【奨 励】 役員 川辺 正直
■金子みすゞ 『こだまでしょうか』
おはようございます。先週は、2011年3月11日におきた東日本大震災を記念する様々な番組がテレビで放映されていましたので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。東日本大震災では、黒々とした大津波が町や村を襲い、大変な数の犠牲者を出しました。そのため、今は商売をしているときじゃないでしょと、大自粛ムードの波が日本中を席巻したのです。大手メディアのスポンサーは、軒並み降板します。そのような中で、テレビで流れ続けたのが公共広告ACジャパンのCMでした。当時、繰り返し放映されたACジャパンのCMの中で読まれていたのが、金子みすゞの『こだまでしょうか』という詩でした。次のような詩です。
『こだまでしょうか』 金子みすゞ
「遊ぼう」っていうと/「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと/「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと/「(もう)遊ばない」っていう。
そうして、あとで、/さみしくなって、
「ごめんね」っていうと/「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか。/いいえ、誰でも。
『こだまでしょうか』 の詩は、楽しい言葉も、つらい言葉も、謝る言葉も、こだまのように自分に返ってくることを伝えています。人と人は『こだま』のように、同じ言葉が返ってくるように、心と心が通じればいいのだけれど、現実はそうはならないことが多いので、とっても寂しいと、金子みすゞは嘆いています。しかし、そのような中でも、希望への願いを胸に秘めているので、金子みすゞの詩に、人は救われるのです。
『こだま』のように人と人とはなかなか響き合えないから、みんな誰でも寂しいけれど、通じ合いたい、友達になりたい、心と心でつながりたいと誰もが願っているのです。祈るように人と人との通じ合いを願っているというのが、金子みすゞの心情ではないかと思います。
金子みすゞは、26年の短い生涯の中で512篇の詩を遺しました。代表作には、『私と小鳥と鈴と』、『大漁』などがあります。今日、お読みしました『こだまでしょうか』も、金子みすゞの優しく包み込むような瑞々(みずみず)しい感性が伝わってくると思います。
本日の聖書の箇所で、主イエスはどうしても弟子たちと共にとりたいと考えていた過越しの食事で何を伝えたかったのかということを考えながら、主イエスの言葉に、私たちもこだまのように応えながら、本日の聖書の箇所を、読んで行きたいと思います。
■過越しの食事
本日の聖書の箇所の14節を見ますと、『時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。』とあります。主イエスを捕らえ、殺そうとする陰謀が背後で動いている中で、主イエスは状況を完全にコントロールしているのです。主イエスは、私たちがどのようなところを通過していようとも、状況を把握し、私たちを守って下さる方なのだと思います。この14節で、『時刻になったので、』と書かれています。この時刻というのは、何のことかと言いますと、主イエスが過越しの食事をすると決めていた時刻なのです。その時刻が来たのです。具体的に言いますと、これは木曜日の日没後、午後6時過ぎのことなのです。木曜日の日没後、つまり、ユダヤの暦では金曜日に入っている、午後6時頃から食事が始まるのです。そして、前回お話したように、ペトロとヨハネが用意した、2階の大広間の席に、主イエスが着かれたのです。そして、弟子たちもそこに一緒であったと書かれています。ギリシア語では、席に着いたというのは、『アナピプトォー』という動詞で、『横たわって食事を摂る』という意味の言葉が使われているのです。ですから、英語訳の聖書では、横になるという意味のリクラインという動詞が使われています。当時は、コの字型の低いテーブルがあって、そこで食事をしたのです。左肘をついて、横になって、右手の指を使って、食事をしたのです。このときの食事は、特別な食事なのです。普段は、床にそのまま座って食べていたのです。このときのコの字型の低いテーブルで食事を摂るというのは、ギリシア、ローマ風の習慣がユダヤ人にも影響を与えているということなのです。このような姿勢で食事ができるというのは、自由人であって、奴隷ではないということなのです。ですから、過越しの祭りは、奴隷から自由人になったことを記念する祭りでもありますから、自由人として食事をしている、そういう意味で、横になったのです。
