■太宰治作、『走れメロス』
おはようございます。太宰治という作家の作品に『走れメロス』という短編小説があります。村の牧人であるメロスは妹と二人で暮らしていました。メロスの妹が近々結婚するため、式の準備でシラクサの町に買い物に来たところ、メロスは町の様子がおかしい事に気付きます。シラクサ王ディオニスが人を疑う心から、次々と人を殺しているというのであった。邪悪なことに対して、人一倍敏感なメロスは、この話を聞いて激怒し、シラクサ王ディオニスを暗殺しようと短剣を持って王城に入るが、すぐ捕まってしまうのです。
シラクサ王に対して、「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」と言い放ったメロスは、はりつけの刑に処される事になってしまうのです。しかし、妹の結婚式に出るために、メロスは3日間の猶予を願うのです。シラクサ王はメロスの親友セリヌンティウスを人質に取ることで許可を与えるのでした。妹のいる村に向けて、メロスが出発をしようとする時、王はメロスに言うのです。「もし、遅れて帰って来たら、セリヌンティウスを殺し、メロスの罪は永遠に許すぞ。」
メロスはその夜、一睡もせずに片道40キロの村を目指して必死で走ります。妹の結婚式を挙げたメロスは、妹と花婿に花向けの言葉を送り、次の日の朝、シラクサの町を目指して出発するのです。これから処刑されるという恐怖、故郷や妹への未練から、立ち止まりそうになりながらも身代わりの親友の為に、メロスは走り続けるのです。
ところが、疲れが溜まり体調が崩れ病気になり、そして、豪雨で氾濫した川が立ちはだかりますが、必死の思いで泳ぎ切り、その上、3人の山賊が襲いかかってきますが、殴り倒し、その後も一気に峠を駆け下りたメロスだったのですが、ついに疲労困憊で精神共にやられ動けなくなってしまうのです。諦めかけたメロスであったが、友の信頼に応えるべく最後の死力を尽くしてまた走り始めるのです。
何とか約束の日没までに間に合ったメロスが処刑場に着くと、今まさに友人が自分の身代わりに処刑されるところでした。メロスは大声で止めに入り、そして、親友に向かって言います。「俺を殴ってくれ。そうでないと君を抱擁する資格が自分には無いのだ。実は道中一度悪い考えがよぎった。君を裏切る考えが一瞬浮かんだのだ。こんな俺を殴ってくれ。」
親友セリヌンティウスはメロスを殴ります。そして、「今度は僕を殴ってくれ。この3日間のうち、一瞬君は来ないのではないかと疑った。人生で一回だけ、初めて君のことを疑った。さあ、僕を殴ってくれ。そうでないと君を抱擁する資格は自分には無いのだ。」メロスはこの親友を殴るのです。そして、二人は涙を流しながら、抱擁し合うのです。世の中に信じられるものなどないと思い込んでいたシラクサ王は、この光景を見た時、突如として信じられるものを見出し、メロスを許すという物語です。それでは、どうしてシラクサ王は猜疑心を捨てて、信頼というものを認めたのでしょうか。信じるとか、信仰とか、信頼という意味の言葉はギリシャ語で、『ピスティス』と言います。そして、この言葉には真実という意味もあるのです。ギリシャ語では『真実』と『信仰』が同じ単語なのです。さて、主イエスは、本日の聖書の箇所で、「岩の上に土台を置く」ということを語っておられます。今日は、揺り動かすこのとのできない岩とは何かということを皆さんと一緒に学びたいと思います。
■三つのたとえ
本日の聖書箇所は、6章20節から始まる主イエスの「平地の説教」の結びの部分です。20節で「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とあり、その後から主イエスの説教が語られ、本日の箇所の最後6章49節まで続きます。その直後の7章1節には「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とあり、説教を終えた主イエスがガリラヤ湖のほとりにある町カファルナウムに入られたことが語られています。
この主イエスの説教の結びは43節から45節と46節から49節の二つに分けられます。前半では、まず三つのたとえが語られています。第1に、43、44節の前半で「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」と言われています。木の良し悪しは、その木が結ぶ実を見れば知ることができる。なぜなら悪い実を結んでいたら良い木ではないし、良い実を結んでいたら悪い木ではないからだ、ということです。第2に、44節の後半で「茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」と言われています。「茨」は棘のある雑草で穀物に害をなすものであり、また「野ばら」は実を結ばない植物の象徴であったようです。第3に、45節の前半で「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と言われています。倉に良いものを入れるならばその倉から出すのは良いものであるし、悪いものを入れるならば悪いものしか出せないのです。
■心からあふれ出ること
これら三つのたとえが語っていることは難しいものではありません。実を結ばない木があれば、その木に悪いところがあるのだろうと推測するし、茨や野ばらから実が得られないのも当然であるし、倉に入れたものしかそこから取り出すことができないのも分かりきったことです。しかし、一つ一つのたとえは分かりやすいのにもかかわらず、三つのたとえによって主イエスが何を教えておられるのかは分かりにくいのです。良い木と悪い木、良い実と悪い実、そして良いものと悪いものはなにを指しているのでしょうか。
木を私たち人間と考え、実を私たちの行いと考えるならば、43、44節で語られているのは、悪い行いという実を結ぶ者は悪い人であり、良い行いという実を結ぶ者は良い人であり、茨や野ばらのような悪い人から、良い行いの実は結ばないということになります。同じように45節の前半でも、良い行いを積み重ねた者は、良い行いをなすのだし、悪い行いを積み重ねた者は、悪い行いをなすのだということになります。しかし、この三つのたとえにおいて見つめられていることは、45節後半の主イエスのお言葉に示されているのではないでしょうか。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」つまり人が語っていることは、その心からあふれ出ることである、ということこそが、この三つのたとえにおいて語られているのです。
