小倉日明教会

『パンはいのち』

ヨハネによる福音書 6章 9節

2025年10月5日 聖霊降臨節第18主日世界聖餐日合同礼拝

ヨハネによる福音書 6章 9節

『パンはいのち』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                        沖村 裕史 牧師

■わたしたちの食べ物

 今日お読みいただいたのは「五千人の給食物語」と呼ばれる箇所の一節です。

 給食……。北九州市小倉北区・南区・門司区の小学校の給食のメニューを調べてみました。

 「一〇月六日。ししゃものてんぷら、【新】みたらしさといも、つきみじる

 一〇月七日。チョコだいずクリーム、【新】ツナのナポリタン、クリスピーチーズポテト、【新】やさいのマスタードいため

 一〇月八日。【新】ホキのコロコロたつたあげ、【新】キャベツのかぼすあえ、なめことあいのしまさんわかめのみそしる

 一〇月九日。ミルククリーム、やきうどん、いりことだいずのからめあえ」

 このほかに毎日、ごはんかパン、それに牛乳がついてきます。

 わたしが小学生だったころ、給食で脱脂粉乳を飲まされたという経験から比べると、「なんともぜいたくになったものだ」と感じます。戦中戦後の窮乏の時代を過ごした方々にはなおさらでしょう。

 今日(こんにち)、こどものみならず日本に暮らす多くの人が、少なくとも表面的には、驚くほどぜいたくな食生活に慣れてしまっているように思います。しかしそれだけに、こうした急激な変化とぜいたくの中で、わたしたちは食べ物に対する健全な欲求というか、食べることについての基本的な姿勢というものを見失いつつあるようにも思います。

 わたしたちがものを食べるのは、生きる上でそれが必要だからです。食べるという行為は、神がわたしたちに与えてくださった賜物であり、基本的にそれは「良いもの」です。「正しい食事」はそれ自体、神の恵みのしるしです。

 それだけにまた、食べることはわたしたちの信仰にかかわる問題です。そして食べ物と信仰ということを考える時、そこでまず問題になるのは、「何を食べるか」ということよりも、「だれと食べるのか」「どのように食べるのか」です。そう、「正しい食事」という場合にわたしたちが注目すべきは、「食べ物」よりも「食べ方」の問題です。

■ブラジルの北東部で

 『入門 解放の神学』という本の中に、こんな一節があります。

 「世界でもっとも貧困な地域の一つであるブラジル北東部の貧しい地方でのことである。ある日、わたしは一人の司教に出会った。その司教は、司教館に入ってきた時、震えていた。『司教さま、いったいどうしたのですか』とわたしは尋ねた。彼はほんの少しまえにとても悲惨な光景を見たのだと答えた。大聖堂の前に、三人の小さなこどもを連れ、胸にしがみつく乳飲み子を抱えた女性がいたそうである。司教は、その親子が飢えて歩けなくなっているのが分かった。乳飲み子は死んでいるように見えた。そこで司教は、『シニョーラ、乳飲み子にお乳をおあげなさい』と言った。『司教さま、それがダメなのです』と彼女は答えた。さあさあお乳をあげなくてはと彼女を促したが、彼女は何もしなかった。しかし、司教がしつこく言うので、仕方なく彼女はブラウスの前を開けた。ところが、彼女の乳房は血だらけだった。というのも、乳飲み子は母の乳房を乱暴に吸ったからであり、しかも、母の血を吸っていたのだった。乳飲み子にいのちを与えたその母親は、みずからの血を与えることでその子を養っていたのだった。それはあたかも、みずからの血、みずからのいのちを子に与えると語り継がれているペリカンの母親のようだった。その司教は思わず彼女の前にひざまずき、乳飲み子の頭に手を置き、その場で誓いを立てた。神よ、このような飢えがあるかぎり、毎日少なくとも一人の飢えたこどもに糧を与えます、と」(L・ボフ、C・ボフ著、新教出版社、二〇〇〇年)

 そこに、大麦のパン五つと魚二匹を持った少年はいませんでした。そして司教には、イエスさまのような力もありませんでした。彼には、「毎日少なくとも一人の飢えたこどもに糧を与えます」と誓うことが精一杯でした。果たしてこの司教が、またその地に住む牧師や信徒たちが、今日わたしたちが読んだ福音書の物語をどのような思いをもって読み、どのように理解したのか、わたしには分かりません。

 それでも確かなことは、食べることは信仰にかかわる問題だということです。そこで問題となるのは「何を食べるか」ではなく、「だれと食べるのか」「どのように食べるのか」ということです。その問いを、わたしたちは今も、貧困と様々な問題を抱えた、この世界のすべての人々から問われています。

■パンの奇跡

 イエス・キリストがわずかな食べ物で大勢の人々を養ったという話は、四つの福音書すべてに出てきます。さきほど、ヨハネによる福音書の中に伝えられる話の中の、この一節だけを読んでいただきました。

 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」

 ここには「五つのパン」と「二匹の魚」が登場します。空腹を抱えた五千人もの人々を前にして、ひとりのこどもが自分の持っていたわずかな食べ物を、イエスさまに差し出しました。この子の名前はわかりません。しかし、その子は「自分のパンと魚を差し出した少年」として、聖書の中に永遠にその名をとどめることになりました。イエスさまはそのわずかな食べ物を受け取って、人々に分け与えました。そうして、五千人もの人々を満腹させたといいます。

