【奨 励】 役員 川辺 正直
■詩人、工藤直子
おはようございます。さて、詩人であり、童話作家でもある工藤直子さんという方がおられます。1935年の台湾生まれの方で、『てつがくのライオン』で日本児童文学者協会新人賞、『ともだちは海のにおい』でサンケイ児童出版文化賞受賞、『のはらうたV』で野間児童文芸賞受賞。第27回巌谷小波文芸賞受賞と数々の文学賞を受賞された方です。また、こぶたはなこさん・シリーズを始め、多くの詩集、児童文学を出版し、エリック・カールの絵本の翻訳も何冊も手掛けられた方です。この工藤直子さんの作品に、『あいたくて』という詩があります。この詩は、いくつもの国語の教科書にも掲載されていますので、学校で習われたことのある方もおられることと思います。この工藤直子さんの『あいたくて』という詩をお読みしたいと思います。
あいたくて 工藤直子
あいたくて
だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきた──
そんな気がするのだけれど
それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのか──
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている
それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気がするから
それを手わたさなくちゃ
だから
あいたくて
この詩を読みますと、第1連で、『だれかに』と書いてあるから、会いたいのは、誰かだということが分かります。しかし、会いたい誰かはまだ決まっていないみたいです。また、『なにかに』と書いてあるので、会いたいのは、誰かだけではなく、何か事柄(出来事)にも会いたいのだと思います。そして、『生まれてきた』と書いてありますので、この望みはかなり一般的で、深く考えると信仰的でもあると思います。そう考えると、『生まれてきた』目的は、この人は、誰かに出会い、何かに出会い、それらとよい関係を持つことにある、と言っているように読めます。
そして、第2連を読みますと、出会いの対象物は、誰なのか、何なのか、いつ会えるのか、は不確かで、とんと見当が付かない、おぼつかないと言っています。それはまるでお使いしている途中で、お使いの伝言や頼まれごとを忘れてしまい、困惑している子どもみたいな状態とそっくりだと書いているのです。さらに、第3連を読みますと、『みえないことづけ』とありますが、それは何なのでしょうか。『にぎりしめているような気がするから』と書いてありますので、この『ことづけ』は、とっても重要なことみたいです。何なのでしょうか。『にぎりしめていることづけ』は、とっても大切なものだから、この人は、『それを手わたさなくちゃ』と考えているのです。
そして、第4連には、『あいたくて』の一行しか書いてありません。しかし、この『あいたくて』の一行に、この人が、誰かに出会い、何かに出会い、自分がにぎりしめている何かを手わたして、その相手との関係を築くことに、大きな希望を抱いていることが分かるかと思います。
本日の聖書の箇所には、物乞いをしている一人の目の見えない人が登場します。本日は、この一人の目の見えない人と主イエスとの出会いを通して、聖書はどのような人が救われると語っているのかということを、皆さんと共に学びたいと思います。
■エリコに近づき
さて、ルカによる福音書の18章9節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅の結論部分となっています。このエルサレムへの旅の結論部分では、どういう信仰を持っている人が救われるのかということが、テーマになっているのです。そして、これまでにエルサレムへの旅の結論部分で、取り上げてきた内容は、1)ファリサイ派の人と徴税人のたとえ、2)子どものように謙遜することの教え、3)金持ちの議員と富の弊害、4)3度目の受難の予告、そして、本日の5)目の見えない人のいやしです。続いて、6)徴税人ザアカイの物語、7)「ムナ」のたとえとなっています。ルカは、このエルサレムへの旅の結論部分で、徴税人、子ども、目の見えない人といった、いずれもユダヤの社会の中で、やっかい者あるいはのけ者とされていた人を取り上げて、救われる人はどういう人かということを語っているのです。このような文脈の中で、本日の目の見えない人のいやしについて、読んでゆきたいと思います。
