【説 教】 牧師 沖村 裕史
■いのちと家族
以前、Bible Caféの中で『サウンド・オブ・ミュージック』という映画を一緒にご覧いただいたことがあります。あの映画の魅力は何といっても、数々の美しいメロディーの歌です。その中でも特に親しまれているのが主題歌の「サウンド・オブ・ミュージック」。主人公のマリア役を務めた、ジュリー・アンドリュースの美しいソプラノが高原いっぱいに響き渡る冒頭のシーンはよく知られています。他にも「エーデルワイス」や「ドレミの歌」など、それぞれの場面にマッチした、それらを歌う伸びやかなマリアの声が忘れられません。
そして今日の聖書の中には、イエスの母マリアの歌が記されています。
「わたしの魂は主をあがめ。
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから」
これはマリアが、天使からイエス・キリストを身ごもったことを告げられた時に、神をほめたたえて歌ったとされる「マリアの賛歌」と呼ばれる歌です。救い主イエスの母としてのマリアへの尊敬は、この歌と共に今日に到るまで絶えることなく続いています。ルカによる福音書だけに記されるこの「マリア賛歌」が、もし本当にマリアが歌ったものだとすれば、それは、イエスさまが十字架につけられ復活された、その後の教会の中で、イエスさまを身ごもった時の喜びを思い出しながら、マリアが歌ったものかもしれません。
今日の母の日は、母を通して、神がわたしたちにいのちを、そして家族を与えてくださったことを感謝し、祝う日です。そしてこのマリアの賛歌こそ、そんな母の日にふさわしい歌だと言えるでしょう。今日は、いのちと家族を与えてくださる神への感謝と喜びを、この歌を通してご一緒に味わいたいと思います。
■そのころ、急いで
さて、冒頭三九節に、「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とあります。
「そのころ」とは、直前三八節までに記されていたことが起こった「その日々に」というほどの意味です。受胎告知の余韻が残っているそのとき、マリアは不意に立って、急いで山里へ向かいます。ザカリアとエリサベト夫婦が住んでいた「山里」とは、エルサレムからそんなに離れていない山間(やまあい)のことでしょう。マリアが暮らしていたガリラヤのナザレからは一四〇キロ以上も離れた場所です。結構な距離。ちょっとそこまでというわけにはいきません。丘陵地の続く道は急いで歩いても数日はかかります。当時の旅に危険はつきもの。しかも、マリアはまだ一四歳から一五歳くらいの少女です。
それでも、マリアは出かけました。しかも、急いで、です。
なぜ、そんなに急いでエリサベトに会いに行ったのでしょうか。何も書かれていません。想像してみるほかありません。
山里に急ぐマリアの心には、不安と喜びが相半ばしていたことでしょう。誰の子かわからない子どもを孕むことを告げられたマリアです。天使から「その子が誰の子であろうと、神はその子を祝福してくださる。その子に聖霊を注いでくださる。だから恐れるな」(二六~三五節)と告げられても、世間の目は厳しく、父親のわからない子どもとその母親には蔑みの目が注がれるからです。
それでも神は、不安に怯(おび)え苦悩を抱えるマリアを、その孤独の中に捨て置かれたりはされませんでした。孤独や苦悩を分かち合う友をお与えになります。それが、エリサベトでした。彼女もまた、不妊の女と蔑まれ、屈辱と寂しさを味わい尽くしていました。そのエリサベトにも天使は現れ、希望を告げました。そして今、マリアにも天使が告げます、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(三六節)と。
マリアは、不安の中にあってなお、喜びを抱きつつ、ただエリサベトと抱擁し合うことだけを望んで、山を越え、急いだのではないでしょうか。
■マリアとエリサベト
今、そんな二人が出会います。二人の喜びが、新しいいのちへの喜びが満ち溢れます。
自分の体の中に新しいいのちの芽生えを体験し、内に動き出すいのちを感ずる。それは大きな喜びです。子どもが生まれる時が近づいているエリサベトの傍らに、六か月遅れて子どもを宿した若いマリアが毎日傍にいて、年老いたエリサベトを労わりながら、どんなことを語り、また何度、讃美の歌を歌ったことでしょうか。
このとき、 マリアは自分に与えられたこの恵みを、独り占めにしよう、自分ひとりの宝だとは決して思いませんでした。何世紀にもわたって、多くの人々が歌い続けてきた聖書の、詩編の慰めが、今ここで現実、事実となった。そんな思いから、エリサベトと一緒に、神の恵みを歌ったに違いありません。あなたもわたしも、このような神の恵みを与えられたのだと、その恵みを指折り数えるようにしながら、歌いつづけられてきた信仰の歌を、新しい思いをもって歌ったことでしょう。
そんなマリアに、エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と語りかけます。マリアよ、あなたはしあわせです。神があなたに約束されたことを、神が必ず実現してくださるからです。そのことを信じることのできるあなた、神のみ手の中にあるあなた、あなたはしあわせです。そう祝福するのです。
二人の信仰が触れ合ったとき、彼女たちは「幸いな者」となりました。マリアとエリサベトの密かな、小さな、しかし大きな喜びの出会い。そしてそこで歌われたマリアの歌を聴くとき、わたしたちの心もまた深く慰められます。
■主を大きくする
今、マリアはこんな言葉で歌い出します。四七節、
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」
ここで注目いただきたいのは「あがめ」という言葉です。原文ではメガリューノウというギリシア語ですが、この言葉のラテン語訳が「マグニフィカート」。このことから「マリアの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれるようになりました。いずれも「大きくする」という意味の言葉です。「主をあがめ」とは、「主を大きくする」という意味です。
