小倉日明教会

『主の復活の証人』

使徒言行録 1章 12〜26節

2024年5月19日ペンテコステ・聖霊降臨節第1主日礼拝

使徒言行録 1章 12〜26節

『主の復活の証人』

【奨励】 川辺 正直 役員

光通信の父、西澤潤一教授

 おはようございます。昔、東北大学に天才的な教授がおられました。PINダイオード、静電誘導型トランジスタ、半導体材料の完全結晶育成法、高輝度発光ダイオード(赤・黄・緑)などを発明された西澤潤一教授です。西澤教授は光ファイバーの原理も発見された方です。ガラスの中を走る光に、情報を載せて伝えることができる光ファイバーを、西澤教授は昭和30年代に発見し、それを日本の特許庁に申請したのです。ところが、西澤教授のあまりにも先進的なアイデアを、特許庁の審査官が理解することができず、何と却下してしまうのです。そこで、西澤先生は審査官にもわかるように書式を変え、表現を書き改めて、再申請します。しかし、ちんぷんかんぷんの審査官は、またしても却下するのです。さらに書類を改良して、また提出するのですが、またまた却下されます。このようなやり取りを約20回も繰り返しますが、すべて却下されてしまうのです。結局、光ファイバーの特許はアメリカに奪われ、また、西澤教授からアイデアを借りて実用化に成功したチャールズ・カオという中国人学者に、ノーベル賞は授与されたのです。こうして西澤教授は光通信の基礎技術から本来得られたはずのものをすべて失うことになってしまったのです。

 ところで、西澤教授の発明は、どうして却下されてしまったのでしょうか。それは、特許庁の審査官が、西澤教授のアイデアを、全く理解できなかったからです。人間は自分の能力に収まる範囲のことについては、理解し、判断できますが、自分の能力をはるかに超えるものに対しては、正しい判断ができないのです。平凡な頭の審査官によって、西澤教授の発想は天才のそれではなく、妄想にしか見えなかったのです。西澤教授を、頭がいかれた、変な学者と考えてしまったということが、正しく評価できなかった原因であったのです。

 聖書が伝える主イエス・キリストは、今日、多くの人にとって、永遠の謎になっていると思います。その最大の理由は、主イエスをただの1人の人間と見なすからです。単なるただの1人の人間であると考えるので、死んだ主イエスが復活ってどういうこと、復活した主イエスが天に上げられるってどういうこと、とわからないことだらけになるのです。では、現代人の常識では容易に理解することのできない、聖書が伝えている主イエスの十字架での死と復活、昇天、さらに、聖霊の降臨と、それに続く教会の誕生を、私たちがどうして信じることができるのかと言いますと、それは、使徒たちの命を懸けた証言があるからだと思います。今日は、使徒たちに聖霊が降ったことを記念するペンテコステの礼拝です。聖霊が降った箇所は、来週の礼拝で、沖村先生がお話になりますので、本日は、ペンテコステの記事の前の箇所を、みなさんと共に読んでゆきたいと思います。

祈って約束を待つ

 さて、本日の聖書の箇所の使徒言行録1章12節を見ますと、『使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。』と記されています。ここで私たちは、使徒たちが、安息日にも歩くことが許されるほどの距離を歩いて、エルサレムに戻ったのですが、ここで注目すべきなのは、彼らがエルサレムに留まろうとしていることです。この時の使徒たちの葛藤を想像すると、このことは当たり前のことではありません。エルサレムというのは、主イエスを十字架につけた町です。弟子たちにとっても、非常に危険な町であったのです。しかし、彼らはそこに戻って行ったのです。この選択の中に、私たちは使徒たちの信仰の成長を見ることができると思います。彼らは非常に困難な状況が襲ってくるであろう、町に戻って行ったのです。その理由は、主イエスがエルサレムに留まり、父の約束を待てと言われたから、彼らはその主イエスの言葉に従ったのです。今は、待つしかないのです。そして、その期間は、10日間なのです。10日間待っているわけですが、10日間、彼らはどうしていたのかと言いますと、彼らは祈っていたのです。これが、13〜15節の一致した祈りなのです。13節を見ますと、彼らが集まった場所は、家の上の部屋であると書かれています。この2階の部屋は、主イエスが弟子たちと最後の晩餐を共にした場所なのです。伝承では、マルコによる福音書を書いたマルコのお母さんの家であったとされています。実は、この2階の部屋は、復活の主イエスが2回、姿を現しています。ヨハネによる福音書20章19節、ここはトマスがいないときに姿を現しています。それから、ヨハネによる福音書20章26節、ここはトマスもいる時に、姿を現しています。ですから、弟子たちにとっては、最後の晩餐を食した部屋、つまり、過ぎ越しの食事をした部屋、復活の主イエスが2回現れて下さった部屋、そして、この部屋は主イエスの復活と昇天後の弟子たちの活動の拠点となっていたのです。弟子たちには、何もないのですから、取り敢えず利用できる場所を拠点として活用していたということと思います。

