小倉日明教会

『主イエスの名のために』

ルカによる福音書 9章 46〜50節

2023年2月19日 降誕節第9主日礼拝

ルカによる福音書 9章 46〜50節

『主イエスの名のために』

【奨励】 川辺 正直 役員

『母さんがどんなに僕を嫌いでも』

 おはようございます。さて、2013年に発刊された歌川たいじさんによるコミックエッセイに『母さんがどんなに僕を嫌いでも』という作品があります。映画化されてもいるので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。この作品は歌川たいじさんが自分の半生をつづったものなのです。彼は仲の悪い両親の二番目の子として生まれたのです。お母さんは少年たいちゃんにとって、あこがれの的でした。というのは道行くだれもが、振り返るほどの美人で、カリスマ性があり、いつも取り巻きができるほどの人気者だったからです。ところがこのお母さんは、なぜかたいちゃんを邪険に扱うのです。彼が五歳の時、お母さんは、彼のお姉さんだけを連れて家出をします。彼はいざとなったら見捨てられるという経験を、幾度も繰り返して育つのです。

 そんな彼がひねくれずにおれたのは、両親が経営する工場の従業員のおかげでした。その中に年配の女性がいて、いつもたいちゃんのことをかわいがってくれたのです。お母さんからは受け取ることができなかった愛情を、このばあちゃんが注いでくれたのです。しかし、両親はたいちゃんが十歳の時に離婚します。お母さんはふたりの子を連れて家を出ます。そして、慰謝料でレストランを経営するのです。ところが妙な男性が入り込むと、レストランは飲み屋に変わります。お母さんは男性をくるくると変え、ひどい別れ方をし、そのたびに凶暴になり、そのしわ寄せはたいちゃんにふりかかって来るのです。ある時、キレたお母さんが包丁でたいちゃんの頭を切りつけてきました。腕でしのいだものの、深手を負ったのです。

 このままでは殺されると思った彼は、十七歳で家出をし、東京食肉市場で働き始めます。そこでは生きた牛や豚が運ばれ、二枚におろされた肉を水で洗い流す仕事をしていました。屠殺前の豚を見ていると、まるで自分とそっくりに思えて来たと語っています。なぜなら、少しも大切にされないいのちであったからです。彼は、自分は豚のような生き方をしていると思っていたのです。そんなある日のこと、お父さんの工場で働いていた人とばったり会い、たいちゃんをかわいがってくれたあのばあちゃんが、末期がんだと知らされるのです。ばあちゃんを見舞いに行った彼は、近況報告をしました。そして、自分は豚同然で、何をやっても全体的に豚みたいなんだよね、と自虐ネタを披露するのですが、ばあちゃんは少しも笑わないのです。

 「たいちゃん、苦労したね。でもたいちゃんはきっと幸せになれるよ」。「そうかなぁ」。「なれるよ。ばあちゃん、一つタイちゃんにお願いがあるから聞いて。『僕は豚じゃない』って言って」、とばあちゃんは言うのでした。それで、小さな声でそう言うと、「もっと大きな声で、言って」。「僕は豚じゃない」。「もっと大きな声で、はっきりと言って」。「僕は豚じゃない」。3回目に、大きな声でそう言うと、止まらなくなったそうです。これこそ自分が心の底から言いたいと思っていたことだということを、言いながらにして気づいたのだそうです。「僕だって大切にされたい」「尊厳あるものとして扱われたい」、この告白が、彼の人生を変える大きなステップとなって行くのです。私たちは、だれしも自分のことを大切なものとして扱われたいという欲求があります。しかし、誰から、私たちはどのように扱われたいのかということを考える時に、この問いは逆に私たちに、あなたはどのように生きるのかという、生き方についての問いを投げかけて来るのだと思います。本日の聖書の箇所では、「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」ということが伝えられています。弟子たちの間で、自分たちのうち誰が一番偉いか、という議論が起ったのです。誰が一番偉いか、というのは単純に言えば、誰が重んじられるべきか、誰の言うことが尊重され、聞かれるべきか、という争いが弟子たちの間に起ったというのです。本日の聖書の箇所を通して、神様は私たちに、主イエスの弟子として、あなたはどのように生きようとしているのかということを問うておられるのだと思います。私たちは、本日の聖書の箇所を通して、神様が何を教えようとされているのかを皆さんと共に学びたいと思います。

