小倉日明教会

『多くの罪を赦されて』

ルカによる福音書 7章 36〜50節

2022年8月7日 聖霊降臨節第10主日礼拝

ルカによる福音書 7章 36〜50節

『多くの罪を赦されて』

【奨励】 川辺 正直 役員

『おむすびコロリン』の災難

 ロシア語の通訳者にして作家の米原万里さんは、お父さんの仕事の関係で小学校3年生のときにチェコスロバキヤに住むことになりました。そして、ロシア語ならば帰国後も続けられるという理由で、プラハにある、ソビエト連邦外務省が直接運営するソビエト学校に通っていました。この学校は、世界50カ国ぐらいから集まった子どもたちが学ぶ学校だったのです。

 あるときその学校で林間学校があったのです。そこで、子どもたちがそれぞれ自分の国のおとぎ話を披露することになったのです。米原さんは『おむすびころりん』の話をしました。働き者のおばあさんが川に洗濯に行って、おむすびを食べようとしますが手元がくるっておむすびがコロコロ転がっていくという話です。ところが、米原さんはその話をしているうちに、おむすびが無性に食べたくて、食べたくて仕方がなくなるのです。そのときのことを米原さんは、『旅行者の朝食』という本の中で、次のように書いています。

 「その夜は一睡もできずに苦しんだ。その次の日も、次の日も、一つのイメージに苦しめられた。まるまる一週間、頭のなかはおむすびのことで一杯だった。」

 このように、話が終わった後も頭の中はおむすびのことだけです。とうとうその晩一睡もできなかったのです。それで、母国にいたお母さんに頼んで、2週間後の参観日におむすびを持って来てもらったそうです。世の中にご馳走と呼ばれるものは沢山あるかと思います。しかし、日本人の米原さんにはおむすびこそが、懐かしく、温かい気持ちにしてくれるご馳走だったのです。

 そして、米原さんに限らず誰もが、懐かしく、温かい気持ちにしてくれるものを求めてやまない性質を持っていると思うのです。さて、本日の聖書の箇所で、一人の罪深い女が登場します。この女性が何を求めてやまなかったのかということを皆さんと一緒に学んで行きたいと思います。

ファリサイ派シモンの家の宴席で

 本日の聖書の箇所はルカによる福音書の7章36節から50節までの長い箇所です。ここには、主イエスがあるファリサイ派の人、その名前はシモンであることが40節の主イエスの言葉で分かりますが、その人の家に招かれて、食事の席に着いておられた時の出来事が語られています。当時、宴会というのは、宗教的、道徳的講話を聴く場となっていました。語るのは、ラビで、教師が語る場となっていたのです。ラビを招いて、こういった宴会を開くというのは、人びとから評価されたのです。巡回ラビを招いて、こういった宴会を開くというのは、巡回ラビに敬意を表しているのです。今日の聖書の箇所の舞台も同じなのです。ファリサイ派の一人であるシモンが、自宅に宴席を設けて、そこに仲間のファリサイ派の人々を招き、そして当時神の言葉を語り伝える預言者であるとの評判が高まってきていた主イエスをも招いたのです。特徴的なの一般の人びとにも扉が開かれていて、傍聴が許されたということです。さらに、食事が終わると、宴会の残り物の食事がありますが、貧しい人々は宴会の残り物を食べることができたのです。ですから、残り物を食べることができることを楽しみに、貧しい人びともたくさんいたのです。従って、この宴会は学びの場であると同時に、社会福祉を実践する場でもあったのです。主イエスはファリサイ派の人々と対決する場面が多かったのですが、ファリサイ派の人々の招きを全て断ったわけではないのです。招きに応じて、宴会に出たことも何度もあったのです。

 本日の聖書の箇所で、ファリサイ派の人、シモンは主イエスに敬意を表するためではなく、別の目的のために主イエスを宴会に招いたようです。しかし、その動機が何かということは隠されています。シモンは主イエスをもてなすわけでもなければ、敵対するわけでもない。まだ、判断をしていない段階、中間の状態にあったのです。彼は主イエスがメシアなのかどうか、疑っている段階にいたのです。主イエスが誰であるかということを、ファリサイ派の人、シモンは吟味しようとしていたのです。

 さて、このような舞台設定の中で、この町に住む一人の女性が、主イエスがファリサイ派のシモンの家で宴会の席に着いておられることを知ってそこへやって来ました。37節を見ますと、この女性は罪深い女と書かれていることが分かります。罪深い女と、婉曲的表現されていますが、娼婦、売春婦のことです。当時は、異邦人の娼婦はたくさんいたのですが、彼女の場合は、ユダヤ人の娼婦であったことが分かります。ベタニアのマリアやマグダラのマリアと混同しそうになるかと思いますが、今日の聖書の箇所の罪深い女は、ベタニアのマリアでもなく、マグダラのマリアでもなく、名前は伏せられています。宴会の席に、一般の人々も陪席しても良いのですが、彼女のような娼婦が宴会の席にいるのは普通のことではありません。通常は戸口に、召使いが立っていて、入ってくる人の入室を制限していました。今日の聖書の箇所の場合には、そのようではなかったのです。宗教的な人の家では、このファリサイ派の人の家のような場合には、誰でも入れるように扉を開いていることが多かったのです。ですから、罪深い女であってもチェックされずに入室できたのだと思います。