本日の聖書の箇所の18章の35節を見ますと、『イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。』とあります。エリコにおいて、目の見えない人の癒しの出来事が起ったことは、マタイ、マルコそしてルカの三つの共観福音書に記されています。しかし、ルカによる福音書とマタイ、及び、マルコ福音書では、その記述には微妙な違いがあるのです。そこで、何回、目の見えない人の癒やしが起こったのかということに関して、様々な議論があるのです。癒やしは、3回起こったという人がいます。マタイによる福音書の20章29〜34節では、2人の目に見えない人が出てくるのです。マルコによる福音書の10章46〜52節では、バルティマイという名前の目の見えない人が出てくるのです。そして、今日の聖書の箇所では、1人の目の見えない人が出てくるのです。そこで、記述が異なっているから、癒やしは3度起きたのだと考えている人がいるのです。それに対して、癒やしは2度起きたのだと考える人もいます。癒やしは2回と考えている人は、ルカが書いているように、エリコに近づいた時に、1人の目の見えない人が癒やされた。さらにエリコを出ていった時に、別の目の見えない人が癒やされた、これが、マタイとマルコの記載で、エリコに近づいた時とエリコを出て行ったときの2回起こったと考える人がいるのです。さらに、3回の癒しが起きたように見えて、実は1回だけの出来事を記していると考える人もいるのです。1回だけだと考える人は、エリコに近づいた時に、主イエスは目の見えない人と出会った、そして、エリコを去る時に、主イエスはその目の見えない人を癒やしたと考えているのです。従って、何回なのかは、このように様々な意見があるのです。それでは、どのように考えたら良いのかということですが、3つの福音書で、記述はそれぞれ異なっていますが、それらの記述を調和して考えるためにはどうしたら良いのかと言いますと、エリコというのは、2つのエリコがあったのです。それは、旧約聖書時代のエリコと新約聖書時代のエリコがあったのです。それで、旧約のエリコを出て、新約のエリコに入る時に、癒やしが行われたと考えると、癒やしは1回であったと考えることができると思います。そして、ルカは2人いた目の見えない人の1人だけを特に取り上げているのだということが言えるかと思います。主イエスはこのように、1回だけ目の見えない人の癒やしを行われたのだと思います。ルカはその1人に焦点を合わせて、記しているのだと思います。
さて、本日の聖書の箇所の35節に戻りますと、主イエスの一行は、エリコまで来たのです。エリコという町は、ユダヤの一部なのです。エルサレムもユダヤにあったのです。そして、エリコからエルサレムまでは、上り道で、直線距離で20キロメートルほどのところにありますので、ずっと上って行くのですが、徒歩でだいたい1日の道のりで行ける距離なのです。ということは、主イエスの一行が、エリコまで来たということは、もうエルサレムが近い町までやって来たということです。その時に、1人の目の見えない人が道端に座って、物乞いをしていたのです。今でも、中等に行くと物乞いをしている人は、珍しくはないのです。この目の見えない人は、人通りの多い場所に座っていたのです。なぜかと言いますと、物乞いをする立場で考えれば、沢山のお金を頂ける場所というのは、人通りが多い場所、さらに、人々が憐れみ深くなるような場所が望ましいと言うことができるかと思います。エリコという町は、エルサレムに向かう巡礼者が通過する町なのです。巡礼に行く途中ですので、人々は恵み深くなり、気前よくなるのです。即ち、エリコという町は裕福な町であると同時に、巡礼者が多く通る町なのです。ですから、物乞いが沢山いたとしても、不思議はないのです。このような環境の中で、目の見えない1人の人が道端に座っていたのです。
当時、目の見えない人というのは、社会的にどういう扱いを受けていたのかということについて考えてみたいと思います。この人のような視覚障害者、あるいは、身体にハンディのある人は、一般職に就くことができなかったのです。通常の仕事ができなかったので、生き延びる唯一の方法は、隣人の憐れみにすがること、つまり、物乞いをすることであったのです。物乞いをするというのは、イスラムの社会でも、あるいは、ユダヤの社会でも恥ずかしいことではなかったのです。それは彼らが生き延びる唯一の方法で、社会的な弱者ではあったけれども、ユダヤ人の場合は、モーセの律法によって、この生き方が守られていたのです。人々の哀れみにすがって生きるということが、モーセの律法の命令通りの生き方であったのです。しかし、彼らは宗教的には見下されていたのです。他者に依存して生きなければならない人、そういう意味では、子どもたちが見下されていたのと同じであったのです。同じような意味で、社会的な弱者であったのです。
■これは、いったい何事ですか
本日の聖書の箇所の36〜37節を見ますと、『群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、 』とあります。この36〜37節の記録は、ルカだけが書き記しているのです。ルカがこのことを書き記してくれたので、聖書に書かれている状況がよく理解できます。この目の見えない人は、目が見えませんので、周囲の情報は耳から伝わってくる情報だけなのです。彼は、群衆が騒いでいる耳にしたのです。普段と違っているのです。何か、特別なことが起こっているのです。彼は、何が起きているのか、知りたいと思ったのです。ルカは、この目の見えない人と群衆との会話を記すことによって、状況を生き生きと、絵画的に思い浮かぶように伝えているのです。ルカがこのことを書き記してくれたので、この目の見えない人の必死さがよく伝わってくるのです。人々は、彼に「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせたのです。翻訳ですので、『お通りだ』と、丁寧な言葉が使われていますが、人々が、主イエスに対する尊敬の念を持って伝えたかどうかは分かりません。すべての人が、主イエスを評価していた訳ではないからです。それでも、人々の興奮が伝わってくる記述だと思います。
