■アメイジング・グレイス
おはようございます。有名な讃美歌の中に、「アメイジング・グレイス」という曲があります。「驚くばかりの恵み」という内容の曲です。この曲の詩を作ったジョン・ニュートンという人は、1725年、貿易船の船長の息子としてロンドンで生まれました。お母さんのエリザベスは、敬虔で宗教熱心な女性でした。教会に通い、幼い頃からジョンに聖書や讃美歌などに触れさせていました。残念なことに、お母さんは肺の病気を患い、ジョン・ニュートンが6歳のときに、お母さんを失い、10歳で学校をやめ、11歳から船乗りの仕事を始めるのです。そして、そこで悪い習慣をたくさん身につけてしまい、ついに奴隷船の船員となってしまうのです。イギリスから物品をアフリカまで運んでいって、物と人間の奴隷を交換して買い付け、1回に200人以上の奴隷を船底にすし詰めにして運んでいたのです。
彼は、あるとき黒人を乗せるための船ではなく、金、象牙、蜜蝋などを運ぶ一般の商船であるグレイハウンド号に乗っていたときに、大嵐に遭い、大勢の船員が激しい波にさらわれ、海に投げ出されて、死んでしまうということを経験します。その死と隣り合わせの中で、彼は初めて絶叫して祈ったのです。それから、彼は少しずつ聖書に導かれるようになるのです。そして、どんな罪人をも許すことのできる主イエス・キリストに出会ったのです。この「アメイジング・グレイス」の詩は次のようなものです。「驚くばかりのみ恵み! 何という美しい響きでしょうか。/わたしの如き惨めな者をも救ってくれました。/わたしは、かつては失われていたが、今は見出されています。/かつては盲目でしたが、今はすべてが見えます。//私の心に恐れることを教えてくださったのは恵み、/そして恐れから救い出して下さったのも恵みでした。/その恵みは何と尊く見えたことでしょう。/初めて信じたあのときのこと。//たくさんの危険と、苦難や誘惑をくぐり抜け、私がここまで来ることができました。/ここまで安全に導いてくれたのも恵みです。/そして恵みが私を故郷までも導いて下さるでしょう。」「アメイジング・グレイス」は最もよく歌われる讃美歌です。どうしてこの歌が世界中で歌われるのか、それはどんな罪人であっても、赦され、新しくされる神の恵みが歌われているからです。ジョン・ニュートンは自分の墓碑銘に、「かつて奴隷船の船長であった罪人の頭ジョン・ニュートン」と書き残して欲しいと書き残したのです。そして、彼の望んだ通りになっています。主イエス・キリストの語る貧しい者とは、自分の罪を直視し、心砕かれ、すべてを許す神様の恵みに向かって心を開いた者だと思うのです。人は、人生の中の嵐に遭遇するとき、ジョン・ニュートンのように、信仰を問われることとなると思います。本日の聖書の箇所で、主イエスの弟子たちもまた、嵐の船の中で、信仰が問われるということを経験するのです。ルカによる福音書では、本日の箇所である主イエスが湖上で嵐をお静めになったという奇跡物語に続いて、ゲラサ人の地での悪霊に取り憑かれた人の解放、長血を患う女性の癒やし、会堂司ヤイロの娘の復活と、4つの奇跡物語がひとまとめに示されています。それらは、自然の脅威、悪霊の力、病気、死という、人間の力ではどうすることもできない目に見えない力に対する主イエスの神としての権威が示されています。福音記者ルカは、主イエスに於いて間近に迫って来ている神の国の支配の終末的な出来事の前触れとして、主イエスの神としての権威を注意深く描いているのです。本日の聖書の箇所で、主イエスの神としての権威の前に、弟子たちの信仰はどうであったのかということを皆さんと一緒に学んで行きたいと思います。
■湖の向こう岸に渡ろう
