小倉日明教会

『主イエスの埋葬』

ルカによる福音書 23章 50〜56節

2025年9月21日 聖霊降臨節第16主日礼拝

ルカによる福音書 23章 50〜56節

『主イエスの埋葬』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                        役員 川辺 正直

■一番たくさんの読み方を持つ漢字

 おはようございます。日本語に採用されている漢字は、約5万あるそうです。その中で、一番たくさんの読み方を持つ漢字は何かご存知でしょうか。『生』という字なのだと言うのです。なんと、150種類以上の読み方があるのです。

 人生の『セイ』、生きるの『イ』、生い立ちの『オ』、生えるの『ハ』、生糸の『キ』、生放送の『ナマ』、誕生の『ジョウ』、生垣の『イケ』、生憎(あいにく)の『アイ』、芝生の『フ』、生粋の『キ』、生業(なりわい)の『ナリ』、蕨生(わらび)の『ビ』、芹生(せりょう)の『リョウ』、『寄生木』(やどりぎ)など、全て読み上げたらキリがないと思います。『寄生木』などは2つの漢字が連動していて、どこで切れるのかもはっきりしません。

 さらにこの字は、相生(あいおい)、弥生(やよい)、麻生(あそう)など、人名や地名に非常に多く使われているのです。そのために、多くの読み方を持つようになっているのです。

 そして、これらの事から、昔の人もやはり、生きる命を表わす文字を好んで用いたことが分かるかと思います。人は、誰でも死よりも命にあこがれるということが分かるかと思います。

 さて、ここで質問です。次の漢字はどのように読むのか分かりますでしょうか。

 『生飯を読む』

 これは、『生飯』と書いて『サバ』と読みます。難しいのは、『生飯』は『イキメシ、キメシ、イケメシ』と読むこともあり、この場合には、『うまく炊きあがった飯』を指しますので注意が必要です。『生飯(さば)を読む』というのは、これは仏教や修験道でみられる食事の作法で、餓鬼に施すため、食べる前に自分の飯椀の中からご飯を少し取り分けておく、という作法なのです。自分たちだけで食べるのでなく、他に施しをする心、思やりの心を持つ為の作法でもあるのです。この生飯の分も考えて少し多めにご飯の準備することを『サバを読む』と言ったことから転じて、モノを数えるときに数をごまかすことの意味として使われるようになった、という説もあるようです。自分に利があるようにサバを読むのではなく、『施しの心、思いやる心』を持てるよう、心掛けたいと思います。

 本日は主イエスが墓に葬られる場面を読みます。主イエスの十字架上での死から、墓に葬られる過程では、3種類の信仰者が登場します。自分はどの信仰者なのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■アリマタヤのヨセフ

 本日の聖書の箇所のルカによる福音書23章50〜51節を見ますと、『さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。』とあります。この記述からユダヤ人の指導者全員が主イエスを拒否したのではないということが分かります。中には、主イエスを信じる人たちもいたのです。この情報は、ルカによる福音書を読む当時の読者にとっては、励ましとなる情報であったと思います。このルカによる福音書が書かれた時代、信じる人はまだ少数派で、その中で迫害に遭っている人たちもいたのです。そう考えますと、周囲が信じない人々、不信仰な人びとに囲まれている、そのような中で暮らしていても、信仰を持ち続けることは可能であるということを、ルカは伝えようとしているのではないかと思います。そうしますと、異教社会で暮らしている私たちに対しても、語られている言葉であるかと思います。従って、アリマタヤのヨセフは、私たちも見習うべき手本であると思います。

