小倉日明教会

『ベツレヘムへ行こう −羊飼いたちへの告知−』

ルカによる福音書 2章 8〜20節

2024年12月24日 クリスマス燭火礼拝

ルカによる福音書 2章 8〜20節

『ベツレヘムへ行こう −羊飼いたちへの告知−』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                  役員 川辺 正直

天然痘の撲滅

 クリスマスおめでとうございます。ところで、人類史上ワクチンによって完全に絶滅できた伝染病が一つだけあるということをご存知でしょうか。天然痘です。かつてローマ帝国を滅ぼし、平城京を滅ぼし、インカ帝国を滅ぼした恐るべき感染症です。1980年にWHOによって根絶宣言が出されました。この病気の撲滅の総合責任者として活躍したのは、日本人のドクターである蟻田功(ありた・いさお)さんという方だったのです。

 70年代の後半、地上に残った数少ない天然痘被害に悩む国がアフリカにありました。それはエチオピアという国です。彼はスタッフであるブラジル人医師のアマラルさんと妻のアウーバさんを派遣したのですね。ところが、その頃、エチオピアは内戦状態だったのです。エチオピアから分離独立しようとしている西ソマリア解放戦線というゲリラ集団がエチオピア政府と戦闘状態にあったのです。しかも、彼らが活動するオガデン砂漠というのは遊牧民たちの活動エリヤでした。天然痘にかかった遊牧民はじっとしていないで常に移動続けています。その為、病気を一箇所に封じ込めることができず、移動とともに感染がどんどんどんどん広がっていったのです。

 アマラル医師は現地でワクチンを打ちながら、現地の器用なひとりの青年と出会いました。そして、その彼にワクチンの打ち方を教えて共に行動したのです。ところが、ようやくこの青年が戦力になりかけた時、彼は突然姿を消してゲリラグループの仲間になってしまうのです。そういう中でも、医師のアマラルさんは地道にワクチンを打ち続けるのです。ところが、ある日、ゲリラの襲撃を受け行方不明になってしまうのです。エチオピア政府からのスパイに違いないという疑いを受け、彼は全裸にされ、猛毒を持った虫がいる牢の中に閉じ込められてしまったのです。

 処刑も時間の問題かと思われたその時、かつて、彼のもとで働いていたあの青年がアマラルさんのことを見つけるのです。そして、司令官に向かって「彼は良いものをもたらすために来た人です。天然痘にかからないワクチンを無料で打ってくださる人です。」と言って弁護するのです。ようやくアマラルさんは誤解が解け、そして2週間後に解放されたのです。解放されるまでの間、彼は四千人のゲリラにワクチンを打ち続けたのです。どんなに酷い目に遭わされても決して挫けず、ワクチンを与え続けたアマラル医師の志、その真実が分かった時、さしものゲリラたちも感服したのです。

 ところで、このアマラル医師以上に良いものをもたらすために、この世に来られた方がいます。主イエス・キリストです。創造主なる神様は、聖書の預言通りに、神様の御子を人としてこの世に送ってくださったのです。そして、クリスマスは、神様がいかに、神様から離れている人々を心配し、共に生きようとしておられるのかということを明らかにされるために、主イエスを世に送って下さったのだということを覚える日なのだと思います。本日は、主イエスの誕生の知らせが最初に羊飼いたちにもたらせられたという記事を通して、福音記者ルカの書き記したクリスマスの福音について、皆さんと共に学んでゆきたいと思います。

