■「もうひとりの博士」
たった一つの光に導かれて、♪ 遠くの東から、らくだにまたがって ♪、三人の博士は、長い、長い旅の末、ようやくユダヤの地にたどり着きました。救い主のおられる場所を突き止め、馬小屋を訪れた博士たちが目にしたもの―それは、飼い葉おけの中に眠る小さな、とても小さないのちでした。頼りない、たったひとつのいのちの誕生に、この世界は喜びに包まれ、星々は輝き、暗い夜空に天使たちの歌声が鳴り響きました。
御子イエスの誕生物語です。
救い主を拝み、宝の箱を開けて、献げ物を献げることができた三人の博士たちの喜びは、どれほどのものだったでしょう。その喜びの大きさと深さを知ることのできる、もうひとつのクリスマス物語があります。「もうひとりの博士」と呼ばれる物語です。
三人の博士には、もうひとり仲間がいました。
名前は「アルタバン」。 彼らは救い主に会うため、星を頼りに旅に出ることにし、それぞれに贈り物を準備し、待ち合わせることにしました。アルタバンが準備した贈り物は「サファイヤとルビーと真珠」です。宝石を買うために、家も土地も、すべてを売り払いました。そのため、思いのほか時間がかかり、少し遅れてしまいます。アルタバンは必死に馬を走らせました。
約束の場所までもう一息、というところにさしかかったときのことです。道端のヤシの木の下に、ひとりの男が倒れています。近づくと、その男は病で今にも死にそうです。この男にかかわっていては、大切な約束の時間に遅れてしまう。でも……。迷ったあげく、アルタバンは、水を汲み、薬を飲ませ、手厚く介抱します。元気を取り戻した男に、彼は持っていた薬とぶどう酒とパンを与えると、仲間の待っている場所へと急ぎました。
しかし、そこにはもう誰もいませんでした。アルタバンはへなへなと座り込みました。遠い国まで一人で旅することは、とても危険なことです。そのためには、もう一度準備をしなくてはなりません。町に戻り、持っていたサファイヤを売り、ラクダを買って旅の支度を整えました。
砂漠の旅は、つらく厳しいものでした。襲い来る砂あらし。血に飢えた猛獣。はげしい疲れをおぼえながらも、たったひとつの星の光を頼りに、アルタバンはユダヤのベツレヘムという村に着きました。三人の仲間を探して村を訪ね歩いていると、赤ちゃんを抱いた若い母親に出会いました。彼女の話によれば、三日前に東からやって来た三人の博士たちが、赤ん坊を産んだナザレ人の夫婦のところにやってきて、たいへん高価な贈り物をした。ところが、博士たちもそのナザレ人の一家も、あわててどこかへ行ってしまった、という話でした。
遅かった。ガッカリしていると、不意に騒ぎが持ち上がります。「兵隊が来た! ヘロデ王の兵隊が、赤ん坊を皆殺しにしているぞ!」。母親は真っ青になって、赤ん坊をしっかりと胸に抱きしめます。戸口が開き、血だらけの剣をもった兵隊たちがなだれ込んできました。アルタバンは彼らの前に立ちふさがり、「見逃してくれるなら、この宝石をやろう」。兵たちは、その高価なルビーをひったくるようにつかむと、そのまま外に出て行きました。
アルタバンはエジプトに向かいました。ナザレ人の一家がエジプトに逃げたと聞いたからです。しかし、どこにもその姿を見つけることはできませんでした。町から町、村から村へと歩き回り、捜し続けました。その途中で、彼はたくさんの人たちに出会いました。町には奴隷として売られていく人々、波止場には疲れきった船乗りたち、物乞いや病人たちがあふれていました。貧しい人々や病人たちのことを見過ごしにできない彼は、いつしか、自分の食べるパンを彼らに分け与えるようになりました。
