小倉日明教会

『愛に生きる』

マタイによる福音書 5章 17〜20節

2025年2月9日 降誕節第7主日礼拝

マタイによる福音書 5章 17〜20節

『愛に生きる』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■愛の言葉

 誰かに無性に褒められたいときがあります。いつもというのではありません。苦しくて、疲れて、自分のやっていることがこれでいいのか、と迷うようなときです。そういうときに、だれかが褒めて背中を押してくれると、素直にうれしいものです。しかしその一方で、苦しければ苦しいほど、その褒め言葉を素直に受け入れることができない自分がいます。褒め言葉が、わたしという人間を知らずに語られる、きれいごと、お世辞、うそに聞こえてしまうのです。だから、褒めてもらいたいくせに、褒められると「あなたは何もわかっていない」と否定します。それでいて、やっぱり心の奥底では褒めてもらいたい。自分で否定しておいて、それでも褒めてほしい、相手がほんとうのところ自分のことをどう思っているのか、何度も確認したくなる。苦しいとき、疲れ切ったときのわたしには、そんな支離滅裂で、また危ういところがあります。苦しみの中、わたしはしばしば自分がどこにいるのか、わからなくなってしまいます。

 そういうとき、自分がどこにいるのか教えてくれる、だれかの声が欲しくなります。もちろん「だれがなんと言おうと、わたしはわたしの道を行く!」と胸を張って生きることもできるかもしれません。しかし、そんなに立派な人生ばかりを、わたしたちは歩いているわけではありません。もう自分の口からは、自分を否定する言葉、呪いしか出てこないとき―そんなときにこそ、自分がどこにいるのか、自分が誰なのか、自分がどうすればよいのか、そのことをはっきりと示してくれる「言葉」が必要になります。

 「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』と」

 招きの言葉の続き、二一節に記される預言者イザヤのみ言葉です。

 神は懇切丁寧にわたしたちに教え、わたくしたちを導く方である、と聖書は証しします。道に迷った者は、何度も地図を確認してやっと安心します。それは恥ずかしいことではありません。それと同じように、限りない不安の中にいるわたしたちも、神の確かな「愛の言葉」が繰り返し、繰り返し語られることで、やっと落ち着きを取り戻すことができるはずです。

■刻印の教え

 そもそも「律法」と訳されているヘブライ語のトーラーは、ヤラー「教える、指し示す」という動詞から作られたものです。狭くは『モーセ五書』―創世記から申命記までを指しますが、旧約聖書全体を指す言葉でもあります。さらにそこに、賢者たちがそれぞれの時代に合わせて付け加えた律法解釈―ミシュナと呼ばれる口伝律法、そのための議論や注釈を加えたタルムード、また聖書についてのラビ文学叢書とも言うべきミトラッシュなどが含まれます。それらを通して示される神の教え、そのすべてを指して用いられるのが律法です。

 紀元前二世紀に、七十人訳ギリシア語聖書がこの語をノモス「法」と訳したため、ヴルガーダ訳ラテン語聖書でもレックス「法」と訳され、後の各国語翻訳もこれに倣うことになりました。しかし、この「法」という言葉がトーラーの本来の内容を忠実に伝えているかどうか。トーラーはたしかに成文化された律法を指します。しかしそれにとどまりません。さきほど申し上げたような様々な内容を含みます。時代の変化の中に示され、与えられた、神の言葉です。その意味で「法」というよりも、「神の教え」と訳すのが良いでしょう。

 その律法―神の教えに従って、ユダヤ人の男性は生後間もなく割礼を受けました。それは、所有者が誰かを示すために羊たちに焼き付けられる刻印と同じように、自分が神のものであることを証しする刻印、体の中心に刻まれる神の印です。その印が日毎夜毎、自分の目にとまります。生きている限り、彼らの意識から消えることはありません。律法もまた、ユダヤ人にとって割礼と同様、自分の存在から切り離せないものでした。

 イエスさまも律法を大切に守られました。ユダヤ人として当然のことです。その姿は生涯、変わることがありませんでした。

 あるときのこと、一人の男がイエスさまに近づいてきてこう尋ねます、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいでしょうか」。イエスさまは「掟を守りなさい」と、律法に記される十戒の言葉を告げます。「そういうことはみな守って来ました」と答えるその男に、イエスさまは慈しみの眼差しを向けつつ、こう言われます、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。