主イエスの誕生

 さて、ルカによる福音書では、主イエスの誕生を預言者ヨハネの誕生と対比させながら、丁寧に描いています。福音記者ルカは、バプテスマのヨハネの誕生について、細かに書き記していますが、それ以上に主イエスの誕生物語をより詳細に記録しています。バプテスマのヨハネと主イエスの誕生物語を丁寧に描くことによって、福音記者ルカが何を伝えようとしているのかと言いますと、それはバプテスマのヨハネよりも、主イエスの方がはるかに偉大ですよということを示そうとしたのです。ルカは主イエスの誕生物語を詳細に書き記しています。これは、ルカによる福音書の特徴です。本日の聖書の箇所のルカによる福音書の2章の記事は、ルカだけが書き記している記事なのです。ルカが書き記していてくれなければ、私たちは主イエスの誕生の次第を知ることができなかったと思います。そして、洗礼者ヨハネの誕生物語では、ヨハネの父ザカリアが、『ヨハネ』という名前をつけた、その命名の経緯が強調されています。それに対して、主イエスの誕生物語では、誕生した状況と背景に強調点があります。

 そして、本日の聖書の箇所の前の箇所である2章の1〜7節で、主イエスの誕生に関するどのような内容が描かれていたかと言いますと、最初に皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た、ということです。そして、2番目に、ヨセフとマリアは、自分たちの戸籍があるユダヤのベツレヘムというダビデの町へ、登録するために帰って行った、ということです。3番目に、ベツレヘム滞在中に、マリアは赤子を生んだということです。そして、4番目に、主イエスの生涯の始まりは、みすぼらしいものであったということです。これらが、本日の聖書の箇所の前の箇所である2章の1〜7節に描かれている、主イエス誕生の経緯なのです。

 本日の聖書の箇所では、福音記者ルカは人々の喜びを取り上げていますが、本日の聖書の箇所に出てくる主役の人々というのは、私たちの予想外の人々です。私たちは、聖書のこの箇所に、何度も接していますので、羊飼いたちが何か、と思われるかも知れません。しかし、このルカによる福音書が書かれた当時、初めてこの箇所を読んだ人たちは驚いたことと思います。それは、当時、羊飼いたちがユダヤの社会の中でどのような評価を受けていたのかということを考えますと、エルサレムの宗教的指導者たちから見ると、羊飼いというのは律法に無知だと考えられていたのです。なぜかと言いますと、日々、家畜の世話は24時間生じるので、律法を学んでいる時間がないのです。さらに、儀式的に汚れていると考えられていたのです。羊飼いの仕事をしていると、屠殺をしたり、あるいは、死体に触れたりします。そのため、儀式的に汚れていると考えられていたのです。さらに、羊飼いたちは、嘘つきで盗人であると考えられていたのです。これは、羊飼いをしていると、自分のものなのか、他人のものなのか、境界線が曖昧になってくるのです。それが、嫌がれたのです。羊飼いたちは、当時、このようなひどい評価を受けていたのです。従って、羊飼いというのは、当時のユダヤ社会では、取税人や遊女と同じように、社会的にのけ者とされる扱いを受けていた人たちであったのです。そのようにのけ者とされていた羊飼いたちに、最初にグッドニュースがもたらされたのです。主イエスの誕生の知らせは、貧しく、社会から排除されていても、神様の前にへりくだって、忠実に働いている人のところにもたらされたということなのです。このことは、神様の眼差しがどこを向いていて、お生まれになった主イエスがどのような人々と共に生きようとされているかを示していると思います。このように、考えられない予想外の人たちが招かれ、そして、その思いがけない人たちが、御子イエスの誕生を喜んでいるというのが、今日の聖書の内容なのです。今日は、天使の言葉の内容となぜ羊飼いたちが主役となっているのかというこの2つの点に、注目しながら、本日の聖書の箇所を見てゆきたいと思います。

羊飼い

 さて、本日の聖書の箇所の8節には、『その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。』を出したとあります。その地方とありますが、どの地方でしょうか。これは、文脈から判断する必要があります。これは、ベツレヘム近郊のことですね。マリアはベツレヘムを見に行った時に、赤子を生んだのです。従って、これはベツレヘム近郊のことだと考えることに、合理性があると思います。このベツレヘムの町というのは、ユダの山地と言われるところにあるのですが、その丘陵地帯の周辺に放牧地帯が広がっているのです。そこで、羊を飼っているのです。今は、その地帯は羊飼いの野と呼ばれています。ここで、『羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。』とあります。『羊飼いたち』というのは、複数形となっています。ですから、羊飼いたちが、みな同じように夜通し番をしていたというよりは、これは順番を決めて、そして、夜通しの番をしていたというように考えることができると思います。

