■触れる
人にとって、誰かに触れること、触れられることは、とても大切です。
こどものとき風邪を引くと、母がいつも「たまござけ」をつくってくれました。「たまござけ」と言っても、若い方はご存じない方も多いかもしれません。今風に言えば、生卵を酒で割ったホットドリンクといったところでしょうか。お酒が強く匂い立ち、苦手なわたしは鼻をつまみ、我慢をして飲んでいたことを思い出します。ぽかぽかと体が温まり、栄養価の高いたまごで滋養をつけて、一日じっと寝ていれば、風邪はあっという間に治ります。
でも、小さなわたしにとっての一番の薬は、母の手でした。寝ているわたしの、額ではなく、頬を両手でそっとやさしく包んで、「大丈夫よ」とひと言。家事も、畑仕事も、郵便局の仕事もこなす母の手はガサガサに荒れていたはずなのに、僕の頬を触れるその手はなぜか、温かく、柔らかで、とても気持ちのよいものでした。病気になったとき、苦しいことがあったとき、もうだめだとあきらめそうなるとき、どんな言葉も耳に入らなくても、そっと触れてくれる母の手がわたしを慰め、励ましてくれました。わたしは母の愛に触れ、触れられていたのです。
■藁をもつかむ
今日の聖書には、人にやさしく触れられることも、そっと触れることさえなかったひとりの女が、愛に触れることのできた、その瞬間が描かれています。
湖のほうから大勢の人々がやってくるのを、ひとりの女が道端に座ってぼんやりと眺めていました。あんなに大勢の人が群がってくるなんて、何事だろう…と、ふつうなら不審に思い、好奇心を抱くところですが、女のこころは麻痺したように動きません。
長い、長い年月、病み患い、貧しさにも苦しんできました。血が下りて止まらなくなって、もう十二年にもなります。人が勧める治療は何でも試みました。高い治療費を払って、医師にもかかりました。それでも治らない焦りにつけこまれて、騙され、いろんな治療師に法外なお金を巻き上げられ、すべてを失ってしまいました。それでも血は止まりません。じくじくと出血し続ける患部は爛(ただ)れて痛み、血が滲(にじ)む裾(すそ)は黒ずんで厭な臭いをたてています。
周囲の人々は女を蔑みの目で見、子どもたちはわざと傍にやってきては、「臭い」と鼻をつまんで逃げ出します。そんな侮辱に、一々こころを騒がしていては生きていけないと分かっているので、こころを硬くして鈍感になろうと努めてきました。心を固く閉ざそうとするそんなとき、女は決まって自分の指先をみつめ、つぶやきます。
「汚れた手、垢(あか)がつまった爪先、…この手がどんな悪いことをしたというのだろう。なにか悪いことをしたのだ、罰(ばち)があたったのだ、そんな心当たりはない。でも、こんなにも長く病気が続き、人に侮蔑され続けていると、本当に自分が悪いのではないかと思えてくる。いやきっと、そうなのだ」
女の病は治る見込みのない、肉体的にも経済的にも大きな負担となるものでした。いえ、それだけではありません。そうした病に犯された人は、その病ゆえに不浄のもの、穢(けが)れたもの、罪人とみなされ、神殿での礼拝はもとよりこと、人との接触の一切を禁じられていました。
そう、誰かに触(さわ)ることも、誰かに触(ふ)れられることも、一切許されませんでした。
人目を避け、隅の隅に隠れるようにして暮らしていたその女が、その日はなぜか、ふらふらと道端に出ていました。群がってくる人々が叫びたてます。
—ナザレのイエスだ!ようやくほんとの救い主が来た!奇跡のひとだ!—
女は、ゆっくりと頭をあげます。
「奇跡…」
のろのろと、女は立ち上がります。お金だけ巻き上げられて病気は治らない、という目に遭う心配はありません。もうお金は一銭もありません。病気は死ぬまで治らないのかもしれない。
「でも、奇跡が…奇跡なら」
みつめる女の眼に一筋の光が射しました。人々の群れの中から、その光は発していました。光に向かって女はやにわに走り出します。
すべてに望みを失っていた彼女は、最後の望みをイエスさまにかけようとしています。と言っても、公然と人前に出てイエスさまにお願いのできる身ではありません。こっそりと後ろからイエスさまに迫り、その服に触れます。二七節から二八節、
「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」
この姿には、誰に触れてもならないという戒めを破る恐れに慄(おのの)きながらも、イエスさまに最後の望みをかけようとする、そういう彼女の必死の思いが滲み出ています。でも見つかったら、それこそ袋だたきにあうでしょう。不安に慄きつつ、藁(わら)をもつかむ思いでイエスさまの服に触れた、その時、
