小倉日明教会

『不正な管理人のたとえ』

ルカによる福音書 16章 1〜13節

2024年3月17日 受難節第5主日礼拝

ルカによる福音書 16章 1〜13節

『不正な管理人のたとえ』

【奨励】 川辺 正直 役員

世界一短い手紙のやりとり

 おはようございます。フランスのロマン主義の文豪ヴィクトル・ユーゴーの代表作に『レ・ミゼラブル』という作品があります。2012年にヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウ、アン・ハサウェイらが出演したミュージカル映画にもなって、大ヒットしています。

 『レ・ミゼラブル』のストーリーがどういうものかと言いますと、パンを盗んだ罪で19年間服役したジャン・バルジャンは、仮出獄後に生活に行き詰まった彼は、教会に忍び込み、老司教の銀食器を盗みます。ところが、その罪を見逃して、赦してくれた司教の心に触れて、ジャン・バルジャンは改心することを誓うのです。過去を捨てた彼は、仕事に打ち込み、8年後には市長にまで上りつめます。彼は、不思議な運命によって、以前自分の工場で働いていて、娘を養うために極貧生活を送るファンテーヌと知り合います。バルジャンはファンテーヌの愛娘コゼットの面倒を見ると約束しますが、執念深いジャベール警部に追われることになります。ジャベールの執拗な追跡をかわしてパリに逃亡したバルジャンは、コゼットに限りない愛を注ぎ、美しい娘に育てあげます。しかし、時代は風雲急を告げ、パリの下町で革命をめざす学生たちが蜂起し、誰もが激動の波に呑みこまれてゆく、これが『レ・ミゼラブル』のストーリーです。

 小説『レ・ミゼラブル』は、1862年に出版されると、ユーゴーは休息のために海外旅行をしたのです。ところが、どうしても『レ・ミゼラブル』の売れ行きが気になって旅行先から出版社に手紙を送ったのです。

 それが、便箋に手紙にたった一文字、「?(はてなマーク)」のみだったのです。

 どうやら「本の売れ行きはどうだい?」という意味をその一文字に凝縮したということなのです。

 すると、今度は出版社からも返事も一文字、「!(びっくりマーク)」のみだったのです。

 「売れ行き順調です」という内容をその一文字に凝縮したのです。実際、小説『レ・ミゼラブル』は発売数日で売り切れとなり、ヴィクトル・ユーゴーに莫大な収入をもたらしたのです。

 事情をよく知る当事者同士は、このような短い一文字だけのやり取りでも、互いに想いを伝えることができますが、この一文字の背景を知らなければ、なんのことかさっぱり分からない、難解な文字のやり取りに見えるかと思います。

 さて、本日の聖書の箇所はルカによる福音書16章1~13節の『不正な管理人のたとえ』を取り上げています。この箇所は、最も難解なたとえ話の一つと言われている箇所です。それはどうしてかと言いますと、主イエスが悪いことをすることを褒めているように読めてしまうからです。しかし、私たちは、ルカによる福音書を連続して読んで来る中で、今日の聖書の箇所にさしかかっているわけですから、ルカによる福音書の文脈の中で、この箇所を読んでいきたいと思います。

私たち自身について語られている

 前回及び前々回にお話しました15章の3つの例え話は、ファリサイ派の人々と律法学者たちに語られた例え話でした。しかし、今日の16章の『不正な管理人のたとえ』は、冒頭の1節に、「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」とありますように、弟子たちに向かって語られたたとえ話です。従って、このたとえ話は、キリスト者である現在の私たちに語っておられると考えてもよいのです。このたとえ話は、弟子を訓練するためのたとえ話なのです。そして、弟子たちの周囲には、ファリサイ派の人々や律法学者たちがいて、話を聞いているのです。

 繰り返しになりますが、『不正な管理人のたとえ』は、最も難解なたとえ話の一つです。なぜ、難しいのかと言いますと、主イエスが不正をすることを奨励しているように読めてしまうからです。このたとえ話を読むためのポイントが何になるのかと言いますと、『不正にまみれた富』という言葉の読み方にあります。『不正にまみれた富』というのが何なのかということが、この聖書の箇所を解釈する上での鍵となるのです。そして、このたとえ話は、不正な行為を用いて、良いことを教えているのです。

