小倉日明教会

『クリスマスの恐れと不安』

マタイによる福音書 1章 18節〜2章 12節

2024年12月22日 待降節第4主日礼拝

マタイによる福音書 1章 18節〜2章 12節

『クリスマスの恐れと不安』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■恐れと不安

 幼な子イエスを拝した羊飼いと三人の博士たちは、喜びに満たされて帰って行った、とあります。そうなら、説教題は「クリスマスの希望」で良いのに、わざわざその前に「恐れ」と加えるのは可笑しいのではないか。そう思われたかも知れません。しかし、聖書に記されているクリスマスの出来事には、幼な子イエスの誕生に際して、人々が恐れと不安に満たされたとの記事をいくつも見出すことができます。

 例えば、ルカによる福音書の二章九節、「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼ら〔羊飼いたち〕は非常に恐れた」。またルカは、受胎告知を受けたマリアについてこう記します。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(ルカ一・二九)。「戸惑う」とは、「不安と恐れですっかり心がかき乱されて」という意味の言葉です。そこで天使は、「マリア、恐れることはない」と声をかけます。

 そしてこのマタイでもこう記します。「『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(二・二~三)。救い主の誕生は、ヘロデ王のみならず、救い主キリストを待望していたはずのエルサレムの人々にさえ、決して喜び迎えられたものではなく、むしろ恐れと不安を抱かせるものでした。

 生まれて間もない、これからどんな者になるのかも全くわからない、小さな赤ん坊に、人々がみな、恐れと不安を抱いたなどということが本当にあったのか、そう疑問に思われるでしょう。

 もちろんこれは、マタイがヘロデ王やエルサレムの人々に、御子イエス誕生の時にどう思いましたかと、インタビューをして書いたというのではありません。マタイにとって、この幼な子イエスこそ救い主キリストであり、クリスマスは、「この子は自分の民を罪から救う」(一・二一)とあるように、救い主の誕生の出来事以外の何ものでもありませんでした。いわばこれは、マタイによる信仰告白です。

 そんな信仰を告白するときに、キリスト、救い主の誕生をエルサレムの人々がみな不安と恐れをもって受け止めたと記したのは、なぜでしょうか。マタイはこう記すことによって、何を言おうとしているのでしょうか。

 そしてまた、幼な子イエスを救い主キリストと知っているわたしたちは、当時のユダヤの人々とは違って、恐れや不安など感じないで、ただ希望に満ちて、ストレートにクリスマスを喜び祝える者なのでしょうか。

 いえ、わたしたちが、真にクリスマスの告知を受け止めるなら、やはり恐れと不安を抱くはずなのではないか。もしそうでないとすれば、わたしたちはクリスマスの告知を、聖書が伝えている通りには受け止めてこなかった、ということになるのではないでしょうか。

■神のイメージ

 では、その恐れと不安とはどのようなものなのでしょうか。裏返して言えば、クリスマスの告知とは一体何であったのでしょうか。

 それは言う間でもない、わたしたちの救いのために神の御子が一人の人間になられた、ということです。では、この「神の御子が人間になられた」とはどういうことなのか。そのことを理解するためには、まずユダヤ教における神のイメージを知らなければなりません。

 ユダヤ人にとって、神は、その名も口にすることさえ憚られる、聖なる存在でした。聖なる唯一の神です。人間はどんな修行を積んだとしても神になることなどできません。神は創造の主であり、人間はどこまでも被造物です。ですから、人間でありながら神とその本質を等しくする神の子など、ユダヤ教では絶対に認めることができません。イエスさまの処刑を決定的にしたものは、大祭司の「あなたは神の子、メシアなのか」との問いに対し、イエスさまが「あなたの言うとおりである」と答えたことにあったと聖書が記している通りです。

 この点については、旧約聖書を経典の一つとするイスラム教でも同じです。井筒俊彦が名著『マホメット』(講談社学術文庫)の中でこう記しています。

 「モーセも預言者ならキリストも預言者だ、そして今や自分(・マホメット)もまたその長い預言者系列の最後を飾るべく同じ唯一の神の命を受けて現われた預言者だ、と。しかしこれではキリスト教徒の立つ瀬がない。とんでもないことだ。キリストは預言者でもなければ、神の使徒でもないのだ。キリストは神の御子、神の独り子におわします、と。これを聞いて、マホメットは憤然とする。彼は烈々と燃え上る怒りの焔を抑えることができない。『神の息子だと?』何たる愚昧、何たる愚劣、そしてまた何たる神聖冒涜。天地の創造主、唯一無二なる絶対者、その存在に始めもなければ終りもない、永遠の神に子供が生れるというのか。否、否、神には『子もなければ父もない』のだ、と。従ってキリスト教の教義の中枢をなす三位一体のごときも、仮借もない誹謗糾弾の的となる」と。

