小倉日明教会

『主イエスの祈り ― 父よ、時が来ました。』

ヨハネによる福音書 17章 1〜26節

2022年4月3日 受難節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書 17章 1〜26節

『主イエスの祈り ― 父よ、時が来ました。』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

元ソニー会長井深大(いぶかまさる)とむかし話 『カチカチ山』

 おはようございます。さて、かつてソニーの有名な会長に井深大(いぶかまさる)という方がいました。井深さんは、早稲田大学時代にキリスト教徒の恩師山本忠興先生の影響で日本基督教団の富士見町教会に通うようになり、洗礼を受けてクリスチャンになった方であったのです。井深さんは特に晩年、幼児教育に大変力を入れて研究なさるようになりました。3歳までの教育がとても大切で、お腹の中にいるときから始めるべきだとおっしゃったのです。そして、人格形成期に於いて、正義と愛については、親自らが物語って行くことが必要なのだと語って、曽野綾子さんの作品である『長い暗い冬』を紹介されたのです。

 この物語は、北欧のある国での出来事です。主人公の石山は、幼い息子と二人で冬を迎えようとしていました。母親はいません。石山が単身赴任して一年後、呼び寄せようとする直前に部下と心中したのです。暗がりの目立つ居間で、息子は暖炉の残り火を前に、日本から持ってきた唯一の絵本である「カチカチ山」を読みふけっていました。それは言葉の壁のために、この土地で孤立していた息子の、唯一の拠り所となっていたのです。

 カチカチ山の物語は、皆さんもよく知っていることと思いますが、オリジナルのものは非常に残酷な話ですね。こんな話ですね。昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。そして、その近くに大変悪い、残酷なたぬきがいたのです。おじいさんは、とうとうこの悪たぬきを捕まえ、縄で縛り上げ、たぬき汁にして食べてやると言い、そして、山へ山菜を取りに出かけて行ったのでした。おばあさんは臼で餅をついて、おじいさんの帰りを待っていたのでした。ところが、このたぬきが切々とおばあさんに訴えるのです。「おばあさん、私はとても悪いたぬきです。それは、弁解の余地はないのです。私は、最後に良いことをして、それから食べられたい。ですから、餅つきを手伝わせて下さい。それから、殺して、食べて下さい。それで、そのために、まず縄をほどいて下さい」。と、このように言うのです。おばあさんは、このたぬきの言葉に負けて、たぬきの縄をほどくのです。たぬきはとうとう縄をといてもらって、自由になると、いきなり杵でお餅をつく代わりに、おばあさんを殴り殺してしまうのです。そして、おばあさんの皮を剥いで、肉と骨を鍋に入れて、料理してしまうのです。そして、おばあさんの皮の中に入って、おばあさんになりすますのです。何も知らないおじいさんは、おばあさんが一人でたぬき汁を作ったことに、驚きつつも、進められるままに、この肉鍋を平らげてしまうのです。そのとき、おばあさんの皮を脱ぎ捨てたたぬきは、「やーい、やーい、婆汁食った。婆汁食った。お前は自分の妻を食べた。人食い人間だ」。このように罵り、笑いながら山に逃げて行くのです。あまりの事の顛末に、おじいさんはがっくりと打ちのめされてしまうのです。そこへ、以前、山の中で怪我をしていたときに、おじいさんとおばあさんに助けられたことのあるうさぎがやってくるのです。全ての事情をおじいさんから聞き、正義の憤りに満ちたこのうさぎは、悪いたぬきの成敗を誓うのでした。このたぬきの成敗の部分は、じつに残酷物語で、皆さんもよくご存知かと思いますが、泥舟に乗って沈んでゆく、この悪たぬきが最後もがきながら、うさぎの船にしがみつく、それをうさぎが竿竹で突いて、沈めて溺死させるという、よくぞこのような昔話が残っていると思われるような話なのです。

 さて、『長い暗い冬』の物語に戻りたいとおもいます。石山の息子は、唯一の絵本でもあったこともあって、この物語が大好きであったのです。なぜなら、悪はどんなに一時的に繁栄しても、最後には正義が勝つというところに感動するからでした。そして、この物語を読むたびに、悪から離れよう、正義につこうと決心していたのです。このような、勧善懲悪の物語を読むことによって、スカッとするというのは、大人も同じです。

