』は神様の臨在の場所である『第三の天』に移動しています。それゆえ、キリストを信じる者は、コリントの信徒への手紙二 12章3〜4節に、『わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。』とありますように、死後すぐに天にあげられるようになっているのです。ここで、『第三の天』(12章2節)と『楽園』(12章3〜4節)とは内容的に同じものを指しています。当時のユダヤ教では天の仕組みについて二つの見方がありました。その『階層』は3つかあるいは7つあり、後者の場合に『楽園』は第3あるいは第4の階層に位置するとされていました。コリントの信徒への手紙二の記載で、パウロは『最上階の天』、すなわち神様に最も近い場所を言っていたのだと思います。
さて、本日の聖書の箇所に戻りますが、信仰を告白したこの人は、この人なりに、『御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と、主イエスに救ってほしいと、この人の希望を告白しましたが、主イエスはこの人が予想していた以上の祝福を与えられたのです。『今日』、救われる。『わたしと一緒に楽園にいる』、このような最高の祝福がこの人に与えられたのです。何の技(わざ)もないのです。何の功績もない者が、信仰と恵みによって救われるというのが、聖書が伝える喜びの本質、福音なのです。私たちは、『今日』、そのままで主イエス・キリストの前に行って、主イエス・キリストを救い主として、告白したいと思うのです。主イエスは私たちを覚えていてくださり、一緒にいてくださり、そして、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と宣言してくださるのです。私たちは、主イエスと一緒に、歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。