 マルコが「あなたに欠けているものが一つある」と書くところを、「もし完全になりたいのなら」とマタイは書き直します。「律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされる」ということです。そこで求められていることは、慈しみの業、愛の施しでした。

 また、一人の律法学者からの「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」という問いに対して、イエスさまは、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい』。これがいちばん大切な、第一の戒めです。第二もこれと同様です、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい』。これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている」と答えられます(マタイ二二・三四~四〇)。律法と預言者を完成するために欠くことのできないもの、それがなければ全てが無意味になってしまうものがある。それは、神と隣人を「愛する」ことでした。

 そう、律法は、不安の中に道を見失っているわたしたちを教え、導くために神から与えられた恵みであり、愛のみ言葉そのものでした。

■愛を欠く

 ところが、神からの恵み、愛のみ言葉であるはずの律法を、律法学者やファリサイ派の人々は、自分を誇り、自分の正当性を主張し、人を非難するための道具にしてしまいました。人々は律法によって救われるのではなく、律法によって罪に定められ、裁かれることになりました。

 今日のみ言葉でイエスさまが、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきた」と語られたのは、愛のみ言葉そのものである、真の律法を取り戻すためでした。

 イエスさまは律法学者やファリサイ派の人々に抗います。働くことが律法によって禁じられていると彼らが主張していた安息日に、病に悩む人や足萎えの人を癒され、また律法によって交わりを禁じられていると彼らが主張していた取税人や罪人たちと一緒に食事をされ、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と宣言されました。

 イエスさまは、律法を研究する律法学者たちや、その律法を厳格に守りぬくことこそが救いの条件であると考えていたファリサイ派の人々と事あるごとに衝突し、ついには、わが身だけを守り、自分たちの正しさを誇示しようとしたその人々の手にかかって十字架の上で殺されました。そのときにこそ、彼らの罪がはっきりとその姿を現しました。

 しかし、その罪の姿は他人事ではありません。

 この世界には、残忍さ、差別、盗み、偏見、虚偽、偶像礼拝、そのほか「罪」としか呼べない人間の姿が満ち満ちています。しかし現代を生きる人々がその罪の重さに悩まされているようには見えません。罪を問いかければ鼻で笑われるか、訝(いぶか)しげに見つめ返されるだけです。学校で、アウグスティヌスやルターの苦悩を語れば、なぜ罪と呼ばれるものにそれほど苦しみ、苛(さいな)まれたのだろうと、学生たちの多くは不思議な顔をします。大抵の人は、「わたしたちは、人間とは基本的には悪ではなく善であると学んできた。この世界に悪しき振る舞いがあるのは、それは人間が悪いからではなく、この世界が悪いからだ」と考えています。

 わたしたちはそんなに簡単に言い逃れできるのでしょうか。凄惨極まりない世界大戦をくぐり抜けてきた、あるいはその体験を親しい者から直接聞いたわたしたちにとって、強制収容所、空爆、大量殺戮と徹底的な破壊、そして何よりも、一瞬にして数え切れないほどの人々のいのちと人生を奪った原爆を経験してきたことのすべてを、基本的には「すばらしい」人間が社会や時代の状況ゆえに、やむを得ず犯した間違いだったと言えるでしょうか。今もわたしたちの現実となっている、戦争やテロ、殺人や虐待、家庭内暴力やレイプ、差別やハラスメント、あるいは日々数え切れないほど様々な場面で、わたしたちが人に対して少し残酷に振舞ったり、小さな不正を働いたりすることのすべては、基本的には善良な人間がちょっと間違った選択をしているに過ぎないとでも言うのでしょうか。

 わたしたちは、以前よりもずっとたくさんの人がずっと良い教育を受けることができるようになりました。けれども、以前に比べてわたしたちの状態がよくなったと言えるでしょうか。わたしたちは豊かになり、知識を得ても、それによって実(まこと)しやかな方便を用いながら自分の罪を言い逃れ、合理化し、正当化するようになっただけではないでしょうか。いえ、わたしたちが「罪」に対して合理化や正当化を図り、言い逃れをしょうとすることこそ、いまなお罪が力をもち続けている決定的な証拠なのではないでしょうか。わたしたちの最大の罪は、自分たちを正当化して、自分たちに問題はないと考えていることなのではないでしょうか。現代を生きるわたしたちの正しさ、義は、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさ」るどころではない、愛を欠いた、見せかけの彼らの義と何一つ変わらないものなのではないでしょうか。