 ここで、このヨセフの人物像について見てみたいと思います。ヨセフは最高法院、サンヘドリンの議員であったのです。120名いるユダヤ議会の議員の中の1人であったのです。さらに、彼は善良な正しい人であったのです。善良な正しい人というのは、ユダヤ的な視点で見ますと、律法に忠実に生きようとしている人であったということを言っているのです。ルカがこの言葉を入れている理由は、このような善良で正しいユダヤの指導者のヨセフであっても、主イエスを信じたのだから、主イエスは無罪であったということの証明になっているということだと思います。さらに、このヨセフという人は金持ちなのです。しかし、ルカはユセフが金持ちであったという点は書き記していないのです。そのことが書かれているのは、マタイによる福音書27章57節で、『夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。』とあります。ここには、『金持ち』と書いてあります。ですから、このヨセフは自分のために横穴式の墓を作って用意していたのです。そのことが、本日の聖書の話に結びついて来るのです。さて、本日の聖書の箇所に戻ると、『ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、』とあります。ヨセフはユダヤ人で、アリマタヤの出身でした。ヨセフという名前はユダヤではありふれた名前で、沢山のヨセフがいるのです。当時は苗字と名前が両方あるという訳ではないのです。ですから、どのヨセフかをはっきりさせるためには、出身地を頭につけて、『アリマタヤのヨセフ』あるいは『誰々の息子ヨセフ』というような呼び方をしたのです。このヨセフはアリマタヤ出身ですので、通称はアリマタヤのヨセフと呼ばれていたのです。アリマタヤの確実な場所は特定されていませんが、おそらくサムエル記上1章1節に出てくる『エフライムの山地ラマタイム・ツォフィム』ではないかと考えられています。このラマタイム・ツォフィムは、あのサムエルの誕生の地で、エルサレムから北西に直線距離で35キロメートルのところにあります。聖書の後ろにある付録の聖書地図6『新約時代のパレスチナ』にもその位置に、アリマタヤと記されています。

 さらに、このヨセフはどのような信仰を持っていたかと言いますと、『神の国を待ち望んでいたのである。』とあります。これは、ユダヤ的な表現です。『神の国を待ち望んでいた』ということは、どういう意味かと言いますと、主イエスがメシアであるということを信じていたということであり、メシアである主イエスによって、旧約聖書で予言されていた神の国が成就するということを信じ、待ち望んでいたということなのです。さらに、このアリマタヤのヨセフは、同僚の議員たちの決議や行動には同意しなかったというのです。これはどういうことかと言いますと、彼は主イエスを有罪にした裁判には呼ばれていないということなのです。ニコデモもそうです。ヨセフとニコデモは裁判の席には、呼ばれなかったということです。どうしてかと言いますと、サンヘドリンの議員たちの採決に同意しないからなのです。マルコによる福音書14章63〜64節を見ますと、『大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。』とあります。サンヘドリンの議員たち『一同は、死刑にすべきだと決議した。』というのです。一同、すなわち全員で決議したとありますので、その場にヨセフとニコデモがいたら全員一致の決議とはならないのです。ヨセフは最高法院、サンヘドリンの考え方とは異なる立場に立っていたのです。これが、ヨセフという人の人物像なのです。

■主イエスの埋葬を願い出る

 本日の聖書の箇所の52節を見ますと、『この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、』とあります。この52節は短い文章ですが、実は大変なことなのです。それはなぜかと言いますと、自分の人生をかけた決断だからなのです。自分の生活が危うくなるかもしれないのです。現代に於いても、ユダヤ人が主イエスを信じるというのは、非常に困難なことなのです。現代でも、ユダヤ人が主イエスを信じたということを公にすると、ユダヤ人コミュニティーから排除されてしまうだけではありません。職場では、職を失う可能性もあるのです。家族はユダヤ人コミュニティーから排除されないようにするためには、主イエスを信じた者との縁を切る他に方法がないのです。このため、主イエスを信じた子どもが出た場合に、家族がその子どもの葬式をあげるようなケースさえあるのです。ですから、主イエスを信じたいけれども、信じるまでに払うべき犠牲を考えなくてはいけないので、とても大変なのです。信じた後も、公に主イエスを告白するまでに、相当な葛藤があるのです。このアリマタヤのヨセフも、主イエスの埋葬にあたって没薬と沈香を混ぜたものを持ってきたニコデモ(ヨハネによる福音書19章39節)も、そのような大きな葛藤を乗り越えて、自分の信仰を公にしてゆく選びをしているのです。