 実は、このベツレヘムの郊外にある丘陵地帯ですが、実はダビデもまたそこで羊飼いをしていたのです。そのことは、サムエル記上17章34〜35節を見ると、『しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。』とありますことから、伺うことができます。『僕は、父の羊を飼う者です。』とありますが、どこで飼っていたのかと言いますと、ベツレヘム郊外で飼っていたのです。

 そして、『野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。』とありますことから、夜でも羊をそこに放っていたのです。そして、野宿をしているということから、主イエスが誕生した時、それほど寒くない気候であったということが分かります。ベツレヘムという町は、エルサレムに近いのです。ベツレヘムは、エルサレムの南、10キロメートル程度のところにあるのです。近いところから、当時はベツレヘム近郊の羊飼いたちは、神殿で捧げる子羊を飼っていたのです。そして、ここで出てくる羊飼いたちというのは、過ぎ越しの祭りで捧げる子羊を飼っていたと言うことができるのです。

恐れ、戸惑い

 さて、ここまではのどかな牧歌的な風景ですが、9節には、『すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。』と書かれており、情景が急に動いているということが分かります。この場面を見ると、主の天使が羊飼いたちに近づき、羊飼いたちは非常に恐れたとあります。ここは、原文では、主の天使は単数形なのです。1人の天使なのです。1人の天使が、彼らのそばに立ったのです。天使の名前は出ていません。天使ガブリエルかもしれません。そして、天使が現れた時に、主の栄光が周りを照らした、というのです。このことは、非常に重要な意味を持っています。これは、メシア誕生に伴う主の栄光なのです。メシアが誕生したことを告げる主の栄光なのです。旧約聖書の歴史を振り返ると、主の栄光というのは、もともとは神殿の中の至聖所の中に輝いていただけなのです。ところが、預言者エゼキエルの時代、ユダヤ人たちの偶像礼拝の罪の故に、主の栄光は神殿から去ってしまったのです。そして、最後はオリーブ山まで行って、主の栄光は消えるのです。そのことが、エゼキエル書11章23〜24節に、『主の栄光は都の中から昇り、都の東にある山の上にとどまった。霊はわたしを引き上げ、カルデアの方に運び、わたしを幻のうちに、神の霊によって、捕囚の民のもとに連れて行った。こうして、わたしの見た幻は、わたしを離れて上って行った。』と書かれているのです。そして、バビロン捕囚から帰還した後に再建された第2神殿には、主の栄光はなかったのです。

 その後、ヘロデ大王が神殿を拡張します。主イエスが生きておられた時代の神殿というのは、ヘロデ大王が拡張した神殿なのですが、そこにも主の栄光はなかったのです。ですから、預言者エゼキエル以来、約500年間、神殿からは主の栄光が失われていたのです。その主の栄光が、500年ぶりにイスラエルの民の間に戻ってきた。主の栄光が神殿ではなくて、主イエスというお方の身体の中に宿った。そのことが、羊飼いたちに最初に示されたというのが、本日の聖書の箇所で示されていることなのです。従って、羊飼いたちが見ている主の栄光というのは、メシアの到来を告げる主の栄光であって、500年ぶりにイスラエルの民のもとに、主の栄光が戻ってきたという素晴らしいニュースなのです。

