小倉日明教会

『忍耐強く癒やされる主イエス』

ルカによる福音書 9章 37〜45節

2023年2月5日 降誕節第7主日礼拝

ルカによる福音書 9章 37〜45節

『忍耐強く癒やされる主イエス』

【奨励】 川辺 正直 役員

エッセイスト、漫画家、おかのきんや

 おはようございます。さて、エッセイストで、漫画家のおかのきんやさんに小学校3年生のときの思い出を綴ったエッセイに、次のようなものがあります。 おかのさんは公園でひとり遊びをしていたそうです。なんとなく視線を感じたので見ると、そこには近所でも有名ないじめっ子の小学校6年生の3人組がいて、こちらに近づいてくるのです。おかのさんは、身の危険を感じて、逃げ出しました。

 すると、それが気に障ったのか、追いかけてくるのです。しかも、後ろから、石をビュンビュン投げつけてくるのです。 おかのさんは公園から出て、商店街の方へ走りましたが、3人組はそれでも石を投げながら追いかけて来ます。ふと見ると、おかのさんの目の前にショーウィンドウがあるお店が見つかります。そこで彼は、ガラス張りの店の玄関に立ったのです。 少年たちはその瞬間、石を投げるのをやめました。石がガラスにあたることを恐れたのです。 そして、石を投げずに詰め寄ってきたのです。その瞬間、店の人が出てきて大声で一喝しました。「小さい子をいじめるんじゃない」。3人は慌てて逃げていったそうです。おかのさんは、3人組よりも年も下でからだも小さいのですが、3人組をはるかに圧倒する、かみなり親父の出現で助けられたのです。私たちもまた、おかのさんと同じように、自分では解決することのできない、自分に圧迫や困難を加えてくるものに、悩まされるということはあるのではないでしょうか。

 本日の聖書の箇所では、悪霊に取りつかれた子を前に、主イエスの弟子たちは何も出来ずにいるという、記事が伝えられています。本日の聖書の箇所で、神様は自分では解決できない困難を前にした私たちに、何を教えようとされているのかを皆さんと共に学びたいと思います。

『主イエスの変貌』

 さて、現在、読んでおりますルカによる福音書の9章の1〜50節は、ルカによる福音書の分水嶺とも言うべき重要な折返し地点に達しているということをこれまでお話して参りました。この9章1〜50節が終わると、何が始まるのかと言いますと、9章51節に始まり、19章10節まで続く、エルサレムへの旅が始まるのです。このルカによる福音書の4章14節から始まるガリラヤでの伝道での中心テーマとしているのは、「主イエスは誰か?」ということでした。それに対して、9章51節〜19章10節の長い後半部分での中心テーマは、「主イエスは何のために来られたのか?」という受難と復活となってゆくのです。その主イエスのエルサレムへの旅とガリラヤ伝道との間の架け橋となっているのが、現在、取り上げている9章1〜50節であり、その中心のテーマは弟子たちの訓練なのです。

 前回、山の上で、主イエスの姿が、栄光に変わったという『主イエスの変貌』の出来事をペトロ、ヨハネ及びヤコブの3人の弟子たちは、目撃したということをお話しました。この『主イエスの変貌』の出来事は将来の教会時代に備えた弟子訓練であったのです。教会時代に入ると、弟子たちは多くの迫害に会います。そのときに、「主イエスとは誰か」、「私たちはこの方の栄光を見た」ということが、弟子たちに確信を与え続けたのです。すなわち、教会時代に、弟子たちに襲いかかってくる困難に打ち勝つ力が、『主イエスの変貌』の出来事により与えられたのです。ルカによる福音書の前半の主要なテーマ、「主イエスは誰か?」というテーマが、『主イエスの変貌』の出来事でその真実を明らかにされたというクライマックスを迎えたということが、本日の聖書の箇所に至る文脈なのです。

