【説 教】 牧師 沖村 裕史
■舞う綿毛
皆さんは、数え切れないほどの綿毛が空を舞うのを見たことがおありでしょうか。
体と心の奥にぬぐい切れない疲れがあるのを感じて、久方ぶりに、山深い、鄙(ひな)びた温泉を訪ねたときのことです。目の前を、白く、柔らかな、大きなシャボン玉のような綿毛が風に吹かれ、ゆったりと舞っていました。その辺りを埋め尽くすようにして生えているのはアザミの一種でしょうか。子どもの頃、よくたんぽぽの綿毛を吹いて遊んでいました。でも、まん丸いままの、それも数え切れないほどの綿毛が舞うのを見たのは初めてのことでした。綿毛の美しさにしばらく時を忘れていました。ふと、綿毛の舞う姿が美しいのはなぜだろう、そんなことに思いを巡らしていました。
風に流されるだけの、頼りなげなその姿が美しいのかもしれない…、いや、己が身をただ風に任せ、それでいて自由なその姿が美しいのではないか。強い風が吹けば跡形もなく飛び散り、強い雨が降れば種もみんな流れ去ってしまうほかない綿毛だけれども、それもこれも含めてすべてを神に委ねて、花を咲かせ、真綿のような種を実らせ、風にその身を任せている。何と伸びやかで、何と自由なのだろう、何とたくましく、何と美しいのだろう。綿毛は、そのいのちの終わりなのだろうか、それとも始まりなのだろうか。きっと終わりであり、始まりなのだろう。いのちの姿は美しい。そのいのちがどれほど小さく、どれほど頼りなげでも、いや、であればこそ、神にすべてを委ねている姿がとても美しい…、わたしもそうありたい、そう祈りました。
■不安と恐れの中で
先ほどお読みいただいた 創世記にも、風に吹かれて舞う綿毛のように、思いもかけぬ数々の試練に翻弄されながらも、神を信じ抜き、神にすべてを委ねた、ヤコブの姿が描かれています。
この場面は、「ヤボクの渡し」と名づけられた渡し場にやって来たところから始まっています。ヤコブは今、二〇年の歳月を経て、再び故郷へ帰ろうとしていました。故郷へ。それは神の導きによるものでした。神は言われました、
「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」(創三一・三)
二〇年も前に故郷を離れざるを得なくなったそもそもの原因は、ヤコブ自身にありました。ヤコブは、兄エサウのひもじさにつけ込み、レンズ豆の煮物と引き換えにまんまと「長子の特権」を手に入れ、さらには母リベカと示し合わせて、目の見えなくなっていた父イサクを騙し、兄が受けるはずだった「祝福」さえも奪い取ったのでした。正義感も、良心の欠片もない振る舞いです。ヤコブは、騙されたことに気づいた兄の激しい怒りを買い、身一つだけ、何一つ持つこともなく、文字通り、追われるようにして旅立ちました。
ヤコブは、母方の叔父ラバンのもとを目指します。頼るものもない、将来に一片の光も見出せない、まさに不安と苛立ちの旅でした。しかしその時にも、神はヤコブに約束をお与えになります。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創二八・一三)
ヤコブは叔父のもとで懸命に働き、叔父の娘ふたりを妻に迎え、たくさんのこどもにも恵まれ、大きな富を得ました。神の約束があったのだから、ヤコブは大した苦労もせず、易々(やすやす)と家庭も財産も手に入れたのだろう、そう思われるかもしれません。しかしそうではありません。強欲な叔父ラバンに翻弄されながらも、ヤコブは毎日を必死に生き抜きました。
その間、ヤコブが神に祈りを捧げる姿はどこにも描かれません。神の恵みではなく、自分の知恵と力で、血の滲む努力と忍耐で、この豊かさを築き上げたのだ。ヤコブはそんな自負心を抱いていたのかもしれません。その傲慢さを見透かすかのように、神はまたもお命じになります。故郷へ帰れ。豊かな家庭と富を築いて故郷に錦を飾るのですから、普通であれば、意気揚々、鼻高々のはずです。しかしヤコブには深い悩みと不安がありました。帰ろうとする先には、今もヤコブを赦さず、憎み続けているかもしれない兄エサウが待っているからです。
