【奨 励】 役員 川辺 正直
■野村胡堂と内村鑑三全集
おはようございます。野村胡堂という作家の名前はよくご存じの方も多いかと思います。『銭形平次捕物控(ぜにがたへいじとりものひかえ)』の作者と言えば、ああ、あの人のことかと思い出される人も多いのではないでしょうか。1882年(明治15年)に野村胡堂(本名:野村長一)は岩手県彦部村の農家の次男として生まれます。父長四郎は、野村胡堂を医学部へ進学させようとしますが、胡堂は反発し、結果としてどちらの希望でもない東京帝国大学法科大学へ進学します。しかしながら、村長をしていた父親が村おこしの事業に失敗したことの責任を取って破産し、多額の借金を抱えて、亡くなったことに伴い、授業料を滞納してしまい、卒業まで後3ヶ月というところで、東京帝国大学を除籍になってしまったのです。それで、知人の紹介で『報知新聞社』に入社し(1912年)、人物評論欄の『人類館』の連載の担当となりました。その人類館に登場した人物は、後藤新平、与謝野晶子、森鴎外、新渡戸稲造と当時、一流の人物と目された人たちばかりでした。『人類館』は連載終了後、一冊の本にまとめて出版され、胡堂にとって初めての著作となりました。しかし、思ったままに歯に衣を着せずに書いた内容に関係者から苦情が殺到したために、この後会社の命令で、胡堂の名前で記事を書くことを禁じられてしまうということもあったそうです。
1931年(昭和6年)、野村胡堂は、文藝春秋から、『岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを書いて欲しい』と依頼されます。結核に侵されて病床に在った長男の一彦さんの為に、子供でも読むことが出来る健康的な娯楽読み物をとの思いも込めて、野村胡堂は代表作となる『銭形平次捕物控』の執筆を始めたのです。しかし、野村胡堂の思いも虚しく、3年後の1934年(昭和9年)に、長い闘病生活の末、21歳の一彦さんは終に帰らぬ人となってしまったのです。2学年も飛び級をした秀才で、胡堂の自慢の息子でもあった一彦さんには、愛読書がありました。それが、内村鑑三全集であったのです。野村胡堂には、戦争中の思い出を綴った『内村鑑三全集と今村均』という文章があります。その文章をお読みしたいと思います。
『内村鑑三全集と今村均』 野村胡堂
戦争中の思い出は、誰だって、ロクなことはないが、たまには、こんな話もある。
戦局が、だんだん落ち目になって、ラバウルの大要塞も、進攻するアメリカ軍の後方に置いてきぼりを食いそうになった頃である。
ある日、参謀本部から、使いの将校が私の家へ来た。私としては、憲兵隊へ引っぱられるような覚えもないし、おほめにあずかるほどの心当たりもない。とにかく、応接間へ通ってもらうと、
「実は、ラバウルの司令官今村均大将が、陣中で読みたいから内村鑑三全集を送れと言って来ました。さっそく発行所の岩波書店に連絡したが一冊もない。神田、本郷の本屋街を、軒並み探したが駄目である。この上は、誰か蔵書家に頼むほかはないといっているところへ、金子少将が来合わせて、野村胡堂氏が持っているはずだということでした」
金子少将が、私の書架に内村鑑三全集のあることを、どうして知っていたのか。それは分らない。私がしばらく考えていると、
「如何(いかが)でしょう。まげておゆずりを願いたい」
さすがに、軍の命令だと高飛車なことは言わなかった。
私としては、お安い御用と言いたかったが、実はこの全集は私の所有であって、私の所有でない。昭和9年に、東大在学中に病死したひとり息子の一彦が、死の直前まで愛読した遺品である。ページのところどころには、鉛筆で彼の書入れがある。子供を死なせたことのある父親なら、私の気持は、分ってもらえると思う。
一両日、考えさせてもらうことにして、夕刻、外出先から帰った家内に相談すると、
「それは、差し上げた方がいいでしょう。一彦も、いやとは申しますまい」
という。それでは、と、翌日すぐに参謀本部へ電話をかけた。間もなく、全集は、参謀副長が携えて、南太平洋をラバウルへ飛んだ。
やがて、終戦となり、今村大将は、一たん内地へ護送されたが、部下を残して、自分ひとり日本へ帰るに忍びないと、自ら進んで、再び南方へ虜囚として戻って行ったという話をきいた。
その後、再び日本へ送られ、巣鴨拘置所へ入った大将は、思いがけない手紙を私によこした。
「……内村鑑三全集を寄贈していただいたことを知りました。飛行機が海に落ち、参謀副長も戦死して、ついに自分の手に入らなかったことは残念であるが、御芳志は、幾重にも御礼を申上げる……」
