小倉日明教会

『エマオへの途上にて(1)−希望を打ち砕かれて−』

ルカによる福音書 24章 13〜27節

2025年11月2日 降誕前第8主日礼拝

ルカによる福音書 24章 13〜27節

『エマオへの途上にて(1)−希望を打ち砕かれて−』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                        役員 川辺 正直

■スティーブン・スピルバーグの仕事術

 おはようございます。映画監督のスティーブン・スピルバーグの名前を知らない方は、おそらくいないだろうかと思います。代表的な作品には、『未知との遭遇』、『インディ・ジョーンズ』シリーズ、『E.T.』、『カラー・パープル』、『ジュラシック・パーク』シリーズ、『シンドラーのリスト』などがあります。スピルバーグ監督は、あの世界的ベストセラー「ハリー・ポッター」の映画監督のオファーを『ヒットが約束されているから』という理由で、断ったことでもよく知られています。スピルバーグ監督は、『映画監督は、予想外の問題を解決するのが仕事。最大の難関が最高にクリエイティブな解決策を生む。現場で何か問題が起こるのが楽しみ。それを乗り越える方法を生み出す』と語っているのです。製作を進める過程で、生じてくる難関を乗り越え、そこからアイデアを出してさらにより良くすることが自分の仕事であり、楽しさであるとしているのです。その一方で、スピルバーグ監督は、早く撮影することでも有名で、第2次世界大戦を描いた3時間位上の大作『プライベート・ライアン』(1998年)でも、2カ月ほどで撮影を終えたそうです。それでは、スピルバーグ監督は。撮影の際に生じてくる問題の解決と早く撮影することをどのように両立させているのでしょうか?

 スピルバーグ監督は物語のゴール、すなわち結末のイメージを明確に持つことを重視するクリエイターでも知られています。実際の映画制作では、撮影スケジュールや俳優の都合で必ずしも時系列どおりにシーンを撮るとは限りません。スピルバーグ監督は、しばしば物語のラストシーンを最初期に撮影する手法を取ることで知られています。これは単なる撮影上の都合ではなく、『作品が最終的に目指すべき姿』を早い段階で具体化する意味合いがあると言うのです。そして、実際の制作現場でも、ラストシーンを早撮りすることで、俳優やスタッフと『この物語は最終的にここに到達する』という共通認識を持てる利点があるというのです。映画『シンドラーのリスト』(1993年)では物語の余韻を象徴するラストの墓参りのシーンが早い段階で撮影され、それがスタッフ・キャストの士気を高めたとも言われています。

 『作品が最終的に目指すべき姿』が決まっていたら、途中で様々な問題や困難や変更が生じても物語の軸足はぶれないのです。スピルバーグ監督自身、『ラストシーンが分かっていれば、迷ったときに立ち返る羅針盤になる』と語っているのです。

 私たちは人生をどう生き、最後に、どこにたどり着きたいと考えているでしょうか。そして、最後のラストシーンで、神様の裁きの前に立った時、どうなっていたいと考えているでしょうか。本日は『エマオ途上』の場面を読みます。この場面は、ルカによる福音書が最後に語る主イエスの復活において中心となる話だと言うことができると思います。主イエスの苦しみと死を覚え、主イエスの復活を信じ、その喜びに満たされるとは、どのようなことなのか、ということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■エルサレムを離れて行く弟子たち

 本日の聖書の箇所のルカによる福音書24章13〜14節を見ますと、『ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。』とあります。こういう言葉が出てきます。『ちょうどこの日、二人の弟子が、』、というのです。『ちょうどこの日』、つまり主イエスの復活の日、主イエスの十字架の死から3日目の週の初めの日です。2人の弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かって歩いて行きました。『弟子』とあるのですから、彼らは主イエスに従ってきた人々です。2人の内の一人の名前はクレオパだったと18節にあります。主イエスが『使徒』となさった12弟子の中にその名前はありませんが、彼も主イエスに従っていた人なのです。この時代から少し時代が下って、ビザンチン時代の教会の初期の伝承では、この無名の弟子はルカだというふうに言われているのです。しかし、伝承ですので、否定も肯定もできないのです。

 さて、エマオという村ですが、エルサレムから北西、約60スタディオン離れているとあります。現在のキロメーターに換算すると、約11kmになり、エマオはエルサレムの北西約11kmのところにある村なのです。エマオという村の名前には、ホットスプリング、温泉という意味があるのです。エマオには温泉が湧いていた可能性が高いと思います。その村に向けて、2人の弟子が歩いていたのです。徒歩でどれ位かかるかと言いますと、11kmですから、大人の男性の歩く速さが時速4km位と考えると、3時間くらいの道のりだと思います。主イエスと一緒に3時間位歩いたと言いますと、大分とイメージが湧いて来るかと思います。3時間もありますので、かなりの内容の話ができたかと思います。