 御子である主イエスの誕生のことを理解し、主イエスが救い主であることを受け入れた人々の心の中には、劇的な変化が起こります。それは、心の中に大きな光が灯るというようなことが起こるのです。本日の聖書の箇所では、『主の天使が近づき』、『主の栄光が周りを照らした』、そして、羊飼いたちは、『非常に恐れた』のです。主の栄光に照らし出されたので、恐れるのは当然のことと思います。神様が、人間の歴史に介入されるときに、人は非常に恐れます。これは、旧約聖書で繰り返し記されてきた、人間と神様との間の関係の歴史なのです。今日の聖書の箇所で、まさに神様が人間の歴史に介入されたのです。御子である主イエスが人となって、歴史に介入されたのです。そのことに、羊飼いたちは、主の栄光に包まれて、大いに恐れたのです。

恐れるな

 さて、本日の聖書の箇所の10節には、『天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』と書かれています。羊飼いたちが恐れているのを見て、天使は何と言ったのかと言いますと、『恐れるな。』と言ったのです。そして、『わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』と、天使は言ったのです。この天使の言葉は、裁きの言葉ではなくて、励ましの言葉なのです。『恐れるな。』という天使の言葉は、バプテスマのヨハネの父親のザカリアも、主イエスの母親のマリアも聞いているのです。恐れる必要はないと言うのです。なぜかと言いますと、天使が告げているのは、喜びの知らせ、グッドニュースだからです。だから、恐れることはないのです。

 ここで、『民全体に与えられる』という言葉が出てきます。民全体というのは、誰のことかと言いますと、これはイスラエルの人々のことです。『民』という言葉は、ギリシア語で『ラオス』という言葉が用いられています。『ラオス』という言葉は古代ギリシャ語に由来していて、文化、民族、宗教によって結ばれた集団を指す普通名詞なのです。旧約聖書では、『ラオス』という言葉は、ヘブライ語聖書で『am』という形で登場し、これは『人々』とも訳されます。旧約聖書の最も重要なテーマの1つは、神様がイスラエル人を選ばれた民として選んだことです。『ラオス』という言葉は、イスラエルの人々の集合的なアイデンティティを体現し、団結、目的、運命を強調しているのです。

 それでは、イスラエルの人々全体に与えられるグッドニュースだということは、何を意味しているのかと言いますと、主イエスというお方は、神様がアブラハムに約束した通り、そして、神様がダビデに約束した通りに、第一義的には、ユダヤ人のメシアとして来られたのです。しかし、私たちは、今、主イエスを救い主として信じて、主イエスを礼拝しています。それはなぜかと言いますと、それはユダヤ人の救い主として来られた方が、全人類の救い主でもあるからです。福音記者ルカはこの段階で、すでに全人類の救いという構想を持っているのです。しかし、ルカは天使の言葉を忠実に書き記しているのです。主イエスは、第一義的には、ユダヤ人の救い主として来られた。しかし、ルカの全人類の救い主という構想がいつから展開するのかと言いますと、使徒言行録に入って、主イエス・キリストが十字架につき、墓に葬られ、三日目に復活し、天に上げられ、聖霊が下り、教会が誕生する、その段階から、主イエス・キリストが全人類の救い主だという構想が明らかになるのです。ルカによる福音書と使徒言行録は、一つにつながった物語なのです。新約聖書は『ラオス』の意味を探求し続けますが、その意味を全人類にまで広げ、信仰と救済を語っているのです。

救い主・メシア・主

 さて、本日の聖書の箇所の11節には、『今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』とあります。『今日』とあります。旧約聖書で、預言者たちを通して、神様が予言して来られた救い主の到来というのは、『今日』、成就したというのです。この天使の言葉から分かるのは、メシア、救い主が誕生したその日に、喜びの知らせをもたらしているということです。そして、この日は、メシアによる救いの始まりの日となったのです。どこでそのことが起きたのかと言うと、『ダビデの町』、予言通りだと言うのです。『ダビデの町』というのは、ベツレヘムのことです。ここで、ダビデの町という名称をここであえて使っているのは、主イエスの誕生はダビデ契約の成就だということを示すためなのです。

