【説 教】 牧師 沖村 裕史
■大きな信仰
ガリラヤ湖の畔(ほとり)で語られていたイエスさまが、ユダヤの地から退いて、向かったのは「ティルスとシドンの地方」でした。そこは、地中海沿岸の、フェニキアの人々が住む、いわば異邦人の土地。そこで、ひとりの女がイエスさまを呼び止めます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。この後、「主よ」「主よ」「主よ」と三回も呼びかけるこの母親に、イエスさまは言われました。「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。
「あなたの信仰は立派だ」。この「立派だ」と訳されているギリシア語は、mega,j 。メガトン級とかメガバイトと使われるメガ、英語のgreatに当たる、偉大な、とても大きいという意味の言葉です。ユダヤ人からは穢れた罪人とみなされていた異邦人の女に、今、イエスさまは、あなたの信仰は実に大きい、と言われます。
この「大きな信仰」という言葉から思い出されるのは、「信仰の薄い者たちよ」と言われた弟子たちのことです。異邦人の女性とは真反対に、イエスさまの最も身近にいたはずの弟子たちが、イエスさまから二度も「信仰の薄い者たちよ」と呼ばれていました。その一つの場面は、八章二三節から二七節です。「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、『主よ、助けてください。おぼれそうです』と言った。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ』」。もう一つは一四章二五節以下の、イエスさまが湖の上を歩いて近づいて来られる場面で、そこでも、弟子たちは「信仰の薄い者たちよ」と叱責されています。「薄い」というこの言葉のもともとの意味こそ、英語のlittle、「小さい」、まさに「大きい」の真反対の言葉でした。
ずっとイエスさまの傍近くにいたはずの弟子たちが、不安に怯え、イエスさまを疑い、「主よ、お助けください」と叫ぶことで、自分たちの信仰の薄いことを露わにします。その姿を見て、イエスさまは「信仰の小さい者たちよ」と言われたのです。一方、その弟子たちから「この女を追い払って下さい」と遮(さえぎ)られ、イエスさまに近寄ることさえできないでいたこの異邦人の女が、弟子たちと全く同じ言葉、「主よ、お助けください」と叫ぶことで、イエスさまから「あなたの信仰は大きい」と言われます。
■ひたむきな祈り
この女が「あなたの信仰は大きい」という言葉をイエスさまからいただくことができたのは、なぜでしょうか。そもそもイエスさまは、この女の何に目を留めて、その信仰を大きいと言われたのでしょうか。
このことを問う前に、わたしたちは何よりもまず、嵐に怯え、イエスさまへの疑いを抱いた弟子たちのことを他人事だなどと思ってはなりません。わたしたちもすぐに不安に怯え、疑いを抱きます。何かがあるとすぐに狼狽えてしまいます。試練に晒されている時だけではありません。わたしたちはいつもびくびくしています。悲しいかな、今、この時が無事であればあるほど、これからが怖いなどと考えてしまいます。
そんなわたしたちの信仰は、確かに小さいと言わざるをえません。信仰に若いから老いているからといった年齢は関係ありません。人生の経験が豊かか貧しいかということも関係ありません。イエスさまについての知識が深いかどうか、神学的な勉強をしているかいないか、教会生活・信仰生活が長いか短いかということにも関係ありません。むしろ、そういうことを基準にすれば、最も小さい信仰の持ち主であるかもしれないその女に、イエスさまはあなたの信仰は大きいと言われたのです。
しかも続けて、「あなたの願いどおりになるように」と言われます。彼女が立派な願いを、誰もが考えつかないような、神にふさわしい素晴らしい願いを持っていたというのではありません。彼女が願ったことは、わが娘の病気が治って欲しい、ただそれだけでした。誰にも覚えのある、切実な祈り、願いです。
そう、ここで大切なことは、彼女の祈り求めるそのひたむきさでした。