 ユダヤでは、神を見た者は死ぬと言われました。さきほどの羊飼いたちのように、神の栄光に照らし出される時、汚れを持つ人間はただ恐れるほかありません。だとすれば、クリスマスの幼な子イエスの姿の中に、神の栄光の輝きをみる者も、同じ恐れを抱かなければなりません。その恐れのない者は、イエスさまの中に神の栄光を見ていないのです。

 見る者は、見られる者だからです。たとえば、一般の人々にとって、仏像は古美術品の一つとしての鑑賞の対象でしかないかもしれませんが、敬虔な仏教徒にとっては、仏像は自分が見る対象ではなく信仰の対象であり、すなわち仏像に自分という存在が見られているのです。同じように、幼な子イエスを見る者は、そこに輝く神の光によって、自らの存在全体が照らし出される経験を持たざるを得ません。

 御子イエスの受胎は、ヨセフとの平凡な幸せを願っていた乙女マリアにとって、どれほどの驚きであり、恐怖であったことでしょうか。神の御子を我が身に宿すなどあり得ないこと、恐ろしいことです。しかもその結果、ローマ兵によるレイプを後々までまことしやかに囁かれるようになることを、マリアは覚悟しなければなりませんでした。

 聖なる神の御子が全き一人の人間となって、この地上の生涯を歩まれた。このことが、どれほど驚くべきもの、恐るべきことであったのか。わたしたちは理解を新たにしなければなりません。

■新約の福音

 当時ユダヤの人々は、ローマ帝国の支配からの解放者としての救い主キリストを待ち望んでいました。にもかかわらず、御子イエスの降誕は、彼らに不安を与えるものでしかありませんでした。それは、イエスさまが彼らの願いに直接応えるような救い主ではなかったからです。むしろ彼らを不安に陥れるような救い主でした。

 マタイは、福音書の最初にこんな言葉を記します。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」。ルカも、あのマリア賛歌の中でこう記しています。「その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、/わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに」(一・五四~五五)。また、イエスさまの十字架には「ユダヤ人の王」との罪状書きが掲げられていた、と福音書は一様に記しています。

 これは、あのアブラハムに与えられた「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」(創一二・二)という祝福の約束が、またダビデに与えられた「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(サム下七・一六)という王朝不滅の預言が、イエスさまにおいてこそ成就したのだ、ということを示しています。

 ところが、イエスさまの頭にかぶせられたのは、いばらの王冠でした。

 しかしそのイエスさまこそ、真の「ユダヤ人の王」であり、王の中の王である。その愛と義の支配は断じてゆらぐことはなく、その王座は天にあって、「とこしえに堅く据えられている」。そう、福音書は告げるのです。そして、イエスさまに従う神の民は、霊においてアブラハムの子孫となり、大いなる民となって、神の恵みを証する「祝福の源」とされるのだ、と言います。こうして、アブラハムとダビデに与えられた祝福の約束は、イエス・キリストにおいて真の成就をみた、これが新約の福音です。

 しかし言いかえれば、その二つの約束はいずれも、「直接的」には、「肉」においては成就しなかった、それは挫折した、ということです。御子イエス誕生の時に、エルサレムの人々が「みな不安を感じた」とあるのは、これを暗示していたのではないでしょうか。なぜなら、エルサレムの人々はみな、直接的な、肉における約束の成就を望んでいた人々であったからです。

 イエスさまは、家畜の糞と尿の匂う、汚れた飼い葉桶の中に眠る、小さく無力な赤ん坊の姿でお生まれになりました。食べる物も着る物も、家も枕する所もない、ガリラヤを放浪する小さな集団のリーダーに過ぎませんでした。何よりも、いばらの冠をかぶせられ、十字架に処刑された「ユダヤ人の王」でした。エルサレムの人々は御子イエスに、誕生から十字架に至るまで躓き続けました。

 しかしこの御子イエスこそ、ローマ帝国の支配からユダヤを解放するためにではなく、人類の最終の敵、罪と死の勢力から人々を解放するために来られた救い主キリストであった。これが、新約聖書が全力をあげて証言している福音でした。

■復活の主の再臨

 ところで、全世界のキリスト教会がこぞって祝うクリスマスですが、意外にも聖書の中で、クリスマスに直接言及しているのは、マタイとルカの福音書だけです。マルコにもヨハネ福音書にも出てきません。

 これは、なぜでしょうか。様々説明がなされますが、端的に申し上げれば、最初期の信徒たちにとって、クリスマスは共通の重要性を持たなかったということです。この世の終末が近いという意識の中にいた人々にとって、それは当然のことかもしれません。

