小倉日明教会

『人の子について預言者が書いたこと』

ルカによる福音書 18章 31〜34節

2024年7月21日 聖霊降臨節第10主日礼拝

ルカによる福音書 18章 31〜34節

『人の子について預言者が書いたこと』

【奨励】 川辺 正直 役員

「わかる」ことは「かわる」こと

 おはようございます。さて、解剖学者・養老猛司先生と物理学者・佐治晴夫先生の対談を収めた『対談・「わかる」ことは「かわる」こと』(河出書房新書)という本にこんな話が載っています。あるとき、佐治先生は高校で理科を担当している先生たちの研修会に呼ばれ、宇宙に関する一般的な話をされたそうです。すると講義後、立派な学歴と業績を持つ先生が佐治氏のもとにやってきて、「先生が話されたことは全部知っている。それよりもビックバンが起こる前に、どんなゆらぎがあったか、そこのところの数学的な話が聞きたかった」と言ったそうです。そこで、佐治先生は、「宇宙のことを知るということは、宇宙のことをあなたが勉強して知ることによって、あなたの人生がどう変わったかということをもって、知る、ということなのです。あなたは生徒に、授業を通して彼らの人生をどのように変えられるかということを念頭において、地学の講義をされていますか」と答えたのです。そして、佐治先生は、「《わかる》ということは《かわる》ということです」、と結ばれたのです。

 前回、お話ししたルカによる福音書18章28節には、『するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。』とあります。ペトロは主イエスの教えを、自分は理解したと思ったのです。それで、ペトロは、私たちはものに束縛されていない、こだわりを持っていない、私たちは貪りの心を捨てて、主イエスに従って来ましたと、自分たちの行い、自分のことを主張しているのです。つまり、ペトロは、私たちはこの金持ちの議員ができなかったことをしてきた、ということを主張しているのです。主イエスは、ペトロの主張を理解しています。なぜなら、主イエスは、神様としてのあり方の全てを捨てて、この世に来たのです。そして、主イエスは、神の国のために、犠牲を払ったものは、祝福を受けるのだという約束を与えられた後に、本日の聖書の箇所の受難の予告を語られたのです。本日は、主イエスはなぜ3度目の受難の予告を語られたのかということを、皆さんと共に学びたいと思います。

受難の予告

 ルカによる福音書には、主イエスの受難の予告が3回記されている。最初の受難予告は、ルカによる福音書9章22節で、ペトロの信仰告白の直後に、主イエスは、受難の予告を語るのです。主イエスは、ペトロの信仰告白を、正しい信仰理解を持ったと、喜ばれたのです。それで、いちばん重要な受難の予告を語るのですが、ペトロは理解することができなかったのです。これが、1回目の受難予告であったのです。2回目の受難予告は、ルカによる福音書の9章の43b〜45節です。これは少年から悪霊を追い出した直後に、主イエスは受難予告を語っておられます。そして、3回目が本日の聖書の箇所の18章の31〜34節で、エルサレムに近づいた時に語られたものです。ルカの福音書では、この3回の受難の予告が記されているのです。そして、これらの受難予告に見られる特徴的なことは、後になればなるほど、受難予告の内容が詳しくなって行くのです。本日は、ルカによる福音書の中では、最も詳細な受難予告になっている3回目の予告について学びたいと思います。

 本日の聖書の箇所の18章の31節を見ますと、『イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。』とあります。さて、主イエスは12人を呼び寄せて、3度目の受難の予告を語られました。主イエスは、12人を『呼び寄せて』、語られたと、福音記者ルカはわざわざ書き記しています。これは、主イエスと弟子たちの親密な関係を表現しています。そして、それだけではなくて、これから語られる内容が極めて重要であることを、前もって示しているのです。これから、主イエスが語られる、わずか何節かの間に出てくる言葉に関して、主イエスの弟子であることを自認している私たちは注意深く、耳を傾ける必要があるということなのです。主イエスは、今、私たちをそばに呼び寄せて、重要な真理を語ろうとされているのです。弟子たちは、しっかりと耳を傾けたことと思います。