 こういう話を聞くと、わたしたちは「五つ」と「二匹」という数字に注目しがちです。そして、それが「増えた」ということだけに関心を寄せがちです。

 現代の社会では「数字」が大きな力を持っています。物事の状況、価値、将来性もすべて数字で判断されます。人間の価値や可能性までもが数字で表現されます。学校や職場だけでなく、健康さえも、その人の見た目や本人の訴えよりも、体重、血圧、血糖値といった客観的に示される数値が大きな力を持ちます。教会の価値も数字で表現されてしまうことがあります。教会総会や長老会・役員会でも、語られているのはそんな数字ではないでしょうか。

 どれもないがしろにしていいものではありませんが、本来、人間を助け、一つの指針となるはずの数字が人間、教会、社会を支配するものとなっています。数字が人間に価値を与え、健康や幸せを保証する、神のような存在となると同時に、人間の価値を貶(おとし)める、悪魔的な存在にもなっています。わたしたちは、この数字の悪魔的な力に気がついているでしょうか。

 しかし、ヨハネによる福音書を読んでも、他の福音書の同じ記事を読んでも、パンの奇跡では、パンがどんなふうに「増殖」したとか「巨大化」したなどといった、数字の奇跡はどこにも描かれません。

 「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(六・一二)

 ただ、それだけです。

 パンをどんなやり方で増やしたのか。そうした「ハウ・ツー」にわたしたちは興味を持ちます。しかしどんなやり方であったにせよ、イエスさまが「パンを増やす特殊技能」を持っていたというだけなら、それは現代のクローン技術や遺伝子組み替え食品の研究者と同じレベルのことにすぎません。

 ここで起こったことは、数字の奇跡ではなく、数字の悪魔的な力から解放され、人間の考え方や生き方が新しくされたという「奇跡」です。五千人に対してわずかに五つのパンと二匹の魚しかないという、この数字は弟子たちを失望させるのに十分なものでした。しかしイエスさまは、弟子たちの失望を拭い去り、数字の力から解放するかのように奇跡を行われました。五千人の人を満足させただけではなく、なお12の籠にいっぱいのパン屑が集められました。

 この物語によって、わたしたちもまた数字の力から解放されるとともに、数にも数えられなかった存在に気づかされます。五千人に対する五つのパンと二匹の魚という数とも言えない存在、それを差し出したひとりの少年、五千人という数の中に数えられなかったたくさんの女性やこどもの存在が、数字の力から解放され、祝福されました。そのとき、荒れ野は「草がたくさん生え」る青草の原へと変わっていました(六・一〇)

 イエスさまはここで「どうしたらパンが増やせるか」を教えようとしたわけでもなければ、「わたしについて来れば、いくらでもパンを食べさせてやろう」と言われたのでもありません。イエスさまがここで教えられたことは、むずかしいことではありません。「パンは皆で食べなければならない」「パンは分かち合って食べなければならない」という教えです。

 イエスさまは、ただひとりの主なる神の恵みのもとに、わたしたちが新しく変わること、兄弟姉妹として「共に生きる」こと、「分かち合って生きる」ことを教えられたのでした。

 主の奇跡とは、「パンが増える」ということではなく、「乳飲み子にいのちを与えたあの母親が、みずからの血を与えることでその子を養っていた」ように、「パンのいのち」にあずかることを通して、わたしたちが「新しくされる」こと、「主にある交わりが生まれる」ということに外なりませんでした。

■わたしたちのパンを差し出す

 わたしたちは今、「世界聖餐日」の礼拝を共に守っています。世界中の信徒がこの日、聖餐にあずかることを通して、主にある一つの交わりに生かされていることを想い起こし、感謝をささげます。

 わたしたちは今、特に「世界」という言葉に注意を向けたいと思います。たとえ、どんなに激しい対立と耐え難い分断があったとしても、この世界の様々な国や地域に生きるクリスチャンとわたしたちは、兄弟であり姉妹です。また、すべての人間が神の被造物である以上、わたしたちは世界中のすべての人々と、神のもとで関わり合い、支え合う中に、生かされている存在です。

 それなのに普段、わたしたちは必ずしもこうした兄弟姉妹、世界の隣人たちに思いを寄せているわけではないことを、神の御前に懺悔しなければなりません。また、そうした兄弟姉妹、隣人たちの中には、「飢えている人々」「渇いている人々」がいること、わたしたちの助けを必要としている人々が、数えきれないほどにいるのに、わたしたちがそれに応える充分な働きを果たしていないことを、やはり神の御前に懺悔しなければなりません。

 かつて、イエス・キリストは一万人を超える人々を前にして、パンを裂き、それを分かち合うこと―聖餐を通して、新たな交わり、新たな人間の生き方を指し示してくださいました。わたしたちもまた、そのような主の恵みによって生まれた、世界中の諸教会の一員として、この後、交わりと分かち合いの聖餐にあずかろうとしています。そこで今日は、パンと杯を受け取って席に戻られた後、それぞれがバラバラにあずかるのではなく、わたしの招きの言葉にしたがって、感謝をもって、パンと杯を分かち合い、共にあずかっていただきます。

 また主は、こどもの差し出した「五つのパン」と「二匹の魚」というわずかな献げものを受け取って、奇跡を実現してくださいました。わたしたちもまた、恵みにあずかる者として、わたしたちの手の中にあるパンを、わたしたちに与えられている賜物を、主に向かって差し出しましょう。それが、どんなにわずかなものであったとしても、主がそれを用いてくださいます。主の御手によって、奇跡が起こることを信じ、それを差し出しましょう。その献げものを通して、わたしたちの隣人が、主にある兄弟姉妹が、そして何よりもわたしたち自身が、主の祝福にあずかることになるのです。感謝して祈ります。