本日の聖書の箇所、ルカによる福音書8章22節には、「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。」と書かれています。主イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込んでから、「湖の向こう岸に渡ろう」とおっしゃられたのです。マタイによる福音書8章18節を見ますと、「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。」と書いてあり、23節を見ると、「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。」と書かれています。従って、ルカによる福音書とマタイによる福音書とを比較すると、主イエスは舟に乗る前と舟に乗った後の少なくとも2回、「湖の向こう岸に渡ろう」と語っておられることが分かります。そして、主イエスが向かおうとされている「湖の向こう岸」というのは、どこのことでしょうか?。湖とは、ガリラヤ湖とも呼ばれる、「ゲネサレト湖」(5章1節)のことです。ガリラヤ湖を渡って、東の岸に向かおうと言うのです。そこは、異邦人の土地なのです。「ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方」(8章26節)に向かったのです。そこに向かう理由については、本日の聖書の箇所では、主イエスは何もおっしゃられていません。しかし、次回、お話しする箇所を見ると、悪霊に取り憑かれた人を助けるために、「向こう岸」に渡ろうとおっしゃられたことが分かります。ここで、大切なことは、「湖の向こう岸に渡ろう」と2回に渡っておっしゃられたことは、神様の言葉なのです。神様の言葉であるが故に、この言葉は、弟子たちに、湖の向こう岸に大切な宣教の課題があるが故に、無事に向こう岸に渡ることができるという保証を、弟子たちに与えたということになるのです。従って、本日の聖書の箇所で、弟子たちに問われているのは、主イエスの言葉を信じて、その通りに行動することなのです。そして、弟子たちは主イエスの言葉を信じたので、舟を出したのです。信仰とは、主イエスに従って、自分も主イエスと一緒に舟に乗り込むことです。そこには決断がいるということになります。主イエスと共に船出をすることです。それが、洗礼を受けて信仰者になること、教会の一員になることです。舟というのは教会と深く結びついています。古来、教会を象徴するものとして理解されてきました。教会とは、主イエスと共にこの世に漕ぎ出す舟なのです。
■共にいてくださるのに、なぜ?
次に、ルカによる福音書8章23節を見ますと、「渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。」と記されています。突風が吹いて来るのですが、その前に主イエスは眠ってしまわれたのです。主イエスはよほど疲れていたのだと思います。これは新約聖書で、主イエスが眠られたことを記している唯一の箇所で、神である主イエスが人として生活されたことを証明する重要な記事となっています。
主イエスは舟の中で眠っておられる、そこに突風が吹いて来るのです。主イエスが眠っている、その舟が激しい嵐によって、波にのまれそうになったのです。その舟が激しい嵐に遭うのです。激しい風が起こり、舟は波にのまれ、沈みそうになるのです。そして「イエスは眠っておられた。」と24節にあります。主イエスと共に漕ぎ出した舟が、このような嵐に遭い、沈みそうになったのです。ガリラヤ湖には、このような突風が吹いて、海のような高波が生じる地形的な特徴があります。ガリラヤ湖は南北約21km、東西約13kmで、湖面は海面下212mの低い所にあります。衛星写真を見ると、三方を山に囲まれて、ガリラヤ湖がすり鉢状になっていることがわかります。そして、ガリラヤ湖の西側には渓谷が走っているのです。そのため、北にある標高2814mのヘルモン山から冷たい空気が流れ込み、また切り立った崖の多い東側では冷たい空気が急降下して湖の温かい空気と衝突し、時々嵐が起きるのです。すると普段は静かな湖が突然大荒れになり、舟に乗っていた一行は「水をかぶり、危なく」なってしまったのです。しかも、ガリラヤ湖は東京湾の入り口の浦賀水道くらいの幅のある大きな湖です。沖に漕ぎ出していれば、簡単には岸まで戻れません。こうして、主イエスと弟子たちは「水をかぶり、危なくなった」のです。弟子たちの多くは、漁師でした。漁師でさえも、死の恐怖を覚えたのです。通常、漁師たちは岸辺に近いところで漁をするのです。突風が吹いたら、直ぐに帰れるくらいの所で、漁をするのです。彼らは、これほど沖合に出て、突風に遭ったことはないのです。