 そこで、この時に主イエスが語られた話の内容は何かということですが、まず、主イエスと弟子たちは、『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く』とあります。これは、主イエスの意志を表しています。弟子たちも主イエスも知っていることがあります。それは、エルサレムに行けば、危険が待ち受けているということです。しかし、危険が待ち受けていることを知りながら、主イエスはご自身の意志で、エルサレムに上って行くのです。ここに、主イエスの心のあり方、固い決心が見られると思います。危険なのです。このことをよく理解しているのです。しかし、それでもなお、主イエスは上って行かれるのです。なぜかと言いますと、エルサレムで十字架に掛かるためなのです。

人の子について預言者が書いたこと

 さらに、主イエスは、『人の子について預言者が書いたことはみな実現する。』とおっしゃられたのです。つまり、これから主イエスに起ころうとしていることは、旧約聖書の預言者たちが書き記していたメシア予言はすべて成就するのだということを言っているのです。4つの福音書がありますが、ルカだけが、エルサレムで起こることは、旧約聖書の成就であると書いているのです。

 ルカによる福音書の22章の37節を見ますと、『言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。』とあります。これは、主イエスが旧約聖書の預言は、私の上に成就すると言っていることの具体例なのです。さらに、同じく福音記者ルカが書き記した使徒言行録の13章29節を見ますと、パウロのメッセージの中で、『こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。』と記されていることが分かります。ここで、『イエスについて書かれていること』というのは、旧約聖書の中に書かれているメシア予言のことなのです。そして、『人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。』と、ルカは書き記しています。

 なぜ、4つの福音書の中で、ルカだけが旧約聖書が全て成就するのだと書いているのでしょうか。それは、ルカによる福音書の読者である異邦人信者に、主イエスはメシア予言を成就するお方であるということについて、より深い確信を与えようとしているのだと思います。そして、これから取りあげます本日の聖書の箇所の32〜33節の内容は、預言者たちがそれぞれの時代に、それぞれの文脈で語った予言を総括して、これが成就すると、主イエスは語られたのです。つまり、預言者たちのメシア予言の総括になっているのです。

侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、

 本日の聖書の箇所の32〜33節を見ますと、『人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。』とあります。これが、旧約聖書のメシア予言で語られていたことの総括なのです。

 まず、『人の子は異邦人に引き渡されて、』とあります。人の子というのは、主イエスのことですが、この言葉が、ここで出てきている理由というのは、ルカは、ルカによる福音書の読者である異邦人信者に対して、『人の子は異邦人に引き渡されて』、つまり、主イエスの受難の背後には、異邦人の関わりもあるのだということを、ここで主イエスは予告しているということを示しているのです。つまり、ルカがこのことをここで取り上げている理由は、ルカによる福音書の読者である異邦人たちにも、自らの責任を自覚させることにあるのです。異邦人も、主イエスの受難に責任があるのだということです。

 そして、この言葉の後に、受難の予告に関する言葉が続くのです。ルカはこの受難の予告を、これから記録する物語のアウトラインのようにして書いているのです。

 最初にお話しました、『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。』という言葉の内容は、ルカによる福音書18章35節〜19章45節に示されています。そして、2番目の『人の子は異邦人に引き渡されて、』という言葉の内容は、ルカによる福音書19章47節〜23章1節に出てきます。3番目の『侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。』という言葉は、ルカによる福音書23章1〜32節に出てきます。そして、4番目の『彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。』という言葉は、ルカによる福音書23章33〜56節に出てきます。5番目の『そして、人の子は三日目に復活する。』という言葉は、ルカによる福音書24章1〜12節です。これが、主イエスが語られたメシア予言の内容が、ルカによる福音書の中で、どのように成就してゆくのかという相関関係について示したものになります。本日の聖書の箇所の受難予告が、今後出てくるルカによる福音書の記録の展開を示した内容となっているのです。主イエスの受難と復活の物語が、あらかじめ主イエスの口によって、本日の聖書の箇所で明確に表現されているのです。ところが、このことが弟子たちには理解できなかったのです。

