小倉日明教会

『十字架上の主イエスの最後の言葉』

ヨハネによる福音書 19章 25~30節

2025年4月18日 受難日夕礼拝

ヨハネによる福音書 19章 25~30節

『十字架上の主イエスの最後の言葉』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】        役員 川辺 正直

作家 C.S.ルイスの手紙

 著名なイギリスの作家にC.S.ルイスという人がいます。全7巻からなるファンタジー小説『ナルニア国ものがたり』の著者として有名な人です。このC.S.ルイスという人は自らも余命いくばくも無い状態で、もうすぐ息を引き取る人にこんな手紙を送っています。『痛みは恐ろしいものですが、そのうえ不安まで抱く必要はないと思いますよ。私たちは何かを恐れるからもがきます。でも、多くの場合むしろ逆です。私たちがもがくから恐ろしいのだということを心に留めてください。あなたは今も、もがいたり抵抗したりしているのですか。私たちの主が『安かれ、子よ、安かれ。しがみつくのをやめなさい。あなたの下には永遠の腕がある。手を放しなさい。私があなたを抱き留めてあげる。あなたはそれくらいしか私を信じていないのか』そうおっしゃっているとお考えになった事はないでしょうか』。そのような内容の手紙です。キリストを信じた人は、たとえ恐れていても大丈夫だと言うのです。キリストへの信仰があなたを救うのではなく、キリストご自身があなたを救ってくださるからだと言うのです

 両手両足を釘づけられたまま垂直に、木に吊るされている十字架刑の死刑囚は出血多量と呼吸困難に陥りゆっくりと、しかし、確実に死を迎えます。もはや逃れることはできません。普通であれば、死の恐怖で、気も狂わんばかりの只中で、主イエスはいかに最期を迎えられたのかということを考えながら、読んで行きたいと思います。

十字架上の七つの言葉

 さて、本日の聖書の箇所では、主イエスが十字架で語られた言葉が、3つ記されています。聖書の4つの福音書がそれぞれに、十字架上の主イエスの言葉を伝えています。合わせると、七つの言葉となり、『十字架上の七つの言葉』とも言われています。

 第1の言葉が、ルカによる福音書23章34節で、『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』というものです。

 第2の言葉が、マタイによる福音書27章46節、及び、マルコによる福音書15章34節で、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』です。

 第3に言葉が、ルカによる福音書23章43節の『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』というものです。

 第4の言葉が、本日の聖書の箇所の26〜27節の『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と『見なさい。あなたの母です。』です。

 第5の言葉が、本日の聖書の箇所の28節の『渇く』です。

 第6の言葉が、本日の聖書の箇所の30節の『成し遂げられた』というものです。

 第7の言葉が、ルカによる福音書23章46節の『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』です。

 本日は、ヨハネが伝える第4〜第6の言葉を通して、主イエスが十字架に架けられた意味を学びたいと思います。

ヨハネの伝える主イエスの受難

 さて、主イエスの受難の記事を、ヨハネによる福音書を通して読む時に、私たちは聖書を新たな目で読み直すことが求められます。それは、ヨハネによる福音書の記述は、多くの点で共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカによる福音書の記述とは多くの点で異なっているからです。例えば、そもそも十字架にかけられた時間が異なっています。ヨハネによる福音書19章13〜14a節には、『ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。』とあり、裁判が12時頃ですから、主イエスが十字架に架けられたのは、早くても午後1時頃であったと考えられます。それに対して、マルコによる福音書15章25節には、『イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。』とありますように、朝の9時から十字架にかけられているのです。十字架という残虐な公開処刑の時間が、短いというところに、ヨハネによる福音書の記述の特徴があります。

 また、ヨハネによる福音書では、奇跡的な超常現象も描かれていません。マルコによる福音書の15章33節には、『昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。』とあり、38節には、『すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。』と記されており、これらは出エジプト記10章22節の、『モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。』と記されていることから、『全地は暗くなり、』というのは、主イエスが神様の怒りの杯をお飲みになっている状態のしるしとなっているということなのです。神様の怒りが、主イエス・キリストの上に注がれていることのしるしというのが、マタイ、マルコ、そして、ルカが描く、この暗闇の状態なのです。ヨハネによる福音書においては、そのような不思議な出来事は起こりません。ヨハネにとっては、弟子たちの中最も近くで、そして、主イエスの十字架のその場に居た証言者として、むしろ歴史の事実を記すことが重要であったと思います。ヨハネによる福音書19章35節には、『それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。』とあります。ヨハネによる福音書で描かれている主イエスの十字架の情景は、他の共観福音書で描かれている比較して、劇的で、奇跡的なしるしを伴うものではありませんが、その場に居たヨハネにとっては、それでもなお主イエスの十字架は、全ての人びとの罪を贖う出来事であったと、信じるに足るものであったということを思いながら本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