 誰が、その部屋にいたのかと言いますと、13節を見ますと、最初に登場するのが十二使徒の名前がリストアップされています。使徒言行録を書いているのは、ルカですので、ルカによる福音書6章14〜16節に、使徒たちのリストがありますが、それと全く同じです。但し、1箇所だけ違うところがあるのです。イスカリオテのユダの名前が欠落しているのです。イスカリオテのユダは、主イエスを裏切り、自殺してしまったからです。したがって、今、ここには、11人しかいないのです。さらに、どのような人たちがいたのかと言いますと、14節〜15節を見ますと、120名ほどの兄弟たちがいた、信者たちがいたことが分かります。私たちが、現在、礼拝しているこの礼拝堂は、一杯につめたら何人ぐらいの人が入るでしょうか?30人ぐらいから、50人位でしょうか?それでは、本日の聖書の箇所の家の上の部屋というのは、この礼拝堂の2〜3倍位の大きさかというと、紀元1世紀のエルサレムの家の上の部屋というのは、そんなには広くないのです。従って、120人が入っているというのは、せいぜいこれくらいの大きさの部屋に、肩と肩を寄せ合うようにして、集まっていたということかと思います。それくらいに、集まった信者たちには緊急性があり、熱気があったということだと思います。聖霊が降る前夜、エルサレムの家の上の部屋に、120名ほどの信者たちが集まっていて、この人たちがいわゆる教会をスタートさせる最初のコアになるメンバーであったのです。そして、今、過越しの祭りが終わって、これから五旬節の祭りが始まる約10日前にまで来ているのです。従って、この場面でエルサレムにいた信者の多くは、巡礼祭に来ている人たち、ユダ地方あるいはエルサレム近辺に住んでいた人たちであったと思います。

ペトロは兄弟たちの中に立って

 そのコアとなるメンバーが120名、家の上の部屋で、すし詰めになって祈っていたのですが、ペトロはその中に立ってこう言ったのです。120名くらいの人が集まっていて、1人の人が立ち上がって、何かを言うということは、その人はリーダーであるということです。この15節が、とても大事だという理由があるのですが、それが何かと言うと、ペトロは既にここから120名ほどの信者の群れのリーダーとして、行動を開始しているということなのです。主イエスの昇天から、聖霊が降るまでは10日間あったのです。そして、その10日間、彼らは熱心に祈っていたのです。その中で、ペトロが立ち上がって、語り始める、このことがなぜ重要なのかと言いますと、使徒言行録の前半である1章〜15章までは、ペテロを中心に物語が展開して行くのです。後半は、パウロを中心に物語が展開して行きます。そして、この15節で、使徒言行録の前半の主役が誰かということが、ここで明らかになっているのです。また、聖書には12使徒のリストが出てきますが、全てペトロが最初に出てきます。主イエスの12人の弟子たちの中で、1番主イエスに近い内弟子のような人が3名いましたが、ペトロ、ヤコブそしてヨハネで、ペトロは主イエスに最も近い3名の弟子の中にも、ペトロは入っていたのです。