 翌日

 さて、本日の箇所の冒頭の37節に「翌日」とあります。何の翌日かというと、前回、お話しました、山の上で、主イエスの姿が変わり、栄光に輝くお姿になり、そこにモーセとエリヤが現れて主イエスと語り合ったといういわゆる『主イエスの変貌』の出来事です。この『主イエスの変貌』の話も、その冒頭の28節に「この話をしてから八日ほどたったとき」とあるように、はっきりした日付けによってその前の所と結びつけられています。その八日前に何があったかというと、弟子のペトロが主イエスの問いに答えて「あなたこそ神からのメシア、つまり救い主です」と信仰の告白をしたこと、それに続いて主イエスが、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」といういわゆる「受難予告」をなさったことです。この話が始まる9章の18節から本日の箇所の終わりの45節までは、一週間と数日という短い期間の間の出来事であったとされているのです。そして、本日の箇所の44節には、「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」という二回目の受難予告がなされています。つまり別の見方をすれば、主イエスが9日ほどの間に二度、受難の予告をなさり、それに挟まれて『主イエスの変貌』と本日の箇所の悪霊に取りつかれた子供の癒しの話が対比するように置かれているとも言えるのです。いずれにせよ、本日の箇所の子供の癒しの話とその前の『主イエスの変貌』の話とは密接に結びつけられていると言うことができます。そのことは、マタイ、マルコ福音書における並行箇所と比べて見るとよりはっきりします。マタイもマルコも、山上の変貌と悪霊に取りつかれた子供の癒しの話の間に、救い主がこの世に来る前に旧約聖書の預言者エリヤが現れるはずだ、ということについての主イエスと弟子たちの間のやりとりを挟んでいます。『主イエスの変貌』においてエリヤが現れたことからそういう問いが生じたわけですが、ルカはそれを全部カットして、『主イエスの変貌』の記事を直接一人息子の癒しの記事につなげ、その2つの記事の対比を強調するために「翌日」という言葉を用いているのです。

二つの話の対比

 『主イエスの変貌』と一人息子の癒しの話はいろいろな点で対照的です。変貌の話は「山の上」でのことです。それに対して、一人息子の癒しはその山を下りてきた麓での出来事です。また、『主イエスの変貌』の場にいたのはペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちのみです。しかし、その山を下りてきてみると、37節にありますように、「大勢の群衆がイエスを出迎えた」のです。「大勢の群衆」は主イエスを待ちわびていたのです。なぜかと言うと多くの必要を抱えていた、主イエスの助けを必要とする人たちが沢山いたのです。その群衆たちの中で、一番深刻な問題を抱えていた一人息子の癒しは行なわれたのです。『主イエスの変貌』では、主イエスの栄光のお姿が示され、さらに、『すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。』(35節)と記されていますように、主イエスは神様としての権威が与えられているということを、父なる神様は伝えられたのです。つまり『主イエスの変貌』においては、主イエスの栄光のお姿と神様としての権威が語られていたのです。それに対して、その山を下りてきたところで彼らが直面した事態は何だったのでしょうか。罪と不信仰から来る問題が山の麓では起きていたのです。ここで、私たちにとっての励ましは、主イエスは山の麓で起きている現実の問題が罪と不信仰によって起きていることであっても、介入して下さるお方だということです。このことは、主イエスは現代の日本に生きる私たちの問題にも、介入して下さるお方だということが分かります。私たちは、このルカによる福音書のこの9章の弟子たちの訓練の記事を通して、困難の中で、弱さを覚える中で、主イエスに信頼するということを学んでいるのです。そして、主イエスに信頼するということを学んで、上に引き上げられ、「山の上」での体験をし、また麓に下って、現実の問題に直面して、自分の弱さを覚える。私たちの人生はこの繰り返しだと言うことができると思います。

 さて、主イエスの助けを一番必要としていた一人の男が群衆の中から主イエスに声をかけ、自分の一人息子を癒して下さいと願ったのです。子どもが苦しむというのは、親にとっては本当に辛いことです。特にそれが一人息子である場合には、なおさらのことです。ここで、「一人息子」と記されているのは、ルカによる福音書だけの特徴です。ルカは主イエスが憐れみの心を持ったお方であることを強調するために、一人しかいない子どもであることを繰り返し書き記しています。ルカによる福音書7章11〜17節での、ナインという町の一人息子を生き返らせた記事、ルカによる福音書8章40〜56節の、ヤイロの一人娘を生き返らせた記事などがあります。神様ご自身はどうでしょうか?神様は私たちを愛するあまり、ひとり子を十字架で犠牲にして下さったのです。それは、主イエスを信じる者が一人も滅びることなく、永遠に生き続けるためなのです。神様の払う犠牲がいかに大きなものであるかは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書、3章、16節)という言葉に現れているのです。福音記者ルカのやさしさ、主イエスの優しさ、主なる神様の優しさが、この「一人息子」という言葉に溢れているのです。