 たとえ話を理解する上で大切なのは、その話は誰が聴衆なのか、誰に向かって語られているか、ということを判断することが重要です。それから、もう一つ大切なことは、たとえ話の結論のところを見て、その結論に向かって話が進んでいるわけですが、それ以外のことはどうなのかと言いますと、その結論に導くための、いわば舞台設定なのです。従って、一つ一つの細かなことに気を取られないようにすることが必要です。今日の聖書の箇所でも、主イエスは弟子たちにある結論を教えようとして、このたとえ話を語っておられるのです。そして、その周りでファリサイ派の人々や律法学者たちがいて、話を聞いている訳ですが、彼らはこのたとえ話を聞き終わった後で、この主イエスの教えをあざ笑うのです。このことは、次回、この箇所の続きをお話する際に、取り上げたいと考えています。

不正な管理人が直面した状況

 本日の聖書の箇所の1節b〜2節を見ますと、『ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』』と記されています。ある金持ちが一人の管理人を雇っていました。管理人というのは、当時、金持ちの不在地主に代わって、相当の合法的な権威を持って財産管理を執行する者のことを言いました。不在地主ですので、自分が所有している土地から、どれだけ収益が上がっているか、よくわからないのです。それで、管理人に、自分の土地の運用を委ねているのです。

 主イエスの時代、金持ちは土地をたくさん持っておりましたので、自分で耕作するよりは、誰かに貸して、収穫したものの内の一部を、ある割合で受け取った方が賢いと考えられていたのです。土地を活用する時に、ブドウにするのか、オリーブにするのか、小麦にするのか、イチジクにするのか、あるいは、羊飼いに貸すのか、様々な選択肢があったのです。ですから、一々、土地の運用の細々したことに関わっておられないので、資産運用のために管理人を雇うということをしていたのです。

 管理人は、奴隷の場合もありましたし、自由人の場合もありました。奴隷と聞きますと、私たちは悲惨な境遇の中にいることを想像してしまいますが、この時代の奴隷というのは、ローマ世界でも、ユダヤ人の社会でもそうであったのですが、非常に知的な活動をする僕たちという人々がいたのです。従って、この聖書の箇所では、奴隷というよりは、おそらく自由人であったと思います。

 管理人となる人がこれを忘れたら、資格失格となるとも言える、管理人の心得というのは何なのかということを考えてみたいと思います。管理人が管理を任されている資産は、全て主人のものです。従って、管理人はその運用を任されているだけなのです。しかし、人というのは、大きな財産を動かしていると、全てが自分のもののような気になってくるのです。自分のものでないものを、自分のもののように思うところから、犯罪が起きてくるのです。従って、管理人だからといって、100%信用することができないというのが、主イエスの時代から全く変わらない人間の世界なのだと言うことができるかと思います。そして、今日の聖書の箇所の管理人も不正をして、主人の財産を無駄遣いしていたのです。具体的にどのような不正を行ったかは分かりませんが、主人の財産を横領していたのではないかと思います。

 前回、お話しした放蕩息子のたとえの弟の息子について、『遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。』(15章13節b)と書かれていたことと、この管理人は似たような状況になっていることが分かります。そして、この管理人の不正を、主人の耳に入れる者が出たのです。今風に言えば、内部告発者が出た、ということなのです。そして、この主人は、この管理人のことを不正直と言うよりは、無責任だと思っているのです。ですから、解雇する前に、『会計の報告を出しなさい。』と命じているのです。ですから、会計の報告を整理する時間が与えられたから、このたとえ話が成立するのです。直ぐに解雇されたら、このたとえ話は成り立たないのです。

 管理人には会計報告を提出するまでの時間的な猶予が与えられました。つまり、解雇されるまで、少し時間の余裕があったのです。会計報告を提出する日、自分の不正が明らかになる日、そして、自分が解雇される日は、もうすぐそこまで近づいている。しかし、まだ少しだけ時間が残されている。管理人はそのような状況に置かれたのです。決定的な日が確実に近づいている中で、残された時間をどう過ごすかという状況に直面し、この管理人の頭の中は、猛烈に回っていたのです。

管理人は何をしたのか

 それでは、管理人の頭の中はどうなっていたのでしょうか。本日の聖書の箇所の3節を見てみますと、『管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。』とあります。この管理人は、まず急速回転させた頭の中で、『土を掘る』というのと、『物乞いをする』という、2つの労働の可能性を考えたのです。『土を掘る』というのは、当時は奴隷の仕事、あるいはそれ以外に能力がない人がやる仕事とされていて、かなり過酷な労働であったのです。それから、『物乞いをする』というのは、不名誉な仕事とされていたのです。