十字架の下にいた人々

 さて、本日の聖書の箇所の25〜28節には、『イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。』と記されています。

 主イエスの十字架のそばには、4人の女性たちと『愛する弟子』が立っていました。このことはヨハネ福音書だけが語っています。他の福音書には、女性たちが主イエスの十字架を遠くから見ていたとありますが、ヨハネは、十字架の真下にこの女性たちがいたと語っているのです。また、『愛する弟子』がそこにいたと語っているのもヨハネのみです。この弟子は最後の晩餐の場面から登場している、ヨハネ福音書に特徴的な人物です。他の福音書では、主イエスの十字架の場面に弟子たちは全く出て来ませんが、ヨハネだけは、この弟子が十字架の真下にいて、主イエスから語りかけられているのです。この特徴的な話によって、ヨハネ福音書は何を語ろうとしているのでしょうか。

イエスの母と愛する弟子

 主イエスの母が十字架の傍に立っています。マリアという名前ではなく、主イエスその人の母、です。ヨハネによる福音書の2章1〜2節に、『三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。』と記されていますように、カナの婚礼の箇所でも、『イエスの母』と呼ばれました。その母が今、わが子主イエスの十字架の下に立っている。このことを伝えているのは、ヨハネだけです。神の子である主イエスの母としてのマリアの生涯は、どんな一生だったのでしょうか。恵みでもあれば、ルカによる福音書2章35節で老人シメオンが預言した通り、心を剣で刺されるような連続でもあったこととおもいます。わが子である主イエスが、十字架で苦しむのを見つめながら、何も出来ずに立っている。どんな心持ちであったかと思います。その母を主イエスは愛する母として見つめます。その傍に立つ弟子のことも、主イエスは愛しています。その弟子もまた、主イエスの愛を受けながらこんな時が来るとは信じていなかった自分の愚鈍さへの後悔とショックで立ちすくみ、主イエスの母にもかける声を探しあぐねていたことと思います。その弟子と母とを愛をもって見つめながら、主イエスは母に、『ご覧なさい。あなたの息子です』と語りかけ、その弟子に、『あなたの母です』と語りかけたのです。息も絶え絶えの状態での遺言です。主イエスのこの言葉を受けて、そして、この言葉に従って、ヨハネはマリアを『自分の家に引き取』ったのです。血縁関係に無い者同士が親子になるということが十字架のそばで起こりました。これがヨハネによる福音書が伝える新しい生き方だと思います。

 『自分の家』と訳されているのはイディアというギリシア語です。『本来の性質』とか『故郷』、さらには『同信の友』という意味もある言葉なのです。『家』にはオイコスという別の一般名詞もあります。ここではあえてイディアが使われていますから、福音記者ヨハネには言いたいことがあると思います。この両者の交わりに教会の本来の理想の姿が現れているし、このような信仰共同体に加わることが新しい生き方・復活なのだということを、ヨハネは言いたいのだと思います。

 教会は血縁に拠らない交わりです。ペンテコステの後、マリアもヨハネもエルサレム教会の信徒となりました。ところで、マリアには主イエスの他にも子どもがいました。後にエルサレム教会の最高指導者になったヤコブもマリアの息子です。この人物の家(オイコス)に住むのが、血縁の関係としては自然です。しかし、そうではなく、ヨハネという別の教会員がマリアの生活を引き受けているのです。そのような血縁に拠らない交わりこそ真の故郷・神の国だからと思うのです。