多くの月日が流れました。今、アルタバンはエルサレムの町の中に立っています。ふところから最後に残った宝石である真珠をとりだし、つくづく眺めていました。いろいろなことが思い出されます。もう彼が国を出てから三十三年の月日が経っていました。ひげは真っ白に、手はしわだらけになっていました。
エルサレムの町は祭で沸き立っていました。その時突然、人々の間にざわめきが起こります。人々は興奮して、何かを見に行こうとしているようです。アルタバンがひとりにたずねると、「ゴルゴダの丘に行くんだよ。あんたは知らないのかい? 強盗が二人、十字架にはりつけにされることになっていて、そこにもうひとり、ナザレのイエスという人も架けられることになったんだよ。その人はたくさんの奇跡を行ったけど、自分のことを「神の子」だと言ったから、とがめられ、処刑されることになったんだそうだ」。
ナザレ…神の子…。アルタバンにはすぐに分かりました。わたしはこの方に会うために、これまでずっと旅を続けてきたのだ。もしかすると、この真珠をその方を救う身代金として役立てることができるかもしれない。
アルタバンは急ぎました。と、髪の毛を振り乱した若い娘が引きずられてきて、必死にアルタバンの着物にしがみつきます。「お助けください! 父が死んで、父の借金のかたに奴隷に売られるところなのです。どうぞ、お助けください!」。アルタバンは身震いしました。これで三度目だ。 迷ったあげく、懐から真珠を取り出します。「さあ、あなたの身代金として、この真珠をあげよう。神の御子への贈り物として大切に取っておいた最後の宝です」。
彼の言葉が終わらないうちに、空を闇がおおい、大地震が起こりました。娘を捕えようとしていた者たちは、びっくりして逃げていきました。アルタバンと娘はその場にうずくまっていました。 屋根瓦が落ちてきて、アルタバンの頭に当たり、血に染めました。
娘はアルタバンを抱き起こしました。そのとき、どこからか不思議な声が響いてきました。かすかな細い声。それは音楽のようでもありました。アルタバンのくちびるが少し動きました。
「いいえ、違います。主よ。いつわたしはあなたが空腹なのを見てパンを恵み、乾いているのを見て水をさしあげましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着物を着せてあげましたか。ただただ、三十三年間あなたを捜し求めてきただけです。しかし、とうとう一度もあなたにお会いすることもできず、何ひとつあなたのお役に立つこともできませんでした」
すると、またあの美しい声が聞こえてきました。
「まことにあなたに言っておく。わたしの兄弟である、これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」
アルタバンの顔が喜びに輝きました。まるで少年のように、はにかみ、安心したように長い息が、静かに、喜びに満ちた響きを持って、くちびるから洩れました。
この物語が、わたしたちに教えてくれていること―それは、暗闇の中に輝く光は、どこか遠くにではなく、わたしたちの中にあるということです。この一年、うれしいことも楽しいこともたくさんありましたが、ときに悲しいことや不安なこともありました。でも、そんな悲しみや不安のときにこそ、それを喜びに変えてしまう、そんな力がクリスマスにはあります。
クリスマスに家族みんなが揃って、仲良く、楽しい夕べの食卓を囲んで、歌を歌うことができるとすれば、それはもちろん嬉しくて楽しいことです。でも、それだけではありません。たとえ、アルタバンのようにたったひとり、家族も友だちも何もかも失って、どん底の中に落ち込んでいるようなところにも、いえ、そんなところにこそ喜びが訪れる、それがクリスマスのほんとうの喜びです。そんなクリスマスの喜びに感謝して、ひとことお祈りします。
■クリスマスは美しい?