やがて、巣鴨を出た今村氏は、当時珍しいウィスキーを手土産に私の家を訪ねて来られた。私は、そのウィスキーを飲んでしまうのが惜しくて、何時までも固く栓をしたまま置いてある。
ラバウル十万の将兵を無謀な玉砕に追いやることなく、地下に潜って百年持久の計を樹(た)て、貴重な生命を救い得たのは、戦陣の中に、内村鑑三全集を読みたいと考えたその魂であったと思う。玉砕の名は美しいが、忍びがたきを忍んで、十万の生命を助けたのと、今から考えて、いずれが本当の勇気であったか。私は、南の海に呑まれたせがれの愛読書を、必ずしも、惜しむものではない。
このように、野村胡堂は記しているのです。さて、本日の聖書の箇所は、『解釈の十字架』とも呼ばれる、理解することが困難な箇所の一つです。ルカによる福音書6章29節では、『あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。』と主イエスはおっしゃられたのですが、本日の聖書の箇所の36節の後半では、『剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。』とおっしゃられているのです。主イエスの真意は一体どこにあるのかということを考えながら、今日の聖書の箇所を読んで行きたいと思います。
■何か不足したものがあったか
本日の聖書の箇所の35〜36節を見ますと、『それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。』とあります。この聖書の記載は、ルカによる福音書だけに記されている記事です。他の福音書には、この記事は出てこないのです。
以前、主イエスが弟子たちを派遣したことは、ルカによる福音書では2度語られています。第1番目の箇所は、9章1節以下です。12人の弟子たちが、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わされたのです。その時主イエスは、『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない』(9章3節)とおっしゃったのです。第2の場面は10章1節以下です。そこでは72人の弟子たちが任命され、2人ずつ組にして、これから主イエスが行こうとしておられる町や村に先に遣わされたのです。その時にも、『財布も袋も履物も持って行くな(10章4a節)』とおっしゃいました。
そのように、弟子たちは主イエスによって何も持たずに派遣されて神の国を宣べ伝える働きをしてきたのです。しかし、何も持たずに出かけて何か不自由したかというと、彼らがここで答えているように、何も不足することはありませんでした。弟子たちは、何も持つ必要はなかったのです。別の言い方をすると、主イエスが共にいたのです。主イエスが共にいた時には、財布も、旅行用の袋も、履物も持つ必要はなかったのです。それでも、不足するものはなかったと弟子たちは答えているのです。その内容が、本日の聖書の箇所では変化するのです。その教えが新しい内容に更新されるのです。つまり、文脈が変わると、主イエスの命令も変化するのです。ですから、旅行に行く時に何も持って行くなと、命令することは、これは本日の聖書の箇所の文脈の上では、おかしいと言うのです。それは、今、適用すべき教えではないと言うのです。それはどういうことかと言うと、今、主イエスは殺されて、いなくなろうとしているのです。これから先は、必要なものは持つ必要があると言うのです。
しかし、ここで解釈する上で、問題があります。36節には、『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。』とあります。ここでの財布、袋、剣というこれらの言葉を文字通り解釈して、それらを準備するのか、あるいは、比喩的な解釈で良いのかという、解釈上の問題があるのです。これはどういうことなのかと言いますと、どちらの解釈も可能なのです。