十二人はこれらのことが何も分からなかった。

 本日の聖書の箇所の34節を見ますと、『十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。』とあります。今の私たちから見ますと、このように明確に語られているのに、不思議なことが起きています。今の私たちは、主イエスが十字架に掛かり、墓に葬られ、3日目によみがえり、今も生きておられる、このことを信じていますので、これからどうなるか分かっているから、不思議に思うのです。弟子たちは、主イエスの受難というのは、まだ将来のことなのだと考えているのです。それで、彼らは何も分からなかった。『彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。』とあります。

 この短い34節の中に、弟子たちが理解できなかったという言葉が、2回、念を押すように出てくるのです。『何も分からなかった。』、そして、『言われたことが理解できなかったのである。』と書かれている言葉です。弟子たちの無理解が、2回強調されて、書き記されています。なぜ、弟子たちは理解できなかったのでしょうか。それは、弟子たちには強い思い込みがあったのだと思います。どういう思い込みがあったのかと言いますと、紀元1世紀のユダヤ教のメシア像に、弟子たちは捕われていたのだと思います。紀元1世紀のユダヤ教のメシア像というのは、メシアは栄光の王として来られる。そして、メシアは直ちにローマの圧政からイスラエルを解放して下さる。こういう期待を持っていたわけです。私たちにとっては明らかですが、これは初臨のメシアではなくて、再臨のメシアのことで、そのことを彼らは信じていたのです。再臨は、まだ将来のことなのです。まず、初臨があり、それから、再臨があるのです。旧約聖書では、初臨と再臨のメシア予言があるのですが、そのことに関心を払わないで、栄光の王として来られる再臨のメシア像だけに、彼らの関心が向かっていたのです。つまり、彼らには、メシアは栄光の王として来られるという、強い思い込みがあったのです。思い込みがあると、それ以外のことを啓示されても、受け入れることができないのです。

 12人の弟子たちは、再臨のメシア像に捕われていましたが、初臨のメシア像について聖書の伝える最も有名な旧約聖書の箇所は、イザヤ書の53章です。『苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。//捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。』(イザヤ書53章7〜8節)とあります。なお、この箇所は、使徒言行録8章32〜33節で引用されています。預言者イザヤが予告した、民の裏切りによって逮捕され、裁判中黙秘を貫き処刑される人物が描かれています。神の手にかかって殺された人物こそ、十字架のイエスであると、後に弟子たちは信じました。自分たちが裏切ったからです。

 ホセア書6章1〜2節には、『「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。//二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。』とあります。この言葉は、預言者ホセアが主イエスの復活を直接に予告した言葉と読むことができると思います。この言葉は、ルカによる福音書の13章32節でも、引用されています。

 旧約聖書に初臨のメシア像が掲示されていても、思い込みがあると、受け入れることができないというのは、12人の弟子たちだけの問題ではありません。私たちにも同じことが起こることなのではないでしょうか。なぜ、聖書がこんなにも丁寧に福音について書いているのに、多くの人たちは信じないのでしょうか。何かの思い込みがあるからだと思います。聖書以外の世界観が正しいと信じているからだと思います。私たちも、予断を持って、あるいは言い換えると、先入観を持って聖書に向かうと、神様が私たちに伝えたいと思っておられることが、見えてこないのだと思います。従って、聖書と向き合う時に、何が重要なのかと言いますと、心をもう一度、偏らないニュートラルな状態にリセットして、素直な思いで聖書の本文に向かい、自分が聖書本文を支配するのではなくて、聖書本文そのものが語りかけてくる神様の語りかけを聞くことができるような思いというものを常に確認する必要があるのだと思います。聖書本文が語りかける真理の声、神さまの声は、小さな声ですので、頑固な思い込みがあっては、本当の意味がなかなか理解できないと思います。