 主イエスの前に現れた一人の男は次のように叫びます。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」(38〜40節)。この子の病は悪霊に取りつかれることによって起るものでした。医者でもあったルカは、この子の病状を詳しく書き記す能力があったのですが、この一人息子がてんかんであったとは書いていないのです。それに対して、マタイによる福音書17章15節では、「言った。『主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。』」と書かれています。しかし、ルカは病名を記していないのです。ルカは、この一人息子の苦しみはてんかんではないのだ、その原因は悪霊にあるのだということを私たちに示しているのです。悪霊は一人息子を内側から支配して、てんかんに似た症状を作り出していたのです。ルカはマタイによる福音書に登場する一人息子の父親とは異なる視点で、この一人息子を見ているのです。大変、悲しいことに、この聖書の記載の相違によって、てんかんを悪霊付きと見る見方が歴史上、とても長く続いたのです。ルカは原因が悪霊にある場合と病気による場合とをはっきりと区別して、慎重に言葉を選んで伝えているのです。そして、ルカはこの一人息子の症状は明らかに悪霊の攻撃によって、苦しめられている状態のものだと言っているのです。そして、40節を見ますと、この子の父親が、主イエスの弟子たちに、この子から悪霊を追い出して下さるように頼んだけれども、弟子たちは誰も悪霊を追い出すことができなかった、弟子たちは無力であったということが分かります。つまり山の麓で起っていたことは、主イエスの弟子たちの無力さが露呈されるという出来事であり、彼らの先生である主イエスご自身の評判をも貶め、その権威を失墜させるような事態だったのです。山の上で、主イエスの栄光が輝き、神としての権威が明らかにされたことと、山の麓での弟子たちの醜態、無力さこそが、この二つの話の最も際立った対比なのです。

なぜ悪霊を追い出せなかったのか

 しかし、それは仕方がないではないか、と私たちは思うかもしれません。この父親が子供を癒してもらおうとして主イエスのもとに来た時、主イエスはちょうど三人の弟子のみを連れて山に上っておられたのです。この父親はちょうど間の悪いことに、主イエスが不在であり、9人の弟子たちしかいないところに来たのです。主イエスがおられないところでは、子供が癒されなくても仕方がない、弟子たちにはそんな力がないのは当然だ、と私たちは思いがちです。しかし、それは違うのです。この9章の初めのところで弟子たちは、主イエスから、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を授けられて派遣されました。6節にあるように、十二人の弟子たちは「村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」のです。つまり彼らは悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出してその人を癒すということをしてきたのです。自分たちが命じると悪霊が言うことを聞き、その人から出ていく、ということを体験してきたのです。ですから、今回この父親が訪ねて来た時にも、彼らは自分たちで悪霊を追い出そうとしたのです。

 しかし、うまくいかなかったのです。どうして今回は悪霊を追い出せなかったのだろう、という疑問が当然生じます。それで、マタイ、マルコ福音書はこの話に続いて、弟子たちが主イエスに、「どうして私たちはあの悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか」と問うたことを伝えています。それに対する主イエスの答えは、マタイでは「信仰が薄いからだ」でした。マルコにおいては、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」という答えでした。この二つの答えは基本的に同じことを語っています。主イエスが語っておられるのは、あなたがたがもっと篤い信仰を持っていれば追い出せた、ということではないし、祈りという手段を用いなかったから追い出せなかった、ということでもありません。必要だったのは、悪霊を追い出してこの人を救って下さるのは神様ご自身の力であるという信仰であり、その神様のみ業を求める祈りだということなのです。