 37節の後半から38節にかけて、彼女が取った行動が描かれています。「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。彼女は「香油の入った石膏の壺を持って来て、」とあります。石膏は柔らかい鉱石で、アラバスターとも言い、香油を入れるのに最適な器とされていました。その壺を持ってきたのです。さらに、彼女は泣いていたのです。そして、主イエスの後ろから、その足もとに近寄ったのです。これは、読んで不思議に思う記述です。「後ろからイエスの足もとに近寄り」とはどういうことなのかなどと考えてしまいます。しかし、ユダヤの当時の宴会では、列席者は、食べ物を並べた低いテーブルを囲むように置かれた平らな台の上に、体の左側を下にして、左肘をついて寝そべって、右手で食べ物を取って食べるのです。ですから足は寝ている台の上にあり、周りで見ている人々の側に伸ばされています。ですから、「後ろからイエスの足もとに近寄り」というのはごく自然な動きなのです。

罪深い女

 そこで彼女がしたことは、普通のことではない、当たり前のことではないことでした。「泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。とこのように書かれています。髪の毛でぬぐいと書かれていますが、当時、宗教的な婦人は頭にかぶりものをしていました。現代の日本にいる私たちには理解が難しいのですが、公の場で髪の毛を見せるというのは、娼婦がすることであったのです。非常に不道徳なことであったのです。普通は頭にかぶりものをして髪の毛を見せないようにしていた、それがないということは、ドキッとするようなことであったのです。彼女は、「その足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」と書かれています。「イエスの足に接吻して」というのは、文法上では、未完了形が使われています。つまり、継続した動作、繰り返された動作であったことを示していて、「接吻し続けた」「接吻して止まなかった」ということを示しています。そして、「香油を塗った」、どこに香油を塗ったのかと言いますと、主イエスの足です。通常は、香油は頭に塗るのです。この女性の場合には、頭ではなくて、足に香油を塗っているのです。これは、この女性の謙遜の表現です。自分が罪深い女である、それ故、謙遜な姿勢で主イエスの足に香油を塗っているのです。この香油はどういうものなのかと言いますと、この女性が娼婦であることを考えると、娼婦が商売するときのものであったと思います。

 従って、この光景を見ている、ファリサイ派のシモンからすると、とんでもない汚れたもので、この女性は主イエスの足に香油を塗っているということになります。ファリサイ派のシモンはこの出来事を見て「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と心の中で思ったのです。ファリサイ派のシモンは、心の中で、主イエスに対する結論を出したのです。主イエスは預言者ではない、失格だ。なぜなら、預言者であれば、この女が誰であるか分かっているはずだ。預言者であれば、罪の女に触らせることはないはずだ、という結論をシモンは出したのです。当時のユダヤの人々の認識では、罪人に触れると、あるいは、罪人に触られると、触られた人が汚れる、汚れが罪人から清い人に移るというように考えられていたのです。ファリサイ派のシモンはがっかりしたと思います。主イエスのことを偽物だと思ったと思います。でも、ファリサイ派のシモンは何も言葉を発していません。心の中で、思っただけです。