信仰にとって、ふさわしいとかふさわしくないとかということは大した問題ではありません。もし、そのことにこだわるとすれば、そのときわたしたちは、ファリサイ派や律法学者たちのように、人と人との間に勝手に線を引き、区別をして、正しく清い方に自分を入れ、そうではない方に他人(ひと)を入れ、そのようにして他人を裁き、自分を誇るだけの、実に愚かな、まさに小さな信仰者となってしまうでしょう。実際、わたしたちは、しばしばそういうことをしています。ふさわしいとかふさわしくないからと、時に自分を誇り、時に人を裁き、時に傍若無人にふるまい、時に都合よく尻込みします。
彼女は、こんなことを願うのはふさわしいともふさわしくないとも考えませんでした。ただ、もうどうしようもないと思われるような、そんな絶望の淵に立たされながら、にっちもさっちも行かないどん詰まりの中で、それでもなおイエスさまを心から信頼し、ひたすらに、ひたむきにイエスさまに願い求めています。そのとき、彼女は、この祈りが叶わないかもしれない、などとは微塵も考えていません。自分の祈りがふさわしいから叶うだろう、ふさわしくないから叶わないだろう、などとは考えもしません。ただ、すがるように祈り求めました。
実に信仰の大きさとは、この女が祈った、そのひたむきさの中にありました。
■ダビデの子よ
そして彼女は叫び続けました。「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」。この女性はカナンの人でした。旧約聖書を読むと分かりますが、このカナンという土地には昔から住んでいる人々がいました。そこヘ、後からユダヤ人が入り込んできた、侵略してきたのです。ユダヤ人と異邦人との間には、深い溝、越えがたい隔てがありました。ユダヤ人は、自分たちこそ神に選ばれた民であり、自分たちだけが救いに与ることのできる民だと信じ、異教の神々を信じる異邦人を、穢れた罪人として忌み嫌い、蔑んでいました。当然、異邦の人々もまた、そんなユダヤ人のことを毛嫌いしていたはずです。今のパレスチナとイスラエルの争いの姿が重なってきます。
ところが、そんなユダヤ人のひとりであるイエスさまのことを、この女性は「ダビデの子」と呼びます。「ダビデの子」、それは「ユダヤ人の王」「救い主」を意味します。ユダヤ人が救い主と呼ぶのは、ユダヤ人だけを救う救い主のことです。ですから、救い主の登場によって、異邦人であるカナン人は、さらに厳しく扱われるかもしれないのです。それなのに、この女性は「ダビデの子、救い主よ」という名をもって呼びかけます。なぜ、自分たちの敵の、それもユダヤ人の救い主などに救いを求めたのでしょうか。
理由は、ただひとつです。
■お助けください
彼女は我を忘れていたのです。娘が悪霊に取りつかれ、苦しんでいたからです。悪霊とは、おどろおどろしい、鬼のような姿をした何かではありません。それは、わたしたち自身の力ではどうしようもない、愛する者にさえどうすることもできないような力、わたしたちを苦しめる力そのもののことです。死や病、抑圧や差別、暴力や貧困といった、今も、わたしたちの身近にある、耐えがたいほどの苦しみや悲しみをもたらす力のことです。
彼女は、悪霊に取りつかれたかのような、愛するわが子の苦しみを見るに耐えず、途方に暮れ、自らの無力さを嘆きながら、わが子の苦しみを苦しみました。娘の苦しみにすっかり心を奪われて、憎しみも恥ずかしさも恐れも何もありません。ただ信じました。
「ここに救いがある」
救いなどない、ではありません。今ここに救いがある、そう思ったら、すがるほかありません。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」。そう記されます。それでも、イエスさまのその沈黙にひるむことなく、彼女はさらに叫び続けました。その叫びこそ、祈りです。彼女は自分の無力さを痛感していたからこそ、イエスさまに向かって叫び続けました。ひたむきに祈り求めました。
「主よ、わたしをお助けください」
この「お助けください」というこの言葉が興味深い言葉です。「助ける」という意味のギリシア語はいくつもありますが、これは「人の悲鳴を聞いて駆けつける」という意味合いの、「悲鳴を上げる」という言葉と「駆け寄る」という言葉とが結びついた言葉です。