 つまり働いて下さるのは神様であり、自分は神様によって用いられるに過ぎない、という自覚です。主イエスによって派遣された時、彼らはそういう自覚と祈りによって歩みました。悪霊を追い出したり、病気を癒したりする権威や力が自分にあるとは全く思っていなかったのです。ですから、主イエスのお命じになった通り、ひたすら神様に祈り求めつつ歩んだのです。その時には、彼らは悪霊を追い出し、病気を癒すことができたのです。ところが、そのすばらしい体験によって、彼らは自分自身に特別な力が備わっていると勘違いしてしまったのです。それで、この父親が訪ねて来た時に、「私たちが悪霊を追い出してやろう」という思いでこの一人息子を癒そうとしたのです。すると今度は悪霊を追い出すことができず、彼らは恥をかき、主イエスの面目をも潰してしまったのです。ルカによる福音書9章10節では、主イエスは、彼らが戻って来て、人々の病気を癒やし、悪霊を追い出したということを報告した時、彼らを連れて人里離れた所に退こうとなさったことが記されています。しかし、群衆が後を追ってきたのでそれは叶いませんでした。この時、主イエスが弟子たちと共にしようとしておられたのは、すばらしい体験に興奮している弟子たちの心を静め、神様に祈ることによって、これらのすばらしい救いのみ業が自分の力によってなされたことではなくて、神様の力が彼らを通して発揮されたのだということを確認することでした。しかし、そのような静かな祈りの時を持つ暇もない中で、ここまで来てしまったのです。その結果、弟子たちはこのような失敗に陥ったのです。

 しかし、ルカは、一人息子の癒やしを巡る弟子たちと主イエスの会話を全部カットしています。つまりルカは、弟子たちが悪霊を追い出すことができずに恥をかき、主イエスの顔にも泥を塗った、という事実のみを見つめており、なぜそれができなかったか、については語っていないのです。ルカは、弟子たちと主イエスの会話を全部カットすることによって、山の上での主イエスの栄光のお姿と、麓での弟子たちの情けない、無力な姿との対比を強調しようとしているのです。

信仰のない、よこしまな時代

 山を下りて来た主イエスは、そのような弟子たちの、情けない無力な有様をご覧になります。そして、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」とおっしゃるのです。旧約聖書の申命記32章5節で、イスラエルの民を導いた指導者モーセはこう語っています、「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ その傷ゆえに、もはや神の子らではない」。ここでも、よこしまで、曲がった世代が問題になっています。モーセが導いたイスラエルの民は、これ以上考えられないほどの驚くべき恵みを神様から頂きながらも、繰り返し神様を試み、神様に文句をぶちまけ、他の神々の名前を呼ばわりました。本日の聖書の箇所でも、弟子たちは悪霊に対して何もできず、群衆もただ集まってワイワイガヤガヤ騒ぎ立てているだけです。弟子たちは主イエスから力と権能を授かっていながら、それを御心にかなうように実行することができません。「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」。この激しい主イエスの言葉は、あの荒れ野で神様に逆らったイスラエルの民の頑なさを、数え切れないくらいに繰り返し、現代に至ってもなお、悪霊の力にもてあそばれて、主の道を曲げ続けている世の人々に向けられています。主イエスの言葉を私たちは間違って受け止めないようにしなければなりません。主イエスはこの言葉によって、「今は不信仰やよこしまがはびこっている悪い時代だ」と時代の風潮を嘆いておられるのではありません。そのように読んでしまうと、それは私たちの言い訳の口実になります。今は時代の風潮が悪いので、信仰を持って生きることがしにくい、もうちょっとよい時代に生きていたら、主イエスを信じて従っていくこともしやすかったろうに、などと考えてしまうのです。しかし、この山の麓、下界の罪の現実を、そのように時代のせいにしてしまうことはできません。主イエスは、せっかくあらゆる悪霊に打ち勝つ力と権能を授けて遣わしたのに、その力を正しく用いることができず、この子どもを癒すことができなかった弟子たちのことを「あなたがたはなんと信仰のない、よこしまな思いに捉えられてしまっているのか」と嘆いておられるのです。