この嵐とは、私たち人間が人生において起ってくる様々な苦しみ、困難、悲しみを象徴しているのではありません。この嵐は、信仰をもって歩んでいこうとする者に起きてくる、その信仰の旅路において起きくる苦しみ、困難であり、悲しみなのです。弟子たちは、主イエスが「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃり、その言葉に従って、舟に乗ったのです。そこには、主イエスに従うという信仰の決断があります。信仰を持つということは、主イエスの弟子になるということです。信仰とは、主イエスに従って、自分も主イエスと一緒に舟に乗り込むことです。そこには決断がいるということになります。主イエスと共に船出をすることです。舟というのは教会と深く結びついています。古来、教会を象徴するものとして理解されてきました。教会とは、主イエスと共に漕ぎ出す舟なのです。その舟が激しい嵐によって、波にのまれそうになったのです。その舟が激しい嵐に遭ったのです。激しい風が起こり、舟は波にのまれ、沈みそうになったのです。主イエスに従って舟に乗ったのに、そのような激しい嵐が起こったのです。生きるか死ぬかというような局面になってしまったのです。主イエスを信じたら、何もかもうまくいくはずだったのではないのでしょうか。主イエスに従ったら、すべては順調にいくはずだったのではないでしょうか。イエスさまに従っていったのに、どうしてこんなことが起こるのか。この問いかけは弟子たちだけではなく、私たちもまた経験することです。主イエスを信じ、従ってきたのにどうしてこのようなことが起こるのか、なぜだろうか。信仰を持っている人も、持っていない人も同じように、人生には様々な波があり、嵐が襲って来ます。しかし、主イエスを信じ、従っている者にとって、それはより大きな苦しみ、嘆きとなるのです。自分が信じて従ってきたはずの主イエスが、大事なとき、自分が生きるか死ぬかという時に眠り込んでしまっている。主イエスは自分の苦しみ、困難、悲しみを理解してくれない、そのために行動してくれない、いざという時に何も役に立ってくれない、という思いです。弟子たちが、眠っている主イエスに覚えたのはそのような思いだったのではないでしょうか。主イエスを信じ、従って来たのに、あなたの命令によって漕ぎ出したのに、今このような危機に陥ってしまったという思いに囚われてしまいます。主イエスが、自分の一番大事な時に助けてくれない、という思いが「信仰の薄さ、小ささ」なのです。主が共にいて下さるのに、実は主イエスが見えなくなってしまったというのです。そのことが信仰の薄さ、小ささなのです。
■先生、先生、おぼれそうです
しかし、主イエスはいぜんとして眠っておられます。そこで弟子たちは主イエスに近寄り、主イエスを起こして「先生、先生、おぼれそうです」と言いました。「先生、先生、おぼれそうです」という弟子たちの叫びは、嵐の中で舟が沈みそうになっている、という状況に合わせてこのように訳されています。「おぼれそうです」という言葉は、英語訳聖書では、「we are perishing!」となっていますので、この部分を直訳しますと「先生、先生、私たちは滅びようとしています」ということです。「おぼれそうです」は新しい版の新共同訳聖書では「このままでは死んでしまいます」となっています。おぼれて死んでしまうという恐怖の中からの叫びです。その恐怖の根本にあるのは「自分が滅びてしまう」ということです。弟子たちの気持ちはよく分かります。今、まさに彼らはおぼれそうなのです。このままでは死んでしまいそうなのです。「先生、先生、おぼれそうです」それなのになぜ、主イエスは眠っておられるのか。早く起きて助けてほしい。そのように思ったのです。眠っているとは、なにもできないということです。周りの人からすれば「なんの役にも立たない」のです。だから弟子たちは主イエスを起こそうとしたのです。私たちは人生の中で多くの困難に直面します。ときには「このままでは死んでしまいそうだ」と思うほどの深い苦しみや悲しみに襲われることがあります。そのようなとき私たちは、主イエスが共にいてくださるのなら「なぜ、主イエスは助けてくださらないのか」と思うのです。