 ところが、ペトロの生涯の中には、とても大きな汚点があったのです。それは、主イエスを知らないと、3回も言ってしまったということなのです。このことは、4つの福音書の全てに記録されているのです。従って、福音記者たちは初代教会のリーダーになったペトロに関する記録を書き記す時に、忖度をしなかったということなのです。従って、新約聖書が伝えていることが信頼できる理由が何かと言いますと、出来事を事実のままに書き記して、神様に影響を帰しているということなのです。ペトロは11使徒の中で、最初に復活の主イエスを目撃しているのです。そのことが、ルカによる福音書24章33〜34節に記されています。大きな経歴上の汚点にもかかわらず、ペトロがリーダーとなって行くということが、このころから予表されているのです。ヨハネによる福音書21章15〜17節には、『食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。』と記されています。この聖書の記載によれば、主イエスは3度に渡って、ペトロを教会の羊飼いに任命しているのです。そして、マタイによる福音書16章19節を見ますと、『わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』とあります。主イエスは、ペトロに天の国の鍵を授けられているのです。ここで使われている鍵という言葉は、複数形です。これは、12使徒の中で、特別な権威がペトロに与えられているということです。ペトロは天の国の鍵を用いて、人々の救いの道を開いたのです。

 さらに、ユダヤ的に言えば、ペトロはラビの中のリーダー、いわばラビ長としての奉仕をしているのです。ですから、このマタイによる福音書の記述で、『あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』とあるこの約束は何かと言いますと、律法に関わることで、つまり新約時代の信徒が従うべき律法に関することについて、ペトロが判断を下したということですので、これはペトロが裁判所の役割を果たしたということです。さらに、罪を犯した場合には、有罪かどうかを、ペトロが決めているということです。このような使徒の権威というのは、まだ新約聖書が完成していないときには、超自然的な力によって証明されたのです。それは、使徒言行録の中には、癒しの記事が度々出て来ますが、それらは、使徒たちが語ったメッセージ、伝道が神様からのものであることを証明するしるしとなったのです。特にペトロの超自然的な力が発揮された出来事は、使徒言行録5章1〜10節に、アナニアとサフィラという夫婦が登場しますが、彼らは偽りを働いたのです。その結果、死んだのですが、ペトロは殺していないのです。神様ご自身が、彼らの命をそこでお取りになったのです。つまり、神様がペトロの行動や判断を認定されたのです。このようにペトロの使徒としての権威は、神様ご自身が証明して下さったのです。このように見てゆきますと、神様はペトロを使徒の働きの時代に用いるために、何と忍耐して、育てて来られたのかということが分かるかと思います。神様の忍耐、そして、神様の恵みが私たちの心に染み渡って来るかと思います。そのペトロが立ち上がったのです。

ユダの最期とペトロの提言

 16〜17節で、ペトロが語った言葉で、『聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。』という箇所があります。これはとても大切な言葉で、それは何故かと言いますと、ペトロは聖書の霊感を信じていたということです。ペトロは、聖書の言葉には、聖霊とダビデという、著者が2人いると言っているのです。これを二重著者と言います。聖書の言葉は、聖霊が人間の口を通して、語っておられるのだと言うことをペトロは理解していたのです。さらに、ユダに裏切りに関して、実はこれは聖書預言の成就なのだと、ペトロは言っているのです。そして、ペトロは詩編から2個所、引用しているのです。一つ目が、詩編69篇26節です。2つ目が詩編109篇8節です。そして、ここでは、『この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。』と言っていますが、これはどういう意味なのでしょうか?『実現しなければならなかった』というのは、人間の視点から言っているのではないのです。神様の計画から見ると、このことには必然性があるということです。従って、ダビデが詩編を通して、預言したことは、神様の計画から見たら、実現しなければならない必然性があったという意味です。ユダは使徒の1人として、任命を受けていたけれども、この勤めを放棄して、主イエスを裏切ったというのです。ここで、ペトロの提言を遮る形で、福音記者ルカはここで、ユダの死について、説明しています。それは、ユダの死について、あまり知らない読者のために、詳細に説明しようとしているのです。