わたしたちはどうしても、クリスマスを美しいものだと思いたいようです。雪が降るにしてもさほど積もることもないこの小倉の地で、わたしたちは雪が降った国のクリスマスを懐かしむかのように、ツリーに白い綿を置きます。クリスマスには雪がふさわしいと考えるのは、ヨーロッパから入って来たイメージだけではない、むしろ、雪があってほしいというわたしたちの願いゆえかも知れません。‟I‛m dreaming of a white Christmas・・・‟(わたしが夢見るもの、それは白いクリスマス)と歌い始めるビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」ではありませんが、雪が降って地上の汚いものを覆ってくれれば、いかにも良いクリスマスになったように思えるのでしょう。
また街のクリスマスの特色は、何と言ってもサンタクロースです。そこにも、「クリスマスに自分の欲しいものをもらいたい」「クリスマスに何か自分にいいことがあるように」という、わたしたちの願いが表れているように思えます。それを卑しいと言うのは言い過ぎですが、クリスマスを喜びに満ちた、美しいものにしたいという、わたしたちの憧れが現れてはいないでしょうか。
そして、クリスマスの中心は言うまでもなく、かわいい、ひとりの赤ん坊です。かわいい赤ん坊がこの日に生まれた、そのことはクリスマスをほんとうに美しくしますし、それがまた、ベツレヘムという寒村の郊外で、羊飼いが羊を飼っているという牧歌的な情景や、遥か遠くから星だけを頼りに占星術の学者たちがやってくるという異国情緒たっぷりの光景と相俟って、クリスマスをより美しくしようとする、わたしたちの願いにぴったりと重なります。
しかし、実際に傍に寄ってみれば、羊やラクダがいれば匂うでしょうし、羊飼いも博士たちも何ヶ月も風呂に入ることができずにいたことでしょう。それは少しも美しくない、ただ遠くから眺め、写真や絵で見ている時だけ美しく思われるものです。馬小屋の中の飼葉桶も、およそ美しくなどありません。馬や羊やラクダの口から出る涎や唾がついているでしょうし、糞尿もそこらあたりに落ちているはずです。そんな場所です。
それでも、クリスマスの夜、馬小屋の上に星がまたたき、またその中の飼葉桶の周りも光り輝いていた、そう思いたいのです。わたしたちが考えるあらゆる美しさをここに持ってきて、これも美しい、あれも美しい、と考えたいのです。
■美しさと醜さ
しかしイザヤ書の二節には、救い主には、つまりクリスマスに生まれる赤ん坊には、見るべき姿もなく、輝かしい風格もなく、好ましい容姿でもない、そこには、わたしたちの慕うべき美しさなどない、と書かれています。
とすれば、わたしたちが考える美しさをクリスマスに求めようとすることは、クリスマスを本当に見ているのではなくて、クリスマスに偽りの幻を見ている、ということになるのかもしれません。
確かに聖書では、美しさは神の祝福をあらわすものと考えられています。ダビデが大変美しい少年であったということも、その一つです。美しさは正しさにつながるとさえ考えられていました。
しかしその一方で、美しさの下には、一皮剥けばそこに死があり、美しさを裏切るような醜さがいつも纏わりついていることを、わたしたちは知っています。美しい人だと思っていた人が、実は醜い心を持っていることに気づかされ、愛が冷めるということもあります。単なる美しさというものが決して美しくないということを、人生の様々な経験を通して知るようになります。
その反対に、わたしたちの目に醜いと見えるものが、いつでも醜いとは限らない、ということにも気づかされるようになります。なぜ、醜くなっているのか、その醜さを本当に知ることが大切だ、と思うようになります。
こどものために一生を使い果して、顔も皺だらけになり、手も大きく腫れ上がったようになっている母親を見て、それを醜いと思う人は、おそらく一人もいないでしょう。かえって美しいと感じるに違いありません。
■わたしたちのために
では、神が遣わされた御子キリストの美しさはどこにあるのでしょうか。
わたしたちは御子にただ美しさを求めたのに、御子がわたしたちにお示しになったのは、美しさからはかけ離れた、とても厳しい姿でした。キリストが弟子たちに語られた山上の説教—それは実に美しい、ときにそう言われます。しかし山上の説教によって生きようとすれば、すぐに分かります。それが、どんなに厳しいもの、恐ろしいもの、激しいものであるということが。
そのことが分かったときに気づかされるのは、わたしたち人間の愚かさ、醜さです。御子が教えられた「隣人を愛する」ことは、自分が決心さえすればできる。どこかでそう思っているところがあります。教会の中にさえ、そう考える人がいます。しかし隣人を愛することは、どんなに難しく、またどんなに厳しいことでしょうか。真面目に考えれば、自分の心の奥底を覗き込めば、すぐに分かるはずです。自分の感覚、知識、経験でしか、人や自分を、この世界を見ることができない、そんな自己中心的なわたしたちの在り様、罪ゆえに、とても難しいのです。御子はそのことを、実に厳しくお示しになられました。
とすれば、隣人を愛することのない、そんなわたしたちのために御子が自ら醜くなられたのだということこそ、イザヤの言葉からわたしたちが読みとるべきことなのではないでしょうか。