主イエスの弟子訓練

 さて、現在、読んでおりますルカによる福音書の大きな文脈について、もう一度振り返って見たいと思いますが、4章14節から始まるガリラヤでの伝道での中心テーマは、「主イエスは誰か?」ということでした。そして、それに続く、ルカによる福音書の9章の1〜50節の中心のテーマは弟子たちの訓練なのです。そこでは何が語られていたかと言いますと、12人の弟子たちの派遣がありました。そして、挿入句的エピソードとして、ヘロデの心理状態が語られていました。そして、12人の弟子たちの帰還があり、そこでは5000人の給食の奇跡がありました。さらに、前半の中心テーマ「主イエスは誰か?」という問いに対し、ペトロが正しい答えを告白する、ペトロの信仰告白があり、その回答として、山の上で、主イエスの姿が、栄光に変わったという『主イエスの変貌』の出来事をお話しました。そして、山から降りてくると、悪霊つかれた少年の癒やしが行われました。それに続いて、主イエスにより、弟子たちに受難の予告が与えられました。ここで、受難の予告が出てくる理由ですが、群衆は主イエスが行った奇跡のわざ、悪霊を追い出す奇跡を見て、驚嘆したのです。しかし、その群衆は最終的には、主イエスを拒否するようになるのです。そのことが、主イエスの十字架につながって行くことになるのです。弟子たちには、それが理解できなかったのです。主イエスはエルサレムに向けて旅立とうとしておられる。すなわち、十字架に向けての歩みを始めようとされておられるのです。弟子たちの理解と主イエスの思いの間には、大きな隔たりがあるのです。それが、本日の聖書の箇所の内容なのです。本日の聖書の箇所が終わると、次回から何が始まるのかと言いますと、9章51節〜19章10節までの、エルサレムへの旅が始まるのです。この長い後半部分での中心テーマは、「主イエスは何のために来られたのか?」という受難と復活の物語となってゆくのです。さて、「主イエスは誰か?」という問いに対して、正しい答えを出した弟子たちは、今度は本日の聖書の箇所で、主イエスの弟子としていかに生きるべきかという訓練を受けているのです。主イエスを信じて救われたキリスト者は、今日の聖書の箇所から、主イエスの弟子としていかに生きるべきかと、問われることになるのです。これが、本日の聖書の箇所に至る文脈なのです。

    

 自分たちのうちだれがいちばん偉いか

 さて、46節見ますと、「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」とあります。本日の聖書の箇所の直前の44節では、「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」と、主イエスは受難の予告をしているのです。それを聞いて、弟子たちは、だれがいちばん偉いかという議論をしているのです。ここに、大きな隔たりがあるのです。主イエスは、受難の僕としての務めを弟子たちに教えたのです。しかし、弟子たちには、その意味が理解できなかったのです。もし、弟子たちが理解していたならば、弟子としていかに歩むべきか、そのことがもっと理解できたはずなのです。「弟子」というのは、「学ぶ者」という意味なのです。主イエスから学んでいれば、主イエスの弟子としていかに生きるべきか、ということが分かったはずなのです。ところが、主イエスの思いとは真逆のところで、弟子たちは議論を始めたのです。その内容が、46節の「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という議論であったのです。これは、どこにでもある人間の集団の肉的な性質そのものが表れていると思います。このタイミングで、弟子たちが「だれがいちばん偉いか」という議論をしている理由は、主イエスが地上の王国の王である、主イエスは間もなく、旧約聖書で予言されていた神の国、つまりメシア的王国、私たちが千年王国と呼ぶものを設立されるという確信が弟子たちにはあるのです。間もなく、神の国が地上に出来上がるのだ。ガリラヤから、自分たちの仕事、生活を捨てて、主イエスに従って、良かった。いよいよその報酬を受け取るときが近づいた、と喜んだのです。そのときに、弟子たちが気になったのは、神の国での序列なのです。神の国の政府の中で、誰がどのポジションを得るか、神の国でのポストの序列が気になったのです。12人の弟子たちの中で、誰がトップの座に就くのか、ということを議論したのです。この直前に起きた出来事は、「主イエスの変貌」ですが、主イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人だけを連れて、山に登ったのです。「主イエスの変貌」を目撃したのが、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人だけで、残りの9人は少年に取り憑いた悪霊と格闘していたのです。悪霊に取り憑かれた少年を助けることができなかったのです。このような流れから言えば、「主イエスの変貌」を目撃した3人は、他の9人以上の地位に就くだろうということは、弟子たちの中で、疑いようのないことであったと思います。ところが、問題はペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人の中で、だれがナンバーワンだろうかということだったと思います。おそらくペトロではなかという人が多かったと思います。しかし、ヨハネが2番目かもしれない、お兄さんのヤコブがトップかもしれない、という人もいたかと思います。あるいは、この3人以外に上げられる人がいるのではないか。それは、自分かもしれない、というような議論が弟子たちの間で続いたのです。