 この2人の弟子が、エルサレムから離れて行くのです。理由は書かれていません。なぜなのかは分かりませんが、おおよそのことは想像できるのではないでしょうか。彼らは、失望しているのです。主イエスの死を悲しみ、失望していて、エルサレムにいることができないような精神状態になっていた可能性が高いと思います。エルサレムからしばらく離れて、自分を取り戻す時間が必要だったのかもしれません。とはいえ、忘れられるはずがないのです。ですから、彼らは、『歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。』のです。『この一切の出来事』という話の内容は、何かと言いますと、主イエスの死、埋葬そして空になった墓のことなのです。この2人の弟子は、まだ復活した主イエスに出会っていないのですから、墓が空になっていたということについて、当惑しながら、このことをどのように受け止めれば良いのか、話し合っていたのです。『話し合っていた。』と訳されていますが、ギリシア語の未完了形が使われているのです。未完了形というのは、動作がずっと続いている状態を表す時制なのです。ですから、分かりやすく言いますと、彼らはエルサレムで主イエスの身に起こった全てのことについて、ずっと、ああでもないこうでもないと話しながら移動していたということなのです。さて、次に何が起きるのでしょうか。

■目が遮られていた

 本日の聖書の箇所の15〜18節を見ますと、『話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」』とあります。不思議なことが起きたのです。まず、不思議なことの最初が、誰かが近づいてきたと言うのです。そして、それが主イエス御自身だったというのです。『イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。』とあります。主イエスの方から、近づいて来られたのです。彼らが『イエス様、来てください』と祈った訳ではないのです。『イエス御自身が近づいて来て』、彼らと共に『一緒に歩き始められた。』のです。ここでも動詞は、先程と同じ未完了形が使われています。ですから、『一緒に歩き始められた。』というのは、ずっと一緒に歩き続けて下さったということなのです。

 そして、主イエスから、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』(17節)と語りかけるのです。旅の途中で、知らない人が会話に加わるということは、ユダヤ人には普通のことなのです。特に過越しの祭りのために、エルサレムに巡礼に行っていた人たちが、エルサレムから帰ってくる途中で、知らない者同士が話をするということは、普通のことだったのです。従って、ここでは普通にユダヤ人が経験しているようなことが起きているのです。見ず知らずの人が、そばを歩いて話しかけたというのです。しかし、本当であれば、主イエスだと分かるはずなのです。ところが、不思議なことに、2人の目は遮られていて、主イエスであることが分からなかったというのです。私たちも同じなのではないでしょうか。私たちの隣を主イエスが歩いていてくださるのに、目が遮られていて、主イエスであるとは認識できないことがよくあるのではないかと思います。なぜ、彼らは主イエスだとわからなかったのでしょうか。考えられる理由はいくつかあります。1つ目は、彼ら自身の頑なな思い込みがあるからだと思います。また、2つ目には、彼らの心が悲しみに満たされているということなのです。さらに、3つ目には、聖書理解の不足という理由が挙げられると思います。これらの理由により、この2人の目は遮られていて、主イエスであることがわからなかったのです。このことは、現代を生きる私たちの物語でもあるということがよく分かるかと思います。

 さて、17節に帰りますと、主イエスから、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と語りかけていることが分かります。主イエスは知らないから、質問しているわけではないのです。彼らの理解を深め、彼らの信仰を、掘り起こすために、喚起するために、この会話を始めているのです。

 この2人はびっくりしたのです。なぜかと言いますと、『二人は暗い顔をして立ち止まった。』(17b節)とあります。彼らの心の状態が、行動によく表れていると思います。まず暗い顔をした。これは悲しみの、反応です。悲しくなったわけです。そして、立ち止まったのです。彼らは、びっくりしたのです。驚いたのです。2人は悲しみと驚きに包まれたのです。そのことを口にしたのが、クレオパです。次の18節で、クレオパという人が主イエスの語りかけに応答するのです。ここで、福音記者ルカは、クレオパという人の名前を説明なしにここで紹介しています。このルカによる福音書が書かれたときには、教会は既に誕生しているのです。設立された教会の中で、クレオパという人の名前はよく知られていて、クレオパのことを知っている人が読者の中にいることを前提に、ルカは本日の聖書の箇所を書いているのです。従って、あのクレオパですかと、読者の何人かはすぐに理解できたのだと思います。