 ちなみに、ルカが参考にしているマルコ福音書のこの記事においては、この話に律法学者たちが登場して、弟子たちと論争をしていたことが語られています。マルコの話では、「信仰のない、よこしまな時代」と呼ばれているのは、この律法学者たちをも含んだ人々です。しかし、それを省いたルカのこの書き方においては、主イエスの嘆きはもっぱら弟子たちに向けられていると思います。主イエスを信じて従って来たはずの弟子たちが、信仰のないよこしまな思いに、つまり神様の力を祈り求めることをせず、自分の力で何かをすることができるような錯覚に陥り、結局悪霊に打ち勝つことができずに敗北してしまうことを主イエスは深く嘆いておられるのです。それは私たちの信仰の現実に対する主イエスの嘆きです。日々の生活の中で、神様に信頼して祈り求めることをせず、自分の力に頼って右往左往しては、結局うまくいかずに主イエスの顔に泥を塗ってしまうような、私たちの信仰の有様を、主イエスは深く嘆いておられるのです。

いつまで

 この嘆きの言葉に続いて主イエスは、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」とおっしゃいました。この翻訳をそのまま読めば、主イエスは弟子たちに、そして私たちに、ほとほと愛想が尽きたと言っておられることになります。いつまでこんな連中と付き合わなければならないのか、もう共にいるのは嫌だ、こんな奴らにはもう我慢ができない、というのがこの日本語の文章のニュアンスでしょう。しかし、ここを原文で読むと、それとは違うニュアンスが感じられます。原文の文章はとても単純な疑問文です。それを直訳するとこうなります。「いつまで私はあなたがたと共におり、あなたがたを我慢するのだろうか」。つまり、この日本語訳における「しなければならないのか」という言葉は原文にはないのです。これがあると、今申しましたように、「もうこれ以上は共におれない、我慢できない」という意味になります。しかし、それなしに訳すと、「いつまでなのか」という単純な疑問の文章になるのです。そして、この疑問に、主イエスはご自分で答えておられるのです。それが、「あなたの子供をここに連れて来なさい」という言葉です。主イエスは、弟子たちが癒すことのできなかったその一人息子をご自分のもとへと招かれるのです。父親がその子を連れて来る途中で、悪霊はまた彼を投げ倒し、引きつけさせました。弟子たちの言葉にはビクともしなかった悪霊が、主イエスのみ前では最後のあがきを見せて暴れたのです。しかし、主イエスは汚れた霊を叱り、追い出して、一人息子を癒して父親にお返しになりました。弟子たちには出来なかった癒しを主イエスはして下さったのです。つまり弟子たちの醜態、失敗の後始末を主イエスがして下さり、苦しみ、絶望の中にいるこの父親に救いのみ手を差し伸べて、一人息子を返して下さったのです。この癒しのみ業は、「いつまであなたがたと共にいて我慢しなければならないのか」という訳と合わせて見つめると、「もうお前たちには頼まない、私が自分でする」と主イエスがお怒りになり、苛立ちまぎれになさったみ業のように感じられます。しかし、先ほどのような単純な疑問文として見つめるならば、主イエスがいつまで弟子たちと、そして私たちと共にいて下さり、どこまで私たちのことを我慢して下さろうとしているのか、その答えがそこに見えてくるのです。つまり主イエスは、このような醜態をさらしている弟子たちを、失敗ばかりして主イエスに恥をかかせている私たちを、どこまでも我慢して下さり、共にいて下さり、私たちの失敗を、罪を覆って、救いのみ業を行なって下さるのです。

受難の予告

 この一人息子の癒しのみ業にすぐ続いて、ルカは主イエスの二回目の受難予告を伝えています。先ほど申しましたように、弟子たちが「自分たちには何故悪霊を追い出すことができなかったのですか」と問う場面をルカはカットしたのです。そのことによって、この二回目の受難予告は、「いつまで私はあなたがたと共におり、あなたがたを我慢するのだろうか」という主イエスご自身による問いに対する主イエスご自身の答えとなっているのです。主イエスは、「人々の手に引き渡されようとしている」その時まで、私たちと共にいて下さり、私たちのことを我慢して下さるのです。「引き渡される」という言葉は、主イエスの受難、十字架の死を言い表す言葉です。つまり、人々の手に引き渡されるまでとは、十字架にかかって死んで下さるまで、ということです。主イエス・キリストは、十字架の死に至るまで、いつも私たちと共にいて下さり、弱い罪人である私たちのことを忍耐して背負って下さるのです。ですから、ここに語られている主イエスのお姿は、弟子たちの、また私たちの弱さや罪に苛立ち、もうこんなやつらには我慢できない、こんな連中と付き合うのはご免だ、と愛想を尽かしておられるのではないのです。主イエス・キリストは、どこまでも、十字架の死に至るまでも、私たちと共にいて下さり、私たちのことを忍耐して下さり、罪を赦し、導いて下さる方なのです。