助けてくれと誰かが悲鳴を上げる。それに気づいた者はすぐに駆けつけるに違いありません。相手がユダヤ人であろうが誰であろうが、溺れかかっている人は助けなければいけない、そうせずにはおれない、そういう時に使う言葉です。このときのカナンの女がそんな状況でした。
イエスさま、あなたにはわたしの悲鳴が聞こえないのですか。あなたは、ユダヤ人だけを救うために来られたと言われます。しかし、今ここで悲鳴をあげている、このわたしの救い主だとは言ってくださらないのですか。「失われた羊」と言われました。わたしも失われた羊のひとりではないのですか。失われた羊はユダヤ人だけなのでしょうか。わたしもそうです。わたしも見捨てられ、今まさに悩みのどん底にあるのです。わたしには、あなたのところ以外に行くところなどありません。どんなに蔑まれても、どんなに阻まれても、どこへ行くこともできません。
イエスさまは、ここで女の方へ振り向かざるを得なくなりました。そうです。イエスさまを振り向かせたのは、この女の祈りでした。
■主の恵みにすべてを委ねて
「娘の病気はいやされた」
この場面、最後の言葉です。この女の願いは聞き届けられ、叶えられました。そしてまた、この後に続く場面でも、多くの異邦人たちが癒されました。
では、わたしたちの願いはどうでしょうか。わたしたちも病になれば、この肉体の痛みが一日も早く取り去られるようにと願います。肉体が健やかであっても、いつも脅えているこの不安を取り去っていただきたいと願います。それなのに病は治らず、苦しみは和(やわ)らがず、不安も消えない、そう言わざるを得ない時がいくらでもあります。しかしその時にこそ、忘れてはなりません。もっと「ひたむきに祈る」ことを。「ここに救いがある」。そのことを確信して祈る、カナンの女のこの祈りを、わたしたちは受け継がなければなりません。
なぜなら、わたしたちはこのカナンの女が知らなかったことをすでに知っているからです。イエスさまはすべての失われた羊たち、イスラエルの失われた者だけではなく、見捨てられたすべての人たちのために十字架につけられたことを知らされているからです。 そして神は、そのイエスさまを甦らされました。復活されたイエスさまは今も、わたしたちに語りかけてくださっています、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」「ここに救いがある」と。
だからこそ、あのパウロも病にあっても感謝をすることができました。コリントの信徒への第二の手紙一二章七節以下に、持病と思われるパウロの「とげ」のことが語られています。彼もその癒しを「三度」にもわたって祈り求めましたが、ついにそれは癒されませんでした。にもかかわらず、彼はその「とげ」ゆえに「わたしの恵みはあなたに十分である」という神の、イエスさまの声を聞き、感謝することができました。もちろん健康であるに越したことはありません。それでも敢えて申しあげるなら、病気という出来事さえも、わたしたちが神と、イエスさまと出会い、その恵みによって変えられていく、かけがえのない契機となるのです。
弟子たちが「わたしたちの信仰を増してください」と祈ったと福音書に記されていますが、信仰とは増えたり減ったりするようなものではありません。カナンの女の信仰がわたしたちに教えているように、それはもっと絶対的で、全面的なものです。絶対の主人である神への、御子イエスへの全面的な信頼。それがなければ、自らの存在すら無意味になる、空しいものとなる。言うなれば、「百パーセントのアーメン」、それが信仰です。
アーメンとは「まことにまことに、その通りです」という全面的な承服、信頼を表す信仰の告白です。神が求められるのは、そのような告白以外にありえませんし、わたしたちの喜びも、その告白の中にこそあります。そのアーメンさえあれば、後は、神が働いてくださるのです。 真心から「アーメン」と言いましょう。からし種一粒のアーメンがどれほど小さなものでも、ひたむきなアーメンがわたしたちを永遠へと誘(いざな)ってくれるのですから。心からひたむきに、ただひとすじに「あなたの恵みはわたしに十分」と信頼したいものです。