 私たちであれば、どのように考えるでしょうか。私たちは、管理人は不正をして解雇されるのだから、肉体労働はできないなどと言える立場ではないし、場合によっては、甘んじて物乞いをしてでも、生きるべきではないか、と考えるのではないかと思います。しかし、この管理人は、良く言えば諦めませんでした。決定的な日が近づく中で、頭をフル回転させて知恵を絞って、何とかして肉体労働も、物乞いもしなくて良い方法を探したのです。

 4節〜7節を見ますと、『そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』』とあります。

 この管理人は、管理の仕事を解雇されても、自分を家に迎えてくれるような人たちを作れば良い、という考えに至ったのです。そのために、彼は、主人に借りのある者を1人1人呼びました。『借りのある者』というのは、おそらく小作農のことかと思います。つまり、主人から土地を借りて、そこで農業を行い、収穫があると、その中からある歩合を払うことになっていたと思います。あるいは、最初からこの畑からは、これ位の収穫量があるから、これだけ納めなさいという契約書を作っていたと思います。しかし、この人は歩合を払うことになっているけれども、収穫期までは、支払うものをまだ手に入れていないので、まだ支払う必要はないのです。従って、契約はしました、今、畑では作物は育っています。でも、まだ支払わなけても良いという状況であったのです。そこで、この管理人は、この『借りのある者』たちの負債を減らしてやったら、彼らは喜んで、将来、自分を雇ってくれるのではないかと考えたのです。

 管理人が最初の人に、主人にいくら借金があるのか尋ねると、その人は「油百バトス」と答えました。すると管理人は借金の証文を渡して、五十バトスに書き直させました。証文を書き変えて借金を半分にしたのです。別の人に同じように尋ねると、その人は「小麦百コロス」と答えました。すると管理人は同じように借金の証文を渡して、八十コロスに書き直させました。この人の場合は借金を二割減らしたのです。「バトス」という単位は、ヘブライ語で「バテ」とも言いますが、液体を計量するときの単位です。「バテ」というのは、ヘブライ語で、もともと娘という意味で、バテシェバのあのバテです。1人の若い女性が運べる量のことを、1バトスと言い、それは約23リットルのことです。従って、油百バトスとは約2,300リットルとなります。この油は、オリーブオイルのことです。100バトスのオリーブオイルを採ろうと考えたら、オリーブの木が150本分必要となるのです。オリーブの木が150本分から採れる100バトスの油は当時の価格で言うと、大体1,000デナリだと言うのです。労働者1日分の給料が1デナリですから、今の日本で例えると、分かりやすく言えば、1デナリが1万円とすると、いくらになるかと言いますと、1,000万円になるのです。100バトスを50バトスにしてもらったのですから、今の日本で言えば、500万円を免除してもらったことになるのです。

 また、「コロス」という単位は約230リットルになりますから、小麦百コロスとは約23,000リットルということになり、こちらもすごい量になることが分かります。100コロスというと、大体当時の収穫量で言うと、100エーカーの土地からの収穫量に相当するそうです。貨幣価値で言うと、2,500デナリになります。2,500日分の労働者の給料になるのです。従って、今の日本の貨幣価値に、同じように換算すると2,500万円になります。この人は、小麦100コロスを80コロスに書き直したのです。従って、この人は、2,500万円を2,000万円にしてもらったことになるのです。即ち、この人も500万円、免除してもらったことになるのです。すなわち、油の人も、小麦の人も、同じ額だけ免除してもらったことになるのです。免除される割合は異なりますが、ほぼ同じ額だけ免除されているのです。

 このように見てゆきますと、借金していた人たちと主人との関係というのは、個人的な貸し借りの関係ではなく、大規模なビジネスにおける関係であったと想像できます。この人たちはビジネスにおける大きな借金、負債を抱えていたのです。つまり、この人たちは貧乏な小作農などではなく、かなりのお金持ちであったのです。従って、この管理人は、お金持ちを助けてあげたら、やがて自分が雇ってもらえるチャンスが出てくるだろうと、この管理人は考えたのです。