隠された言葉

 本日の聖書の箇所の45節には「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである」とあります。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」という主イエスの受難予告の言葉が、弟子たちには理解できなかったのです。それは、彼らには理解できないように隠されていたからだと言われています。主イエス・キリストが、人々の手に引き渡され、十字架につけられて殺される、そこに、私たちの罪をどこまでも背負って下さり、私たちの身代わりとなって死んで下さることによって罪を赦して下さり、私たちに新しい命を、神様の恵みによって生きる永遠の命を与えて下さる神様の救いのみ業がある、そのことを告げる救いの言葉は、隠された言葉です。隠された真理と言ってもよいのです。隠されているから、それはすぐには分からないのです。私たちの思考や常識によって理解することはできないのです。私たちがそれを理解し、分かることができるのは、神様が示して下さることによってなのです。

  神様がどこまでも私たちと共にいて下さり、私たちの罪を忍耐して背負って下さり、それを主イエスの十字架の死によって赦して下さるという救いの恵みは、神様ご自身がそれを示して下さることによってのみ分かるのです。本日の聖書の箇所が教えているのは、弱さと罪の現実のただ中にある弟子たちや私たちの生活の中において、神様は主イエスによる救いの恵みを示して下さっている、ということです。主イエスが人々の手に引き渡され、十字架につけられて殺される、そのことを告げる言葉は、神様が私たちの弱さと罪を背負い、引き受け、それを赦し、忍耐をもってどこまでも私たちと共にいて下さるという恵みを示しています。私たちの信仰の生活は、山の上の『主イエスの変貌』と、そこから下りて来た山の麓での罪と不信仰の現実の間を行ったり来たりしている、ということを申しました。私たちはそのどちらにおいても、つまり山の上の『主イエスの変貌』のような主日礼拝においても、山の麓での罪の現実の中で営まれている私たちの日常の生活の中においても、主イエスによる救いを告げる言葉は隠されていますが、信仰によりいつも新しい言葉として聞きくことができるのです。神様の救いのみ言葉は隠されていても、信仰により、祈り求める時、力のある言葉として、私たちに迫って来るのです。私たちは、主のみ言葉を真剣に求め、聞いて行きたいと思います。45節の終わりのところに、弟子たちは「怖くてその言葉について尋ねられなかった」とあります。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」という主イエスのお言葉が、間もなく起る恐ろしい出来事を予告していることを彼らは感じ取り、恐れたのです。主イエスの受難を示すみ言葉を聞くことは、辛く、恐ろしいことでもあると思います。しかし、神様は、イザヤ書41章10節に記されていますように、「恐れることはない」と私たち語りかけて下さる神様なのです。「恐れることはない」という理由は、10節の二つのことばにおいて明らかにされています。それは、「わたしはあなたと共にいる神」と「わたしはあなたの神」という言葉です。このように呼びかて下さる神様が、力が弱り果てて立ち上がれないと思っている人間に向って、「わたしはあなたと共にいる」と励まし、その現状に対しても「わたしはあなたの神」として、希望に変えることができるという確かな言葉を与えています。神様は弱り果てたあなたの手に「勢いを与えてあなたを助け」るといわれます。その手に勢いを与えるために、「わたしの救いの右の手であなたを支える。」と言われています。神様の右の手は、神様の全能と力を示しています。この言葉は、13節で繰り返され、「わたしは主、あなたの神」と自らを示される神様が、弱り果てた力の出ない、「あなたの右の手を固く取って言う」、「恐れるな、わたしはあなたを助ける、」と神様は言ってくださるというのです。私たちは、「恐れるな、わたしはあなたを助ける、」と語りかけて下さる神様を信頼し、神様の恵みの中を歩む者へとなって行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。