 従って、主イエスの遺体の下げ渡しを願い出たというのは、ヨセフにとっては大きな決断であったのです。ヨセフは主イエスの遺体を引き取り、そして、主イエスに敬意を表すために手厚く葬ろうとしたのです。これは、主イエスに対する愛から出た行為であると思います。アリマタヤのヨセフにとって、主イエスを葬ることは、損得勘定で考えれば、自分に何の利益もない危険な行為なのです。それでは、主イエスの遺体をそのまま放置したらどうなるのかと言いますと、当時の習慣からしますと、ユダヤ人たちは城壁の中で、安息日に遺体をそのままにしておくことは許されないのです。ですから、ヨセフが遺体の下げ渡しを願い出なかったら、ユダヤ人たちは主イエスの遺体を十字架から取り外し、そのまま城壁から外に投げ捨てていたということは十分に考えられることであったのです。

 ヨセフは勇敢にもピラトに願い出たのです。そして、ピラトはここで許可を与えるのです。これも実に不思議な出来事で、特別な恩赦とも言うべき許しであったのです。ローマが行う十字架刑というのは、そもそも見せしめのための刑罰ですので、十字架につけられた犯罪人の遺体は晒し、廃棄されるべきものであって、手厚く葬ることは許されなかったのです。ですから、手厚く葬ることを許すというのは、このこと自体が恩赦なのです。ピラトがなぜそのようなことをしたのかと言いますと、これは主イエスを有罪にするように圧力を掛けられたピラトなりのユダヤ人に対する当てつけなのだと思います。その結果、主イエスの埋葬ということが可能となったのです。ここでは、神様の不思議な摂理の御手が働いていることが分かります。

■主イエスの埋葬

 さて、埋葬の許可は出ましたが、ヨセフは急いで埋葬をしなくてはならないのです。時間がないのです。もうすぐ日没になってしまうのです。そうすると、日が改まって安息日になって、労働してはいけない時間帯に入ってしまうのです。急がなければならないのです。次に、本日の聖書の箇所の53節を見ますと、『遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。』とあります。この記述を見ますと、ヨセフが本当に注意深く、敬意を込めて、主イエスの遺体を扱っているということが分かります。ヨセフは主イエスの遺体を亜麻布で包んだのです。当時は2段階で埋葬したのです。遺体を亜麻布で包んで没薬を遺体に塗って、そのまま墓の中に収めるのです。1年ぐらいすると風化して、骨だけになるのです。その骨を集めて、骨壺に入れて、そのまま墓の中に置くのです。このように2段階で埋葬するのですが、ここでは亜麻布に包んだという話だけなのです。そして、まだ誰も葬られていない岩に掘った墓に収めたということが記されています。先程も言いましたように、ニコデモが没薬と沈香を混ぜたものを持ってきたという記事もありますので、亜麻布で包むということ以外にも、没薬などを塗るということも行われたことと思います。この墓はヨセフが自分のために用意していた墓であるということを読みますと、この時にイザヤ書53章9節に、『彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。』と記されているように、お金持ちのヨセフの墓に葬られるという予言が成就したということが分かります。ここで、福音の3要素について再確認しますと、①主イエスは、私たちの罪のために死なれた、②墓に葬られた、③3日目によみがえらえた、この3つです。そして、①と②は既に成就しました。③は次回以降の学びに入って来ます。ですから、主イエスの埋葬というのは、予言の通りとなったということであり、これが福音の3要素に入っている理由となっているのです。主イエスは私たちの罪のために死なれたのです。主イエスは死んで墓に葬られたのです。予言通りなのです。確実に死なれたということが、ここで証明されたのです。そして、3日目によみがえり、今も生きていて、私たちを救うことができるのです。このことを受け容れて、主イエス・キリストに対して、あなたは生ける救い主です。あなたを信じますと告白する時に、信仰と恵みによって、私たちの罪が赦され、永遠の生命が与えられるのです。これ以外に、救いの道はないのです。とても単純なことですが、神様への信頼によって、そして、神様の恵みによって、私たちには救いが与えられるのです。