私たちは主イエスが聖霊の働きによっていつも私たちと共にいてくださる、と信じています。しかし信じているからこそ、苦しみや悲しみの中にあって「なぜ、主イエスは助けてくださらないのか、なぜ、眠ったままなにもしてくださらないのか」と思わずにはいられません。「主よ、主よ、このままでは溺れてしまいます、眠っていないで、起きて助けてください」と祈らずにはいられないのです。それだけでなく、「死んでしまいそう」なときに助けてくれないなら、起きてくれないなら、そのような主イエスは役に立たないとすら感じるのです。主イエスが私たちの歩みに共にいるとしても、眠っていたのではなんの役にも立たないと思ってしまうのです。本日の聖書の箇所の主イエスが嵐を静められた奇跡は、迫害の嵐の中で、困難な戦いを続けていた初代教会の人々に、大きな慰めと励ましを与えるできごとであったと伝えられています。巨大な富と権力と軍事力を誇ったローマ帝国の中で、激しい迫害に晒されていた各地に点在する小さな初代教会の姿は、嵐に翻弄されて沈みかかった舟のようでした。しかし、嵐の舟の中で、何事もないかのように眠っている主イエスの姿のどこに、初代教会の人々は、慰めと励ましとを見出したのかということを次に考えてみたいと思います。
■女優 サヘル・ローズさん
日本で活動するイラン出身の女優に、サヘル・ローズさんという方がいらっしゃいます。イラン西部のホラムシャハルに近い小さな町で、14人家族の末っ子として生まれたサヘル・ローズさんは、イラン・イラク戦争の時に、イラク軍の空爆により、4歳で家族と生き別れてしまい、児童養護施設で暮らすことになるのです。サヘル・ローズさんは、7歳になったとき、ボランティアで来ていたテヘラン大学の大学院生であったフローラ・ジャスミンさんという女性と出会うのです。フローラさんは、お母さんが育児放棄したために、15歳になるまでおばあさんの元で育ち、そして、おばあさんは大腸がんで亡くなる前に、「孤児を育てなさい。血のつながりはなくても、その子を立派にしてあげて」と言い残したのです。そして、大学生になって、働いてお金を貯めて、施設を巡って色んな子供達と触れ合う様になります。もし施設で運命を感じる子供に出逢ったら、その子を引き取ろうと決めていたそうで、ローズさんと出逢い、ローズさんがフローラ・ジャスミンさんのことを第一声で「お母さん」と呼んだことをきっかけに、引き取って育てることを決心したそうです。しかし、フローラ・ジャスミンさんにとって、サヘル・ローズさんを養子にすることは簡単なことではありませんでした。
当時、イランでは養子縁組をするのに3つのルールがありました。結婚していること、裕福なこと、そして子どもを授かれないこと。フローラ・ジャスミンさんは、大学院生でしたが、結婚をしており、イランの名家で資産家の娘でお金に不自由はなかったのですが、子どもを産める健康な身体だったのでした。しかし、ローズさんを養女にするために、自分の身体にメスを入れ、不妊手術を受けたのです。テヘラン大学で心理学を専攻していたフローラさんは勉強することが好きな人で、大学院を出て心理学の教授になるつもりでした。しかし、ジャスミンさんを養女にしたことで、両親と絶縁状態となり、援助を絶たれてしまい、大学院を卒業することもできなくなってしまいました。そこで、フローラ・ジャスミンさんは、日本に留学していた夫の元にサヘル・ローズさんを連れて移住してきたのです。ワンルームのアパートで、養父と養母と3人で暮らし始めたサヘル・ローズさんは、急に家族ができたことに戸惑って、試し行動をたくさんしてしまいます。ものを壊したり、盗んでみたり、悪いことを沢山してしまうのです。養母のフローラさんは心理学を学んでいたので、すごくゆっくりローズさんに合わせて歩んでくれたのですが、養父の方はストレスから、しつけのための体罰が、だんだんエスカレートして、本当の暴力になってしまったのです。このままではもう無理だと、養母のフローラさんは、養父か、ローズさんのどちらかを選ばなくてはならなくなったのです。そこで、母のフローラさんは、離婚を決意して、2人で家を出て、路上生活を始めるのです。