小倉日明教会

『勝利の入城ーエルサレムを見て、泣く主イエスー』

ルカによる福音書 19章 28〜44節

2024年 9月15日 聖霊降臨節第18主日礼拝

ルカによる福音書 19章 28〜44節

『勝利の入城ーエルサレムを見て、泣く主イエスー』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

■サバクトビバッタの襲来

 おはようございます。さて、コロナウイルスが世界中に蔓延して大変な年であった2020年に、アフリカではサバクトビバッタが大量に発生して、一年かけて育ててきた作物が全滅するという村が続出したのです。何しろこのサバクトビバッタの大群の通り過ぎた後は、本当に何も残らないのだそうです。大収穫が約束されていた畑という畑には、力尽きたサバクトビバッタの死骸が残っています。ひどいところでは、窪んだ場所に1メートルも積もっているそうです。絶望した農夫たちは畑をあきらめ、都会に出て行ってしまいます。それで、村ごと消滅してしまうということが起こっているのです。

 ところが、そのような絶望的な状況の中で、全滅した畑で働き続ける農夫たちがいるのです。彼らはサバクトビバッタが去った後、鍬を担いで畑に出かけて行くのです。そして、サバクトビバッタの死骸を畑の土の中に圧し込んでいく作業を行うのです。額に汗して、目には涙があります。彼らは、泣きながらその作業を行っているのです。1年間の努力はすべて泡と消えました。しかし、彼らにはそれでもなお、希望があるのです。サバクトビバッタの死骸が肥しとなって、1年休ませた土地を豊かなものにするということを、彼らは信じているのです。

 目の前の現実だけを見るならば、絶望的な気持ちになります。しかし、絶望の先に、失ったものを償って余りある収穫が期待できる、その希望が彼らを全滅した畑での労働に駆り立てているのです。聖書は人間の罪を厳しく指摘します。そこだけを取り上げて、聖書を読むと、人を悲しませる書物だと言うことができます。しかし、聖書の目的は、人間の罪を指摘することなのではありません。人間の罪と、その罪の結果からの救いを得させることが聖書の目的なのです。

 本日は、主イエスがエルサレムに入城されたという聖書の箇所を皆さんと共に学びます。しかし、エルサレムに入城される主イエスは、あと数日で十字架に架かって死なれるのです。本日は、主イエスがどのような思いで、エルサレムに入城し、涙を流されたのかということを、皆さんと共に学びたいと思います。

■主イエス、ベタニアに着く

 さて、本日は主イエスがいよいよエルサレムに入城される箇所を学びますが、前回、お話しました「ムナ」のたとえを主イエスがザアカイの家で語られた後、ヨハネによる福音書11章55節〜12章11節にありますように、主イエスはベタニアに到着されたのです。ベタニアには、マルタ、マリアとラザロの家族が住んでいるのです。主イエスはそこにまず滞在されるのです。つまり、エルサレムに入城する前に、ベタニアのこの3人の兄弟姉妹の家に滞在されたのです。時期は、過越の祭りの時期です。過越の祭りの間、エルサレムは巡礼者たちがたくさん押し寄せてきて、ごった返して、大混雑となるのです。そのエルサレムの町の中に住居、宿泊する場所を見つけられる人は、よほどの金持ちか、あるいは、金持ちの親戚がエルサレムにいて、部屋を貸してくれる人だけなのです。ほとんどの人は、テントで過ごしたのです。それは、エルサレムの周辺、特にオリーブ山の西側、エルサレムの旧市街が見える辺りに、テントを張ったのです。ですから、過ぎ越しの祭りの時に、エルサレムに行くと、テント村に囲まれていたというのが、このときの状況です。

 主イエスが滞在されたベタニヤからエルサレムまでは、山を1つ越えればいいという位の徒歩で歩ける距離であったのです。ベタニアからエルサレムに向かって歩いて行く、その途中にベトファゲという町があったのです。主イエスがベタニアに滞在しているこの時点で、祭司長と律法学者たちは、主イエスを殺そうとしていました。ラザロが復活した後、ユダヤの最高法院、サンヘドリンが開催されて、主イエスを殺そうと決定がなされていました。そして、この決定は一般民衆にも広く知れ渡っていました。それがどうして分かるのかと言いますと、祭司長と律法学者たちは、主イエスを見つけた者は、報告するようにという命令を出していたからです。ですから、彼らの意図が、主イエスを逮捕して、殺すことであったということは、誰もがよく知っていたことであったのです。