ナザレのイエスが町に来たんだ、だから、みんな騒いでいるんだ。支持する人も、拒否する人も、みんな騒いでいるんだ。この目の見えない人は、積極的に応答するのです。この人は、今だ、と思ったのです。
■ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください
それで、本日の聖書の箇所の38〜39節を見ますと、『彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。』とあります。何とも、この目の見えない人の必死さが、伝わってくると思います。この必死さが、主イエスの憐れみを引き出すのです。まず、この目の見えない人について注目しなければいけないことは、この人は、主イエスに関する知識を持っていたということです。それまでに、この人は、主イエスについての噂を散々聞いていたのです。ナザレのイエスに会ったことはないけれども、その噂を聞いて、知識を持っていたのです。ですから、ナザレのイエスがお通りになると聞いて、どなたですか、その方は、とは言わなかったのです。きっと、この人はナザレのイエスがお通りになると聞いて、ハッとしたと思います。そして、大声で叫んだのです。まだ、主イエスがどこにいるかも分かっていないのに、大声で叫んだのです。この人は、ナザレのイエスについて、特にどういう意味で、関心を払ったのでしょうか。これまでも、ナザレのイエスは目の見えない人の目を開いた方である、こういう情報が、目の見えない人から目の見えない人へ、伝わっていたのだと思います。それと共に、この人は、自分には力がない、自分で自分を救うことができない、ということをよく認識していたと思います。
ですから、ナザレのイエスは、私のような目の見えない者の目を開いたお方である、その方がこの町に来られた、この機会を逃してはいけないと、この人は思ったのです。そこで、この人は大声で叫び始めたのです。この人が叫んでいる内容は、どうであったのでしょうか。この人は、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫んだのです。ここには、この人なりの精一杯の信仰告白があるのです。この人が叫んでいることから、この人が何を信じていたのかというと、この人は、主イエスがイスラエルのメシアであることを信じていたのです。この人は、『ダビデの子よ、』と、呼びかけています。『ダビデの子』というのは、旧約聖書に出てくるメシアの称号なのです。サムエル記下7章8〜16節、歴代誌上17章7〜14節には、メシアはダビデの子孫、ダビデの子として登場するのだと預言されているのです。ですから、この目の見えない人は、主イエスがダビデの子である、メシアであるという信仰を持って、呼びかけたのです。このことは、不信仰な宗教的指導者たちとは対象的なのです。
そして、この人は、その信仰、つまり主イエスがイスラエルのメシア、ダビデの子であるという信仰に基づいて、神様の憐れみを求めたのです。ここで、この人は、自分の義を主張することなく、100%、神様の憐れみを求めています。この人は、自分がこのような状態に置かれているのは、不条理であり、不公平であるというような、主張もしていないのです。自分の立場や義を主張しないで、この人は、ただ1つ、神様の恵みだけを求めたのです。この人の叫びは、以前にお話しました『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえの中の徴税人の祈りに似ていると思います。神様の憐れみと恵みだけを求めています。ここに、この人の信仰表現があるのです。
■先に行く人々
この人の叫びに対して、他の人たちはどのような態度を取ったのでしょうか?39節の前半を見ますと、『先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、』とあります。『先に行く人々』というのは、少し分かり難い表現ですが、これは主イエスの一行が町に近づいている、その先頭を行く人たちがいるのです。行列の先頭を行く人たちが、あまりにもうるさいので、彼を叱りつけて、黙らせようとしたのです。叱りつけて、と書かれていることから分かるように、彼らはこの目の見えない人を、社会的な弱者として見下しているのです。この人を、1人の人間として、敬意を払っていないのです。子どもたちが主イエスに近づこうとした時に、弟子たちは、子どもたちを阻止しました。その時の状況と、本日の聖書の箇所の状況とは、似ているのです。子どもたちが近づくのを阻止したのと同じ動機がここでも働いて、あなたのような者に関わっている余裕はないのだよ、という気持ちがここに表現されています。