しかし、ローズさんが通っていた小学校の給食のおばさんが、そのことに気づいて、2人をアパートに泊めてくれて、食事も食べさせてくれて、その後、アパートを借りるときにも保証人になってくれて、ビザの手続きのときにも力になってくれたのです。そうやって日本で暮らすことができるようになったのですが、小学校高学年の頃からいじめの対象になってしまうのです。いじめは中学校を卒業するまで続いたそうです。中学校3年生のときに、いじめに耐えられなくなって、本当に死のうと思ったことがあったそうです。本当に死のうと思って、学校を早退して帰ったら、仕事でいないはずの養母のフローラさんがいたそうです。ローズさんは、養母のフローラさんに、「死にたい」と言ったそうです。そうしたら、養母のフローラさんは、「いいよ。でも、お母さんも一緒に死ぬね」と言ったそうです。ローズさんは、その養母のフローラさんの言葉をうれしいと思ったそうです。それまで、養母のフローラさんのことを、どんなに大変な状況でも嘆かないし、助けを求めない人で、常に強い人だと思っていたそうですが、その日、初めて、「私も疲れたの。疲れて今日、死にたくて帰ってきたの」と言って、枕に顔を押しつけて泣いている姿を見て、「この人も人間だったんだ。一緒に苦しんでいたんだ」ということに気づいたそうです。死にたいというローズさんの言葉ですら受け止めてくれ、死にたいというローズさんと共に来ようとしてくれているフローラさんを見て、本当の親子になれたと思ったそうです。そして、養母のフローラさんがローズさんの生きがいであったし、養母のフローラさんにとってもローズさんが生きがいであったということを知ったときに、「もうちょっと人生を生きてみよう」と思い、生きてお母さんを幸せにしてあげたいと思ったそうです。ローズさんにとって、養母のフローラさんは、家族と自分の夢をイランに残して、ローズさんと共に日本に移住し、ローズさんと共にいるために、夫とも別れた、強く、素晴らしい女性でした。しかし、その素晴らしい女性が、自分と共に苦しんでいたのだということに気付かされたときに、本当の親子になることができ、その素晴らしい女性を幸せにしてあげたいと思った時、それまでとても耐えられないと思っていたいじめも気にならなくなったそうです。本日の聖書の箇所で、嵐の舟の中で眠る主イエスが、迫害の嵐の中で、困難な戦いを続けていた初代教会の人々に、大きな慰めと励ましを与えることができたのは、主イエスが全ての被造物を一言で従わせることのできる神の権威を持つお方でありながら、人間の痛み、苦しみを受け止めることができるお方であり、人間の罪を贖うために、人として歩まれた神であるからだと思います。
■あなたがたの信仰はどこにあるのか
福音記者ルカは、弟子たちが「先生、先生、おぼれそうです」と言って主イエスを起こしたことを伝えています。多くが漁師であった弟子たちは必死に舟を操り、入ってくる水をかき出したことでしょう。しかし、そのような人間の力は圧倒的な滅びの力の前に無力です。私たちは「主よ、救ってください。私たちは滅びようとしています」と叫ばずにはおれないのです。私たちも、弟子たちと同様に、「主よ、主よ、死んでしまいそうです」と言って主イエスを起こそうとします。そのような弟子たちと私たちを前に、主イエスは、起き上がって、風と荒波をお叱りになったのです。すると、「静まって、凪になった。」(24節)とあります。天地を造られ、御支配なさる神様のお姿をそこに見ることができます。主イエスはここで、慌てふためく弟子たちをお叱りになったのではありません。また、弟子たちの力に期待をして、「もっと頑張れ」と言ったのでもありません。ただ、主イエスは起き上がって、風と荒波とをお叱りになったのです。そして、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われるのです。私たちは主イエスに信頼し、主イエスを信じているから、主イエスを起こそうとするのでしょうか。「主よ、主よ、死んでしまいそうです」という私たちの言葉は、私たちの信仰を表しているのでしょうか。私たちの信頼のゆえに、私たちの信仰のゆえに、主イエスは起き上がってくださり、み業を行ってくださったのでしょうか。そうではありません。そうであるならば主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」とは言われなかったはずです。