ヘブライ語で『ペサハ』、ギリシア語では『パスカ』と呼ばれる過越しの食事には、伝統的に手順があります。いわゆる式次第ですが、これは旧約聖書と新約聖書の間の中間時代に始まったと言われています。その式次第のことを『セデル』と言うのですが、それが今日まで続いているのです。ですから、今もユダヤ人たちは、中間時代に始まったとされる過越しの食事の手順に従って、食事をしているのです。その手順を書いている式文があるのですが、それを『ハガダー』と言います。『セデル』は手順、それを書いた式文が『ハガダー』なのです。主イエスと弟子たちは、その手順に従って、食事をしたのです。
14節の後半を見ますと、『使徒たちも一緒だった。』とあります。福音記者ルカはここで意図的に、『使徒たち』という言葉を使っているのです。なぜかと言いますと、ルカは使徒言行録を書こうとしており、そのことを意識しているのです。2階の大広間での過越しの食事の席で起こる出来事は、キリスト教会が設立されることの土台となるのです。使徒たちは、教会の指導者となって行くのです。その始まりがこの過越しの食事での出来事なのだということを、ルカは暗示しているのです。エフェソの信徒への手紙2章20節には、『使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、』とあります。エフェソの信徒への手紙に書かれているところの教会とは何かと言いますと、教会は使徒や預言者という土台の上に建てられていて、キリスト・イエス御自身がそのかなめ石だと言うのです。ですから、この過越しの食事での出来事は、これから教会を建て上げるための基礎づくりが行われているということなのです。それで、『使徒たちも一緒だった。』という言葉になっているのです。
■切に願っていた
過越しの食事が始まり、その冒頭で主イエスはこのように語られたのです。本日の聖書の箇所の15節を見ますと、『イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。』とあります。『わたしは切に願っていた。』という言葉が出てきています。何を願っていたのかと言いますと、使徒たちと一緒に過越しの食事をすることを切に願っていたと言うのです。『切に願っていた。』というのは、原文を直訳すれば、『願うことを願っていた』となります。『願う』という意味の言葉が二重に使われていて、強く願っていることを言い表しています。それほどの強い願いを持って、主イエスは弟子たちと一緒に過越の食事をとろうとされたということなのです。それはどういうことかと言いますと、この食事の席で、非常に重要な教えを語る必要があったからです。このときの教えは、人類の歴史を根本的に変える重要な教えであり、その革命的な教えがこの過越しの食事の席で語られるのです。そして、この食事において、主イエスは新しい出エジプト、霊的な出エジプトについて語るのです。それ故、主イエスは『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。』という言葉になっているのです。
■神の国で過越が成し遂げられるまで、
次に、本日の聖書の箇所の16節を見ますと、『言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。』とあります。私たちは、この主イエスの言葉を何気なく、読み過ごしてしまいますが、これはとても深い意味を持った言葉であると思います。16節の『わたしは決してこの過越の食事をとることはない。』という言葉ですが、これは『決して・・・することはない。』と訳されているように、そんなことはありえないのだと、非常に強く否定していることが分かります。過越しの食事をすることはありえない、それはいつまでかと言いますと、『神の国で過越が成し遂げられるまで、』は、ありえないのだと言うのです。『過越が成し遂げられる』ということは何なのかと言いますと、これは霊的な解放の完成のことなのです。これは、旧約聖書が預言しているメシア的王国のことなのです。旧約聖書が預言している通り、霊的で究極的な解放はメシア的な王国、神の国の実現によって成就するのです。ですから、神の国、千年王国が成就するまでは、一緒には過越しの食事はしないと言うのです。逆に言いますと、主イエスはメシア的王国が成就したら、過越しの食事をそこでされるということなのです。これは、メシア的王国が成立する前に、食される食事があるのです。それはメシア的王国を祝う宴会があるのですが、その宴会の席で過越しの食事が食されるのです。ですから、この16節が語っていることは、メシア的王国が成就するまでは、主イエスは過越しの食事を食べない、つまり、それまでに食べる最後の食事が、この過越しの食事だということなのです。そして、また新しい契約が締結される食事でもあるということなのです。その主イエスが流される贖いの血によって、新しい契約が締結されるということがこの16節の内容となっているのです。