このことは、言い換えるならば、人が語っていることによって、その人の心を満たしているものが分かるということです。結ぶ実が良い実であるか悪い実であるかによって、その実を結んだ木が良い木であるか悪い木であるか分かるようにということです。また、心を満たしているものが茨や野ばらのように棘だらけであるのに、語っていることがいちじくやぶどうのように栄養のある実、つまり人を活かすようなことであるはずがないようにということです。心の倉に良いものを入れることによって、良いことを語るのだし、悪いものを入れるならば悪いことを語るのです。
ですから自分の「心の倉」になにを入れるのかということは大変重要なことなのです。私たちの口から、神への賛美が語られるとしたら、また隣人への愛が語られるとしたら、なにが私たちの「心の倉」を満たしているのでしょうか。それは神様のみ言葉ではないでしょうか。しかし、私たちは自分の心にみ言葉を蓄える、その一方で、隣人への妬み憎しみの言葉を蓄えています。私たちが語ることの現実は、依然としてほんの少しの神様への感謝や讃美と、圧倒的に多くの不平、不満、隣人への愛のない言葉や隣人を傷つける言葉かもしれません。しかし、主イエスは、私たちのごちゃ混ぜの「心の倉」から、神さまをほめたたえ、信頼する言葉や、主イエス・キリストこそ私たちの救い主という告白、また、隣人を慰め励まし活かそうとする愛の言葉をあふれ出させることを勧めているのです。
■『主よ、主よ』と呼ぶ
主イエスの「平地の説教」の結びの後半、その冒頭46節で主イエスは「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言われています。「主よ、主よ」とは祈りにおける、父なる神様への呼びかけの言葉であり、また主イエスへの呼びかけの言葉でもあります。主イエスは、「主よ、主よ」と呼びかけ祈っているのに、なぜ主イエスが言われたことを行わないのか、と問われているのです。
47節には「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」とあります。「わたしの言うこと」や「わたしの言葉」とは、この箇所が主イエスの説教の結びであることから、その説教で語られたことと考えることもできるでしょう。しかし、単に20節から49節で語られたことだけでなく、この福音書を通して主イエスが語られたことのすべてであるとも言えるのです。主イエスの言うこと、主イエスの言葉を聞くとは、神様の言葉を聞くことにほかなりません。「主よ、主よ」と祈っているのに、祈りにおいては主に感謝し、願い求めているのに、日々の生活においては神様となんの関わりもないかのように生きるのならば、神様との正しい関係なしに生きているのであり、「主よ、主よ」と祈りながら、主イエスの言われることを行わない者になっているのだと言うのです。
■岩の上に土台を置く
本日の聖書の箇所で、み言葉を聞いて行う者、つまり、日々の生活において神様との正しい関係の中を歩む者は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」のであり、「洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」と言われています。ここを読むと、家の土台を据えるべき岩は、目に見えていた訳ではないことが分かります。岩は地中深くに隠れていたのです。ですから、深く掘り下げなくては、岩に到達しないのです。しかし、その手間を惜しまずに、根気よく地面を掘り下げました。そして、岩を掘り当て、その上に土台を据えて、家を建てたのです。それに対して、み言葉を聞いて行わない者、つまり、日々の生活において神様となんの関わりもなく歩む者は、「土台なしで地面に家を建てた人に似ている」のであり、「川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」と言われています。イスラエルの川は、乾燥地帯であることから、普段は細い小さな川で、その川の周辺には平らな土地がずっと広がっています。川の周辺は地面が平らですので、河原の地面に直接家を建てることができるのです。しかし、イスラエルでは一度、川の上流で雨が降ると、それが鉄砲水になって押し寄せてくるのです。今から3年前の2018年の10月に発生した鉄砲水で、「死海」のほとりを旅行していた、ヨルダンの私立学校の中学生37人がバスごと濁流に飲み込まれて、たくさんの死者を出すという事故がありました。普段、平穏で、順調に見えていても、一度、災害に見舞われると、バスさえも流されてしまうように、土台なしに家を建てると、洪水に遭えば、たちまちのうちに壊れてしまうのです。
48節、49節で、み言葉を聞いて行う者も、聞いても行わない者も家を建てていることにおいては同じです。なにが異なるのでしょうか。それは、み言葉を聞いて行う者が「岩の上に土台を置いて家を建てた」のに対して、聞いても行わない者は「土台なしで地面に家を建てた」のであり、土台があるかないかで、決定的に異なるというのです。み言葉を聞いて行う者、つまり日々の生活において神様との正しい関係の中を歩む者とは、神様の言葉を土台とし、その土台の上に日々の生活を築いていく者です。それに対して、み言葉を聞いても行わない者、つまり日々の生活において神様との関わりなしに歩む者とは、神様の言葉という土台なしに日々の生活を築く者なのです。そして神様の言葉を土台とするとは、主イエス・キリストが十字架によって私たちを救ってくださったということを土台とすることにほかなりません。神様の言葉である聖書は、一貫して主イエス・キリストの十字架による救いを語っているからです。神様の言葉である岩の上に土台を置くということは、具体的にどういうことなのでしょうか?