 そのような状況の中で、主イエスがベタニアに到着したという知らせが、人々の間に広がったのです。このため、大勢のユダヤ人たちが、ベタニアのマルタ、マリアとラザロの家に押しかけて行ったのです。もちろん、エルサレムからたくさんやって来たのです。なぜやって来たのかと言いますと、主イエスを見たいということです。まもなく王になると聞き及んでいる主イエスがどのようなお姿なのかを見たいという気持ちでいたと思いますが、それと同じくらいか、あるいは、それ以上に見たいものが彼らにはあったのです。それは、ラザロであったのです。復活したラザロの身体が、本当に生きているのかどうか、話しができるのかどうか、食べたり、歩いたりすることができるのかどうか、人々は主イエスを見るだけではなく、ラザロを見るためにやって来たのです。

 多くのユダヤ人が復活したラザロのことで離れて行って、主イエスを信じるようになったことから、この段階になると、祭司長たちは、主イエスを殺そうとするだけではなくて、ラザロをも殺そうと考えたのです。それは、なぜかと言いますと、いると主イエスがメシアであるということの証拠になってしまうからです。ですから、主イエスも、ラザロも殺してしまえという、大変緊迫した状況が、今、湧き上がっていたということなのです。それ故、マルタ、マリア、そして、ラザロの兄弟が、主イエスを家にお泊めするというのは、決して、簡単なことではなかったのです。当時のユダヤの宗教的指導者たちの意向に反して、マルタたちは主イエスに真実の心を示しているのだということなのです。ここまでが、長くなりましたが、本日の聖書の箇所の背景となのです。

■『主がお入り用なのです』

 本日の聖書の箇所の29〜31節には、『イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」』とあります。この箇所は、しばしば『勝利の入城』と呼ばれる箇所なのです。しかし、『勝利の入城』という表現は、この聖書の記事の実態を表していないと思います。なぜなら、主イエスは十字架に向かっているのです。民衆は、主イエスがいよいよ王になって、メシア的王国が出来上がるのだということを期待して、後を追いかけているのです。従って、民衆と弟子たちの思いと主イエスの心とが大きく離れてしまっているということを、私たちは心に留める必要があると思います。しかし、十字架に向かおうとしている主イエスのこの姿というのは、勝利のメシアなのです。十字架に架かり、父なる神様の御心をすべて成就することこそが、主イエスにとって勝利なのです。私たち一人一人にとっても同じことです。この世から評価されないようなことでも、神様の御心を忠実に行う人こそが、地上生涯における勝利者なのだと思います。

 さて、ここに2つの地名が出てきています。オリーブ山の麓のベトファゲとベタニアです。週報の2ページ目に載せた地図を見ていただくと分かりますが、順番から言うと先ずベタニアがあり、それからベトファゲとなります。30節の「向こうの村」は、マタイによる福音書を参考にするならベトファゲのことです。主イエスはこの村へと2人の弟子を使いに出したのです。主イエスが弟子を派遣する時は、これまでも2人1組で派遣することが多かったのです。

 なぜ、弟子を派遣されたのかと言いますと、一頭の子ろばを必要とされたのです。これが、エルサレム入城の準備であったのです。なぜかと言いますと、旧約聖書のゼカリア書の9章の9節に、『娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。』という預言があるのです。この預言が成就されるために、主イエスは子ロバを必要とされたのです。ロバというのは、平和の使者が乗る乗り物なのだというのが、ユダヤ的な理解なのです。ですから、ロバに乗るのは、祭司とか、貴族とか、平和をもたらす使者なのです。それに対して、王が乗る乗り物は、馬であり、戦車、あるいは、中東ではラクダなのです。戦争の時には、ラクダが荒野を速いスピードで走ることができるのです。主イエスが子ロバに乗るというのは、平和の君としてエルサレムに入城されるということを示しています。そして、主イエスがゼカリア書9章9節で預言されたメシアであるということが、示されているのです。