 さて、クレオパが何と言ったかと言いますと、『エルサレムに滞在していた人なら、誰でも知っている話なのです。その話をあなただけがご存じないのですか』と、応答したのです。つまり、主イエスの活動と主イエスの死は、当時エルサレム中に知れ渡っていたことで、人知れず片隅で行われたことではないのです。特に過越しの祭りの最中に、十字架刑が執行されたわけですから、エルサレムにいる人でこの話を知らない人はいませんよ、ということになっているのです。

■希望を打ち砕かれて

 そして、本日の聖書の箇所の19〜21a節を見ますと、『イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。』とあります。19節を見ると、主イエスの質問は、『どんなことですか』というものです。その質問に、2人が答えます。彼らの答えを見ますと、彼らは自分たちが信じていたことを列挙しています。そして、信じていたことと、実際に起こった出来事とが、合致しないので戸惑っているのです。大いに当惑しているのです。彼らの言葉は、弟子集団の思いを代弁しています。彼らが何を信じていたのかは、この後説明しますが、自分の思い込みや、自分の信じている内容と、事実とが調和しないので、がっかりしているのです。当惑しているのです。これもまた、現代の日本社会に生きる私たちのことでもあると思います。私たちは限られた時間の範囲内でしか、物事を見通すことができません。ですから、私たちも本当はこうだったらいいのにと思うことは多いと思いますが、神様の御業はそれとは異なる場合が多いということだと思います。そのような時に、私たちもまた当惑を覚えるのだと思います。そして、神様は祈りに応えて下さらないという思いになったりするのだと思います。弟子たちも同じです。当惑しているのです。同時に、それは私たちのことでもあるのです。

 彼らが信じていた4つのことがここで出て来ています。そのことを確認してみたいと思います。これは先程、申し上げましたように、弟子集団の信仰、思いでもあると思います。彼らが信じていた4つのことというのは、過去形で語られている信仰です。何々『と望みをかけていました。』という言い方になっている信仰なのです。彼らが信じていた4つのことというのが何かと言いますと、1つ目が主イエスは神様の預言者であった、このことを信じていたということなのです。2つ目が、主イエスが神様の預言者であることは、その行いにも言葉にも力があるということによって証明されたということなのです。3つ目が、祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったということなのです。4つ目が、自分たちは主イエスこそイスラエルを解放してくださるメシア、これは政治的解放者の意味ですが、主イエスこそ政治的に解放してくれるメシアだと望みをかけていたということなのです。これらの彼らが信じていた4つの信仰が過去形になって語られているのです。これらの4つの信仰が使徒集団の信仰であったのです。これらの過去形で語られている4つの信仰と、現実に起こっていることとが、合致しないと言うのです。

■婦人たちの証言

 さらに彼らの言葉が続きます。21b節〜24節を見ますと、『しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」』とあります。彼らは、自分たちは当惑している、望みをかけていたのだというところまで、お話しました。そして、21b節から、主イエスが復活したという知らせを受けたということを、彼らは語っています。ということは、この段階では、彼らは主イエスが復活したということをまだ信じることができていないということが分かります。主イエスが復活したということを聞いたというだけ、ということが分かります。そして、彼らは『しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。』、と言っています。ユダヤ的な文脈では、死後、3日経ったということは、完全に死んだということを示しているのです。ですから、彼らは主イエスの墓は、婦人たちが言った通り空になっていた、仲間の弟子もそのことを確認した、ということを聞いても容易には信じることができないのです。

 そのような一部始終を、主イエスはじっと聞いているのです。私たちであれば、君たちには分からないのだろうけど、実はこうなのだよと、直ぐに口を挟みたくなると思いますが、この2人が思っていることを全部吐き出すまで、主イエスは忍耐して、黙って聞いていて下さるのです。ここに、主イエスの忍耐があると思います。このことは、試練の中にいる方のお話を聞く際に、とても参考になると思います。悲しみの中にいる人、試練の中にいる人の言葉は、その人が吐き切るまで、しっかりと聞かせて頂くことが癒しのためにとても必要なのだと思います。2人の弟子たちは、自分たちの思っていることを、全て語り尽くすことができたと思います。何しろ、エマオまでの道のりは、徒歩で3時間位もかかるわけですから、十分時間はあったと思います。

■聖書の説き明かしによって

 本日の聖書の箇所の25〜27節を見ると、『そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。』とあります。ここから、主イエスによる旧約聖書の解説が始まります。25節の言葉を見ますと、『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』という言い方をされています。主イエスは、この2人を恥ずかしめているのではないのです。優しく忌ましめているのです。25節の『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち』というのは、聖書的には次のような定義となります。聖書の影響を受けることを拒否する人が、物分かりが悪い者なのです。聖書を学んでもそれを受け入れ、自分に適用することをしない人が、物分かりが悪い者なのだと思います。知恵ある者というのは、神様を怖れる人です。神様を怖れて歩む人が、知恵ある人なのだと思います。つまり聖書は神様の言葉であると信じて、聖書の言葉を受け入れ、その教えによって自分自身の生活や人格が形成されて行く人が知恵ある人なのだと思います。