 この聖書の記事を読んでいる私たちは、弟子たちは何とバカバカしい議論をしているのかと思うかもしれません。しかし、主イエスの僕を自称する者が最も陥りやすいのは、自らが称賛を求めることではないでしょうか。これが、主イエスの僕が最も陥りやすい罪だと思います。そして、神様のご計画を破綻させたい悪魔は、そこを突いてくるということが言えると思います。このとき、弟子たちは、霊的に未成熟で、肉の性質に支配されていたということが言えると思います。霊的に未成熟だというのは、弟子たちは、神の国での偉大さとは何なのか、ということが全く理解できていなかったということなのです。この世の価値観と、神の国での価値観とは、全く異なるものなのです。弟子たちがここで陥っている過ちは、自己中心的に考えていることしかできなかったということなのです。

子供を受け入れる者

 そこで、弟子訓練として、主イエスは重要なレッスンを行うのです。それは、主イエスの目から見たら、あるいは、神様の目から見たら、あるいは、神の国の視点に立てば、一番偉い人は、どういう人なのかということを定義されるのです。47〜48節には、『イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」』と記されています。この箇所の冒頭で、「イエスは彼らの心の内を見抜き」とあります。主イエスには隠していても、弟子たちの間にそのような議論、争いがあることを主イエスは見抜かれたのです。言葉を発する前に、主イエスは私たちの心のなかにあるものをご存知なのです。このことは、神様に対する怖れでもありますが、同時に神様に対する信頼でもあるのです。主イエスは私たちが心の中で、本当に求めているものをご存知なのだということです。その上で、子どもを使って、ある教訓を教えられるのです。

 主イエスは子どもを用いて、度々、教訓を語っておられます。そして、いろいろな教訓があるのです。ですから、主イエスが子どものことを語っておられることに対して、それ知っている、知っていると、読み飛ばしてしまうことはできないのです。一箇所、一箇所、丁寧に読んで行くことが必要です。例えば、マタイによる福音書の10章42節には、『はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。』と書かれています。このマタイの10章42節の強調点は、この小さい者、子ども、その一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人と、主イエスはおっしゃっておられますが、ここでの『この小さい者』が何を表しているかと言うと、苦難に出会う主イエスの弟子たちを表しているのです。苦難に出会う主イエスの弟子たちに、愛の行為を示すならば、必ず神様から報いを受けるというのが、マタイの10章42節の内容なのです。ルカによる福音書、9章47〜48節では、『一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、』とありますが、ここでは全く異なる教訓を語っておられるのです。ここでの「一人の子ども」というのは、直近の文脈から考えますと、悪霊から開放された子どもの手を取って、ここでの教訓を弟子たちに語っておられる可能性が高いと思います。本日の聖書の箇所の並行記事であるマルコによる福音書9章36節を見ますと、『そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」』と書かれていることがわかります。マルコによる福音書では、『抱き上げて』という記載が付け加えられていることが分かります。主イエスは、悪霊から解放された子どもの手を取って、腕に抱かれて、教訓を語られたのです。

 マタイによる福音書18章4節には、『自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。』とあります。このマタイによる福音書18章4節の教訓では、主イエスの弟子であるならば、子どものような謙遜さを身につけるべきであると言っているのです。ところが、ルカはこの部分を省いているのです。子どものように、謙遜になりなさいという部分は省いて、ルカだけに特徴的な教訓を語っているのです。それが何かと言いますと、主イエスの弟子は、取るに足りない者のために奉仕するべきである、ということです。福音記者ルカがここで語っている教訓は、取るに足りない者のために奉仕するべきである、ということなのです。誰がいちばん偉いかという議論は、誰が一番上に立てるかという議論です。しかし、取るに足りない者のために奉仕しなさい。取るに足りないものの代表が子どもなのだということなのです。当時のユダヤ、ギリシア、ローマの世界を見ますと、このことがよく理解できるのです。ユダヤ人の社会、ギリシア、ローマの社会では、子どもは社会の各層の中で、最も軽視された存在であったのです。現代の日本では、少子高齢化で、子ども家庭庁を政府が作ることを考えるほど、子どもがとても大切にされる傾向にある時代ですので、この聖書の記述を理解するのは難しいかもしれません。しかし、当時のユダヤ、ギリシア、ローマの社会では、子どもはやっかいで、軽視されていた存在であったのです。子どもの世話をするのは、一般の家庭では、女性の仕事であったのです。あるいは、裕福な家であれば、その家の僕の一人が子どもの世話をしていたのです。そういう、最も軽視された存在である子どもを、主イエスの名のゆえに、受け入れる人は、主イエスを受け入れる人だと言うのです。受け入れるというのは、別の言い方をすると、敬意を表することです。最も軽視されている子どもが表しているのは、最も軽視されている階層の人に、その人が神様によって作られているという理由だけで、敬意を表すということ、どんな罪人であっても、どんなに問題を抱えている人であっても、敬意を表すことが必要だと言っているのです。その人が、主イエスから見た時に、偉い人だと言うのです。