五百デナリオンと五十デナリオン

 40節には、「そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。」と書いてあります。家の主人がいます。招かれた客、主イエスがいます。弟子たちもいたでしょう。そして、周りには傍聴人たちがいるのです。そこで、いよいよラビの講話である、主イエスの講話が始まるのです。通常、ラビの講話は、たとえ話を使ったたり、質疑応答、つまり、ラビが質問をして、どう答えるか、あるいは逆に、聴衆から質問を受けて、ラビが答えるという形で展開してゆきます。この講話で、主イエスはたとえ話を用いています。主イエスはシモンの心の中を見抜いておられることを示して行かれます。シモンは主イエスが自分の心の中を見抜いておられることをまだ知らないのです。ですから、シモンは丁寧に、「先生」と言っているのです。ルカによる福音書では、「先生」という言葉が出てくると、それはラビということを示しています。ラビは当然、預言者以下の存在です。シモンは、主イエスのことを預言者以下だと、値踏みしたのです。そこで、主イエスは一つのたとえ話によって彼に問いかけました。ある金貸しから、一人は五百デナリオン、一人は五十デナリオンの金を借りていた。返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人の内どちらが多くその金貸しを愛するだろうか、というたとえ話と質問です。一デナリオンは、一人の労働者が一日働いて得る賃金です。ですから五百デナリオンは五百日分の賃金、五十デナリオンは五十日分の賃金です。今の日本で言えば、1日の賃金を1万円とすると、50万円と500万円ということになるでしょうか。金貸しは2人を許したのです。どちらの人もその借金を帳消しに、チャラにしてもらったのです。そして、この話のポイントは、「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」という問いなのです。それに対して、シモンが答えます。43節です。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」。それに対して、主イエスは、「そのとおりだ」と言われたのです。ここで、シモンはとても注意深く答えています。「帳消しにしてもらった額の多い方です」とは答えずに、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えています。なぜなら、これまで主イエスは質問をして、答える人が思いもつかないような論点を引き出して、そこから結論に導くという手法をよく用いていたからです。この質問は、2者択一のとってもシンプルな質問です。でも、シモンは何かひねりがあるのじゃないか、裏があるのじゃないかと考えて、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えているのです。シモンは用心深い人間であることが分かります。そして、それに対して、主イエスは、「そのとおりだ」と言われたのです。しかし、主イエスのひねりはここから始まるのです。シモンは自分の下した答えによって、自分を裁くことになるのです。つまり、罪深い女とシモンのどちらが多く赦されているかという話に移行してゆくことになるからです。このシモンの答えを確認した上で主イエスは、これこそが、今ここで起っていることなのだ、とお語りになったのです。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」。

 主イエスは、「あなた」つまりファリサイ派のシモンと、「この人」つまりこの女性とを対照させて語っておられるのです。家に入った時、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女性は自分の涙で私の足を濡らし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは接吻の挨拶をしなかったが、この女性は私の足に接吻してやまない。あなたは頭に油を塗ってくれなかったが、この女性は私の足に香油を塗ってくれた。彼女は、私をこの家に招いたあなたよりもずっと真実な、心のこもった愛のもてなしをしてくれたのだ、というのです。そこに、五百デナリオンの借金を免除された人と、五十デナリオンを免除された人との違いがある。五百デナリオンを帳消しにしてもらったのがこの女性です。五十デナリオンの方がシモンです。それゆえに、この女性の方があなたより多く、私に対する愛を示したのだ。それをまとめているのが47節です。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。

多くの罪を赦されて

 ここに来て初めて、「罪を赦す」ということが出てきています。「この人は多くの罪を赦された」それが、五百デナリオンの借金を帳消しにしてもらったことと重ね合わされているのです。つまり今日の聖書の箇所のたとえ話は、罪の赦しについて語っていたのです。神様に罪を赦していただいた者は、赦して下さった神様を愛して生きるはずだ、ということを語っています。そして、多くの罪を赦された者ほど、より多く神様を愛して生きるはずだ、と言っているのです。従って、47節の、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」というのは、この女性が大きな愛で主イエスを愛したことによって多くの罪を赦された、ということではありません。どこまでも、神様による罪の赦しが先行しているがゆえに、この女性が主イエスを愛するという行為が生じているというのです。主イエスを愛するという行為の結果として、罪が赦されるということではないのです。新共同訳はそのような誤解が生じないように、彼女が多くの罪を赦されたのだということが、彼女の示した愛の大きさによって分かる、と訳しているのです。そしてその逆、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」というのがシモンのことです。彼が主イエスに十分なもてなしをしていないのは、赦されることが少ないからなのです。

 ここには当然一つの疑問が生じます。多くの罪を赦された人の方が主イエスをより多く愛し、罪を赦されることが少ない人はあまり愛さないというなら、なるべく多くの罪を犯した方がよいということか。五十デナリオンの罪を犯していたファリサイ派のシモンよりも、五百デナリオンの罪を犯していた女の方が神様の救いにあずかるのにふさわしいということか、という疑問です。そこで考えてみたいのですが、ファリサイ派のシモンは果して、自分が五十デナリオンの借金を帳消しにしてもらった者である、と思ったでしょうか。つまり主イエスが語られたこの話を自分のこととして聞いたでしょうか。聞いてはいないと思います。彼は、自分が神様に対して、たとえ五十デナリオンであっても借金が、つまり罪があるとは思っていないのです。自分は律法に従って正しい生活をしている、罪から遠ざかって生きている、だから罪はない、と思っているのです。つまり、このたとえ話は、あの人の罪とこの人の罪の大きさを比べて、こちらは五百デナリオン、あちらは五十デナリオンだ、ということを語ろうとしているのではないのです。私たちは日々新たに罪を重ねつつ生きていて、一生かかってどんなに頑張っても、自分でそれを償うことはできないのです。