 そのことは、一方で、この管理人が大規模ビジネスの大きな借金の証文を自由に扱える大きな権限を主人から与えられていた、ということでもあるのです。それほど主人から信頼されていたにもかかわらず、管理人はその信頼を裏切って不正をしていたのです。借り手にとっては負債が二割ないし半分減れば、負担が大きく減ることになりますが、貸し手である主人にとっては、逆に大きな損害を被ることになるのです。とにかく、『借りのある者』たちの借金の書き換えの金額を見ると、とてもよく計算されていて、悪知恵の働く人の頭は、本当にくるくるとよく回ることが分かります。しかも、この管理人は借金の証文の書き換えを自分でやっていないのです。自分が手を染めるのではなく、『借りのある者』たちに修正させているのです。従って、この管理人だけが罪を犯しているだけではなくて、『借りのある者』たちに罪を犯させているのです。つまり、共犯者にしているのです。この管理人は、罪を問われた時に、教唆しただけで、やったのは彼らですよと言い逃れる道も残しているのです。もう一つは、油が50バトスも消えたら、不在地主の主人であっても、直ぐに分かると思います。ところが、書類上の文字の書き換えというのは、発覚する可能性が低いのです。主人はお金持ちで、沢山の書類があれば、1枚、2枚の書類のことは、見落としてしまうかもしれないのです。

 さらに、当時は、このような契約をしていても、干ばつが来ると、主人は、今年は収穫がなかったね、僅かばかりのものは私はいらないから、全部お前ものにしなさいと言って、負債を免除したり、減額したりすることがあったのです。なぜ、そのようにするのかと言いますと、当時は、干ばつの時に、負債を減額して、名声を得る人が結構いたのです。その一方で、干ばつの時に、負債を減額しなかったことから、あの人は金持ちのくせに、とんでもなくがめつい奴だと陰口を叩かれて、面目を失う人もいたのです。この管理人は、そのような逃れの道も計算していたのです。ですから、この管理人は本当に悪知恵が働く人であったことが分かります。

 こういう話は、古代世界では、奴隷などの社会的に低いところにいた人たちは大好きであったのです。というのは、奴隷が主人を出し抜くという話が沢山伝えられていて、こういう話に拍手喝采して、溜飲を下げていたのです。従って、主イエスのこのたとえ話も、民衆の間に広く伝わっていた話と共通の要素を含んだ話で、一般も民衆はこのたとえ話と似たような話を沢山知っていたのです。

時を見極める賢さ

 ところで、主イエスの語るたとえ話の主人は、この管理人のことをどのように評価したのでしょうか。8節を見ますと、『主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。』とあります。この主人は、管理人を褒めているのです。ここで、気をつけなくてはいけないのは、この主人は不正を褒めたのではないということです。主イエスが語っているのは、悪いことを用いた、良い教えなのです。8節の主イエスの言葉は、AとBを対比させているのです。Aというのは、未信者のことで、この世の子らと言っているのです。信者が光の子らで、未信者と信者が対比されているのです。そして、主人はこの世の子らの代表であるような管理人の抜け目のないやり方を褒めているのです。この管理人は、物質を用いて、自分の将来の備えをしたのです。主イエスはこの点を褒めているのです。不正をしたことを、褒めたのではないのです。これが主人の評価なのです。

 つまり、主イエスを信じていない世の人たちは、自分の時代の者たちに対して賢くふるまっている、と言われているのです。自分の時代に対して賢くふるまえるのは、自分の時代がどんな時代かを見極めているから、判断できているからです。この管理人は、まさに自分が置かれている状況、自分が置かれている時を見極めていました。解雇される決定的な日が確実に近づいている、しかし、まだ時間が残されていることを見極めていたのです。そして残された時間の中で、頭をフル回転させ、自分がなにをなすべきかを考え、判断したのです。その動機は、決して褒められたものではなく、その方法も、不正なやり方であったことに間違いありません。しかし主、イエスがお褒めになり肯定されたのは、その動機でも方法でもなく、自分が置かれている時を見極め、自分がなにをなすべきかを必死に考え、判断したことであったのです。