 敬意を表すというのは、客として迎えることなのです。通常は、客として迎えるというのは、その人自身の生活が安定していないと難しいことです。一般にどういう人を客として迎えるのかと言いますと、社会的地位が同等の人、あるいは、自分よりも上の人を客として迎えるのです。なぜかと言いますと、交わりを円滑にする、あるいは、何かの見返りを期待する。自分よりも上位の人を招いて親しくなっていると、将来、いいことがある、そのようなことを期待して客を招くのですが、主イエスは最も軽視されている人を招け、とおっしゃっておられるのです。つまり、主イエスはピラミッド構造の社会的な階層をひっくり返して、一番、底辺にいる人々に敬意を表す人が偉いのだと言っているのです。言い換えれば、お返しのできない人に奉仕することが最も尊いのだと言っているのです。どれだけ、お返しのできない人々に奉仕したのかが、偉大さの指標になるのだと言っているのです。

主イエスの名のゆえに

 主イエスのこの教えにおいてもう一つ注目しておかなければならない大切な言葉があります。それは、「わたしの名のために」という言葉です。主イエスは、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は」と言われたのであって、一般論として「一人の子供を受け入れる者は」と言われたのではないのです。一人の子供を、つまり小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れるのは「主イエスの名のため」です。つまり、ここで主イエスが語っているのは、私たちの倫理観、道徳観の問題ではないのです。もっと言えば、どんな人をも排除しない寛容な精神を持ちましょう、というようなもっともな話ではないのです。私たちが目を向けなくてはならないのは、主イエスがどのような方であり、どのように歩まれたか、ということです。その主イエスに従っていくところに、小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れる歩みが生まれるということなのです。そう考えてみますと、本日の聖書の箇所の物語が、前回、お話ししました9章44節の、主イエスの2回目の受難予告の後で、すぐに続いて語られていることに福音記者ルカの意図があると思います。すなわち、「わたしの名のために」と言っておられる主イエスとは、「人々の手に引き渡されようとしている」主イエスなのだということを強調することにルカの意図があるのです。人々の手に引き渡され、苦しみを受け、十字架につけられて殺される、その主イエスに従い、その主イエスの弟子として歩むところに、主イエスの名のために小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れるという歩みが与えられるのだと言っているのです。

 それはどうしてなのかと言いますと、主イエスが背負って下さった苦しみと十字架の死は、神様が、まさに受け入れ難い罪人である私たちを受け入れて下さった出来事だからだということです。私たちは、私たちに命を与え、導いて下さっている神様にそれでもなお、背き逆らい、そのみ名を汚している者なのです。私たちは、無価値な、受け入れるに足りない罪人として、神様に軽んじられ、捨てられても当然の者なのです。しかし、神様は、そのような私たちをそれでもなお、愛して下さり、大切な者だと考えて下さる方なのです。それ故、神様は私たちの罪を赦し、ご自分の子として下さるために独り子のイエス様を遣わして下さり、その十字架の死と復活によって、私たちを受け入れて下さったのです。その主イエスによる罪の赦しの恵みを受け、主イエスに従っていくのがキリスト者なのです。そうであるならば、キリスト者の歩みは、主イエスのみ名のために、小さく、軽んじられ、軽蔑されている人を受け入れ、友として共に歩み、大切にするという歩みであるはずなのです。従って、私たちがそのような小さな人を受け入れ、友として大切にし、共に歩むということは、私たちが誰の目にも寛容な人間になるとか、人を分け隔てしない公平な者となるとかいう、私たちの人格形成の問題ではありません。主イエス・キリストによる救いに預かり、主イエスの言葉に従う信仰に生きるとき、ともに生きるということは、キリスト者の信仰の本質に関わることなのです。