 主イエスは、『向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。』とおっしゃられました。所有者たちには、『主がお入り用なのです』と言えばいいよと、おっしゃられたのです。この聖句を読んで、むちゃするなあと思われた方も多いかと思います。私たちは、この聖句をそのまま、まねをすることができないからです。この主イエスの言葉というのは、弟子たちに言われている言葉で、私たちに言われている言葉ではないのです。聖書を読む上で、とても大切なのは、どこは自分に適用できて、どこが自分に適用できないかということを、正しく理解するということが、祝福を受ける上で必要なことだと思います。では、なぜ『主がお入り用なのです』と言えば良いのかと言いますと、これは聖書には記載がありませんが、所有者たちと主イエスの間で、予め話ができていたことを示していると思います。ですから、『主がお入り用なのです』というのは、所有者たちと主イエスの間の合言葉であったのだと思います。弟子たちが行くから、弟子が『主がお入り用なのです』と言えば、渡してやってねという話がされていたのです。

 本日の聖書の箇所の32〜34節を見ますと、『使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。』とあります。この箇所で、「なぜ、子ろばをほどくのか」というのが、日本の合言葉で言えば、『山』という言葉に当たり、「主がお入り用なのです」が『川』という言葉に当たるのです。つまり、主イエスがおっしゃった通りになったということなのです。この箇所で、この子ロバの所有者については、『その持ち主たち』と複数形の言葉が使われています。この子ロバが1人の人によって所有されていた訳ではなくて、複数の人で所有されていたのです。ですから、この子ロバを提供している人たちは、何十頭、何百頭をある中から1頭を出しているのではなくて、子ロバを数人で大事に飼って、所有していた、その貴重な財産を提供したのです。しかも、それは自分たちにとって、特別のお勤めであると考えて、このことを行っていると思います。

 もう1つ考えておきたいのは、紀元1世紀にこの福音書を読んだユダヤ人たちがどういう印象を持ったのかということです。当時の一般庶民というのは、本当に貧しかったのです。初代教会の信者も含めて、大半の人たちが大変貧しい状態に置かれていたのです。従って、彼らが信じたメシアが子ロバを誰かから借りなければ、エルサレムに入城できないような貧しいお方であるという現実に、彼らは慰めを受け、そして、親近感を覚えたことと思います。主イエスは、私たちが生きてゆく中で経験する、痛み、貧しさ、悲しみなど、全てのことを理解していて下さいます。ですから、主イエスはあらゆる道に対処する方法を知っているという言葉は、私たちにとって真実な言葉になって来るのです。私たちが試練の中にいたとしても、主イエスご自身がそこを通過された救い主であり、今、大祭司として、私たちのために取りなしをしていて下さるということに励ましを受けることになると思います。

 次に、35節を見ますと、『そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。』とあります。2人の弟子は、子ロバの上に自分の服をかけたとあります。私たちはどういうことかと考えてしまいますが、これは、当時の人たちが読めば、誰でも直ぐに分かることなのですが、これは、乗るための鞍を作っているのです。この場面で、ロバは1頭だけであったのでしょうか。マタイによる福音書21章7節を見ますと、『ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。』とあります。マタイによる福音書を見ると、ロバは2頭で母ロバがいたということが分かります。なぜかと言いますと、この子ロバは誰も乗ったことのない子ロバなのです。通常は、人が乗ろうとすると、ものすごく暴れるのです。ですから、母親をそばに連れてきて、母親が先頭を歩いて、子ロバが後を歩いて行くというスタイルで行くのです。従って、ロバを連れてきた2人の弟子たちは、その両方のロバに服をかけたのです。両方のロバに服を掛けていますので、主イエスは両方のロバに、途中で乗り換えながら、乗られたことと思います。そして、この子ロバは暴れていないのです。ですから、子ロバでさえも、メシア預言の成就のために、神様に従ったのです。