■安息日の始まり

 本日の聖書の箇所の54節を見ますと、『その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。』とあります。『準備の日』というのは、何かと言いますと、金曜日のことなのです。安息日の準備をする日、金曜日のことなのです。そして、日没から安息日が始まるのです。金曜日の日没から、土曜日の日没までの24時間が安息日なのです。ルカは異邦人信者のためにこの情報を書いているのです。主イエスは午後3時に十字架上で死にました。春先の季節ですので、日没までに3時間弱しかないのです。従って、主イエスの遺体を十字架より降ろして、亜麻布で包んで、墓に運び、墓に葬り、墓石を転がして、墓を閉じるという一連の作業を3時間弱で行わなければいけないのです。非常に急いで、ヨセフはこの葬りの作業を行ったのです。

■ガリラヤから来た婦人たち

 本日の聖書の箇所の55節を見ますと、『イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、』とあります。ここでガリラヤから来た婦人たちが登場して来ます。今日の聖書の箇所の主イエスの埋葬の出来事は、主イエスの十字架での死と復活をつなぐ架け橋となっているということをお話しました。そして、ガリラヤから来た婦人たちの存在は、主イエスが死者の中からよみがえり、今も生きておられるという、圧倒的な喜びの知らせの物語である復活物語へと展開して行くための準備なのです。彼女たちは、アリマタヤのヨセフの後をついて行った、ということは、彼女たちは主イエスの遺体の後をついて行ったということなのです。そして、彼女たちはどうしたのかと言いますと、『墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、』たのです。これは、婦人たちが後で墓に行くための準備になっているのです。主イエスの復活に関して、墓が空になっていたという女性たちの証言については、今日の聖書の箇所の記述に於いて、ガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届けた、ということから、複数の女性たちが確実に確認したということは明らかで、女性たちの証言は確かであると思います。ガリラヤから来た婦人たちは、確かに見届けたのです。

 そして、本日の聖書の箇所の56節を見ますと、『家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。』とあります。彼女たちは、その日のうちに急いで香料と香油を準備したのです。つまり、日没前に準備して、安息日が明けると直ぐに行動を起こすことができるように、そのようにしたのです。それは、女性の感性で、さらに主イエスの埋葬をさらに手厚く行うことによって、さらに敬意を払うためにそのような準備を行っているのです。そして、翌日、モーセの律法に従って、安息日は休んだのです。

 本日の聖書の箇所はこのように、主イエスの十字架の死と、3日目の日曜日の朝の復活との間の時のことを語っています。この『間の時』、主イエスを心から愛していた人々が、深い嘆き悲しみの中で遺体を墓に納め、さらに本格的に葬りをするために備えていたのです。主イエスの弟子たちはここに全く登場していません。彼らは皆逃げ去ってしまった、つまり主イエスを裏切ってしまったのです。それゆえに、人間が主イエスに対する愛をもってできる最後のことである埋葬に関わることができなかったのです。初代教会のリーダーとなってゆく弟子たちが、主イエスを捨てて、逃げてしまっていたということを、聖書は隠すことなく、正直に伝えています。このことは、誰一人、自らの技を誇ることができない謙遜な状態で、神様の赦しを受けて立てられのだということが、語られているのだと思います。それ故、聖書における弟子たちの証言は、信頼するに足るものとなっていると思います。

 一方、アリマタヤのヨセフは、大きな危険を犯して主イエスの遺体を引き取り、自分が持っているものを用いて、主イエスを埋葬することによって、主イエスに仕えました。これがアリマタヤのヨセフの信仰です。

 そして、ガリラヤから来た婦人たち女性は、当時のユダヤの社会にあって、弱い存在です。当時のユダヤの社会の中での女性の地位というのは、裁判の席で、その証言が認められないような弱い存在であったのです。しかし、彼女たちは自分にできる、香料と没薬を購入して、安息日が明けたら墓に行って、もう一度、主イエスに手厚い葬りをさせて頂こうと考えたのです。墓の入口の大きな墓石をどうやったら動かせるかということは考えもしなかったのです。彼女たちには、なすべきことだけをやろうという気持ちが中心にあったのです。自分にできることを行おうとした、その結果、主イエスの復活の最初の目撃者となるという、唯一無二の役割が与えられることになるのです。ユダヤ的には、証言の信憑性に疑義を生じる婦人たちが最初の目撃者となることはありえないのです。聖書には、主イエスを捨てて、逃げた弟子たち、危険を犯して主イエスを葬ったアリマタヤのヨセフ、主イエスの復活の最初の証人となるガリラヤから来た婦人たちという3種類の信仰者の姿が描かれています。私たちはどの信仰者の型を追いかけているのか、本日の聖書の箇所の記事を通して、考えたいと思います。