 ファリサイ派のシモンは、律法を守っている自分に罪などないと考え、それに比べてこの女性はどうしようもない罪人だと蔑み、そしてそんな罪深い女が手を触れているのに気付かないなんて預言者ではない、と主イエスを軽んじています。そこに彼の罪があります。彼の罪はこの女性の罪とは種類が違いますが、しかし同じぐらい罪深い者なのです。あの女性の罪は五百デナリオンで、彼の罪はその十分の一だ、などということはないのです。それでは五百デナリオンと五十デナリオンの違いは何を意味しているのか。それは、自分の罪をどれだけ認識しているかの違いです。私たちが犯している罪は、誰でも皆五百デナリオンです。しかし、私たちは、そのことになかなか気づきません。自分が、自分ではとうてい返すことのできない負債を神様に対して負っているとはなかなか思わないのです。ファリサイ派のシモンのように、自分には罪などない、借金はない、と思っている人もいます。しかし普通の人は、自分に全く罪がないとは思わないでしょう。自分はいろいろと罪を犯すし、欠点や弱さがある、ということを私たちは知っています。そのようにして私たちが自覚している罪、それが、人によって五百デナリオンだったり五十デナリオンだったりするのです。そして、私たちが自分の罪の深さを自覚する度合いと、それを赦して下さる、その負債を帳消しにして下さる神様を愛する度合いは比例しています。自分の罪を深く知る人ほど、それを赦して下さる神様の愛をより深く知り、自分も神様を深く愛するのです。あるいは逆に、神様が自分を深く愛して下さっていることを知れば知るほど、自分の罪をより深く知ることができる、と言うこともできます。最初は五十デナリオンぐらいだと思っていた自分の罪が、実は五百デナリオンだったことを知らされ、その神様のとてつもなく深い愛を示されることの中で見えてくるのです。この神様の愛を知る時に私たちは、主イエス・キリストを、より深く、より心から愛するようになっていくのです。

あなたの罪は赦された

 さて、次に、48節から49節を見てみたいと思います。「そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。」と記されています。ここで、主イエスは何をしているのでしょうか。公にこの女性の罪の赦しを確認されているのです。「あなたを赦す」と言っているのではありません。「あなたの罪は赦された」と言っておられるのです。ここでは、完了形が使われています。完了形が使われていることから、2つのことが分かります。一つは、この女性は主イエスを信じた段階で赦されたということです。そして、もう一つが赦されたという状態が今も続いているということです。過去のある時点で起こったことが、今も継続しているのです。主イエスはこの女性の罪が赦されていることを公の場所で確認されたのです。何故この宣言があるのかということですが、これはこの女性がイスラエルの共同体の中で、新しい人生を歩むために必要なものとなるからです。主イエスはメシアとして宣言し、語っておられるのです。

 食卓についていた人たちは驚いたのです。旧約聖書の規定では、罪の赦しを宣言するのは祭司の仕事です。祭司は代償の捧げものが捧げられた後、捧げた人に向かって、罪の赦しを宣言することができたのです。ところが、本日の聖書の箇所では、主イエスは代償の捧げものなしに、罪の赦しを宣言されました。これは後で明らかにされますが、主イエスは大祭司です。さらに主イエスが捧げる代償の捧げものというのは、十字架の上で捧げる自らの命です。十字架での死が代償の捧げものとなるのです。ですから、そのことを信じる人に向かって、罪の赦しを宣言することができるのです。食卓についていた人たちは、主イエスが罪の赦しを宣言したので、驚いたのです。「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」。つまり、食卓についている人たちは、主イエスを信じるか、拒否するかの選択を迫られたのです。

平和の内に行きなさい

 そして、50節で、「イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」と記されていますように、主イエスはかの女性に語りかけて、彼女を送り出して下さいました。主イエスはここで信仰による救いを宣言し、保証されたのです。この女性は主イエス愛するという行為によって救われたのではありません。すでに信仰によって救われていたのです。すでに救われていたから、愛の行為を表現することができたのです。愛の行為は、主イエスを信じて救われた結果、その感謝から生じた行為なのです。そして、主イエスは何とおっしゃられたのでしょうか。聖書は、主イエスが「安心して行きなさい」と語られたと伝えています。この言葉は、英語訳聖書では、「go in peace」と書かれています。「平和の内に行きなさい」と訳すことができます。「安心して行きなさい」はユダヤ人の別れの挨拶です。罪の意識に苛まれる中で、ただひたすら主イエスを信じ、主イエスのところへ飛び込んでいく私たちに平安が与えられるのです。その平安は、私たちをまるごと受けとめてくださる主イエスのもとで生きる平安にほかなりません。なお罪に苦しみ、罪への意識に苛まれても、それにまさる平安が主イエスとの交わりに生きることにあるのです。その交わりの中で、私たちは自分の罪に気づかされながらも、それでもなお与えられている赦しに気づかされ、その赦しの恵みに応えて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。