 18〜19節が説明の箇所となるのですが、ここで土地を買った人は誰かと言うと、ルカはユダが不正を働いて得た報酬で土地を買ったと書いているのです。ところが、ここで一つ問題が起きて来ます。マタイによる福音書27章3〜10節では、土地を買ったのは、祭司長たちだと書かれているのです。祭司長たちが買ったのか、ユダが買ったのかということですが、祭司長たちが土地を買った時には、ユダは既に死んでいるのです。ユダに買えるはずがないのです。これはどういうことかと言いますと、当時は、献金が不正の富である場合には、こんな不正の富は受け取れないと言って、それは献金者に返還されたのです。ところが、ユダは銀貨を神殿の中に投げ込んだのです。従って、この銀貨を返そうにも、この時、ユダはもう自殺していたのです。返還することは不可能になっていたのです。それで、どうしたのかと言うと、祭司長たちはユダの名義で、その土地を買い、それから、なるべく多くの人たちの利益となるように、公に供することができるように、名前の分からない旅人、外国人を葬る墓地として用いられたのです。ですから、使徒言行録では、ユダが買ったと書かれていますが、実際には、祭司長たちがユダの名義で買ったということが歴史の事実で、使徒言行録とマタイによる福音書の記述の間には矛盾はないのです。

 もう一つの問題は、使徒言行録では、『その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。』とあります。ところが、マタイによる福音書27章5節には、『そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。』とあります。これは、ユダヤ的に解釈すると、当時、ユダヤでは死体は汚れたものと見なされました。そして、城壁の中に、特にエルサレムの城壁の中に、夜を越えて、死体が留まることは許されなかったのです。その場合、どうしたかと言いますと、日暮れ前に、死体を城壁の上に持って行って、城壁から下の谷に投げたのです。その谷が、ヒンノムの谷と言うのです。これは、ゲヘナ、地獄という言葉の語源になった谷なのです。その何十メートルもあるヒンノムの谷に投げ込んだのです。従って、何十メートルもありますので、投げ込んだ時に、その衝撃で体が裂け、はらわたが飛び出したということなのです。従って、この点についても、使徒言行録とマタイによる福音書の記述の間には矛盾はないのです。

 ユダのこの衝撃的な裏切りと死は、19節にありますように、短時間のうちにエルサレムに住むすべての人に知れ渡ったのです。そして、買い取られた土地は、彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになったというのです。なぜなら、血塗られた金を使って、ユダの名前で買われた土地だからです。ユダの死についての説明がここで終わって、20節から再びペトロの提言に戻っています。

 先ほど申しましたように、前半の『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』というのが、詩編69篇26節の引用で、後半の『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』というのが、詩編109篇8節の引用です。詩編の中には、悪人に神様の裁きが下るように祈り求める詩編があります。このような詩編は、一見すると、復讐を求める呪いの言葉のように見えますが、実はそうではないのです。これは、神の義、神様の正義が守られ、行われるようにということを願っている祈りなのです。このような祈りの詩編はいくつかありますが、ペトロが引用しているこの2つの詩編は共にその範疇に入る詩編なのです。作者は共にダビデですが、ダビデは具体的にユダについて預言しているわけではないのです。ペトロが引用した2つの聖句は、王に対する反逆者、つまり、この場合には、ダビデに対する反逆者が裁かれるようにという祈りなのです。それを、ペトロはユダのケースに適用しているのです。なぜ、ペトロが行った適用が可能になるかということですが、ここで王というのは、メシアの型、予表なのです。ですから、王を歌っているのですが、そこに登場する王というのは、やがて登場する王の王であるお方の型、予表となっているのです。主イエスを裏切ったユダは、旧約聖書における王に対する反逆者と同じ扱いです。王に対する反逆者が裁きを受けるように、神様がその住まい、反逆者の住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれとおっしゃり、また、反逆者の務めは、ほかの人に引き受けさせるがよいとおっしゃられているのです。つまり、旧約聖書では、王に対する反逆者は裁きを受けたのです。ましてや、王の王である主イエスを裏切ったユダが裁きを免れるはずはないというのが、ここでのペトロの論理なのです。これは、カルバホメルという、ユダヤ的な表現法で、大についてかくかくのことが言えれば、小についてのこれこれのことは言えるでしょという、大から小への議論となっているのです。