 ルカが使っている『今日』という言葉ですが、ルカによる福音書では、非常に重要な意味を持っています。ルカは、『今日』という言葉を何回も使っているのです。そして、重要な意味を持っているのです。ルカが、『今日』という言葉を繰り返し使っているのは、『今日』という日が、私たち一人ひとりにとって、重要な決断をする日になるからなのだと言うのです。それでは、ルカは『今日』という言葉をどのように使っているのでしょうか。

 ルカによる福音書4章の21節では、『そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。』とあります。つまり、メシアが来て、福音を述べ伝えるという言葉が、今日成就したと、ナザレの会堂で主イエスはおっしゃられたのです。また、5章26節では、『人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。』とあります。この中風の人の癒やしは、男たちが屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろし、主イエスがその中風の人を癒やしたというエピソードです。人々は、『今日、驚くべきことを見た』と言っているのです。さらに、19章5節のエリコでは、『イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」』とあります。主イエスは、『今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』と、ザアカイに語りかけているのです。さらに、19章9節では、『イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。』と、語られています。22章34節では、『イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」』とあります。また、22章61節では、『主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。』と記されているのです。さらに、23章43節では、十字架上で、2人の罪人のうちの1人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったときに、『するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』とあります。ここでも、『今日』という言葉が使われているのです。主イエス・キリストを信じるか、信じないかの決断する日は、『今日』なのだということを、ルカは私たちに伝えようとしているのです。私たちは『今日』という日を、良い決断をする日としたいと思います。

 さて、天使は御子の誕生に関して、誕生した幼子について3つの称号を使っています。それが、『救い主』、『主』、『メシア』という3つの称号なのです。『救い主』は、ギリシア語で『ソテル』という言葉です。ローマ帝国では、当時、ローマ皇帝を救い主『ソテル』と呼んでいました。『ソテル』という言葉は、ローマ世界では精神的または物理的に安全、健康、繁栄をもたらす行為を示す言葉であったのです。しかし、キリスト者はその称号を、主イエス・キリストに適用したのです。キリスト者が、主イエスのことを救い主『ソテル』と呼べるのは、自分が罪人だと認識があって初めて、この方が救い主となるのです。羊飼いたちにはその認識があったのです。ですから、羊飼いたちは主イエスを救い主『ソテル』として認識し、受け入れることができるようになったのです。まず、自分が神様の前で、罪人であることを認識した人にとっては、主イエスは尊い救い主となるのです。

 2つめの称号が、新共同訳聖書では『メシア』と訳されていますが、ギリシア語で『クリストス』という称号です。これは、ヘブライ語で『油を注がれた者』という意味の『メシア』という言葉のギリシャ語訳の『クリストス』のことなのです。この称号は、キリスト者にとっては非常に重要な意味を持っています。救い主は、イエス・キリストと呼ばれるようになり、イエスというのは、人間として誕生した幼子の名前なのです。メシア、キリストというのは称号です。人間としてお生まれになった方が、実はメシアである。そして、主イエスをキリスト、救い主(メシア)として受け入れ、キリストを第一として生きる人がクリスチャン、キリスト者と呼ばれるようになるのです。クリスチャンというのは、キリストにつく者という意味なのです。この2つめの称号『メシア』、あるいは、ギリシア語の『クリストス』が意味しているのは、私たちは主イエス・キリストを通して、神様と和解するのです。すなわち、キリストにあって救いを得ているということなのです。