 さて、これで準備が終わったのです。主イエスは子ロバに乗られ、その側には母親のロバがいるのです。そして、進んでゆくのです。その次に来るのが、人々の歓迎なのです。

■平和をもたらす王

 本日の聖書の箇所の36節を見ると、『イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。』とあります。主イエスはエルサレムに向かっていますが、ベタニアからオリーブ山の頂上に行って、それからオリーブ山の西側をエルサレムに向かって、降りてきているのです。下りきったところにケデロンの谷があります。そこにゲッセマネの園もあるのです。そのような地理的な状況です。そのような中で、人々が道に服を敷いているのはなぜでしょうか。これは、王様が通られるから、敬意を表しているのです。このような伝統は、ユダヤ人の中には、あるのです。列王記下9章13節に、『彼らはおのおの急いで上着を脱ぎ、階段の上にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹いて、「イエフが王になった」と宣言した。』とある通りです。この箇所は、ニムシの孫でヨシャファトの子であるイエフという謀反人が、ヨラム王に対して謀反を起こしたときの記述です。イエフが王になったことを宣言するに当たって、人々は上着を脱いで、足もとに敷いているのです。ですから、主イエスが進むところに、人々がこぞって服を脱いで、道に敷いているのは、主イエスは王である、この方をお迎えしようという姿勢を示しているのです。

 さらに、本日の聖書の箇所の37〜38節を見ますと、『イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」』とあります。この箇所で、主イエスを信じた弟子たちの群れが叫んでいるのです。なぜ叫んでいるのかと言いますと、彼らは、『自分の見たあらゆる奇跡のことで』とありますので、主イエスが行った多くの奇跡を目撃してきたのです。そして、今や、その方がエルサレムで王となろうとしていると、彼らは思ったのです。

 今日の聖書の箇所の主イエスのエルサレム入城の約1年前に、ガリラヤで主イエスが5千人にパンを配ったときに、人々が何をしようとしたのかと言いますと、主イエスをガリラヤの王としようとしたのです。しかし、主イエスは逃げてしまわれたのです。ですから、1年前のガリラヤで主イエスに対する試みは失敗していたのです。しかし、今、主イエスはメシアとして、ご自分を表しておられるのです。どうして、そのように言えるのかと言いますと、子ロバに乗って、エルサレムに入城し、人々のメシアを歓迎する態度を受け入れておられる。だから、メシア的王国が建設されると、彼らは思ったのです。讃美の内容は、『主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。』とあります。ここにある『主の名によって来られる方、王に、』という言い方は、専門用語のようになっていますが、ユダヤ的には、これがメシアのことです。そして、これは詩編118篇26節からの引用です。詩編118篇26節には、『祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。』とあります。ですから、福音書の中に出てくる言葉というのは、人々が勝手にその時に思いついた言葉を言っているのではなくて、彼らがラビたちから教えられて来て、暗唱している聖句をそこで朗詠しているのです。この詩編118篇26節は、ラビたちによれば、メシアを歓迎するときの祈りの言葉なのです。ですから、彼らがこれを、今、行っているというのは、主イエスをメシアとして歓迎するということなのです。主イエスを王として歓迎するということなのです。

 38節の後半の『天には平和、いと高きところには栄光。』とよく似た聖句としては、降誕物語の中のルカによる福音書2章14節で、『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』という箇所があります。この降誕物語で出てくる聖句では、天と地の祝福が言われています。しかし、38節の聖句では、『天には平和、いと高きところには栄光。』と、続きがないのです。『地には平和、御心に適う人にあれ。』という部分が書かれていないのです。なぜかと言いますと、ルカがこの箇所を書いている時に、地の上に平和が来るのは、まだ先のことである、という認識なのです。それがいつ来るのかと言うと、主イエスが再臨された時に来るのです。今は、主イエスが十字架に架かり、復活し、天に上り、天に於いては、平和があり、栄光があるのです。しかし、地に、それがまだ成就するわけではないのです。このような、ルカの思いがここには表現されていると思います。このような言葉は、通常の巡礼者を歓迎する言葉ではないのです。