「主を大きくする」、それは「自分を小さくする」「自分の小ささを認める」ということです。人はみな、自分が大きくなり、自分の力が増大し、自分が栄え輝くことばかりを望みます。しかしそんな自己拡大の望みはいつも、他人を蹴落とし踏みにじる、それを足台としたところに築かれる望みでしかありません。そう望んでいる間は、主を大きくすることはできません。神をあがめるためには、自分の小ささを認めなければなりません。
そのことが、四八節の「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」という言葉にも現れます。マリアは自分のことを、「身分の低い主のはしため」と告白します。そんな自分に、神が「目を留め」てくださった。四九節の言葉で言えば、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」ということです。神のみ前で低い者、卑しい僕でしかない自分が、神に選ばれ、その偉大な力によって用いられて、神の恵みのみ業を担う者とされた。マリアは、そこに自分の幸い、祝福を見ています。
この幸いゆえに、彼女は神をあがめ、大きくしているのです。
■大きな愛
幸いな者として生きるとは、そんな神の大きな愛によって生かされる者となることでした。「神の憐れみ」「神の愛」こそが、マリアの賛歌に流れる通奏低音、基本的なメロディーでした。五〇節には「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあり、五四節にも「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」とあります。そして五五節には、この憐れみが、イスラエルの民の父祖アブラハムに与えられた、神の約束に基づくものであると歌われます。
誰が父親なのか分からない子を宿したマリア、そして不妊の女と言われ続けてきたエリサベト。彼女たちは、圧倒的に不利な、絶望的な状況に置かれていました。しかし神は決して、彼女たちを、そしてこのわたしたちを忘れ去り、見放すことなどなさらないのです。神の驚くべき憐れみ、大きな愛ゆえでした。
この「憐れみ」はときに、ギリシア語のピスティス、誠実、真実と訳されます。神がその僕イスラエルを受け入れて、愛によって生かし、導いてくださるのは、神が、アブラハムとその子孫に与えてくださった約束に誠実であった、真実であった、つまりピスティスなお方であったからです。神の愛は、わたしたち人間の罪や悲惨さに対する単なる同情などではありません。神の愛は、神の約束に基づく、神の真実さゆえのものでした。
絶望的な状況の中にあるマリアはしかし、希望と喜びをもって今、神の真実な愛に目を注ぎ、その大きな愛に包まれ、委ねるようにして、この賛歌を歌っているのです。そしてこの賛歌は、福音書に語られるすべてのことが、この愛のゆえに生じ、この愛の下にあることを宣言し、わたしたちの世界のすべてもまた、神の大きな愛に包まれていることを確信するようにと、わたしたちを慰め、励まし、促します。
■大いなるものとの出会い
以前も申し上げたように、好きになることと愛することは似て非なるものです。好きになったものは、あるきっかけで簡単に嫌いになります。しかし愛は、好き嫌いを超えて働きます。愛するために、好きになる必要はありません。愛するとは、好悪の感情を超えてそれを受け容れることだからです。
自分を好きになれないことは、誰にもあるでしょう。冷静に自分を顧みれば、だれも自分を好きでばかりはいられません。でもわたしたちは、そうした至らない自分を受け容れることができるはずです。受け容れるとは、至らなさをそのまま認めるということに留まりません。むしろ、至らなさの奥に潜む可能性、いえ、根源的な真理、わたしという存在のかけがえのなさに気づくことが求められています。
愛の眼は、今だけを見ようとはしません。過去、現在、未来を、「一つの時」、「神の時」として見つめます。自分を受け容れるとは、今の自分と折り合いをつけるばかりではありません。これまでの過去を抱きしめ、ゆっくり明日に向かって進んでいこうとする営みです。
トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』の中に、人生の困難をめぐる印象的な一節があります。「時としていろいろな悩みや意に反する事があるのも、私たちにとってよいことである」。思うようにならないのはよいこと、試練もまた神からの恵みです、と言います。試練の中にあるとき、人は自分を愛することを強く求められます。自分の過去、現在、未来を強く抱きしめるよう促されます。
思うようにならない出来事に遭遇するとき、人は苦しみや悲しみを感じるだけではありません。そのことによって人は、このときのマリアのように、本当の意味で小さくなれます。自分を小さく感じるとき、わたしたちは自分を卑小なものだと考えてはなりません。ここでいう「小さくなる」とは、卑屈になることとも違います。それは大いなるものに出会うことにほかなりません。聖書は、その大いなるものを神と呼び、哲学は同じものに真理という名を与えました。愛する、自分を愛するとは、思うようにならない現実のただ中に、神を、真理を見出そうとすることでした。
そして神は、大いなる愛の約束を果たすために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。御子を遣わし、その十字架と復活に示された驚くべき神の愛によって、わたしたちが救われ、打ち砕かれて、新しい生き方へと招かれるためです。マリアは、その神の愛の約束の実現のために選ばれ、用いられたのです。そこに、彼女の幸いがありました。
わたしたちも、神の愛によって生かされ、その御心のために用いられていくことによって、今、もう既に「幸いな者」とされているのですから、心からの感謝と喜びをもって、与えられたこのいのちの道をご一緒に歩んでいくことができればと願います。