 だから、ユダの職は、別の人に譲られるべきだとペトロは語っているのです。ということは、12使徒の中の1人が欠落したのですから、補充しなくてはいけないとペトロは言っているのです。そこで、ペトロは21〜22節にありますように、『そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。』と言ったのです。ここで、ペトロは非常に重要な話をしています。それは、誰が使徒となるかという資格について語っているのです。ペトロはここで、2つのことを語っています。1つ目は、主イエスの公生涯の期間、行動を共にしたということです。主イエスの公生涯の期間がどこからどこまでを言っているのかと言うと、バプテスマのヨハネ活動から始まり、主イエスの昇天に至るまでの間の期間、これを主イエスの公生涯と言っているのです。そして、その間、ずっと主イエスと行動を共にした、というのが1つ目の条件なのです。それから、2つ目は、主イエスの復活の目撃者になることだと言うのです。それは何故かと言いますと、使徒たちの使命は、主イエスの復活の証人となることだからです。福音と私たちが言ってことの中心は、主イエスの復活にあります。主イエスは死者の中から蘇り、今も生きておられる。このことが、福音の中心なのです。事実、使徒たちが主イエスの復活の証人となったので、多くの人たちが主イエスを信じるようになったのです。現代の日本に生きている私たちが、主イエスの福音を信じることができるのは、使徒たちが命がけで証言を行ったことからなのです。この2つの使徒の資格の条件を、ペトロが提案したのです。

 さて、この場に信者は120名集まっていたわけですが、この120名の中でこの2つの資格条件を満たしている人が何人いたのかと言いますと、2人であったのです。ペトロが提案した条件に合う人は、120人の中で、2人しかいなかったのです。そして、その2人の中で、どちらが神様から選ばれているのか、それは、神様にお尋ねするしかない、ということから、12人目の使徒となる人の選びに入って行くのです。

くじを引く

 本日の聖書の箇所の23節を見ますと、『そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、』と記されています。ペトロが提案した条件に合う人は、2人しかいなかったわけですが、一人目がバルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフという人です。この人の本名は、ヨセフなのです。そして、この人のニックネームのヘブル名がバルサバ、ローマ名がユストであったのです。バルサバのバルというのは、息子という意味です。そして、バルサバのサバというのは、シャバット、安息日のことで、安息日の息子というのが、この人のあだ名であったのです。もう一人の候補者の名前は、マティアと言いました。マティアという人は、ここ以外に聖書には情報がないのです。教会の伝承では、最後はエチオピアで伝道し、殉教の死を遂げたと伝えられています。

 この2人ですが、この2人はそこに集まっていた信徒たちが選んだのではないのです。これはとても大切な点ですが、この2人は使徒の条件を満たすことのできた2人なのです。2つ目の大切な点ですが、この2人のうち、どちらを選ぶかというのは、人間が選んだのではないということなのです。神様が既に選んでいるということなのです。ですから、何が行われるのかと言いますと、神様、私たちには分かりませんから、あなたがどちらを選ばれたか教えて下さいというのが、ここでの祈りなのです。

 本日の聖書の箇所の24〜25節を見ますと、『次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」』と記されています。神様は既に選んでおられるのです。ですから、神様の選びが明らかにされるように、彼らは祈ったのです。そして、人間が選ぶわけではない、神様の選びを知りたいというのが、ここでの祈りなのです。

 そして、具体的に神様がどちらを選ばれたかを知るために、彼らはどのようにしたのでしょうか?26節を見ますと、『二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。』と記されています。彼らは、くじを引いたのです。こんな方法で良いのかと、私たちは思ってしまいますが、この方法は旧約聖書的な方法で、間違ったものではないのです。まだ、聖霊が降っていない、旧約聖書の時代、くじを引いたのです。そのことが出てくるのが、レビ記16章8節です。『アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。』とあります。ヨシュア記14章2節、『すなわち主がモーセを通して命じられたように、くじで九つ半の部族に嗣業の土地を割り当てた。』とあります。この他にも、ネヘミヤ記10章35節、11章1節、箴言16章33節などの箇所に、くじが出てきます。