■乾いた土の若枝
イザヤは、救い主キリストの姿形は人が驚くほどの醜さであったと言います。美術館に展示されている絵画の中に見る御子キリストの姿は、何ともいえない威厳と優しさに満ちています。しかし聖書の中で、御子の救いのみ業を通して見るその姿はむしろ、イザヤが語るように人が驚くほどの醜い姿でした。
五三章二節の前半に、「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った」とあります。乾いた土から生い育ってくる木—それがどんな木であるか、お分かりになるでしょうか。それは決して、美しいものではありません。力強いものでも、大きなものでもありません。むしろ、ひょろひょろしていたかも知れません。か細く、か弱く、とても小さく、もしかすると折れ曲がっていたかも知れません。
そうなのです。聖書がわたしたちに語り教えていることと、わたしたちが願い求めていることとは、食い違っていることが多いのです。そのことに気がつかずにいると、わたしたちは、乾いた土に育った木のような御子キリストを、まるで川辺の豊かな水と肥料に養われて育った、見上げるように聳え立つ大きな木と同じように考えようとする、そんな失敗を犯すでしょう。
御子キリストが美しいとか醜いとかいうことよりも、問題は自分の方にあって、わたしたちが御子をまともに見ようとしていないのです。自分の欲望—自分がして欲しいこと、自分がこうであって欲しいという思い―によって御子キリストを見るために、御子キリストを正しく見ようとしないという失敗を犯してしまうのです。
自分を満足させてくれるものが、御子にあるかどうかということばかり考えて、自分自身は少しも変わろうとしません。信仰に入る時にも、信仰に入って後も、自分は少しも変わろうとしないで、ただ御子キリストは自分を満足させてくれるだろうか、そんなことばかりを考えています。自分が望む通りのお方であるかということだけが、わたしたちの知りたいことであるとするなら、わたしたちは、ほんとうの御子キリストを知ることなどできないでしょう。
いえ、御子イエス・キリストの醜さはほんとうには分からないでしょう。
■醜さによって救われる
御子の醜さはただの醜さではありません。それはわたしたちのための醜さでした。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタ八・二〇)
人の子、すなわち自分には寝るところがない、と言われました。毎日毎日、旅から旅を続けられた御子キリストが、清潔で、色白で、美しいはずなどありえません。おそらく、疲れのためにやつれ、埃と汚れにまみれ、破れと弱さを露わにしたような姿であったことでしょう。
三節の預言が、御子のほんとうの姿をわたしたちに示してくれます。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」
御子キリストは、軽蔑され、侮られるお方でした。本来、美しさがないお方なのでしょう。美しさというだけでなく、魅力のない方のようにわたしたちには見えるのだ、ということでしょう。
そのお方が、人に侮られ、人に捨てられ、まさに枕する所もないほどに、人のために、人の救いのために働かれたのだ、ということです。そのことは考えようによっては、美しい。人から侮られても怯むことなく、人に捨てられても挫けない、それこそ美しい、そう思われるかもしれません。
しかし自分が人から侮られるということを考えてみれば、お分かりになるはずです。ほんの小さな、他の人は気がつかないような侮りの言葉にわたしたちは何日悩むことでしょうか。人から捨てられたと思うだけで、わたしたちは何カ月も苦しむことでしょう。そんな嘲りや蔑みが、この世に来られた、小さな赤ん坊としてお生まれになったそのときから、御子キリストのまわりに渦巻いていたのです。その中で御子キリストは、やがては成功されるというのではなく、やがてはこれ以上はないというほどに侮られ、捨てられるのです。そんな苦難の十字架の道へと追いやられる、そんなお方だったのです。
それこそが御子イエスの醜さでした。そしてその醜さによってこそ、わたしたちは救われました。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている」とありました。悲しみ、痛み、病の苦しみを自ら味わい知っていた御子キリストは、それだからこそ、悲しむ者を慰めることができ、苦しむ者の救いのために死ぬことがおできになったのです。
さきほどの「もうひとりの博士」、アルタバンに語りかけられた御子キリストの言葉が、今もわたしたち一人ひとりに向けられています。
「まことにあなたに言っておく。わたしの兄弟である、これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」 ただ、隣人を愛しなさい、と言われるのではありません。悲しみ、痛み、苦しみを負って身をよじるようにして、顔を、また心を醜くゆがめて生きるほかない人にこそ、そんなわたしに、あなたにこそ、御子キリストの愛は届けられるのです。驚くべきその愛に感謝し、見るかげもない醜い姿の救い主に心から感謝するクリスマスを、共に心から喜ぶことができればと願う次第です。