 ところが、あるときから石山の息子は、情緒がひどく不安定になり、精神のバランスを崩し、そして、心の病気を持つようになってしまったのです。石山は、なんだか息子の様子がおかしいと、漠然と感じはするが、仕事のことで頭が一杯になっていたのでそのまま息子のことは放置していたのです。

 石山の古い友人でもある精神科医が、石山の家にやってきて、ようやくその原因がわかったのでした。何と、カチカチ山の本が途中で落丁して、失くなっていたのでした。あまりにも繰り返し読んだために、絵本がすっかり傷んでしまい、バサッと途中でページが紛失していたのでした。しかも、失くなったページは、たぬきに対する裁きのページが消えていたのです。即ち、悪いたぬきがしたい放題やって、多くの人を泣かせた者が、高笑いをして、物語が終わっていたのです。すなわち、悪のしたい放題、罪はやった者が勝ち、この世には、正義も審判もないのだ、こういう物語を繰り返し、頻繁に読んで行ったときに、息子の心がバランスを崩して行ったというのです。良心、これは罪は罰を受けるべきだと叫ぶ、良心は、正義は実現されるべきだと叫ぶのです。悪が栄えて、正義が曲げられるということに対して、我慢がならないのです。そして、この良心は他人がした罪への怒りばかりではなく、自分が犯した過去の罪や悪に対して、怒りとなって人をノイローゼ状態にまで追い込んでゆくものとなるのです。

 この世界では、私たち一人一人の力では、どうすることもできない、大きな悪や、解決不能の不条理が存在するということを思う時に、とても不安になります。しかし、『長い暗い冬』の物語を読む時、すべての人が死後、神様の裁きの前に立たされるということは、むしろ恵みなのだと思わされます。真の神様の正義は、どれほど罪を憎むことでしょうか。主イエスは、「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる」(マタイによる福音書、5章6節)とお語りになられました。私たちをひどい目に合せた人々は、必ず神様が決着をつけてくださると言うのです。しかし、同時に私たち自身も誰かに対して、負い目のある存在ではないかと思います。主イエスは、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイによる福音書、5章4節)ともお語りになられました。ここで言う悲しみとは、誰かを失った悲しみや何かを失った悲しみではありません。罪を犯した悲しみなのです。正義の神様の前では、弁解の余地のない罪人であることを悲しむ、悲しみなのです。自分の努力や修行では、裁きを免れられないことを悲しむ、悲しみなのです。しかし、このような悲しみこそが、神様の前に、私たち人間が持つべき悲しみなのだと思います。そして、このような悲しみを慰めるためにこそ、主イエスはこの世に来て下さったのだと思います。

主イエスによる大祭司の祈り

 さて、本日の聖書の箇所、ヨハネによる福音書の17章は冒頭の1節に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」とありますように、天を仰いで、つまり父なる神様に向けての祈りです。主イエスは「決別説教」の終わりに、主イエスは祈られたのです。この祈りは、ゲッセマネの園に着いたか、ゲッセマネの園の近くで行われた祈りです。ゲッセマネの園へと向かう途上の最後の言葉は、「わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)という言葉です。主イエスは既に世に勝ったとおっしゃられたのです。前回もお話しましたが、ここで言う「世」というのは、神様に敵対するこの世のシステム、神様に敵対するシステム化された社会のことを言います。そして、その「世」を支配しているのが、悪魔です。それに勝った、だからあなた方はもう勇敢でありなさいという勧めになって行くのです。「わたしは既に世に勝っている。」という言葉は、主イエスが十字架で死なれるということが前提となっています。十字架での死が想定されているわけですが、しかし、そこで終わってしまうのではなくて、死んだ後、さらに父なる神様の元に戻ってゆくということが想定されているのです。従って、「勝利した」というのは、十字架で死に、復活して、父なる神様の元に戻ってゆくということを想定しての話なのです。主イエスは死ぬ前に、既にそのことが起こったことかのようにお話しされているのです。即ち、この段階で、主イエスの地上生涯は完結しているのです。主イエスの預言者としての働きは終わったのです。そして、次に主イエスの祭司としての働きに移行して行くのです。ですから、今日の聖書の箇所の主イエスの祈りのことを「大祭司の祈り」と言うのです。この「大祭司の祈り」は聖書の中に記されている最高の祈りです。なぜ最高の祈りかと言うと、主イエスの心の内の思いを見ることのできる祈りだからです。そして、この祈りの内に、私たちが実践すべき内容を含んだ祈りでもあるのです。