しかし、この目の見えない人は、どうしたのでしょうか?黙らないのです。『ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。』と記されています。黙らなかったのです。この人は、信仰によって、叫んだのです。どういう信仰があったのでしょうか?この人は、主イエスには、癒やしを行う力があることを知っていたのです。主イエスが目の見えない人の目を開いたことを、この人は知っていたのです。ただ、この人が一生懸命に懇願している理由は、主イエスが自分に対して、そうして下さるかどうか分からない、しかし、それでも主イエスがそうして下さることを願って、この人は懇願しているのです。人々がこの人を黙らせようとすればするほど、この人はますます激しく叫んだのです。黙っていられないのです。周囲の人々にとっては、他人事なのです。でもこの人にとっては、自分のことなのです。自分のこの状態が癒やされるように、この人にとってはまさに生きるか、死ぬかの問題なのです。だから、この人は諦めないのです。主イエスには、その力があるのです。主イエス様、私を憐れんで下さいと、ますます激しく叫び続けた気持ちが分かります。その必死さがよく伝わって来ます。それは、信仰に基づく、主イエスの愛に対する信頼に根ざした必死さであったのです。
主イエスはどうされたのでしょうか?主イエスは、この人を黙らせることはしなかったのです。主イエスが、ご自分がメシアであることをお語りになるときには、人の子という称号を好んで用いられました。人の子というのは、仕える僕、受難の僕というメシア像なのです。ところが、ここでは栄光の王として来られるメシア、ダビデの子と呼ばれることを、主イエスは拒否されていないのです。受け入れておられるのです。この目の見えない人の信仰を喜んで、受け入れておられるのです。
■立ち止まってくださる主イエス
本日の聖書の箇所の40〜41節を見ますと、『イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。』とあります。主イエスは立ち止まったのです。聖書の文脈の上では、主イエスはエルサレムに向かっているのです。エルサレムは、もう近いのです。1日、歩けば、もう到着するのです。主イエスは、エルサレムに行って、十字架に架かる決意を固めているのです。そういう時でも、私たちの主イエスは、弱い人への奉仕を忘れないお方なのです。主イエスは、私たちのことにも、今も、深い関心を示しておられるのです。主イエスは、今、私たちの前に、立ち止まっておられるのです。
そして、主イエスは、この目の見えない人をそばに連れて来るように命じられたのです。これは、単に連れて来いという命令ではなくて、叱りつけている人への叱責なのです。あなた方は、この人の叫びを押さえつけて、叱りつけているけれど、それは、私の思いからは、かけ離れているのだ、この人を私のもとに連れてきなさいという、叱りつけている人たちへの叱責なのです。目の見えない人は、直ぐに主イエスのところに来ました。嬉しかったことと思います。主イエスが呼んでおられる。嬉しいと、直ぐに来たのです。主イエスは、この人に向かって、次のように問われました。「何をしてほしいのか。」ここは大切なポイントです。主イエスは、この目の見えない人が、何を望んでいるのか、よく知っていました。これは、この人の信仰を確認し、それを引き出すための質問なのです。
神様は、私たちが何を必要としているか、よくご存知です。また、必要でないものも、よく知っておられます。神様は、すべてご存知なのだから、祈らなくてもそうなるでしょう、というのは、神様の子どもとしては、冷たい態度であると思います。神様は、私たちの必要を知っていると同時に、私たちの側からそれを具体的に、神様に申し上げて、神様に願うことを、喜んで待っておられるお方なのです。ですから、主イエスはこの人に何をして欲しいのかと、尋ねられたのです。それは、この人の信仰を確認し、その信仰を引き出すための質問なのです。この目の見えない人は、この質問によって、自分の信仰に基づく思いを言葉で、自分の外に向かって表現することができたのです。この人は、シンプルに答えています。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。これ以上、言う必要はないのです。この人は、『主よ、』と呼んでいます。これは、尊敬の言葉以上の呼びかけです。この人は、主イエスがメシアで、癒やしの力を持っていることを確認しているのです。その表現が、この『主よ、』という言葉になって、現れているのです。
■あなたの信仰があなたを救った
次に、本日の聖書の箇所の42〜43節を見ますと、『そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。』とあります。主イエスは、『見えるようになれ。』とだけ、おっしゃられたのです。主イエスは、この言葉によって、目の見えない人を癒やされたのです。この人の視力を回復されたのです。さらに、この言葉に付け加えて、『あなたの信仰があなたを救った。』と語っておられます。この言葉の意味は、信仰というある実質がこの人を救ったということではないのです。主イエスを信じたので、つまり、主イエスを信じる信仰を持ったので、主イエスの力がこの人の上に働いたということなのです。ですから、もう少し丁寧に言うと、この人が主イエスをメシアとして信じたので、主イエスの力がこの人の上に働いて、この人は救われたということを、主イエスはおっしゃられているということなのです。別の言い方をすれば、この人は謙遜に憐れみを求めたので、救われたのだと、主イエスはおっしゃられたと言うことができるかと思います。『救った』という言葉からわかることは、この人は肉体的にも、霊的にも目が開かれたということです。霊的に目が開かれたというのは、この人の救いにつながっているということです。