比喩的に解釈しますと、これは文字通り用意すると言うよりは、襲ってくる試練が厳しいから、その備えをしっかりしなさいという強調しているという意味になります。具体的に、3つのものを用意するというよりは、備えを強調しているという意味になります。例えば、主イエスが用意せよとおっしゃった剣は、実際の剣のことではなくて、象徴的な意味だと考えるのです。これから主イエスが逮捕され十字架につけられていく、その試練に直面しようとしている弟子たちに主イエスは、信仰の戦いを戦い抜くための剣を備えるようにおっしゃったのだ。その信仰における剣とは神様の言葉である。み言葉を剣として、つまり敵の攻撃から身を守る武具としてしっかり持ち、それによって信仰の戦いを戦い抜くようにと主イエスはおっしゃったのだ、と解釈できるのだというのです。そして、本日の聖書の箇所の後半の37〜38節については、弟子たちはその主イエスのお言葉の真意が分からず、実際の剣のことだと勘違いして、『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』と言った。それに対して主イエスが『それでよい』とおっしゃったというのは、そのように訳すべきではないのであって、これは『もうたくさんだ』と訳すべきだ、というのが比喩的な解釈での読み方になるのだというのです。一見、この比喩的な解釈は、福音記者ルカの意図に沿っていて、主イエスの教えと矛盾することなく、沿っているように見えるかと思います。しかし、果たしてそうなのでしょうか。
■マハトマ・ガンディー 剣の教義
本日の聖書の箇所を比喩的に解釈することが受け入れやすいように思えるのは、『非暴力』運動によって、インドを独立へと導いたマハトマ・ガンディーの存在があるからだと思います。ガンディーは『自叙伝』の中で、次のように書いています。『聖書の『山上の垂訓(すいくん)』(マタイの福音書5〜7章)は、じかに私の胸に響くものがあった。・・・『悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい』 (マタイによる福音書5章39〜40節)という句にいたっては、私を限りなく愉快にした。・・・自己放棄(ほうき)こそ、私には最も強く訴えるものを持った、宗教の最高の形式であった」』。このように書いているのです。ガンディーはクリスチャンではありませんでしたが、彼の『非暴力』の思想は、ヒンズー教の『不殺生』の教えだけではなく、主イエス・キリストの『非暴力』の教えからも影響を受けたものであるとは思いますが、本日の聖書の箇所での主イエスの教えとは異質なものであると思います。それはなぜかということを考えてみたいと思います。非暴力思想の意味を説明した最も有名な記事の一つである『剣の教義』(1920年)において、ガンディーは次のように述べています。
『(前略)…若し怯懦と暴行のうちいずれか一つを選ばなければならぬとしたら、私はきつと暴行を勧めるであろう。だから、私の長男が、1908年に襲はれて殆んど死ぬる目に遭った時あの場に居合したら、逃げ出して私を見殺しにすべきであつたか、それとも彼が用いることを得、又用いんことを欲していたところの腕力を振って私を護るべきであつたかと尋ねた時、私は腕力を用いても私を擁護するのがお前の義務であったと答えたのである。私がボア戰爭、所謂ズールー反乱、及び今度の大戰に參加したのもその故である。私が暴力的手段を信仰する人たちに武術の訓練を勧めるのもその故である。私は印度が怯懦な態度で自分が受けた不名誉を拭おうともせずに、泣き寢入りを続けているよりは、寧ろその名譽を囘復せんがために武器を執って起つことを望むものである。
けれども、非暴力は限りなく暴力に優り、情けは懲罸よりも男らしいという事を私は信ずる。情けは武士を飾る。しかし、情けとは懲罰の權力ある強者のみが有する特権である。無力な弱者が情けをかけるといふことは意味をなさない。猫に喰い殺されようとしている鼠が、猫に情をかけることは出來ない。故に、私はダイヤー將軍及その一味の者に対して、彼等の罪惡に相當する懲罰を加へよと叫ぶ人々の感情が分る。彼等は若し出来ることなら、ダイヤー將軍を八ツ裂きにしたいと思っているのだ。私は自分が無力な弱者であるとは思っていない。ただ私は印度の力と自分の力をより良き目的のために用いたいと考えているだけだ。
私の云うことを誤解してくれては困る。力は體力から生ずるものではない。それは不屈不撓の意志から生ずるのだ。…(後略)』