 主イエスは9章の21節以下で1回目の受難予告をされました。22節に「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とあります。ルカはその次の23節に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語っておられます。つまり、ここでも、受難の予告に直結して、主イエスの弟子としていかに生きるべきかという、キリスト者としてのあり方が語られているのです。本日の聖書の箇所の、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」という主イエスの教訓は、2回目の受難予告と結び合わされて語られた、主イエスの弟子としていかに生きるべきかについての教えであると思います。主イエスの弟子とは、つまりキリスト者とは、十字架の苦しみと死を経て復活へと至る主イエスに従って行く者なのです。1回目の受難予告を受けて語られた「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」主イエスに従うことが、小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れらない人を受け入れて共に歩むことであると思います。

主イエスの名によって悪霊を追い出す者

 次に、本日の聖書位の箇所の49、50節には、『そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」』と記されています。ここで、ヨハネが言っているのは、主イエスの名が悪用されていたから、やめさせようとしたということではないのです。主イエスの名によって「悪霊を追い出している者」とは、主イエスを信じ、主イエスの働きを共に担って悪霊を追い出し、病を癒している者です。その働きそのものは、むしろ神様に用いられた尊い働きだと言うことができます。それにもかかわらず、ヨハネが、その人の働きをやめさせようとしたのは、「わたしたちと一緒にあなたに従わないので」とありますように、その人が自分たちと行動を共にし、主イエスに従っていなかったからです。ヨハネが問題にしたのは、「自分たちと一緒にいない」ということなのです。主イエスと共に旅をしている自分たちと一緒にいない人が、主イエスの働きを担うのはやめさせるべきだ、と思ったのです。ヨハネは、主イエスが山の上に連れて行って、主イエスの栄光のお姿を目撃した3人の弟子の内の一人です。山の上で主イエスの栄光のお姿を目撃した彼には、自分たちは特別だという意識が強かったのだと思います。主イエスと共に旅をし、ガリラヤの至るところを巡り歩いて、福音を告げ知らせ、病気を癒している自分たち12人の弟子たちは特別なグループであり、自分たちこそが、あるいは自分たちだけが主イエスの働きを共に担っている、と考えていたのです。しかし、そのように考えるのは間違いです。確かに使徒と呼ばれる12人は、主イエスによって選ばれ、主イエスと共に旅をし、主イエスから特別な務めを与えられました。けれどもそれは、彼らだけが主イエスに従っていたということでも、彼らだけが主イエスの働きを共に担っていたということでもありません。彼らとは違う形で主イエスに従っている人たちがいたのです。ゲラサ人の地方で主イエスに悪霊を追い出してもらった人が、主イエスと共に行きたいと願ったとき、主イエスは「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(8章39節)とお命じになられました。彼はそのような形で、主イエスに従い、主イエスの働きを共に担ったのです。だから主イエスはヨハネに「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と言われました。味方であるとは、助けてくれるということでもあります。色々な形で主イエスに従っている者たちが共に助け合い、共に主イエスの働きを担っていくのです。主イエスに従う弟子たちの歩みを、弟子たちとは異なる形で主イエスに従っている人たちが助け、支えているのです。

十字架の主イエスを見つめ続ける

  本日の箇所で語られているような弟子たちの勘違いや思い上がりが生じたのは、彼らが主イエスの受難の僕としての歩みを理解していなかったからです。主イエスが十字架に向かって歩まれていると理解せずに、主イエスに従うとき、間違いが起こるのです。私たちも同じではないでしょうか。私たちは、取るに足りない私たち受け入れるために、十字架への道を歩まれ、十字架での死によって、私たちの罪を贖って下さり、3日目に復活し、40日後に天に上げられた主イエスを見つめ続けています。しかし、私たちが主イエスの受難の僕としての歩みから目を逸らすとき、私たちも弟子たちのようにとんでもない思い違いをしてしまうのです。私たちは、人々に引き渡され、十字架で死なれた主イエスに目を向け続けることによって、小さな者、軽んじられている者、価値がないと思われている者を受け入れられるよう変えられ、自分たちとは異なる形で主イエスに従っている人たちの助けと支えが与えられていることに気づかされていくのです。私たちは、「わたしの名のために、」と語りかけて下さる主イエスの言葉に従い、神様の恵みの中を歩む者へと変えられて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。