『打ち砕かれたバイオリン』

 ドイツの作家で、ノーベル文学賞作家となったトーマス・マンという人がいます。名前を聞かれた方も多いと思います。実は彼には、お兄さんがいました。ハインリッヒ・マンという人です。名前を聞いたことがある人はほとんどいないと思います。しかし、このお兄さんも作家だったのです。

 しかし、世の中の評価は、兄弟で全く違っていました。圧倒的に弟のトーマス・マンの方が高かったのです。二人の考え方はかなりの部分で異なっていました。対立することも多く、8年間も仲たがいしていたこともありました。さて、このハインリッヒ・マンの作品に、『打ち砕かれたバイオリン』という短編があります。これは作者が50代半ばになってから子供のころを思い出して書いた自伝的な連作短編なのです。

 ストーリーはいたって単純です。主人公にはひとつ、とっても大切にしていた宝物がありました。それはバイオリンです。作者である少年は、正式にバイオリンを習ったことはありません。しかし、バイオリンが好きで、好きでたまらないのです。下手くそでも、毎日練習していたのです。

 学校になかなかなじめなかった少年にとって、家に帰ってバイオリンにさわることだけが楽しみだったのです。ところが、あるとき家に帰ると、年の離れた弟が勝手に弾いているのです。バイオリンを入れたテーブルの引き出しは、小さい弟には手が届かないのです。家の中の誰か大人が出してやったのに違いないのです。それで、自分の宝物が許可なく弟に渡されたのを見た少年は、かんしゃくを起して怒鳴り散らすのです。「いったい誰がバイオリンを出したのだ。勝手なことをして何だ」とわめき散らしたのです。

 しかし、弟は口を割らず、お手伝いさんも何も言わず、お母さんは全くの無視なのです。そして、無視することでかんしゃくを起こしている少年に罰を加えているのだ、と本人は思ったのです。

 そのことでますます少年は怒りました。彼が特に怒りを爆発させたのは、お母さんが少年ではなく、少年の弟の方を守ったからです。正義感の強い少年は、ねたみ、苦しみ、とても傷ついたのです。そしてこの日を境に少年は、バイオリンを弾かなくなります。ある日学校から帰ると、バイオリンは無茶苦茶に壊れて床に散らばっていました。そのとき、少年はやっと泣くことができたのです。それまで少年は、泣いたことがなかったのです。というのは、年下の子がやったことで年上の子が泣くようなことは、あってはならないと思っていたからです。しかし、もう限界です。彼はただ泣いていました。すると自分の首のまわりに、優しい腕があてがわれているのを感じたのです。それはお母さんの手でした。お母さんは自分を抱き寄せ、優しい口調で少年をいたわったのです。次の瞬間、少年は突然、優等生の心境に変わります。そして「僕の振る舞いはなんて幼稚だったのだろう」と反省するのです。

 この作品で、少年が急に物分かりが良くなったので、読んでいる読者はついて行けません。しかし、本当にそう思ったというのです。理由は明らかです。今までずっと弟に取られたと思っていたお母さんが、自分のところに戻って来て、愛情を注いでくれたからです。彼は一番大切な人からの愛で、満たされたので、落ち着きを取り戻すことができたのです。人は、大切な人に理解されていないと思うと、イライラし、攻撃的になり、ひねくれた考えに陥りやすいものです。なぜ、そうなってしまうのでしょうか。神様は、苦しんでいる人に寄り添う、憐れみ深いお方であることを忘れているからです。