 そして、3番目の称号が『主』という称号です。これは、『キュリオス』というギリシア語です。『主』という称号は、旧約聖書で言う『ヤハウェ』のことです。今日の聖書の箇所のこの『主メシア』という言葉を聞いた時に、羊飼いたちはこの称号の意味を十分には理解していなかったと思います。直ちに理解できた訳ではなかったと思います。それは、天使の言葉の前に、マリアも同じであったのです。ですから、イエスが『主(キュリオス)』として、旧約聖書のギリシア語の4文字であらわされる『ヤハウェ』、神ご自身であるということは、主イエスの母のマリアにとっても容易には理解できることではなかったのです。マリアの理解がはっきりするのは、いつのことかと言いますと、主イエスが十字架につけられ、墓に葬られ、復活した後に、マリアの理解がはっきりするのです。それでも、ここでは、イエスは『主』である、つまり『キュリオス』であるということが、はっきりと示されているのです。

 ここに、お生まれになった御子がどのような方であるかがはっきり示されています。私たちの救い主、主イエス・キリストがまさに『今日』お生まれになったことを、福音記者ルカは告げているのです。

布と飼い葉桶

 本日の聖書の箇所の12節には、『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」』と書かれています。ここで、しるしが与えられました。これは、幼子を見つけるためのしるしなのです。しるしであるためには、極めて稀なものでなければなりません。どこにでもあるものでは、しるしとはならないのです。それだけでは、見極められないからです。では、何が極めて稀なものなのかと言いますと、乳飲み子が布にくるまれている。そして、飼い葉桶の中に寝かされている。これは、稀なことなのです。だから、しるしになるのです。しかも、飼い葉桶の中にということになると、それはどこか家畜用の洞窟となります。羊飼いたちは、その周辺にある洞窟をよく知っているのです。それで、それがしるしだから、探しに行くことができるのです。

 これが、天使が伝えたグッドニュースの内容であったのです。羊飼いたちは、主の栄光に包まれて、恐れを覚えたわけですが、恐れるなという天使の言葉を聞き、しるしまで与えられたのです。

天使たちの讃美

 その天使の告げる言葉が終わった時に、今度は複数形で天使たちの讃美が始まります。13〜14節を見ますと、『すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」』とあります。ここで、『大軍』という言葉で訳されていますが、これは『ストラティア』というギリシア語で、『軍隊』を意味する語源『ストラトス』に由来していて、軍事用語なのです。古代ギリシャ語では『行進』や『生き方』を意味し、霊的な戦いにおいて、キリスト者がどう振る舞うべきかを反映している言葉とも言えるのです。

 さて、大勢の天使の軍勢が現れて、神様を讃美し、そして、平和を宣言したのです。讃美というのは、被造物にとっては、自然な行為です。神様だけを崇めるというのは、信仰を持つ者にとっては、自然な行為であると思います。天使たちも、神様によって造られた被造物なのです。ですから、大勢の天使たちが、このことをなさった神様を讃えるというのは、自然なことなのです。大勢の天使たちが、神様を讃美したその内容は何なのかと言いますと、『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』(14節)という言葉なのです。この天使たちの讃歌は、ヘブル的対句法で書かれています。『いと高きところ』と『地』が対句になっています。『いと高きところ』というのは、神様がおられる空間、神様の臨在の場と呼ばれるところなのです。それに対して、『地』というのは、私たち人間が住んでいるところです。そして、次に『栄光』というのと、『平和』というのが対句になっています。神様の臨在の場では、神様に栄光があるように、地の上では人々の間に平和があるように、ということなのです。そして、『神にあれ』というところと、『御心に適う人にあれ』というところが対句になっています。『御心に適う人』というのが誰のことなのかと言いますと、神様に信頼を置く人々のことです。神様を恐れて、神様の御心を実行する人々のことが、『御心に適う人』という言葉の意味なのです。この讃美が、大勢の天使たちが主の栄光に包まれて、そこで歌ったわけです。年末の第九の合唱を何百倍にも、何千倍にもしたような讃美であったと思います。大変なことが起きたということが分かるかと思います。