私たちが主イエスを起こそうとするのは、主イエスがみ業を行ってくださる、主イエスが突風を静め、奇跡を起こしてくださる、とどこかで期待しているからです。私たちは、しばしばキリスト教は「ご利益宗教」ではないと言っています。自分の利益のために、神様を信じている人たちとは違うと思っています。しかし、私たちは自分たちは違うと言いながら、自分の願い通りのみ業を行ってほしいから、自分にとって都合の良い奇跡を起こしてほしいから、主イエスを起こそうとしているのではないでしょうか。自分の利益を求めていると、人のことを言うことはできません。私たちの信仰もそのような弱さを抱えているのです。では弟子たちは、そして私たちはどうすれば良かったのでしょうか。
■望みの港に導かれる
本日、招詞でお読みした旧約聖書の詩編の107編23〜31節には、このように書かれています。「彼らは、海に船を出し/大海を渡って商う者となった。/彼らは深い淵で主の御業を/驚くべき御業を見た。/主は仰せによって嵐を起こし/波を高くされたので/彼らは天に上り、深淵に下り/苦難に魂は溶け/酔った人のようによろめき、揺らぎ/どのような知恵も呑み込まれてしまった。/苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。/主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。/彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。/主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」。
弟子たちは、ユダヤの民であるが故に、この詩編107編を知っていたと思います。弟子たちは、嵐の舟の中で、この詩編107編を思い出すべきであったと思います。詩編107編で、主の「慈しみ」は、主に向かって叫ぶ者たちと主の関係に関わる事柄として描かれています。主の「慈しみ」の根拠として示されているのは、主の「恵み」と苦難にある者たちの「嘆き」のみなのです。この詩は、人間たちは、神様の「慈しみ」によって、その叫びを聞いて頂いた、贖われた罪人であって、無力なものたちだということです。確かに主イエスは私たちに、主イエスの言葉に従って、舟を漕ぎ続けることを期待されます。しかし、主イエスは、その期待に応えられず「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶ」私たちを決して見捨てることなく、「苦しみから導き出」してくださる慈しみ深いお方なのです。私たちが人生の中で遭遇する「嵐に働きかけて沈黙させ」てくださり、波を静めてくださるのです。
本日の聖書の箇所のエピソードは、主イエスが奇跡的なみわざによって、ご自身が神の子であることを証明し、弟子たちを信仰に導かれたという話ではありません。ここでの真の驚きは、嵐にもかかわらず、主イエスが舟の中でぐっすりと寝ておられたということです。しかし、弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と、嵐の舟の中でぐっすり眠っておられた主イエスの姿よりも、主イエスの権威あることばで嵐がおさまったことに恐れ、驚きを感じています。主イエスの安眠している姿にこそ、神の国のすばらしさが見られるにもかかわらず、弟子たちはそれについて驚きを示していないかのようです。なぜなら、彼らは奇蹟の出来事にのみ、心が囚われていたからです。そもそも、主イエスが舟で向こう岸に渡ろうとされたことによって、本日の聖書の箇所の物語は始まったのでした。そして、突風が吹いてくるという危機に襲われました。ある意味では、これは危機的な出来事における信仰の生きた実地訓練とも言えます。嵐に遭遇した時、弟子たちの神様への信仰(信頼)は吹き飛んでしまいました。ところが、主イエスは「落ち着いて、御父を信頼して」いました。それゆえぐっすり眠ることができたのです。神様の言葉を聞くことの、その目指すところは、神様の国の中に生きている主イエスと父なる神様との関わりの秘密、信頼の奥義を知ることです。 そのことの重要性を、主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」という問いかけによって、弟子たちに気づかせようとしているのです。つまり、「あなたがたはわたしの話をどのように聞いてきたのか。聞き方に注意しなさい」とも言い換えることができるのです。