さて、この目の見えない人が癒やされた後、どのような応答があったのでしょうか?主イエスによる癒やし対する応答を詳細に記しているのは、ルカだけなのです。見えるようになった、この人は、『神をほめたたえながら、イエスに従った。』とあります。イエスに従った、というのです。エルサレムまでは、たった1日の距離ですから、エルサレムまで行って、主イエスの最後の1週間を、主イエスによって開かれた目で、目撃した可能性が非常に高いと思います。
そして、『これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。』とあります。この目の見えない人の癒やしが、群衆が神様を賛美するきっかけになったというのです。つまり、この癒やしは、神様の栄光につながったということなのです。喜びがエリコの町に、湧き上がったのだということを、ルカは記してくれているのです。
本日の聖書の箇所の目の見えない人の癒やしの記事で、主イエスと出会い、主イエスに信頼して、信仰を告白する人は特別な恵みにあずかるようになるということが分かります。今日の聖書の箇所で、大切なことは、この目の見えない人は、いつかまた考えようと、先延ばしにしなかったということです。主イエスは、十字架に架かって死なれるために、エルサレムを目指して、最後の旅を続けておられました。ですから、主イエスがエリコを通るのは、これが最後だということです。ですから、この目の見えない人にとって、今日の聖書の出来事というのは、最初で最後の機会なのです。この人は、その1度限りの機会を捉えて、それを生かしたのです。ここに、この人の信仰の素晴らしさがあるのです。
パウロは、コリントの信徒への手紙二の6章1〜2節で、『わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。』と語っています。今が、その時だと言っているのです。『今や、恵みの時、今こそ、救いの日』なのです。ですから、いつかどこかで、主イエス・キリストを信じようと思うのではなくて、今が時なのです。今という時を、生かしたいと思います。今日のこの目の見えない人は、1度限りの機会を捉えて、生かしたのです。私たちもまた、この目の見えない人のように、今という時を生かす、信仰を持ちたいと思います。
主イエスの問いに、この目の見えない人が答えた「主よ、目が見えるようになりたいのです」という言葉は、英語訳聖書を見ますと、”Load, let me see again.”と、「再び目が見えるようになりたい」と訳されているのです。つまり、もともとは目が見えていたのだけれど、なんらかの理由で目が見えなくなったので、再び目が見えるようになりたい、ということです。私たち人間は、かつて主イエスのまなざしを、あるいは神様のまなざしを受けて生きていました。しかし、私たち人間は、神様から離れ、神様に背を向けることによって、神様のまなざしを受けて生きることができなくなったのです。そういう意味で、目が見えなくなったのです。神様に背を向け、罪の力に支配された私たち人間は、隣人との関係に破れを抱え、自分自身との関係にも破れを抱え、日々苦しみ、悲しみ、嘆き、憤って生きているのです。そのような私たちが、再び神様との関係を取り戻すために、私たちは主イエスに向かって「私を憐れんでください」と叫び続けることが必要なのです。
主イエスだけが、私たちの罪を憐れんでくださり、私たちを罪から救ってくださるからです。主イエスは、私たちが再び主イエスのまなざし、神様のまなざしのもとで生きることができるようになるために、エルサレムに向かって、十字架の死に向かって歩んでくださったのです。主イエスの十字架の死によってこそ、私たちの目が本当に見えるようになり、神様のまなざしを受けて生きられるようになり、罪の力の支配から、苦しみや悲しみ、嘆きや憤りの支配から解放されて生きることができるようになったのです。私たちは主イエスの十字架の死によって、すでに見える者、神様のまなざしを受けて生きる者、罪の力の支配から救われた者とされています。なお日々の歩みには苦しみや悲しみが溢れていたとしても、主イエスに信頼する時、私たちは苦しみや悲しみに、決定的に支配されることはないのです。本日の聖書の箇所の目の見えなかった人は、主イエスによって癒やされ、目が見えるようになると、「神をほめたたえながら、イエスに従」いました。私たちも、この目の見えなかった人のように、主イエスと出会わされ、主イエスに従い、主イエスの証人として、歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。