 この主イエスの言葉は、弟子たちに大変なショックを与えたと思います。ついさっきまで、主イエスはたとえ話を通して、ファリサイ派の人々や律法学者たちに厳しい眼差しを向けておられたのです。それが、今や自分たちに向けられている。しかも、「あなたがたは賢くない、時代が見極められていない、判断できていない」と言われたのです。この厳しい眼差しは、私たちにも向けられています。主イエスは私たちにも、「あなたがたは賢くない、時代が見極められていない、判断できていない」と言われているのです。それは、私たちキリスト者が、この時代の世界の問題に関心を持っていない、今がどのような時代かを考えていない、ということではありません。もちろん私たちが今の時代の問題に向き合っていくのは大切なことです。しかしそのことによって、私たちは本当に時代を見極められるわけではありません。私たちが見極めるべき時代とは、主イエスを信じていない世の人たちが見極めている時代とは、本質的に異なるからです。私たちが見極めることが求められているのは、今という時が、世の終わりの裁きが間近に迫っている時であるということ、それゆえに救いの完成が間近に迫っている時である、ということです。今という時が、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの実現と、キリストの再臨による救いの完成の間の時であることを見極めて生きることが、賢く生きることだと、主イエスはおっしゃられているのです。

 主人が管理人に大きなビジネスを左右できるほどの権限を与え、自分の財産を預けていたように、神様は私たち人間に、まことに大きな権限を与え、多くのものを預けてくださっています。創世記1章で、神様は『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』とおっしゃられました。それは、人間がほかの被造物を好き勝手にして良いということではなく、神様の御心に沿って被造物を管理する務めを、そして、そのための力を人間に与えてくださったということです。ですからそこには大きな責任が伴うのです。しかし、私たちはこの管理人と同じように、そして、前回の放蕩息子と同じように、全ては神様のものであることを忘れて、適切に管理するという責任を放棄して、神様から預けられたものを無駄遣いしてしまっているのです。

不正にまみれた富

 世の終わりを見つめ、今という時を賢く生きるとは、具体的にはどのように生きることなのでしょうか。9節を見ますと、『そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。』とあります。主イエスは地上の富を、魂を勝ち取るために使うべきだと言っているのです。『富』と訳された言葉は、ギリシャ語ではマモンという言葉です。しかし、単に『富』と言われているのではなく、『不正にまみれた富』と言われています。ここで言われている『不正にまみれた富』というのは、あらゆるこの世の富のことなのです。『不正にまみれた富』というのは、ユダヤ教のラビがよく用いた言葉であったのです。当時のラビたちが、地上の富を不正の富と呼んでいたのです。そう考えると、このたとえ話で、私たちが引っ掛かっていた疑問が少し解けて行くかと思います。しかし、その次が、また意味不明です。『金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。』、これはどういう意味なのでしょうか。『金がなくなったとき、』というのは、この世の富が去っていった時のことであり、それは、私たちが死んだときのことだと言うのです。そして、『あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。』というのは、私たちよりも先に死んだ人たちが、永遠の御国にいて、私たちが死んでそこに行ったときに、待っていて迎えてくれるというのです。これは、『不正にまみれた富』を上手に使うことで、御国に入れるという意味ではないのです。私たちが地上の富を用いて、伝道に励んだ結果、救いを得るようになった人たちが、御国の門のところで、私たちを待っていてくれると言うのです。主イエスは弟子たちに、『不正にまみれた富』、地上の富をどう用いるか、それは、今与えられている富を用いて、将来の祝福のために準備しているのだよとおっしゃったのです。キリスト者というのは、主イエス・キリストに従う者なのです。主イエス・キリストに従う者というのは、主イエスの教えを身にまとい、主イエスの価値観、世界観を自分のものにしている人のことだと思います。

 次に、本日の聖書の箇所の10節〜12節には、『ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。』とあります。普通、私たちが生きている一般社会では、小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実であるという言い方をするときに、それは小さな仕事を一生懸命やったら、大きな仕事は回って来るよという意味で使うかと思います。しかし、主イエスがここで言っているのは、そういう意味ではないのです。『小さな事』というのは、地上の富のことです。地上の富というのは、別の言い方をすれば、『不正にまみれた富』のことです。そして、それは他人のものなのです。誰のものかと言いますと、全ては神様のものなのです。それを、私たちは任されているのです。ですから、小さな事に忠実だという意味は、私たちが地上生涯で所有することを許されている地上の富に対して忠実であるということです。そういう人は、大きな事にも忠実だと言うのです。ここでの大きな事というのは、何かと言いますと、永遠に価値あるもののことなのです。それは、霊的な財産と呼ぶことができるかと思いますが、それは『不正にまみれた富』ではなくて、真の富だと言うことができると思います。そして、それは自分が所有できる真の富、永遠の命なのです。地上の富は、私たちのものではありません。私たちは、本日の聖書の箇所の管理人のように、主人、即ち、神様のものを預かっているだけなのです。しかし、永遠の命は、自分のものとして所有できるようになると言うのです。だから、『ごく小さな事に忠実な者』、つまり、『不正にまみれた富』に忠実な人は、大きな事が委ねられる、つまり、霊的なことにも忠実であり、それを委ねて頂けるようになる、ということですこれが、キリスト者の姿なのです。