 だからこそイエスさまは、「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」と、律法を「一点一画」もおろそかにすることなく、厳格に守り従うことを求められます。そうでなければ、「天の国に入ることができない」―救われないとさえ言われます。

■愛に生きる

 律法が愛の言葉であるにしても、いえ、であればこそ、その律法を厳格に守るよう求めるこのイエスさまの言葉に、わたしたちの誰もが怯(ひる)み、思わず後ずさりすることでしょう。

 わたしたちが聖書を読む時、どんなみ言葉を愛し、また喜ぶでしょうか。それは、あなたは弱い、しかしそのままでいい、信じさえすれば、新しくされ、救われるのだ、とやさしく呼びかけられる言葉です。教会はホッとできる場所なのだから、そういう慰めの言葉をこそ聞きたいと願っていますし、もちろんそれが間違っているというのではありません。

 しかし神が、イエスさまがわたしたちに与えてくださる慰め、恵みはそれ以上のものです。神から、イエスさまから与えられる慰めとは、わたしたちがただ罪の中に安心して座り込んでしまうといったものではありません。それは、罪の中にあってなお、安心して立ち上がれるようにしてくださるものです。神から愛されているという喜びに満ち溢れる中で、こんなわたしでも大丈夫だ、そうだ自分でもやれると立ち上がることです。イエスさまが教えられる律法による良い行いとは、わたしたちがつくる救いの「条件」ではなく、むしろ神が与えてくださる無償の愛、無償の救いから出てくる「実り」です。

 直前一六節に「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とあるように、律法による良い行いは、もはや自分が救われるための条件ではなく、ましてや自分を誇るためのものでもなく、ただ、神をほめたたえるためのものです。わたしのようなものをさえ救ってくださる、驚くべき神の愛の業―それが神の義であり、義とされるということなのですが―その愛に、ただ喜びをもって応える、感謝をあらわすためのもの、それが律法による良い行いなのです。

 本当に輝いている人、それは元気に働く人でも、何かに打ち込んでいる人でも、肩書きがたくさんある人でも、有能な人でもありません。それは、愛されている人です。

 月が太陽の光を反射するように、誰かから愛されている人は、必ず、光り輝きます。もっと正確に言えば、愛されていることに気づき、愛されていることを知った人は、自然と輝きを放ち始めます。親から愛されている子どもは少々いたずら好きでも、明るく周囲を照らします。愛を知らない子どもはどんなにまじめな良い子に見えても、やりきれないほどにどこか暗いものです。

 以前、二度にわたる脳内出血のためにベッドに横たわり、暗い目で天井を見つめるほかなかった人のお話をしたことがあります。彼もかつては元気に働いていました。その人が全く動けずに寝たきりになりました。そこには、肩書きも有能さも通用しない、輝きとは無縁とも思える、死を待つだけの闇の世界があるだけ、彼自身はもとよりのこと、誰の眼にもそう思われました。しかし彼は輝きました。教会学校の子どもたちの幼い歌声と祈りを耳にし、美しい花を目にしたとき、見失っていたものにハタと気づかされたように、神から愛されていることを知り、その愛の光を反射して、周りの人々に見せるようになりました。

 あの姿こそ、律法の中心、「神と隣人を愛する」人の姿だったと思います。 イエスさまの愛を受け入れる道、それは、自分こそ天国で大きな者だと思い込んできた罪を悔い改めることです。また逆に、自分みたいにつまらない者は神の愛から洩れていると思い込んだ罪を悔い改めることです。このことがわかるのは神の愛を味わった時です。イエスさまが愛のまなざしを向け、神の愛が注がれていることを知る時、その愛がこんな小さく愚かなわたしさえ大きくしていてくださっていることに気づかされます。その時、わたしたちは自分の罪を悔い改めると共に、その神の愛のみ手の中にある、大きな自分に生きることができるようになるのです。それが、「幸いなるかな」との祝福の言葉によってイエスさまが教えてくださったことでした。感謝して、祈ります。