主イエスが共にいてくださる教会という舟に乗って、私たちはこの世という大海原を航海しています。試練や困難という嵐に襲われるとき、主イエスは私たちが舟を漕ぎ続けることを期待されます。しかし、主イエスの言葉を私たちがどのように聞いていたかは、突然襲った出来事によって明らかにされてしまうのです。一方、「落ち着いて、父なる神様を信頼して」いた主イエスは、嵐の中でもぐっすり眠ることができたのです。つまり、信仰とはこういうことだと、主イエスは教えようとしているのです。主イエスが嵐の舟の中で、ぐっすりと眠り込んでいた事実こそ、神の国の驚くべきリアリティです。そして、この信仰を与えられ、育てるために、新しい神の家族としての共同体、同じひとつの舟に乗り込む運命共同体としての教会が必要とされているのです。その期待に十分に応えられない信仰の小さい私たちを、共にいてくださる主イエスがいつも支え、守り、導いてくださっているのです。そして繰り返し私たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と語りかけてくださり、「私がいつも共にいることを信じ、恐れることなく不安になることなく歩み続けなさい」と励ましてくださるのです。福音記者ルカが伝える主イエスの「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という言葉は、信仰があることを前提にした、主イエスの慈しみに満ちた、本当に優しい言葉だと思います。
■神の言葉を聞き続けることによって
本日の箇所の前で、主イエスが「『種を蒔く人』のたとえ」を語っていたのを、私たちは思い起こすことができるのではないでしょうか。このたとえでは、神様がみ言葉の種を蒔いてくださっていることが語られていました。しばしば私たちはこのたとえを誤解して、私たちがみ言葉をしっかり聞いて実行することによって実を結ぶことができる、と考えてしまいます。しかし、実を結ぶ力は神の言葉にこそあるのです。8章15節では「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」と語られていました。「立派な善い心」とは、神様の言葉を神様の言葉としてしっかり聞く心のことであり、「よく守り」とは、聞いた神の言葉を手放すことなくしっかり握りしめていることであり、「忍耐して実を結ぶ」とは神様の言葉の力によって実を結ぶのを信じ、忍耐して待つということでした。神様の言葉を神様の言葉としてしっかり聞き続け、その御言葉を手放さず、御言葉の力によって実を結ぶのを信じ、忍耐して待つことによって、私たちは嵐の中にあっても舟を漕ぎ続けていくことができます。御言葉を通して主イエスが共にいてくださると示されることによって、嵐によって激しく揺さぶられても、水浸しになっても、共にいてくださる主イエスに信頼して、舟を漕ぎ続けることができるのです。主イエスはいつも私たちと共に、私たちの教会と共にいてくださいます。嵐の中にあって、「何もしてくださらない」と私たちが叫ぶときも、共にいて導き、支え、守って下さり、私たちの苦しみや悲しみを共に担ってくださっているのです。私たちは嵐に遭遇しても、共にいてくださる主イエスに信頼し歩んで行きたいと思います。いつ終わるか分からない嵐の中にあっても、私たちのために命を捨ててくださった主イエスが共にいてくださることを喜び、私たちは舟を漕ぎ続けるのです。私たちは、主イエスの愛と恵みとに信頼して、歩んでゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。