主イエスの埋葬とは

 主イエスの埋葬は、『福音の3要素』の一つです。主イエスの死、埋葬、復活が『福音の3要素』です。そして、埋葬は主イエスの辱めの最後であり、復活のための舞台でもあると思います。主イエスの辱めというのは、主イエスが人となられた受肉、そして、公生涯を歩まれた主イエスの人間としての生活は、主イエスの辱めの期間なのです。埋葬はその締めくくりであるのです。そして、復活のための舞台でもあるのです。埋葬はそのような特徴を持っているのです。

 また、主イエスの死は、メシア預言の成就でもあるのです。神様は、金持ちの墓に葬られることが成就して行くことを通して、主イエスがメシアであることを証明されました。ですから、埋葬の事実があってもなくても良いということではないのです。特に、ヨハネによる福音書19章34節には『しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。』という記述があるのですが、『血と水』についての記述は、主イエスの肉体的な死の確認なのです。主イエスが肉体的に完全に死んだので、血と水が分離して流れ出たということなのです。これらの記述は、ルカによる福音書が書かれた当時、論駁する必要のある異端が存在していたのです。強い異端が2つ存在していたのです。

 1つは、グノーシス主義と言います。これは、ギリシア哲学の影響を受けていて、物質と霊の2元論に特徴があるのです。物質は悪であり、霊は善である。このような2元論なのです。それ故、神様の子が肉体を持つはずがないというのです。なぜかと言いますと、物質は悪だから、神様の子が悪である肉体を持つはずがないというのです。このグノーシス主義の問題点は、霊的にしっかりしていれば、肉体的にどのような過ちを犯しても、それは問題ではないという、放蕩生活を合理化するような教えであったのです。同時に、主イエスが神であり、人であるという2つの性質を持っておられるお方であるということを否定しているのです。ですから、キリスト論が間違っていると、救いの教理が間違ってしまうことになるのです。

 もう1つの異端がドケティズムというのです。これは日本語で、仮に現れた論と書いて仮現論とも言います。つまり、主イエスの肉体は仮に現れたように見えただけという論なのです。従って、ドケティズムも主イエスが肉体を持っていたことを否定する説なのです。主イエスは人間が生きているように見えたけれども、仮に現れたように見えているだけで、本当の人間になったのではなく、主イエスの人間としても歩みも死も、人間の目にそう見えただけで、人間的に死んでいる訳ではないのだという考え方なのです。このドケティズムもキリスト論が間違っていますから、救いに至ることはできないのです。

 主イエスの埋葬を考えますときに、主イエスは、死んで葬られる私たち信仰者と一体となって下さったということが大切なことだと思います。このことから、主イエスの復活には、私たちの体験ともなるという大事なことが含まれているのです。主イエスは人間として生きて、人間として死んで、人間として3日目に復活したのです。主イエスを信じる私たちも必ず死にますが、そこでは終わらないのです。主イエス・キリストにあって死ぬ者は、主イエス・キリストにあって、3日目に復活するのです。

 本日の聖書の箇所で、主イエスがここで埋葬されているのは、次に、復活の朝を迎えるために埋葬されているのです。聖書がこの箇所で、私たちに語っているのは、苦難を通過した先にある希望であると思います。ローマの信徒への手紙5章3〜4節を見ますと、『そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。』とあります。キリスト者は苦難を通過するのだけれど、その先にある希望の故に忍耐することができるのだと言うのです。私たちは1度必ず死にますけれども、そこで終わることはないのだ、その先に希望があるのだ。それは、主イエスが死んで、葬られて、復活して下さったが故に、主イエスを信じる私たちも同じ祝福の道を歩むのだということの確証になっていると思います。苦難を通して、希望に入って行くということがどういうことかと言いますと、主イエス・キリストは私たちの苦難をよくご存知で、苦難の中にいる私たちと共に主イエスは共におられるのです。私たちは、主イエスによって与えられる、この希望に生きてゆきたいと思います。

  それでは、お祈り致します。