■これを取り、互いに回して飲みなさい
そして、過越しの食事の手順が進行して行きます。本日の聖書の箇所の17〜18節を見ますと、『そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」』とあります。現在のキリスト教会にとって残念なことは、キリスト教の歴史の中で、福音におけるユダヤ的な要素が失われたということです。ユダヤ的なルーツがあるのにもかかわらず、そのことを見失ってしまったために、私たちが最後の晩餐と呼んでいるこの食事が、過越しの食事であり、主イエスが弟子たちとその手順に従って、食事を進めているのだということをすっかり忘れてしまっているのです。ですから、深い意味での理解が失われてしまっているということは、キリスト教会にとっては、不幸なことであると思います。従って、この箇所は、ユダヤ的な背景を確認しながら、読んでゆくことが必要であると思います。
17節で、『イエスは杯を取り上げ、』とありますが、過越しの食事には、①感謝の杯、②裁きの杯、③贖いの杯、④讃美の杯からなる4つの杯があります。これは、過越しの食事の手順で、4回儀式としての杯が回されるということなのです。この4種類の杯が、食事の進行と共に、順番に回されて行くのです。この中で、本日の週報の後ろに載せました式次第の『ハガダー』にありますように、①感謝の杯と②裁きの杯は、食事の前に飲む杯なのです。そして、③贖いの杯は、食事が始まってから飲む杯で、④讃美の杯は、食事の最後に飲む杯なのです。そして、福音書には全部の杯が出てきている訳ではないのです。①感謝の杯と③贖いの杯だけが出て来ているのです。もう一度、17節に戻りますと、『そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。』とあります。この杯は、第1の感謝の杯です。ですから、主イエスは『感謝の祈りを唱えてから』という言葉が入っているのです。
18節で、先程、主イエスがおっしゃられたことと同じ内容の言葉が出てきます。『神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』と語られたのです。16節で、『神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。』と言われたのと同じ内容のことが語られているのです。過越しの食事で飲まれるぶどう酒というのは、自然発酵により出来たものです。酵母を加えて発酵を促進したものは、ユダヤ教徒が食べてもよいとされる『清浄な食品』を指すコシェルではないのです。つまり、ユダヤの食物規定に従った、『清浄なぶどう酒』ではないということなのです。ヨハネによる福音書の19章29〜30節を見ますと、十字架上の主イエスは酸いぶどう酒を口に含んでいますが、この酸いぶどう酒は、食物規定に従ったぶどう酒には当たらないのです。ですから、主イエスは、これが最後で、メシア的王国が成就するまでは、ぶどう酒を飲むことはないと言われるのです。
■あなたがたのために与えられるわたしの体
この過越の食事の間で、非常に重要な契約が結ばれます。旧約聖書の初めから辿ってくると、新しい契約を預言したのがエレミヤという預言者です。それまでは、モーセの律法が生きている時代なのですが、モーセの律法が与えられただけではそれを実行することができないのです。ですから、異なった原理に基づき、聖霊に満たされることによって、内側からキリストの律法を行う力が与えられる契約が必要である、これが新しい契約の内容です。本日の聖書の箇所の19節を見ますと、『それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」』とあります。主イエスが弟子たちに与えているパン、これはもちろんマッツァと呼ばれる種なしパンですが、これは特別なパンなのです。ここでのパン(マッツァ)は、ユダヤ人たちがアフィコーメンと呼ぶ、食後のデザート(アフィコーメン)として取っておいた三枚重ねのマッツァのことなのです。三枚重ねのマッツァを用意してある訳なのですが、その三枚重ねの種なしパン(マッツァ)の真ん中の種なしパンを取って、それを半分に割って、その半分に割られたものを用意した布で包み隠して、家のどこかに隠すのです。過越しの食事の中では、子どもたちがその隠されている半分に割った種なしパンを探してくるというゲームがあるのです。見つけると、ご褒美をもらえるのです。そして、見つけてきたものは、最後に食後のデザートとして食べられるのです。