 教会は十字架に拠り頼む交わりだと思います。十字架のもとで無力感を覚え、罪を教えられ、無条件の赦しである罪の贖いを共有する集まりだと言うことができます。十字架のもとに立ち尽くす民が、私たちだと言うことができるのではないでしょうか。25節の4人の女性は立っていたの『立っていた』は完了形で書かれています。また、26節の『そばにいる』は、完了分詞の『そばに立っている』が直訳です。完了とは、過去の動作の効果が継続している様をあらわします。この4人の女性とヨハネとは立ち尽くしていたのです。イエスの命を守れなかった無念の思い、圧倒的な権力に対する無力感、自分も引渡しに結局のところ関わったのではないかという罪責感に打ちひしがれていたのです。しかし、この十字架が贖いであり、救いの計画の成し遂げられたということを知っているので(30節)、信者はこの底辺である『グラウンドゼロ』に立ち続けるのです。自分が無条件に赦され、全て肯定されていることを確認するために、私たちは十字架のもとに立ち続けるのです。それが礼拝だと思うのです。

 教会は、一人ひとりが自分の人生における『十字架』を担うようことを励まし派遣するという共同体だと思います。ヨハネに母親の世話を託すということは、『隣人となれ』という命令だと思うのです。新しい生き方というのはそういうものです。十字架の傍に立ち尽くすとき、誰がこの世界で小さな者とされているのかが、見えてくるのだと思います。

「渇く」と言われた

 さて、本日の聖書の箇所の28〜30節を見ますと、『この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。』とあります。28節を見ますと、

 主イエスが、旧約聖書の言葉がすべて成し遂げられたという認識を持たれて、神様の怒りを全て飲みつくした時に、『渇く』とおっしゃられたのです。主イエスの意識は、鮮明あったことが分かります。それだけ、十字架刑の苦しみは大きかったと思います。神様の怒りを全て飲みつくした主イエスは、『渇く』とおっしゃられたのです。

 十字架に架けられた人が医学的に、どのような死因で亡くなるのかは、長い間、学者たちの間で議論になっていました。ところが、20世紀になって、それを人体実験した人が出ました。それがナチス・ドイツで、強制収容所に入れられたユダヤ人を使って人体実験をしたのです。しかも、その様子を別のユダヤ人に観察させ、記録させて、それを見ていた人の精神状態がどうなるかという精神状態の実験までしたのです。そして、戦争が終わってから、強制収容所から開放されたユダヤ人の中で、こういう実験が行われて、自分はそれを見たのだと証言する人が出たのです。その証言内容はどのようなものであったかと言いますと、実験台となる人が連れて来られて、コンクリートの床の上で、手を縛られて、上に引き上げられたと言うのです。10cmも床から足が離れたら、十字架に架けられたのと同じ状態になります。十字架の場合には、腕の2本の骨の間と足のかかとの大きな骨に釘が打ち込まれて、全体重がその釘にかかるのです。そして、十字架が立てられる時に、数十cmある穴に十字架の縦木が落ち込んで立てられるので、その時の衝撃で、体中の関節が外れるのです。同じように、ロープで腕を縛って、上に引き上げたら、上に体が引っ張り上げられた状態になります。そうなると、呼吸ができなくなるそうです。呼吸をするためには、自分の体を懸垂で上に引き上げて、そして、胸の胸骨、それから、横隔膜が動くようにして、息をするのだそうです。その様子を見ていた人は次のように語っています。最初は、回数が少なくて、一回当たりの呼吸が深いのだそうです。ところが、何時間も続けていると、疲れてきて、呼吸が短く浅くなるのだそうです。十字架刑の場合、水だけは与えるので、早い人で1日、長い人で1週間、特に、足に踏み台があったり、お尻のところにとまり木があったりすると、長く生き延びて、苦しみが長く続くことになるのです。早く死に至らせたい場合には、ヨハネによる福音書19章31節にありますように、足のスネの骨を折るのです。そうすると、足で踏ん張って、自分の身体を持ち上げることができなくなるので、死に至る時間が短くなるのだと言うのです。ナチス・ドイツの実験では、最後は、呼吸を放棄して、窒息して死んでしまうのですが、呼吸ができないので、胸は大きく膨らみ、横隔膜はボコッと凹み、頭からはボタッ、ボタッと脂汗を床に垂らし、まさに死ぬ時、頭は肩のラインにのめり込むような形で、頭を垂れて、亡くなるのだそうです。そして、死因は窒息死なのです。