 主イエスのこの「大祭司の祈り」は、3つの部分に分けられます。第1の部分が、1〜5節です。ここは、主イエスご自身に栄光を与えてください、という願いです。即ち、神様の栄光を現すための祈りと言うことができるかと思います。第2の部分は6〜19節です。ここは、9節に「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」とあることから分かりますように、主イエスを信じて、従っている弟子たちのための祈りです。そして第3の部分は20〜26節以下です。20節に「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」とありますことから、彼ら弟子たちの言葉によって主イエスを信じる人々、それは弟子たちの証し、伝道によって主イエスを信じるようになる、後の時代の人々のための祈りです。そこには私たちも含まれます。弟子たちの伝道によって生まれるキリスト教会に連なって生きる信仰者たちのための祈りが第3の部分なのです。このように主イエスは、「決別説教」の最後に、ご自分のため、弟子たちのため、そして私たちのために祈られたのです。

主イエスの栄光と私たちの救い

 本日の聖書の箇所で、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(1節)と祈り願ったのは、主イエスご自身が栄光を受けることによってこそ、私たち、主イエスを信じる者たちの救いが実現するからです。つまり主イエスはここで、十字架の苦しみと死に臨もうとしているご自分への支えや助けを祈り願われたのではありません。ご自分に栄光が与えられることによって私たちの救いが実現することを祈り願われたのです。主イエスはこの祈りを、ご自分のためではなくて、私たちの救いのために祈って下さったのです。主イエスが神の子としての栄光をお受けになることこそが、私たちの救いだからです。

 2節には「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」とあります。ここに、主イエスに栄光が与えられることが、私たち主イエスを信じる者たちの救いであることの理由が示されています。父なる神様は、子である主イエスに、「すべての人を支配する権能」をお与えになったのです。それが、主イエスに与えられた栄光です。栄光というのは単なる誉れ、名誉ではありません。権能、つまり何かを行う権威と力です。何を行うのかというと、「永遠の命を与える」ことです。父なる神様は独り子主イエスに、私たち人間に永遠の命を与える権威と力とをお与えになったのです。主イエスはその権能によって、私たちに永遠の命を与えて下さるのです。

 しかしこの救いは、私たちが主イエスを信じることによってではなくて、父なる神様が私たちを主イエスに「委ねて下さった」ことによって与えられるものです。父なる神様によって独り子主イエスに委ねられ、与えられ、主イエスのものとされることによって、私たちは主イエスの栄光、権能の下に置かれ、永遠の命を与えられるのです。

 3節には「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあります。永遠の命を与えられることが救いだと申しましたが、私たちはその永遠の命を、肉体の死の後どうなるのか、ということとして受け止めがちです。しかし永遠の命というのは、死んだ後どうこうという話ではありません。主イエスがここで言っておられるように、唯一のまことの神様と、その神様から遣わされた独り子、救い主であるイエス・キリストを知ること、つまり父なる神様と主イエスによる救いを信じて生きるところに、永遠の命があるのです。つまり永遠の命は、死んだ後のことではなくて、今この人生の中で生き始めることができるものなのだと思います。

 4節には「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とあります。主イエスは父なる神様からこの地上に遣わされ、父なる神様のみ心に従って救いのみ業を行い、父なる神様の栄光を現しました。今度は父がわたしに栄光を与えて下さい、という願いが5節です。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」。十字架と復活を経て父のもとに行く主イエスの栄光が、救い主としての権能が、今や明らかにされるのです。でもその栄光は実は、主イエスが、世界が造られる前に、みもとで持っていた栄光です。主イエス・キリストは、はじめから、神様と共におられた、神様である言であられたのです。しかし主イエスはその栄光を放棄して、私たちと同じ一人の人間となってこの世を生きて下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。そのようにして救いのみ業を行なって下さった主イエスが、復活して永遠の命を生きる者となり、今や父なる神様のもとで、世界が造られる前に父のもとで持っておられた栄光を回復しておられるのです。そこに、私たちの救いの揺るぎない土台があります。主イエスの神様の子としての栄光こそ、私たちに約束されている永遠の命の確かな根拠なのです。