クリスチャンは主イエスを覚えるように聖餐式を行うように命令を受けています。聖餐式の目的は、主イエスの御業を記念することです。ですから、私たちはパンを食べ、ぶどう酒を飲むわけですが、そのパンがアフィコーメンと呼ばれるパンであるということを知らないで食していることが多いかと思います。ユダヤ教のラビたちは、アフィコーメンの儀式をなぜするようになったのでしょうか。アフィコーメンの儀式に、どのような神学的な意味があるのかを、私たちは説明することはできかと思います。しかし、キリスト者になったユダヤ人たちにとっては、その意味を理解することは難しいことではないかと思います。三枚重ねの真ん中の種なしパンというのは、第2の位格を持った神様である御子の主イエスのことです。種なしパンが割られたというのは、御子が傷つけられた、御子の身体が裂かれたということです。そして、それを布に包んで、隠すというのは、亜麻布にくるんでその遺体が墓に葬られたということです。しかし、それが見出され、再度、出されてきて、それを食するというのは、葬られた主イエスが復活し、弟子たちの前に現れ、主イエスを信じる者に命のパンが与えられる。このようなことが象徴されているのです。非常に不思議な儀式ですが、これが、主イエスが弟子たちに与えられたアフィコーメンと呼ばれる種なしパンなのです。
■わたしの血による新しい契約
次に、本日の聖書の20節を見ますと、『食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』とあります。先程、お話した4つの杯の内、①と②の杯は食前に飲むもので、もう終わっています。③と④の杯は、食事の間あるいは食事が終わってから飲むものなのです。この20節の杯は、第3の③贖いの杯と呼ばれる杯です。この3番目の杯を主イエスが飲んでいるのです。③贖いの杯は、何を象徴しているのかと言いますと、過越しの子羊の流された血を象徴しているのです。この杯は、神の子羊と主イエスの贖いの血を象徴しているのです。私たちが、聖餐式でぶどう酒を頂くのは、ユダヤ的には第3の杯の贖いの杯を頂いて、主イエス血が私たちの罪を贖うためのものであったことを認めて、受け入れて、そのことを覚えているのです。それが、聖餐式を行う目的なのです。そして、主イエスは『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』とおっしゃられたのです。新しい契約のしるしは、主イエスの血であるというのです。この短い20節の言葉の中に、神様の祝福がいっぱいに詰め込まれていることが分かります。私たちは、その新しい契約を受け入れる者となるのです。ぶどう酒は主イエスの血の象徴です。主イエスの血は、新しい契約のしるしなのです。主イエスの血は、私たちの罪の赦しのために流されるものなのです。この主イエスの宣言によって、新しい契約の時代に入ったのです。その実質は、主イエスの十字架、墓への埋葬、復活、昇天、そして、聖霊降臨を持って、明らかになって来るのです。ところが、そのような祝福に満ちた、劇的なことが起きている中で、次に大変悲しいことが予告されるのです。
■見よ、わたしを裏切る者が、
本日の聖書の箇所の21節を見ると、『しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。』とあります。この主イエスの言葉に、弟子たちはびっくりしたことと思います。ここでのルカの書き方は、マタイとマルコの書き方とは異なっているのです。ルカは契約締結後に、裏切りの予告を書いているのです。まず、契約が締結され、それから裏切りの予告があったと記されているのです。ここには、ルカの意図があると思います。契約の締結の中では、主イエスの自己犠牲の愛が教えられました。あなた方の罪のために流される私の血という言葉が出てきました。この主イエスの自己犠牲の愛が示された直後に、今度はユダの利己的な裏切りが出てくるのです。主イエスの愛とユダの罪の対比が、ここで描かれているのです。弟子たちはこの裏切りの予告を聞いて、驚いたのです。主イエスと最も親しい交わりの中にいる人物が、主イエスを裏切ろうとしているのです。『わたしと一緒に手を食卓に置いている。』とありますように、恵みに満ちた新しい契約が明らかにされた、この食事の席に連なって者の中に裏切り者がいるのだという宣言ですから、腰を抜かすほど、驚いたことと思います。
次に、22節を見ますと、『人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。』とあります。『人の子は、定められたとおり去って行く。』というのは、受難の予告、十字架の予言です。ですから、人の子であるメシアの十字架の死は、確実にやって来る、それは父なる神様が定められた通りなのだと言うのです。そして、それと同時に、裏切り者に呪いが宣言されているのです。これまで、主イエスはユダヤの宗教的指導者たち不信仰と偽善の上に、呪いを宣言して来ました。さらに、エルサレムの上に、エルサレムが滅びるという予言が宣言されました。そして、本日の聖書の箇所では、裏切り者に呪いが宣告されたのです。神様の主権は、定められた通りに、メシアが受難を通過して、死んで行くことで示されるのです。それと同時に、人間の自由意志による罪は、メシアである人の子を裏切るという行為なのです。ここには、神様の主権と人間の罪が並び立っているのです。弟子たちは、驚いたのです。