このようにカンディーは記しているのです。また、ガンディー自身が刊行する週刊誌の一つである『神の民(ハリジャン)』(1946年2月10日号)に掲載された記事の中でも、次のようにガンディーが語ったことが記録されています。『最後に彼(ガンディー)は警告した。もし誰かがある人のところにやってきて、非暴力の誓いを交わしたために婦人たちの名誉を守れない(暴徒から護ることができない)と訴えるならば、容赦してはいけません。非暴力は決して臆病者の盾に用いられるべきではありません。それは勇者の武器です。そのような残虐行為をなすすべもなく傍観するよりは暴力を用いて討ち死にした方が良いでしょう』。このように記されているのです。私は、聖書が伝える主イエスの教えとは異なり、ガンディーの『非暴力』の思想は、どこまでも民衆の覚悟と力を背景にしたものだと思うのです。
■「今」という時
それでは、比喩的な解釈ではなく、字義通りに解釈するとどうなるのでしょうか。ここで、本日の聖書の箇所の文脈について考えてみたいと思います。36節の前半を見ますと、『イエスは言われた。「しかし今は、』とあります。ここで主イエスが『しかし今は』と言われる『今』という時が、どのような時なのかを考えてみたいと思うのです。主イエスにとって『今』という時は、ご自身の逮捕と処刑が間近に迫った時ということになります。しかし、31節からの文脈では、むしろ弟子たちにとっての『今』という時が、どのような時なのかが語られていました。31節で主イエスは、『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた』と言われました。前回、お話しましたように、主イエスはシモン、つまりペトロだけに語りかけておられますが、そこで言われているのは、ペトロだけでなく、弟子たち皆が小麦のようにふるいにかけられるということです。従って、『しかし今は』と言われる『今』という時は、弟子たち皆がふるいにかけられる時です。主イエスが捕らえられ十字架で処刑されることによって、弟子たちがふるいにかけられようとしている、それが『今』という時なのです。
33節でペトロは主イエスに、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言ったということを学びました。ペトロは自分の決意や覚悟によって、主イエスに従って行こうとしたのです。そのように思っていたのはペトロだけではないと思います。他の弟子たちも、多かれ少なかれ自分の覚悟と力によって、主イエスに従って行けると考えていました。たとえ主イエスが捕らえられ十字架で処刑されるとしても、自分の覚悟と力を頼みとして、主イエスに従って行けると考えていたのです。
そうであるならば、主イエスが『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』と語った言葉は、『今』という時に、弟子たちが財布や袋に、そして剣に頼ろうとしていることを見ているのだと思います。主イエスは、ここで弟子たちが自分の持ち物や力を頼みとして、信仰を守ろうとしていることを見つめておられるのです。
サタンが弟子たちをふるいにかけようとしている『今』、『備えるべきは自分の装備品だ、そして、自分の覚悟と力だ』と考えている弟子たちに対して、主イエスは最後の教えの言葉として、それならば『財布と袋を持って行きなさい、剣を買いなさい』と言われたのです。『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』という弟子たちの言葉は、ペトロの『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と重なります。ペトロが自分の決意や覚悟に頼ることを言い表したように、弟子たちも剣に頼ることを、自分の持ち物や覚悟や力に頼ることを言い表しているのです。
主イエスは弟子たちに『それでよい』と言われました。不思議な言葉だと思います。『強盗にでも向かうように、剣や棒を持って』(22章52節)主イエスを捕らえに来る人たちに対して、二振りの剣で抵抗できるはずがありません。『それでよい』という主イエスの言葉には、二振りの剣で十分足りるという意味ではなくて、自分の装備、覚悟や力といったものが、本当に大切なものを守るときには、何の役にも立たないということを知るのに十分な装備だという意味で語られた言葉だと思うのです。決して、主イエスは弟子たちに呆れて語られたのではないと思います。主イエスは、自分の決意と覚悟に頼ろうとしているペトロに向けられたものと同じ内容の言葉だと思うのです。三度、主イエスを知らないと言って、派手に転んでしまうペトロと同じように、二振りの剣に象徴される自分の装備、覚悟、力といったものは、弟子たちをふるいにかけようとしているサタンの前では、何の役にも立たないことを数時間後には思い知らされる弟子たちに向けて、全てをご存知の主イエスは祈りのうちに『それでよい』と言われたのです。