ベツレヘムへ行こう

 この大変な讃美に接して、羊飼いたちはどうしたのでしょうか?15節には、『天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。』と記されています。羊飼いたちは、天使のみ告げを神様の言葉そのものだと理解したのです。また、ダビデの町を羊飼いたちはベツレヘムだと理解することができたのです。そして、羊飼いたちは、直ちに行動を起こしているのです。これは、エルサレムにいた宗教的指導者たち、律法学者たちとは、対照的な行動であると思います。マタイによる福音書の2章5節を見ると、『彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。』とあります。彼ら、律法学者たちは、ミカ書の予言を引用して、ユダヤのベツレヘムですと、預言者によってこう書かれていますからと、ヘロデ大王に答えているのです。律法学者たちは、聖書の予言を通して、どこで救い主が生まれるかを理解したのにもかかわらず、自分たちは行動を起こしていないのです。これは、羊飼いたちの態度とは対照的なものになっています。羊飼いたちは直ちに行動を起こしたのです。

 それから、本日の聖書の箇所の16〜17節を見ると、『そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。』と記されています。羊飼いたちは、探し当てたのです。探し当てたと書かれているのは、見つけ出す前に、いくつかの洞窟を訪問して、確認して、なお、諦めなかったということなのです。そして、ついにマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたのです。洞窟はたくさんあるのです。なぜ、探し出すことができたのでしょうか。それは、『布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子』という、天使に告げられたしるしを知っていたからなのです。羊飼いたちは、自分たちが体験したこと、天使から告げられたことを、マリアとヨセフだけではない、それ以外の人々にも伝えたのです。羊飼いたちがこのエピソードで演じている役割は何なのかと言いますと、メシア到来のしるしを最初に伝える人となったのです。この羊飼いたちは、主イエスを証言する最初の証人となったのです。最初の証人は、律法学者たちではないのです。学がないと言われ、律法を満足に守れないと言われていた羊飼いたちが主の証人の役割を果たしたのです。彼らの証言を聞いた人々はどのように反応したのでしょうか。

 本日の聖書の箇所の18〜20節を見ると、『聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。』とあります。羊飼いたちの話を聞いた人たちは皆、不思議に思ったのです(18節)。天使が現れ、主の栄光が輝いたという話をしたことと思います。そして、主の栄光に包まれながら、天使たちの讃美を聞いたという話をしたことと思います。救い主として誕生した幼子をみつけるためのしるしまで与えられたという話をしたことと思います。そして、探し出して見ると、天使のみ告げの通りでしたと、羊飼いたちは話したのです。人々は、それを聞いて、驚き、不思議に思ったのです。驚き、不思議に思わないはずがないのです。神様が人間の歴史に介入したという、大変な出来事を名もなき羊飼いたちが証言したのです。マリアの場合は、より深い理解を示しています。マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていたのです。思い巡らすというのは、いくつかの出来事を比較し、その重要性を推し量ることです。マリアは自分自身の体験も含めて、羊飼いたちの話も含めて、いくつかの出来事を比較し、その重要性を推し量っていたのです。このことをマリアは継続して行っていたのです。この描写は、マリアの特徴をよく描いています。マリアは非常に思索に富んだ女性で、心の底に出来事を納め、そして、心の深いところで、思索し、思いを巡らしていたのです。この記述を読んで、理解できるのは、メシアの母となった女性の期待があるのと同時に、不安があるということなのです。この子がどのような子として育つのかという期待があるのと同時に、この子の最期はどうなるのかという不安も、この記述から読むことができるのです。母親が自分の息子に抱く、当然の思いだと思います。