マルコによる福音書では、主イエスがユダの引渡しを予告する場面が、『主の晩餐の制定』よりも前に書かれています(マルコによる福音書14章18〜21節)。ですから、この時点でユダが退席したかのように読めるのです。このことは、主の晩餐の制定にユダがいないことを暗示しています。それに対して、ルカによる福音書は、マルコによる福音書の暗示を知っていた上で、あえて物語の順序を変えています。主の晩餐の制定後に、ユダの裏切りの予告を置いているのです
本日の聖書の箇所の23節を見ますと、『そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。』とあります。弟子たちは、仰天して、裏切り者探しの議論を始めたのです。そして、さらに驚くべきことは、ユダもその議論に参加しているということなのです。ということは、この段階で、主イエスはユダに向かって、お前だとはまだ言っていないのです。ユダに警告を発しているのです。つまり、ユダには悔い改めのチャンスが残されていたのです。しかし、ユダは悔い改めないのです。ユダは、過越しの食事を共にした後で、主イエスを裏切るのです。ユダの心の闇が、いかに深かったかが分かるかと思います。
聖書の中で、ユダは一番極端な罪人の事例としての役目を負っていると思います。主イエスを売り飛ばす弟子という倫理的に最悪な人物が、最も重要な友人として主の晩餐の制定場面に同席しているのです。しかし、主イエスはユダの罪をそのまま見過ごしにはされないのです。『しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。』(21節)と、罪を指摘し、『だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。』と、厳しい言葉でユダに審判を下しているのです。
けれども、主イエスはそれでもなお、そのユダでさえ主の食卓に招かれるのです。そのことによって、私たちは、主イエスの十字架における無条件の赦しの範囲が、私たちの想像を越えて、全ての人々へと無制限に広がっていることに気づかされるのではないでしょうか。ここに、受難を控えた主イエスが、この過越しの食事の席で、提示した新しい契約の凄みがあるのだと思います。
■主イエスの招き
私たちが生きている教会時代のキリスト教会には、2つの聖礼典が与えられています。聖書的には、洗礼式と聖餐式という2つの聖礼典しかないのです。主イエスの公生涯は、洗礼式と共に始まっています。洗礼式が持っている意味というのは、主イエスと一体化するということです。同時に、それは罪からの分離、この世からの分離と、そして、罪赦された清めの象徴でもあるのです。ですから、クリスチャンになって、主イエス・キリストを信じた段階で、救われているのです。洗礼は救いの条件ではありません。しかし、救われた人がなるべく早い時期に洗礼を受けることを、主イエスは求めておられるのです。
また、主イエスの公生涯は、本日の聖書の箇所にありましたように、聖餐式と共に終わりました。聖餐式は、信じる者たちの交わりと一体化の象徴です。私たちは、聖餐式を通して、主イエスの身体と血潮を体験しているのです。主イエスと一体化しているのと同時に、主イエスを信じる者同士が一体化して行く象徴となっているのです。そのように、キリスト者に与えられている2つの聖礼典の洗礼式と聖餐式は今もなお、重みを持って、私たちに迫って来ていると思います。私たちは、洗礼式と聖餐式の持つ意味と重みをしっかりと心で受け止めて、それらの体験をさせて頂きたいと思います。
本日の聖書の箇所で、主イエスはメシア的王国で過越しの食事をされると約束されました。逆に言えば、それまでは主イエスと過越しの食事を共にすることはないということなのです。そして、メシア的王国の始まりを告げる宴会、大宴会があるのですが、その大宴会に於いて、主イエスとの過越しの食事は食されるということが約束されているのです。主イエスは、私たちをそこに招かれているのです。
私たちは、主イエスが私たちの代わりにささげてくださった身体と、流してくださった血とによって救われていることを想い起こし、その救いの恵みの内に生かされていることを感謝して、世の終わりの救いの完成を待ち望みつつ生きて行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。