 当時、巡礼者たちは、エルサレムに来ると、歓迎の言葉を受けたのです。しかし、ここでの言葉は、主イエスをメシアとして歓迎する言葉で、特別な言葉なのです。そうであるなら、この特別な言葉に、誰が危機感を覚えるのでしょうか?主イエスが、入城するときには、多くの群衆が群れているのです。巨大な人々の流れがあるのです。ファリサイ派の人々が無関心でいるはずがないのです。彼らも、大きな騒ぎにならないように、一緒について来ていたのです。ですから、この人々の言葉を聞いた時に、危機感を覚えて、文句を言いたくなるのです。

■もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす

 次に、本日の聖書の箇所の39節を見ますと、『すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。』とあります。『先生、お弟子たちを叱ってください』とあるのは、ファリサイ派の人々は何が起きているのかということを理解したのです。そして、この日本語訳では、『先生、お弟子たちを叱ってください』と丁寧な言い方がされたような翻訳になっていますが、ファリサイ派の人々は、主イエスのことを尊敬しているわけではなく、律法違反の男だと思っているわけですから、むしろ、ここはもっと乱暴な言い方で、『お前、弟子たちを止めさせろよ』というくらいの勢いで怒鳴っていると理解しておく必要があると思います。なぜ、ファリサイ派の人たちが怒っているのかと言いますと、主イエスはご自分をメシアとして公に表しているのです。弟子たちは、主イエスに声をかけているのですが、それはメシアを歓迎する際に用いる聖句を用いて、大声で叫んでいるのです。そればかりか、周りの人たちも主イエスをメシアとして歓迎しています。しかし、ファリサイ派の人たちは、既に主イエスはメシアではないという結論を出しているのです。ですから、主イエスに、弟子たちを叱って、黙らせるようにと命令したのです。それに対して、主イエスは何と答えられたのでしょうか。

 40節を見ますと、『イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」』とあります。主イエスは弟子たちを叱らなかったのです。主イエスは、公生涯の前半では、今見たことを言い広めなさいと言っています。そして、主イエスは数々の軌跡を行われ、主イエスがメシアであることを証明されたのです。ところが、ユダヤ人たちが主イエスを拒否するという決定を下した後の、公生涯の後半に入りますと、主イエスは個人的に奇跡を行い、また、今見たことを言ってはならないというように、変化して行くのです。ですから、初めが宣べ伝えよ、後半が宣べ伝えるなというように、方向が変わるのです。しかし、最後の最後になって、主イエスは、大ぴらに言いなさい、大きな声で言うのは、当然なのだ、と言うのです。今、弟子たちが自分のことをメシアとして迎えているのは、当然なのだ。もし、彼らを黙らせたとしたら、石が叫びますと言っているのです。石というのは、生物ではない、無機物なのです。ですから、人が黙れば、無機物である石ですら叫びだすのだよ。だから、黙らせたら、自然界が主の栄光を称えるのだよ、と言っているのです。それはなぜかと言いますと、主イエスをメシアとして認めなければいけないというのは、必然なのだよと言っているのです。ここで、主イエスが、『石が叫びだす。』と言うときの石が、どんな石かと言いますと、この文脈では、エルサレムの城壁の石、あるいは、エルサレムの神殿の石だと思います。主イエスは、眼の前に広がるエルサレムの城壁や神殿を指して、石が叫ぶとおっしゃられたのだと思います。

 このすぐ後で、主イエスは頑なな宗教的指導者たちの姿を見て、嘆かれるのです。

■都のために泣く主イエス

 本日の聖書の箇所の41〜42節を見ると、『エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」』とあります。本日の聖書の箇所で、最も重要なキーワードが、『お前も平和への道をわきまえていたなら……。』です。ここで、平和への道というのが何かと言いますと、それは主イエスをメシアであると信じる道のことを言っているのです。しかし、ユダヤ人たちの霊的な目が閉ざされていたので、彼らは認めることができなかったのです。ここでは、エルサレムが主イエスを拒否したので、主イエスもエルサレムを拒否せざるを得ないという言葉なのです。エルサレムというのは、そこに住んでいる住民のことです。エルサレムの住民が主イエスを拒否したので、主イエスもエルサレムの住民を拒否されたのです。