ヤコブはそのことを確かめるために、エサウのもとに使いを出します。ヤコブは兄エサウに、「…使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします」と身を低くし、エサウの様子を伺います。しかし使いの者が帰って来てもたらした知らせは、ヤコブにとって最悪なものでした。七節、
「使いの者はヤコブのところに帰って来て、『兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます』と報告した」
エサウは四百人の供を連れて、ヤコブを迎えようとこちらへ向かっている。しかし、この「迎える」は「歓迎する」という意味ではなく、「迎え撃つ」というニュアンスの言葉でした。
エサウのヤコブに対する憎しみは、二〇年経った今も、少しも和らいではいませんでした。 前に進むことも、後ろに引くこともできません。これがヤコブの置かれている状況でした。ヤコブは、人生の大きな転機にさしかかっています。神の祝福の約束が実現するか、それとも潰(つい)えてしまうかの瀬戸際に差し掛かっています。そんな転機に直面して、ヤコブはひどく恐れ、深く思い悩みました。
しかも、この恐れと不安は自分のせいです。自分の犯した罪の結果です。 いわば自業自得です。人生の転機に、自分の罪によって生じた苦しみに直面している、それがヤコブの姿でした。
わたしたちの人生にも、そんなヤボクの渡しがあります。どうしても渡らなければならない、避けて通ることの許されない転機があるものです。その時、わたしたちの誰もが、恐れと不安に苦しまずにはおれません。
■必死の祈り
二三節以下に描かれるのは、そのヤボクの渡しで、ヤコブが真夜中に何者かと格闘したという、実に不思議な出来事です。読み進むと、この「何者か」が神ご自身であったと分かります。ヤコブが神と格闘して勝ったというのです。
これは一体どういう意味なのでしょうか。
ある学者の研究によれば、この物語の背後には、このヤボクの渡しにまつわる古くからの伝説がある、と言います。この渡し場に住む魔物の伝説です。夜、渡ろうとする旅人を川にひきずり込む魔物。日本で言えばカッパ伝説のようなものです。いわば、人生の転機であるヤボクの渡しを渡る時に、誰もがある魔物と戦わなければならないということでしょう。それは、「恐れや不安」という魔物、あるいは、過去へのこだわり、未練や後悔という魔物でもあるかもしれません。人生の転機にわたしたちは、わたしたちを深い淵へと引きずり込もうとする、そうした魔物と戦わなければならない。そういう戦いなしに、新しい道は開けないという訳です。
しかし、この出来事の最も大切なことは、人生の転機に、わたしたちが戦うべき相手は誰なのか、ヤコブがここで格闘した相手は神であった、ということです。人生の様々な転機にわたしたちが格闘する相手は、悪魔や魔物、敵対する憎むべき相手ではありません。自分自身の弱い心や罪と格闘するのでもありません。格闘の相手は神なのだ、とこの話は教えます。えっ、神様と格闘するって、どういうこと?思わず絶句してしまいそうです。しかしヤコブは、神と格闘して、しかも勝ったとあります。一体どういうことなのでしょうか。
そもそも、ヤコブはここで、何のために格闘しているのでしょうか。神を打ち破るためでしょうか。そうではありません。二七節、
「『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』」
ヤコブが求めているのは、神の祝福です。兄を唆(そそのか)し、父を騙してまで手に入れようとした神の祝福です。 わたしたちが、ヤボクの渡しという人生の転機にしなければならない戦いは、ひたすら神の祝福を求める格闘なのだということです。
直前一〇節から一三節に、そんなヤコブの赤裸々な姿が描かれていました。