 では、共通の関心事とは何か。それは、「復活の主の再臨」です。そして実は、マタイやルカのクリスマスの記事も、イエスさまに対する伝記的関心というよりは、復活の再臨の主の誕生、その意味を探ることに重点があると考えるべきでしょう。つまり、復活信仰を抜きにして、クリスマスは意味を持たないということです。クリスマスの出来事は、あくまで復活の主の誕生の次第を語っているのです。

 では、復活とは何でしょうか。これはむろん、単に死人が甦ったというようなことではありません。甦ったのは、他ならぬあの十字架にかけられたイエス・キリストだからです。復活は何よりも、イエスを十字架にかけることを決したユダヤ最高法院の決定が間違いであったことを意味しています。

 しかも、イエスさまの処刑に関わったのは、祭司長や律法学者だけではありません。イエスさまの無罪を信じつつも群衆の声に負けて、処刑を命じたピラト。イエスさまをあざけり嘲弄の限りを尽くしたローマの兵隊たち。狂ったように「十字架につけよ」と叫んだユダヤの群衆。肝心の時にイエスさまを見捨てて逃げ去った弟子たち。彼らの姿が神の光に照らしだされて、どのようなものであったかを、復活の出来事は示しているのです。彼らが見捨て、つばきし、打ちすえ、嘲弄し、十字架にかけたイエスさまこそ、彼らの罪のあがない主であり、その死は、彼らの罪の赦しのための死であった、ということを示しているのです。

 そういう仕方によって、神は、人の罪と死に勝利されるのだということを示しているのです。そして、イエスをキリストと信じる者になるということは、あのイエスさまの処刑に関わった人々の中にこそ、自分の姿を見出し、自分の罪の告白をなし、イエスさまの死をわが罪のための死として受け入れる、ということです。

 ここに、罪の裁きと罪からの救いとが一つとなります。

 クリスマスのときに、人々が感じたあの恐れと不安の実態は、この罪に対する裁き、その予感であったのではないでしょうか。ヘロデにしても、エルサレムの人々にしても、それは自分の思い通りにならない救い主、自分たちの願い通りには、応えてくれない救い主の誕生であったのです。

 最も深い所で、聖なる神の裁きを感じさせる人格、この真の救い主キリストに対して、肉の自分に執着し、自分の肉の思いを絶対として生きている者は、心の最も深い所において、直観的に恐れと不安を感じるのです。

■再臨待望の希望

 イエスさまは、「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる」(マタ五・六)と言われました。そのイエスさまが、この世の罪の勢力によって殺されました。しかし、そのイエスさまを、神は復活させられました。

 それは、人類の最終の敵、罪と死の勢力に対する義と愛の勝利、真実といのちの勝利の宣言です。そして、この復活のいのちがすでにこの世において始まっている。見る目を持つ人々には、明らかにそれが見えるはずです。この暗い予感に満ちた時代にもかかわらず、クリスマスの夜にともされるローソクの灯のように、それはあちらでもこちらでも小さな灯ですが、灯され、生き、活動し、生まれています。そしてそれは、再臨の日に完成されるのです。

 その再臨待望の希望を、わたしたちはクリスマスにおいて、イエスさまの降誕の中で固くするのです。再臨の日に来られる復活の主は、他ならぬ二千年前に、あのベツレヘムで生まれた幼子イエスその人だからです。

 罪と死の勢力の下にがんじがらめになって生きているわたしたち、罪の力と死の力を絶対として生きているわたしたち、このわたしたちのもとへ、わたしたちの世界へ、わたしたちと全く同じ姿を取り、生きる憂いと悩みを共にする者として、神が御子を遣わしてくださった、これがクリスマスです。

 それは、罪と死の力の下で、自分もまた自己の肉の思いを絶対として、この世界で安住しているわたしたちにとって、まことに恐れと不安を抱かせるものでなければなりません。しかし、御使いは告げるのです。「恐れるな」と。なぜなら、インマヌエル、神が共にいてくださるからです。これはなんという慰めと喜びにみちた告知でしょうか。そして、この慰めと喜びの告知を、悔い改めをもって受け入れ、心にきく者は、もはや、罪と死の力うずまくこの世界で、何者をも恐れない者に変えられるのです。

 キング牧師をあの白人の暴力に立ち向かわせたものは、まさにこれでした。マザー・テレサを、カルカッタのあの恐るべき貧困に立ち向かわせている力もこれです。そしてわたしたちもまた、このインマヌエルの告知を、幼子イエスの姿を通して恐れをもって心深く聴く者でありたい。そして、そこから勇気を与えられて、新しい出発をする者でありたい、そう願う次第です。