■罪人のひとりに数えられた
自分の覚悟と力を頼みとする弟子たちに向かって、主イエスは『それでよい』と言われただけではありません。その前に、イザヤ書53章の言葉を引用して、『言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。』と語られています。これを聞いた弟子たちが『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』と言って、自分の覚悟と力に頼ることを宣言するわけですが、まさにそのように自分の装備と覚悟と力を頼みとする弟子たちが、それらが何の役にも立たないことを思い知らされる絶望の時に、主イエスはイザヤ書53章の預言がご自分の身に実現すると言っているのです。イザヤ書53章8節に『捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。』とありますように、主イエスは、この後、食事をしていた二階の広間を出てオリーブ山へ向かい、そこで捕らえられ、裁きを受けて、十字架に架けられて死なれるのです。続けて『彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。』と記されているように、主イエスが十字架で死なれ、神様に裁かれたのは、主イエスに罪があったからではありません。主イエスは何一つ罪を犯されなかったのに、私たちの背きのために、私たちの罪のために、『神の手にかかって』死んでくださったのです。罪人でない主イエスが、「自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられた』、それが主イエスの十字架の出来事です。そのことによって主イエスは『多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをした』のです。主イエスは、自分の覚悟と力を頼みとし、不安に駆られ、神様に背き、自分自身と隣人を傷つけてしまう弟子たちの罪を、そして私たちの罪を担って、十字架で死んでくださり、そのことによって私たちを罪から救ってくださったのです。
■今、何を備えるのか
主イエスの十字架によって実現し、与えられる罪の赦しの恵みによって生きるのでなく、自分たちの力で、信念、決意、覚悟を貫いて歩もうとする時、私たちは、弟子たちと同じように剣を振り回すようになります。実際、弟子たちが持っていた剣は、この後、主イエスの逮捕の場面で、ペトロによって抜かれ、大祭司の手下であるマルコスの右の耳を切り落とすことになります(ヨハネによる福音書18章10節)。しかし、主イエスは『やめなさい。もうそれでよい』と言って、その耳に触れていやされた、とルカによる福音書22章51節に語られています。自分の信念、決意、覚悟によって、大切なものを守ろうとする私たちは、そのように人を武器で攻撃し、傷つけてしまうのです。しかし、自分の信念、決意、覚悟といったものは、大切なものを守ることには何の役にも立たないことを思い知らされ、派手に転んで絶望することになるのです。しかし、そういう私たちの絶望の只中に、主イエスの十字架は立っているのです。本日の聖書の箇所の37節の『言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。』という主イエスの言葉は弟子たちには届かなかったようです。しかし、それでもなお、主イエスは全てご存知であり、私たち人間の罪を担って下さり、ご自分の命を犠牲にすることによって、すべての人々の罪を赦して下さり、また私たちが人に負わせてしまう傷を癒して下さるのです。自分の信念、決意、覚悟といったものが何の役にも立たないという絶望の中にいる私たちが、信仰に立てるかどうかは、全ては主イエスの祈りにかかっているのです。主イエスの救いの恵みを受けて、この恵みに依り頼んで生きることが信仰です。そこには、剣はおろか、財布も袋も履物も何も持たなくても不足することが全くない、恐れや不安から解放された、真実に平安な歩みが与えられていくのです。私たちは、この主イエスによって与えられる恵みに信頼して、歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。