 それから、最後に羊飼いたちがどうしたのかと言いますと、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。羊飼いたちは、いつまでも幼子のそばで滞在して、主イエスを礼拝したとは、書いていないのです。主イエスを礼拝した後、それが終わると、羊飼いたちは、讃美しながら帰って行ったのです。天使たちは、讃美が終わると、天に帰って行ったのです。その天使たちの讃美を、羊飼いたちが引き継いで、神様を讃美し、それから、彼らは羊の群れのところに帰って行ったのです。大切なことは、羊飼いたちは忠実に羊飼いとして働いている時に、天使のみ告げを受けたのです。そして、幼子である主イエスを礼拝した後、羊飼いたちはまた羊飼いの仕事に戻って行ったのです。その彼らの行動から伺われることは、羊の番をすること自体も礼拝だということです。労働は、礼拝の一部であることが、今日の聖書の箇所で描かれていると思うのです。現代に生きる私たちも同じです。今日、幼子である主イエスの誕生を喜び、神様を礼拝していますが、また、明日になると、何かしらの仕事の場に戻って行きます。しかし、そこでも仕事を通して、神様の礼拝が続いているのだということを心に留めたいと思います。

イエスが助けて下さる

 筋金入りのキリスト者であったヨハン・セバスティアン・バッハの楽譜にはいくつかの特徴がありました。楽譜の最初のページの頭に、JJというアルファベットの頭文字が、そして最後のページにはSDGというアルファベットの文字が書き込まれていたのです。JJというのは、ラテン語でイエス・ユバー(“Jesu Juva”)、訳すと『イエスよ、我を救いたまえ』という信仰の祈りなのです。そして、SDGとは、ラテン語で、ソリ・デオ・グロリア(“Soli Deo Gloria”)で、『神のみに栄光あれ』という讃美の祈りなのです。バッハは『音楽の父』と呼ばれ、誰もが認める音楽の天才ですが、神様に喜ばれるような作品は、主イエスの助けなしには作ることができないと考えていました。それで、バッハの作曲活動は、自分の力に頼って、自分の力で切り拓いていくような仕事の仕方はしなかったのです。主イエス・キリストと自分の共同作業による活動だと考えていたのです。バッハは作曲中に、しばしば筆を止め、キリストに語りかけ、キリストと会話しながら、キリストと共に楽しんで、喜んで、主と交わりながら、仕事に取り組んでいたのです。そして、この主イエス・キリストの助けで作り上げた作品を発表するとき、そこには感謝が伴っていたのです。『私の作品は、主イエスと私という、私たちの作品です。主イエスが私を助けてくださったのです。どうぞ神様、この音楽の捧げ物を受け取ってください』という祈りがあったのです。

片隅に追いやられた人々と共に

 ルカが伝える降誕物語の意味は何なのでしょうか?本日の聖書の中で、主イエスの誕生というグッドニュースは、まず、当時、ユダヤの社会の中で、律法に無知で、儀式的に汚れていて、盗人と考えられていた羊飼いたちに最初に届けられたのです。そして、天使は羊飼いたちに、旧約聖書で、預言者たちを通して、神様が予言して来られた『救い主』、『主』、『メシア』という3つの称号を持つ救い主の到来というのは、『今日』、成就したと告げたのです。羊飼いたちは、『今日』、重大な決断を迫られるみ告げを受けたのです。そして、天使から幼子をみつけるためのしるしが与えられたのです。そして、羊飼いたちは、直ちに行動を起こし、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て、主イエスを証言する最初の証人となったのです。

 主イエスの誕生物語は、あらゆる時代の片隅に追いやられた人々に希望を与えてきたのです。なぜかと言いますと、主イエスはこの世で生き辛いと感じている人たちのために、居場所のない生活を送って下さり、十字架の上で、身代わりの死を遂げ、墓に葬られ、3日目に蘇り、私の主であることを証明して下さったからなのです。その主イエスを救い主として受け入れますと告白することによって、私たちは新しくされたことを経験し、新しい希望に生きることができるようになるのです。この世に居場所がたとえなくても、神の国において、神様と共に生きる居場所が与えられるようになるのです。私たちは、主イエスが貧しい者たち、弱い者たちとの連帯を示して下さったことに感謝して、このクリスマスに、『今日』、主イエスを救い主として信じますと告白したいと思います。

 それでは、お祈り致します