覆いが取り除かれるとき

 さて、34節に戻りますが、弟子たちが、主イエスが語られたことを理解できなかったのは、『彼らにはこの言葉の意味が隠されて』いたから、と記されています。主イエスの言葉の意味が隠されているというのも、その言葉の一つ一つの意味が分からなかったということではなく、主イエスが告げられたことの本当の意味が分からなかった、つまり、主イエスの言葉を他人事としてではなく、自分のこととして受けとめることができなかった、ということだと思います。この『隠されている』という言葉は、『覆いが掛けられている』という意味の言葉です。『覆いが掛けられていた』ので、12人の弟子たちは主イエスの言葉の本当の意味が分からなかったのです。

 ですから、主イエスの言葉の本当の意味が分かるためにはこの覆いが取り除かれなければなりません。それは、いつなのでしょうか。いつ、弟子たちは主イエスの言葉の本当の意味が分かるのでしょうか。それは、十字架で死んで、復活された主イエスが弟子たちに出会ってくださり、聖書を説き明かしてくださったときです。そのことを通して、3回目の主イエスの受難の予告でルカによる福音書だけが見つめている、主イエスの十字架と復活が旧約聖書全体の成就であると分かったときなのです。

 ルカによる福音書の24章44節以下では、この『覆いが取り除かれるとき』について語られています。復活の主イエスが弟子たちに出会ってくださり聖書を説き明かしてくださったことが語られているのです。44節でこのように言われています。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、あなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである』。『モーセの律法と預言者の書と詩編』とは、31節の『預言者が書いたこと』と同じように、旧約聖書全体を指しています。本日の箇所で、主イエスが12人の弟子たちに予告されたことが、『あなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと』であり、ご自身について、旧約聖書全体に書いてある事柄は、必ずすべて実現すると、ご自身の十字架と復活は旧約聖書全体の成就であると語られていたのです。しかし、そのとき弟子たちは何も分からなかったし、何も理解できませんでした。それが分かったのは、続く24章の45節にあるように、主イエスが『聖書を悟らせるために』、弟子たちの『心の目を開いて』くださったときなのです。そのとき、主イエス・キリストが苦しみを受け、十字架に架けられて死なれ、三日目に死者の中から復活したことが旧約聖書全体の成就である、と分かったのです。

 そのように弟子たちは、復活の主イエス・キリストに出会ってから、受難の意味を理解するようになったと言うことができると思います。主イエス・キリストが十字架上で死に、墓に葬られ、3日目に甦り、40日間、復活のキリストから教えを受けている間に、徐々に受難の意味を理解するようになったと思います。最終的には、ペンテコステの日に聖霊が降り、聖霊の教えを受けて、彼らは受難の意味を深く理解するようになったのです。

 主イエスが、公生涯を生きておられる間、一番近いところにいる弟子たちでさえも、主イエスの思いを理解することができなかったのです。ですから、主イエスは弟子たちから理解されない孤独を味わったと言うことができるかと思います。主イエスは理解されないことから来る孤独について、よく理解されているお方だと思います。それ故、私たちは主イエスに対して、信頼することができると、信頼を告白することが出来るのではないでしょうか。

 私たちは、今、初臨と再臨の間の時代に生きています。これは、教会時代とも呼ばれる時代なのです。そして、教会時代の終わりには、キリストの再臨が起こるのです。私たちは、初臨と再臨の間の時代に生きているということは、キリストを信じて救われて、永遠の命を受けているのですが、まだ、神様のご計画は完成していないということなのです。私たちに用意されている神様のご計画もまだ完成されていなくて、現在もなお進んでいるということなのです。

 キリストを信じても、なぜ、様々な苦難があるのか。この世界はなぜ思う通りに良くはならないで、問題ばかり増えて行くのか。なぜなのか、その理由は、今は中間時代で、キリストの再臨に向かって、様々なことが準備されている時代だからです。キリストの再臨に対する希望を持った人は、中間の教会時代に経験する試練や艱難に対して、忍耐をもって向き合うことができるようになると思います。それ故、今という時代を、私たちは忍耐と信仰を持って生きて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します