■捨てられた少女
昔、アメリカに4人家族がいました。お父さんはアルコール中毒で、どうしようもない人であったのです。お母さんは代わりに働いて、過労で倒れ、とうとう息を引き取るときに、右手に3歳の弟の手を握り、左手にお姉さんの手を握りながら亡くなったのです。数日経って、発見されますが、弟の方は栄養失調で倒れ、そして、病院でお母さんの後を追うように亡くなったのです。お姉さんの方は、体力があったので、一命は取り留めたのですが、成長期にほとんど食べなかったので、一生、弱視が後遺症として残りました。
彼女はやがて孤児院に引き取られ、天涯孤独の身になったのです。彼女には一つ疑問がありました。どうして私ばかり、こんなにひどい目に遭うのだろう。どうして私ばかりに、災いが追いかけてくるのだろう。ところが、12歳のときに、ある牧師がその孤児院を訪問し、主イエス・キリストのことを彼女に語ったのです。そのとき彼女はびっくりしたのです。イエス・キリストという方は、なんて私と境遇が似ている方なんだろう。実に主イエス・キリストの生涯は、捨てられ続ける生涯であったのです。自分には、お母さんがいた。弟もいた。しかし、主イエス・キリストは友に捨てられ、あの十字架の上で、神様にまで捨てられて下さった。それが、人間の罪の身代わりのための死と知ったとき、彼女は驚いたのです。彼女は、自分の救い主として、主イエス・キリストを受け入れたのです。捨てられるつらさが痛いほどわかる彼女にとって、主イエスの十字架は2千年前の過去の出来事ではなく、生々しく、今、私のために死んで下さった犠牲ということが、ピンときたというのです。
捨てられる経験は、痛ましいものですが、今更、変えることはできません。しかし、彼女にとっては、その苦い体験は神様との出会いの舞台となったのでした。神様を、私の問題を私の願い通りに解決して下さる方であると考えるならば、私たちはがっかりすることが多いと思います。なぜなら、神様はそのような約束をしておられないからです。しかし、私たちを神様の素晴らしい作品にして下さるという約束はあるのです。大切なのは解決されねばならないあの問題、この問題ではなくて、その問題を通して、造り上げられてゆく私たち自身であると聖書は語っているのです。
■決して揺らぐことがない
岩の上に土台を置いた家は、洪水になって川の水がその家に押し寄せても、しっかり建ててあったので、「揺り動かすことができなかった」と語られています。「揺り動かすことができない」とは「揺らぐことがない」ということであり、この言葉は、旧約聖書の詩編で度々使われている言葉です。本日、招詞でお読みしました詩編62編3節にも「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」とあります。ここでは神様に信頼して、事の成り行きや、自分のすべてを神様に委ねて、神様が御業を行って下さることを待ち望んでいる信仰の姿勢を見ることが出来ます。神様が為せと言われれば、そのことを為し、祈るようにと示されれば祈り、待てと言われれば待つのです。私たちの家が、私たちの生活が「揺らぐことがない」のは、私たちが自信を持っているからとか、固い信念を持っているからとか、なにが起きても動じることがない冷静沈着さを身につけているからではありません。欠けの多い私たちが持っていたり、身につけていたりしているものの上に、家を建て、日々の生活を築いたとしても、人生の中で起こる想像もしなかったような苦しみや悲しみ、不安や恐れのゆえに、私たちの日々の生活は大きく揺さぶられ、たちまち倒れ壊れてしまいます。しかし、私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を土台とするとき、人生において想像を絶する苦しみや悲しみ、不安や恐れに襲われたとしても、決して揺らぐことがないのです。キリストの十字架と復活の出来事は、私たちが信じて受け入れたから決定的なのではありません。そんな不確かなものではありません。そうではなくて、キリストの十字架と復活の出来事は、すでに決定的に打ち立てられているのです。たとえ私たちの口から神様への讃美と隣人への妬み憎しみが共に語られているとしても、神様への讃美こそが、救いの恵みに圧倒的に満たされた私たちの「心の倉」から溢れ出ている決定的なことであるように、すでに決定的な、そして決して揺らぐことのないキリストの十字架と復活の出来事を信じて受け入れるとき、私たちもまた決して揺らぐことがない者とされるのです。「揺らぐことがない」とは、主イエス・キリストの十字架と復活という土台を信じて受け入れ、その救いの恵みで心が満たされている私たちへの神様の約束の言葉なのです。
それでは、お祈り致します。