「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」。
■愛の働き
よくある奇跡物語なら、彼女がその場をそっと立ち去り、イエスさまご自身が全く知らないうちに、話はおしまいになるところでした。しかし、この話はそうはなっていません。
イエスさまの後ろからそっと触り、さっと逃げて、女はいやされたというのですから、イエスさまは誰をいやしたのか全くご存じありません。つまりこのいやしでは、イエスさまの意志も、イエスさまの愛も、イエスさまの力も、決定的なものではなかったということです。イエスさまには、この女をいやしてやろうという意志は全くありませんでした。ただ、その力が勝手に出て行って、誰かがいやされたことだけに気づかれました。そしてその時、誰がいやされたのか、イエスさまは捜し求められます。三〇節、
「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた」
なぜでしょう。その人に感謝してもらいたかったからでしょうか。こっそりイエスさまの力を盗んで行くようなやり方をとがめるためでしょうか。いずれにせよ、誰かがいやされたことに間違いはないのだから、それが誰であろうといいじゃないか、それを捜しまわるなんてイエスさまらしくない、そんな気もします。イエスさまは、なぜ、いやされた人を捜されたのでしょうか。彼女が名乗り出た時の言葉から、その理由を窺(うかが)い知ることができます。
「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」
あなたを救ったのはわたしじゃない。あなたはそう思っているかもしれないけれど、わたしの力ではない。あなたの病気をいやしてあなたを救ったのは、「あなたの信仰」だ、イエスさまはそう言われます。「あなたの信仰」。信仰とは、神様への信頼のことです。彼女のいやしは、「あなたの信仰」と、それを通して働いた神様の愛の御業によるのだ、そう言われます。
そこが肝心なことでした。でも、そのことに彼女は気づいていませんでした。ただいやされたことだけに気づいて、イエスさまに感謝し、こっそりと帰って行こうとしました。それでイエスさまは、肝心な神様の愛の働き―いつもわたしたちと共にいて触れてくださる神様の愛に彼女が気づくために、彼女を捜されたのでした。病気がいやされたことだけで帰ってしまってはもったいない。もっともっと大きな恵みを、愛を、あなたは今、与えられているじゃないか。イエスさまは彼女にそう教えようとしておられるのです。
■信の一念
ところで、「あなたの信仰があなたを救った」とイエスさまに言われた、この女のすばらしい信仰とは、具体的にはどんな信仰だったのでしょうか。二八節にこうあります。
「『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」
「服に触れるだけでいやされる」、これが彼女の信仰です。単純というか、素朴というか。それは、何か超自然的な現象の起こることを期待した、ご利益的で魔術的なとも言うべき、呪術的な信仰のように思えます。自らの罪を認め、神の子キリストの十字架と復活による罪のあがないを信じ、悔い改めて、その主に委ねて、功(いさお)のないままに救われる。そういった教会が語る、正しいとわたしたちが思っている信仰と、彼女の信仰は異なっています。
彼女にはその時、正しい信仰、そんなことを考える余裕も力もなかったでしょう。イエスさまのことを聞いて、ただいやして欲しいという一途(いちず)な思いで、イエスさまの服に触れた、まさに藁(わら)をもつかむ、溺れる者の心情をそのままに吐露しただけの、果たしてそれを信仰と言ってよいものか、それはキリスト教の信仰じゃないと多分言われるだろう、そういうものであったと思います。しかし、イエスさまはそれを「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。信仰のいのちは、信の一念その一点にかかっている、と言うべきなのでしょう。一筋に思い詰める一途さの欠けた、教理的に正しい信仰よりも、考えが足りなくて欠点だらけでも、一念のこもった信仰の方が、信仰の名に値するのです。イエスさまはここで、そう言われます。もし信仰において間違っておれば、イエスさまが引き受けてくださるでしょう。足らないところがあれば、イエスさまが補ってくださるでしょう。「助けて!」という一念だけ、それ以外に何もありません。
■助けて!