弟子たちのための祈り

 「大祭司の祈り」の第2の部分である9節に「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」とあります。「彼ら」とは主イエスの弟子たちのことですが、ここで「彼ら」弟子たちのことが、「わたしに与えてくださった人々」と言い換えられています。つまり「彼ら」弟子たちとは、父なる神様が世から選び出して主イエスに与えて下さった人々なのです。その人々に、主イエスは父なる神様の御名を現しました。彼らはそれによって父なる神様を信じるようになったのです。元々父なる神様のものであった彼らを、父なる神様が主イエスに与えて下さったのです。それで彼らは、主イエスのもの、主イエスに従って共に歩む弟子となったのです。その弟子たちのために、主イエスは祈って下さったのです。

 12節で主イエスは、弟子たちとのこれまでの歩みを振り返っておられます。「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです」とあります。これまで主イエスと一緒にいた弟子たちは、主イエスによって保護されていたのです。「滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした」というのは、主イエスを裏切って去って行ったユダのことです。彼だけが、旧約聖書に預言されていたことの実現として滅びたのです。しかしそれは他の弟子たちはちゃんとしていたということではありません。彼らも皆、この後主イエスが捕らえられる時には逃げ去ってしまうのだし、ペトロに至っては3度、主イエスのことを「知らない」と言ってしまうのです。そのような弱さや罪を抱えている彼らを、主イエスが守って下さっていたので、彼らは滅びてしまうことなく、弟子であり続けることができたのです。

 しかし、13節には「しかし、今、わたしはみもとに参ります」とあります。弟子たちを守っていた主イエスが父のみもとへ行ってしまうことによって、彼らはこれまでのように主イエスに直接守られて歩むことができなくなるのです。そのことに備えて主イエスは語り、祈っておられるのです。13節後半にはこうあります。「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」。まだ世にいる間に、弟子たちと共にいる間に、彼らの内に主イエスご自身の喜びが満ちあふれるようになることを主イエスは願っておられるのです。その喜びによってこそ、弟子たちは支えられていくからです。

真理によってささげられた者

 主イエスは、私たちを神様のもの、聖なる者としてこの世に遣わすために、人間となってこの世を生き、十字架にかかって死んで下さいました。そのことを語っているのが19節です。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」。主イエスは弟子たちのために、私たちのために、自分自身をささげて下さいました。それは、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったということです。主イエスは十字架の死によって私たちの全ての罪を赦し、復活によって、死を超えた永遠の命の先駆けとなって下さったのです。この救いのみ業のために主イエスがご自身をささげて下さったのは、私たちが「真理によってささげられた者」となるためです。真理とは、神様の愛による救いの真理、神様がその独り子を与えて下さったほどに私たちを愛して下さっているという神様の愛の真理です。私たちがその神様の愛によって生かされ、それに応えて私たちも神様を愛し、み心に従って兄弟姉妹と互いに愛し合って生きていく、そのようにして神様の愛の真理を証しし、伝えていくために私たちは世に遣わされるのです。「真理によってささげられた者となる」とはそういうことです。「真理によって、彼らを聖なる者としてください」という主イエスの祈りはそのことを祈り求めているのです。

私たちのための祈り

 主イエスの「大祭司の祈り」の第3の部分である20節に、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」とあります。「彼ら」というのは弟子たちですが、その弟子たちの言葉によって主イエスを信じる人々のために、主イエスは祈られたのです。弟子たちは、復活なさった主イエスによって、使徒として世に遣わされていきました。「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。その使徒たちの証言によって人々が主イエスを信じるようになり、教会が生まれました。「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは、教会に連なる信仰者たち、つまり私たちのことです。私たちは、使徒たちの言葉、証言によって主イエスを信じているのです。