 主イエスは生ける水をお与えになるために来られた方です。しかし、主イエスは、十字架上で渇きを覚えられたのです。これは大きなパラドクスです。十字架から降りることのできる方が、降りてこいと叫ぶ周りにいる祭司長、律法学者、強盗の声を無視して、最後まで十字架につかれたのです。これも大きなパラドクスです。罪のない方が、罪人として十字架につけられている。これもパラドクスです。十字架は神様のパラドクスです。そのパラドクスを解く鍵は、私たち罪人の罪を赦すために、主イエスがこのパラドクスを耐えしのんでいて下さるのです。

成し遂げられた

 28節の前半で、主イエスは『すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。』とあります。聖書の言葉が実現したのだと語られているのです。その聖書の言葉とは、今日、招詞でお読みしました旧約聖書の箇所、詩編22編の16節『口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く』がそれに当たります。詩編22編には主イエスが十字架の死において味わったいろいろな苦しみが預言されています。兵士たちが主イエスの服を分け合い、くじ引きにした、というのもその一つです。それらの苦しみの中に『渇く』ということもあったのです。このお言葉を聞いた人々が、『酸いぶどう酒』を主イエスの口もとに差し出したと29節にあります。このことも、詩編69編22節の『人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします』という言葉の実現だと思います。主イエスの十字架の死において、これらの聖書の言葉が実現した、とヨハネ福音書は語っているのです。それは、これらの出来事が神様によって既に預言されていた、ということであり、神様のみ心、ご計画がここで実現した、ということです。

 それは主イエスが『成し遂げられた』(30節)と言って息を引き取られたのと同じであるということを示しています。マルコによる福音書15章37節には、『しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。』と記されています。主イエスが何と叫ばれたのかは、マルコは伝えていないのです。しかし、ヨハネによる福音書19章30節には、『イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。』と記されていて、主イエスは『成し遂げられた』と叫んだことが分かります。ギリシア語では、『テテレスタイ』という言葉が使われています。主イエスはこの言葉を、みんなに聞こえるように、大声で叫ばれたのです。この『テテレスタイ』という言葉は、借金の支払いは完了したという意味の言葉です。新約聖書で使用されている言葉は、ギリシア文学で使用されている言葉とは異なっていて、聖書学者の間では長い間、これは特殊な聖なる言葉ではないかということが議論されていたのです。ところがこの『テテレスタイ』という言葉は、庶民が使っていた言葉だということが、近代になって分かってきて、それを『コイネーグリーク』と呼ばれています。新約聖書は、聖なる内容を庶民の言葉で書き表した書物だということなのです。そのような研究の一つで、ある考古学者がエジプトでパピルスの束を発掘するのです。発掘した場所は、商売していた人の事務所のような場所で、そこにパピルスに書かれた請求書の束があったのです。それを見てみると、中にハンコが押してあるのです。そのハンコが『テテレスタイ』というハンコだったのです。『テテレスタイ』というのは、負債は完済した、つまり、支払い済みという意味なのです。従って、主イエスが『テテレスタイ』、『成し遂げられた』とおっしゃられたのは、聖なる言葉というよりは、むしろ、商売用語で、『借金、払ったぞ』とおっしゃられたのです。『お前たちの借金、全部払ったぞ』とおっしゃられたのです。つまり、『罪の負債は支払われた』と宣言されたのです。

 主イエスの十字架の死において、私たちを救って下さる神様のみ心、ご計画が実現し、神様の救いのみ業が成し遂げられたのです。神様の救いのみ心は、ヨハネによる福音書の3章16節に、『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』とありますように、明確に示されています。神に従わず、神を神として敬っていない罪人である私たちが、その罪によって滅びてしまうことなく、救われて永遠の命を得るために、父なる神様はその独り子である主イエス・キリストを、救い主としてこの世に遣わして下さったのです。主イエスは私たちの罪を全てご自分の身に負って、私たちに代って、十字架にかかって死んで下さいました。それによって私たちは罪を赦され、滅びから救われたのです。神がその独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さり、罪人である私たちを滅びから救って下さる、というみ心、ご計画が、主イエスの十字架の死において成し遂げられたのです。

 主イエスがその十字架における死を通して提案する小さな生き方は、十字架の愛を受け入れることです。自分がすでにそのままで神の子とされ、愛されていたと知ることです。そして、主イエスの復活を体験して、隣人を愛する者とされることだと思います。この隣人のためにも、主イエス・キリストは苦い杯を飲まれたのです。私たちは、この主イエスの提案に、然りと応えて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。