「助けて!」、できるなら、そんなことを言わずにすむ穏やかな生涯を送りたいものですが、どんなに恵まれた境遇の人でも、一生に一度や二度は、思わずこう叫ぶはずです。もはや自分の力ではどうすることもできず、思わず天を仰いで、「助けて!」と。
苦しむ人が、どうしてもその苦しみから立ち直ることができず、状況がますます悪化し、いよいよ破綻するときのことを「底をつく」と表現することがあります。たとえば、アルコール中毒で苦しむひとりの男が、なんとか立ち直ろうと努力しながらも、どうしても酒をやめられず、やがて体を壊し、酒の失敗で仕事も失い、ついには家庭で暴力を振るってしまい、愛する妻が子どもを連れて家を出てしまったとしましょう。まさに、これより下はもうないという状況、このままでは、もはや生きていてもしようがないというような絶望を味わう。まさに彼は「底をついた」のです。
ところが、この、いよいよ「底をついた」というときに、初めてその人の中で生まれてくるものがあります。まるで、一番暗い冬至の日を合図に、春に芽を出す、その準備を始める凍てついた土の中の種のように、真っ暗な闇に覆われた魂の奥で、そっと生まれてくるもの。あたかも赤ちゃんの泣き声のように弱く、正直で、だからこそ希望をはらんでいるもの。それが、「助けて!」という叫びです。
わたしもこれまで、中途半端な「助けて」であれば、何度も繰り返してきました。でも、どうしようもない無力の底から叫ぶ、一生一度の「助けて!」は、とても神聖な叫びです。それはたぶん、人間のだれかに向かって言う「助けて」とは本質的に違う、聖なるものに向けての叫びです。
すべてを失った人が独りぼっちで部屋にうずくまり、なすすべもなく「助けて!」と絶望の叫びを上げたその瞬間。それは、しかし後で振り返ってみれば、救いの歴史が始まった瞬間であったことがわかります。
新約聖書には、「助けて!」と叫ぶ人の話がたくさん記されています。今日の女も、イエスさまが通りかかったときに「わたしを憐れんでください!」と大声で叫んだ盲人も。イエスさまは、そんな人々の必死な叫びに必ず応えて、病気をいやし、障がいを取り除かれるのですが、そのとき、イエスさまはいつも、こう言われます。
「あなたの信仰が、あなたを救った」
頑張る人ほど、「助けて!」のひと言が言えません。人に頼っちゃいけない、弱みを見せちゃいけない、結局は自分しか信じられない……健気にもそんなふうに思い込んで生きてきたのでしょう。本当はそんな人こそ、だれよりも「助けて!」と叫びたいのに。確かに人は頼りにならないし、弱みを見せては生きていけない社会です。 でもだからこそ、絶対頼りになり、弱みをこそ受け止めてくれる力を信じて、「助けて!」と言うしかないし、それを言えたときに人は、もうすでに助かっているのです。自分では自分を救えないことを思い知り、そんな自分を助ける大いなる力を、最後の最後に信じて叫んだ、そのときに、人は本当の意味で救われます。心の底から「助けて!」と叫んだときにこそ、愛に触れた女のように、何か、すばらしいことが起こり始めるはずです。