 そして、21節が、この第3部分の祈りの要約となっています。主イエスはこう祈られました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」。主イエスが祈り願っておられるのは、全ての者が一つにされることです。「全ての者」というのは、弟子たちの言葉によって主イエスを信じた全ての者、つまり全ての信仰者のことです。全ての信仰者が一つとなることを主イエスは祈られたのです。そしてその「一つ」は、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」一つ、と言われています。父なる神様と、独り子主イエスとは、お互いがお互いの内にいると言えるほどに一つであられる、父なる神様と独り子主イエスとの間には、切り離されることのない絆があって一つであられる、それと同じように、主イエスを信じる信仰者たち、つまり私たちも一つにされる、切り離されることのない絆で結ばれるようになる、ということを主イエスは祈り願われたのです。私たちが一つになることは、人間どうしの思いを突き合わせて、対話をして一致点をさぐることによって実現することではないのです。人間の思いをいくら突き合わせても、それで一つになることはできません。そうではなくて、父なる神様と独り子主イエスとの一つである交わりの中に、私たちも入れて頂いて、父なる神様と独り子主イエスが一つとなって抱いておられる思いを知ること、具体的には、ヨハネによる福音書の3章16節の、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と語られている神様の愛を知ること、そして、私たちもこのみ言葉に従って独り子を信じて、永遠の命にあずかる者となることです。そのことに於いて、私たちは一つとなることができると言うのです。主イエスはそのことを父なる神様に祈り願って下さったのです。

プロバスケットボール選手、オスカー・ロバートソン

 さて、一つになると言いましても、なかなかぱっと理解であることではないと思います。

 アメリカのプロバスケットボール史上最高の選手として、伝説的な名選手がいます。オスカー・ロバートソンという選手です。身長196センチ、体重100キロとフォワード並みの長身と屈強な肉体の持ち主でありながら、ガードとしての優れたスピードと俊敏さを兼ね備え、さらにバスケットIQも非常に高いという、非の打ち所のない万能な選手です。当時のスポーツ記者からは「ハンターの目、マジシャンの手、スプリンターの脚を併せ持った男」と評された名選手です。現役時代の14年間に、アシスト王6回、オールスターゲーム出場12回、オールスターゲームMVP受賞3回、オールMBAチーム選抜が11回、1960年代から1970年代にかけて、最も輝いた選手の一人です。特にアシストがすごかったのです。アシストというのは、ゴールにつながるパスをすることをアシストと言います。シュートするのは他の選手ですが、ゲームの流れの中において、一番シュートしやすい選手に芸術的なパスを繰り出す名人でした。現役時代、なんと9887回ものアシストに成功しているのです。後年、あるスポーツ記者が彼に尋ねたのです。選手として一番のアシストは、どのチームとの試合のどんな場面のアシストでしたか?こう尋ねたのです。この質問に対して、彼はこう答えたのです。「娘の腎臓移植のために、私の腎臓一つを送ったことだ。あれこそ人生最高のアシストだった」。

 なぜこれが最高のアシストなのでしょうか。自分の腎臓をプレゼントすることで愛する娘を死から取り戻すことができたからです。キリストは一つしかない命を、私たちのために、十字架に於いてささげて下さいました。それは私たちに罪の赦しを得させるためです。そして、私たちのために死んだだけではなく、3日目によみがえられることによって、死に打ち勝たれたのです。

 主イエスは今日のこの「大祭司の祈り」の後、私たちのためにキリストは一つしかない命を、私たちのために、十字架に於いてささげて下さいました。それは私たちに罪の赦しを得させるためです。そして、私たちのために死んだだけではなく、3日目によみがえられることによって、死に打ち勝たれたのです。

 民の罪の贖いのために、年に一度、犠牲の動物をいけにえとして献げ、民のために神様にとりなしをすることが大祭司の務めでした。主イエスは私たちのためのまことの大祭司として、動物ではなくご自分の命を献げて、罪の赦しと永遠の命という救いを実現して下さったのです。その大祭司である主イエスが、私たちのために父なる神様に祈り、とりなしをして下さったのがこの祈りです。この祈りに、父なる神様が、独り子主イエスと一つになって実現して下さった神様の愛が示されており、聖霊なる神様が私たちをその愛の中で生かし、その愛を証しする者として下さることが示されています。私たちの信仰の歩みは、この大祭司主イエスのとりなしによって支えられているのです。私たちは今、ウクライナでの戦争や新型コロナウイルスによる不安や恐れの中にありますが、そのような不安の内にいる私たちのために、主イエスが祈って下さったこの祈りを受け止め、主イエスがこのように私たちを支えて下さっていることを信じて歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。