 預言者たちは、メシアの受難と復活を予言していたのです。政治的解放者として来る前に、受難のメシアとして来られ、死んで、必ず復活すると予言されているのです。そのことが信じられないのだから、主イエスに物分かりが悪い者と、言われているのです。27節に、モーセとすべての預言者という言葉が出て来ています。モーセというのはモーセ5書のことです。現在、私たちはモーセのファイブブックス、5書と言っていますけれど、本来は一冊の本なのです。ユダヤ的にはトーラーと呼ばれる1冊の本なのです。預言者たちというのは預言書のことです。ですから、『モーセとすべての預言者』という言い方をしますと、これは全体で旧約聖書を指している専門用語なのです。そして、主イエスは、旧約聖書はメシアを指し示していると解説されたというわけなのです。いくつか、聖書箇所の一例を挙げてみますと、例えば申命記18章15〜18節には、『あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。』とあります。その他にも詩編22篇、イザヤ書9章1〜20節、11章1〜16節、53章1〜12節などを挙げることができると思います。これらが、旧約聖書のメシア予言の代表的なものです。道を歩きながら、主イエスがこの2人の弟子に、これらのバイブルスタディを教えて下さっているのです。考えられないほどの贅沢なひと時であったと思います。私たちも同じ様に、直接教えて頂きたいとで思うのではないでしょうか。彼らは、主イエスご自身による旧約聖書の説き明かしを、つまり説教を聞いたのです。

■神様の言葉を聞く

 聖書は、主イエスの説教を聞いたことによって、彼らの目が開けて、目の前の人が主イエスだと分かり、主の復活を信じる信仰が与えられ、喜びに満たされた、とは書かれていません。彼らの目はなお遮られており、復活して生きておられる主イエスが共におられることに気付いていないのです。彼らの目が開かれて、主イエスに気づくのは、この後に起きることで、次回取り上げる箇所で起きることなのです。しかし、主イエスによる聖書の説き明かしを聞いたことは、彼らにとって、真の信仰に至る上で、とても大切な体験となりました。復活なさった主イエスは、私たちの傍らに来て下さり、聖書を説き明かして下さるのです。神様の独り子である救い主キリストが、苦しみと死を経て、栄光に入ることによって成し遂げられる神様の救いのみ心が、聖書においてどのように語られているかを教えて下さったというのです。主イエスの説き明かしを聞いたことが、生きておられる主イエスとの出会いへの備えとなったということなのです。

 聖書の知識を得たことが備えとなったのではありません。そうではなくて、聖書の語ることに耳を傾けるようになったことが、生きておられる主イエスとの出会いへの備えとなったのです。主イエスが近付いて来て、語りかけて下さるまでは、彼らは『話し合い論じ合って』いました。主イエスの十字架の死と、今朝、婦人たちから伝えられた出来事について、こういうことではないか、ああいうことではないか、こう考えれば説明がつくのではないのかと、自分の思い、考えを語り合っていたのです。しかし、そのように論じ合っている彼らは、結局のところ、『暗い顔をして立ち止まる』ことしかできなかったのです。人間の思いや考えでいくら論じ合っても、復活の喜びに至ることはできないのだと思います。

 しかし、復活した主イエスが傍らに来て下さり、語りかけて下さり、そして彼らの思いを聞き取って下さった上で、聖書を説き明かして下さったことによって彼らは、自分の思いや考えを熱っぽく語っている口をつぐみ、黙って、聖書の語る神様の言葉を聞く者となったのです。自分の思い、考えによって主イエス・キリストを理解し、説明し、納得しようとして、論じ合うことをやめて、神様の言葉に耳を傾けるようになった時、彼らの心には大きな変化が生じ、目が開かれて主イエスに気付くようになる備えができたのだと思います。それが、生きておられる主イエスとの本当の出会いへの備えとなったのだと思います。

 復活して今も生きておられる主イエスは、不安に満ちた現在の世界を歩む私たちの傍らにも確かに来て下さっており、共に歩んで下さっていると思います。そして、私たちにも語りかけ、聖書を説き明かし、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた、神様の救いのみ業を教えて下さっていると思います。本日の聖書の箇所の2人の弟子たちと同じ様にして、私たちの目も開き、主イエスとの出会いを与えようとして下さっているのだと思います。私たちの遮られている目が、主イエスによって開かれて、生きて共におられる主イエスに気付くことができるようにと祈り求めつつ、今週も歩んで行きたいと思います。

  それでは、お祈り致します。