「ヤコブは祈った。『わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。「あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える」と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。「わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする」と。』」
格闘とは、必死の祈りのことでした。彼は、大きな恐れと不安の中で、しかもその原因は自分自身の罪であるという現実の中で、それでもなお、いえ、であればこそ、神の約束のみ言葉を頼りに、神の祝福を必死に祈り求めたのでした。彼は、自分がその祝福を受けるに足りない、相応しくない者であることを、はっきりと知っていました。
「祝福してくださるまでは離しません」というヤコブの格闘は、自分が相応しくない者であることをはっきりと認めつつ、しかしその自分の姿を見つめるのではなく、ただ神の約束のみ言葉のみを見つめ、それにより頼んで祝福を求めていくという、祈りにおける格闘でした。
■名を問う
この格闘の結果、ヤコブは神の祝福を勝ち取ったのですが、その場所で、名前についての一連の問答が語られています。神は彼に「お前の名は何というのか」と問われ、彼が「ヤコブです」と答えます。
名前は、古代の人々にとって、その人の存在そのもの、いのちも人生も人格をも含む、いわば全存在を意味します。相手に自分の名前を告げるということは、自分を相手にさらけ出し、その支配にすべてを委ねるということです。ヤコブは今、神に自分のすべてをさらけ出し、委ねています。そして続けて、ヤコブは神に、「どうか、あなたのお名前を教えてください」と尋ねます。それは、神を自分のものにし、自分の支配下に置いて、いつでも好きな時に呼び出して利用できるようにする、ということです。しかし神は、名を明らかにされません。ヤコブは、神の名を知ることができませんでした。
格闘の結果、何が起ったのでしょうか。
ヤコブは自分のすべてをさらけ出し、すべてを神に委ね、神の祝福を求めました。それに対して神は、ヤコブに支配されたり、ヤコブのものになったりしません。神とヤコブとのあるべき関係が明らかにされ、その上で、神は彼を祝福してくださったのです。ヤコブが神を打ち負かして、祝福を勝ち取ったように見えますが、本当は、自分のすべてをさらけ出し、委ねて、祝福を求めたヤコブを、神が恵みによって受け入れ、祝福してくださったのです。
その祝福において、神は彼に新しい名前、イスラエルという名前を与えてくださいました。新しい名前を与えるということは、その人を全く新しい者とするということです。ヤコブはここで、神によって新しくされたのです。
彼はそれまで、ヤコブでした。ヤコブという名は、彼が誕生の時、兄エサウの踵(かかと)をつかんでいたことから名づけられたと二五章にあります。彼はその名の通り兄の踵、足を引っ張り、父をも騙して祝福を奪いました。そのために兄の憎しみを受け、亡命の生活を余儀なくされました。そして再び故郷に帰ろうとする今も、恐れと不安の中にいます。それがヤコブの過去であり、現在です。
その恐れと不安の中で彼は、自分が恵みに相応しくない罪人であることをはっきりと告白しつつ、それでもなお神の祝福を求めて、神と格闘するように祈りつつ、ヤボクの渡しを渡りました。そのヤコブを神は祝福してくださり、イスラエルという新しい名前を与えてくださいました。
イスラエルという名前は「神と闘って勝った」という意味だと語られていますが、本来の意味は逆で、「神は支配される」という意味です。人の踵(かかと)をつかんで引きずり下ろし、上に立って支配者になろうとしていたヤコブが、神こそ支配者であることを認め、その支配に従って歩む者に変えられたことを意味する名です。そこに神の愛が、神の祝福が示されています。
わたしたちは、神と格闘するほどに、神と出会っているでしょうか。神を心から信頼し、より頼み、決して離れぬほどにすがって生きているでしょうか。風にただ翻弄されるように見える綿毛のように、すべてをお委ねしているでしょうか。何があってもすがりつき、祈り、すべてを委ねるわたしたちを、神が祝福してくださらないはずはありません。