 そして、本日の聖書の箇所の13節には、『どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。』と記されています。『二人の主人に仕えることはできない』と言うのです。神様に仕えるか、富に仕えるかのどちらかだと言うのです。キリスト者は、誰に仕えるかをはっきりと決める必要があるのだよと、主イエスはおっしゃられたのです。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、富に関して、大きな誤解をしていました。どのように誤解していたのかと言いますと、彼らは、神様は愛する人を富ませる、お金持ちにされると、教えていたのです。逆に言えば、富を持っているというのは、神様に祝福されていることの証拠だと考えていたのです。私たちは、このように聞くと、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、間違っていると思いますが、その一方で、私たちの中にも、彼らが持っていたような誤解があるのではないでしょうか。信仰があれば、健康が、富が、成功がついてくると、どこかで思っているところがあるのではないでしょうか。信仰があれば、私たちは自分がなりたいと思うものになれると、心のどこかで思っているのではないでしょうか。私たちは、気をつけないと、信仰によって、どれくらい成功しているということを、隣人と分かち合おうとすることになってしまっているのではないかと思います。しかし、このような信仰には、罪や、罪に対する悔い改めや、罪の赦しや、主イエスの無条件の愛が欠落しているのです。成功や、富は、神様に愛されている印ではないのです。神様は愛する者を訓練するというのが、新約聖書が教える教会時代の信仰の原則なのです。従って、主イエスに従って、信仰に生きようとする者は、迫害に合うということも教会時代の原則なのです。そのことは、旧約聖書の時代とは、異なった原則の中にいるのです。それは、富そのものが悪である、ということではありません。お金や財産を持つべきではないとか、能力や地位など役に立たないということでもないのです。

 管理人が主人から財産を預けられていたように、私たちも神様からお金や財産、能力や地位を預けられています。これらは本来私たちのものではなく、全て神様が私たちに与えてくださったものであり、本来は、悪いものではなく、良いものなのです。ところが、私たち人間は、神様がこれらの富を与えてくださったことを忘れ、自分のものであると勘違いすることによって、私たちは本来良いものである富を、「不正にまみれた富」としてしまっているのです。別の言い方をすれば私たちの罪によって、富は不正にまみれたものとなっているのです。

 それが今という時の現実だと、主イエスはおっしゃられているのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって救いは実現し、罪の力に対して勝利しました。しかし、救いの完成に至るまでの間は、つまり私たちが生きている今という時は、なお罪の力が残っているのです。私たちが清く正しく生きれば、不正にまみれた富がクリーンな富になるということではありません。私たちが自分の力で罪の力をなんとかできるわけではないからです。救いの実現と完成の間においては、神様から与えられた本来良いものである富が、なお私たちの罪の力によって「不正にまみれた富」となっているのです。

 私たちにとって決定的な時、世の終わりの裁きの時、救いの完成の時は近づいているのです。しかし、まだ時間は残されています。キリストの十字架と復活による救いの実現と、キリストの再臨による救いの完成の間の時を生きるとは、「世の終わりは近づいているけれど、まだ時間が残されている」ことを見極めて生きることです。残されている時間がある間に、救いの完成までの間に何をなすべきかを、私たちはこの管理人のように、頭をフル回転させて考えてゆくことを問われているのです。それこそが、主イエスが、本日の聖書の箇所で、弟子たちに、そして、私たちに求めておられる賢さなのです。   私たちキリスト者は賢くあらねばなりません。今という時を見極めなくてはなりません。そして今なすべきことを判断しなくてはなりません。救いの完成は近づいています。それまでの間、私たちは神様が預けてくださっているものを忠実に管理し、神様のために、そして、神様が愛される隣人のために用いていくのです。神様は私たち一人ひとりに、まことに大きなものを預けてくださっています。主イエス・キリストの十字架に示された神様の愛に生かされている私たちは、感謝と喜びと責任をもって、神様から預けられているものを、神様と隣人のために用いて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。