 さらに、43〜44節を見ますと、『やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。』とあります。これは、紀元70年に起こることの預言です。つまり、主イエスが語っている時点から、40年後にこのことが起こるのです。主イエスはなぜ、40年後のことを見通すことができたのでしょうか。それは、主イエスがメシアであり、神様であるからです。敵がエルサレムに対して堡塁を築くというときの敵というのは、ローマ軍です。ローマ軍がエルサレムに対して堡塁を築く、北の方に彼らはスロープを作りました。そして、そのスロープを使ってやぐらを運び上げて、城壁よりも高いところから、攻撃をしたのですが、土木工事で作り上げた、そのスロープのことを堡塁と言うのです。木で土台を組んで、その内側に盛土をして、その上にさらに盛土をして、固めて斜めの道を作るのです。堡塁を築き、周りを取り巻き、これは兵糧攻めという言葉がありますが、そのことなのです。そして、四方から攻め寄せる。そして、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、つまり、エルサレムの住民を虐殺する。そして、石が1つも残されないように、破壊されてしまう。エルサレムが完全に崩壊するという内容なのです。このことが紀元70年に起こるのです。そして、実際にこの通りのことが起こったのです。

 主イエスはなぜそうなるのか、理由は『それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。』とおっしゃられました。主イエスは、救いのメッセージを持って、エルサレムを訪れたのです。しかし、神の民はそれを歓迎しなかったのです。彼らは、自分たちの考え方や願いを優先させたのです。それ故、エルサレムの崩壊が起こるのです。勝利の入城をされた主イエスは、拒絶され、十字架に架かって行きます。それ故、エルサレムは40年後に崩壊するのです。その影響は、2000年経った、今も続いているのです。

■私たちのための涙

 今日の聖書の箇所で、主イエスはエルサレムを見て、泣かれたのです。しかし、『イエスはその都のために泣いて、言われた。』という日本語訳からは、主イエスが涙を流して泣かれたのか、声を上げて泣かれたのかは、想像できないと思います。ギリシア語では、『クライヨウ』という言葉がここでは使われています。この言葉は、大粒の涙を流して、大声を出して泣くさまを表す動詞なのです。主イエスは、自分も支えることができないほどに動揺して、エルサレムのために泣かれたのです。なぜかと言いますと、エルサレムが神様の訪れのときを知らなかったからです。神様の訪れの時とは何かと言いますと、創世記以来、歴史がこのことに向かって動いてきた、その日が来ていることを彼らは知らなかったからです。主イエスが、全ての人たちを救いたいとお考えになられているということは、この涙と泣き声から理解することができると思います。けれども、なぜ泣かなければいけないのか、それは人々の心が頑なだからです。頑なな心を無理に柔らかくして、思い通りにするというのは、ロボットのプログラミングをして、思い通りに動かすようなものです。従って、すべての人を神様の思う通りに救うというのは、人を人として扱っていることにはならないというところに、神様の切ない思いがあるのだと思います。私たちは、今も神様が私たちを訪れてくださっているのに、その訪れに気づけない者、気づこうとしない者なのではないかと思います。そのような私たちは、エルサレムがそうであったように、滅びへと向かっていると思います。今も主イエスは、『神の訪れの時』をわきまえず、滅びへ向かっている私たちを思い、深く悲しまれ、涙を流してくださっていると思います。『神の訪れの時』の『訪れ』とは、『見守り』とか、『目配り』とも訳せる言葉が使われています。主イエスが語られる救いの福音、良い知らせを通して、神様が今も、私たちを訪れて下さり、いつも見守ってくださっていることが告げられていると思います。この救いの福音に、私たちはしっかりとつながって、礼拝をささげて行きたいと思います。礼拝の中で、私たちは主イエスの大粒の涙と、大きな泣き声を上げるほどの悲しみと愛を受けとめて、『神の訪れの時』をわきまえて、祈りながら、歩んで行きたいと思います。

それでは、お祈り致します。