 それでは、具体的にくじを引くというのは、どのような方法で行ったのでしょうか?当時の習慣では、普通は、小石を用いたのです。石を2つ用意して、そこに候補者の名前を書くのです。その小石を硬い器の中に入れて、振るのです。小石を入れて振りますので、器は割れないように、金属か、時には、石でできている器が用いられました。その中に入れて振るのです。振ってゆくうちに、激しく振ると中の石が飛び出します。一つだけ飛び出すように、振るのです。そして、最初に飛び出したほうが当たりです。そして、振って、出てきた小石を見ると、マティアとなっていた、それがマティアに当たったという意味です。

 聖霊降臨以降は、即ち、教会時代になってからは、くじを引く必要はなくなったのです。それは、祈っているうちに、聖霊が私たち一人一人の心に平安を与え、導きを与えて下さるからです。ここまで、読んで、ではパウロはどうなのだということを思う人がいるかも知れません。しかし、聖書は本日の聖書の箇所でくじを引いたことを、拙速であったと、批判している箇所は1箇所もないのです。さらに、使徒になるために、2つ条件がありました。1つ目が、主イエスの公生涯の間、主イエスと共に時を過ごすという条件でした。この条件に、パウロは適合しないのです。パウロは復活の主イエスには出会っていますが、主イエスの公生涯の間、主イエスと生活を共にしていないのです。

 使徒はギリシア語では、アポストロスと言います。使徒言行録の中で、使徒という言葉が30回以上出てきます。その意味は、任命を受けた者、あるいは、遣わされた者という意味です。誰が任命したのか、誰が遣わしたのかと言いますと、それは復活した主イエス・キリストが遣わしたのです。そして、遣わされた使徒たちは、主イエス・キリストの権威を委譲され、キリストの代理人として派遣されて行くのです。使徒たちの役目は、主イエス・キリストの復活の証人となることなのです。それが使徒であることの意味なのです。本日の聖書の箇所で、マティアが12人目の使徒に選ばれることによって、聖霊が降臨する前にするべきことが、全部終わったのです。後は、聖霊が降臨するのを待つだけなのです。

祈って待つこと

 今日の聖書箇所では、使徒たちや人々は、ずっと祈っています。主イエスが聖霊を送って下さると約束され、天に上げられてから、次回の礼拝で語られる、聖霊が一同の上に降ったという出来事が起こるまでは、10日間ありました。その間、復活の主イエスは天に上げられて、目に見える地上にはおられません。「間もなく」と約束された聖霊は、いつ来てくださるか分かりません。

 しかし、最初に申し上げたように、使徒たちは、この約束をして下さった方は、聖書の預言を成就して下さる、まことの神様であるということを知っていました。使徒たちは、十字架の死から復活させられた主イエスをその目で見たのです。約束が守られるということは確かなことだったのです。ですから、彼らは神様に祈りました。神様を信頼して祈ることで、ますます希望が確かにされ、準備をして待つことが出来たのです。教会を建てていくのに必要な人を選ぶ時も、神様が既に定めておられることに、従うことができるようにと祈り、神様の御心を問いました。

 心を神様に向けて、心を合わせて、一同が熱心に祈るところに、聖霊が送られて、教会が誕生したのでした。ペンテコステ、聖霊降臨の出来事の前には、このような祈りの備えの時があったのです。そして、わたしたちも、聖書が伝える、その祈りの群れに連なっているのです。教会はそのように祈って備えをなし、神様の御心に従って、主イエスの命令に従って、地の果てまで復活の主を証言して行くのです。

 そのようにして、私たちも、初代教会の人々と同じように、終わりの日の約束を待っているのです。主イエスが再び来られる約束です。神様の救いの御業が完成する時です。私たちが、永遠の命を与えられ、主イエスの復活にあずかる、最高の喜びの時、その約束が成就する日です。

 信頼する神様によって、必ず成し遂げられる希望の約束があるからこそ、苦難の時、悲しみの時も忍耐し、喜びの時には感謝し、過ぎる日々が約束の日に近づいているという確信をもって、祈り、待つことができるのです。私たちは神様を礼拝し、主の日が来るまで、主イエスのことを宣べ伝えつつ、共に、心を合わせて熱心に祈り続けたいと思います。

 それでは、お祈り致します