小倉日明教会

『栄光の姿で、主イエスは』

ルカによる福音書 9章 28〜36節

2023年1月22日 降誕節第5主日礼拝

ルカによる福音書 9章 28〜36節

『栄光の姿で、主イエスは』

【奨励】 川辺 正直 役員

『マラソン』

 おはようございます。さて、『マラソン』という実話をもとにした韓国映画があります。自閉症の少年が母親の愛を受けながら、マラソン大会に挑戦する様を描いた感動作です。映画の中で母親が放ったひとことが忘れられません。「私の望みは自分が死ぬ一日前に息子が死んでくれることです」障害を持っている息子一人を残して死ぬことなどできない。私が死んだらこの子は一体どうなってしまうのか。この子の一生の間、自分が面倒を見てやりたい、でもこの子よりも長く生きていることなどできっこない。なら、いっそのことなんらかの理由で、この子が私よりも一日先に死んでくれたなら、この子がそのように死ぬのを見届けてから死ねたなら、どれほど安心して死ねるだろうか。エゴだとはわかっているけれど、そう考えずにはいられなかったのです。やがて息子の面倒を見ることができなくなってしまう死の問題について、母親は深く悩んでいたのです。私たちもまた、同じような悩みを抱くことはあるのではないでしょうか。

 本日の聖書の箇所では、主イエスが栄光の光に輝くという、記事が伝えられています。本日の聖書の箇所で、神様は私達に何を求められているのかを皆さんと共に学びたいと思います。

主イエスとは何者か

 さて、現在、読んでおりますルカによる福音書の9章の1〜50節は、ルカによる福音書の分水嶺とも言うべき重要な折返し地点に達しているということをこれまでお話して参りました。この9章1〜50節が終わると、何が始まるのかと言いますと、9章51節に始まり、19章10節まで続く、エルサレムへの旅が始まるのです。このルカによる福音書の4章14節から始まるガリラヤでの伝道での中心テーマとしているのは、「主イエスは誰か?」ということでした。それに対して、9章51節〜19章10節の長い後半部分での中心テーマは、「主イエスは何のために来られたのか?」という受難と復活となってゆくのです。その主イエスのエルサレムへの旅とガリラヤ伝道との間の架け橋となっているのが、現在、取り上げている9章1〜50節であり、その中心のテーマは弟子たちの訓練なのです。

 本日の聖書の箇所の直前の前回お話しました20節では、『イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」』とあります。ペトロは弟子集団を代表して、「神からのメシアです。」と信仰を告白したのです。当時、主イエスは偉大な預言者の一人だというのがユダヤの人たちの一般的な見方でしたが、ペトロはそれを否定して、「神からのメシア」だと言ったのです。そして、私たちは、このペトロの信仰告白を受け継ぎ、「あなたこそキリスト、救い主なる神です」と告白しつつ歩んでいるのです。ペトロはこの信仰の告白によって、主イエスとは何者か、という問いの正しい答えを語ったのです。しかし、その後で、主イエスは受難の予告を語るのです。ここでの受難の予告が、主イエスが語られた最初の受難の予告なのです。この記事の文脈は、弟子訓練で、「神からのメシア」というところまでは、告白できたのです。その主イエスが受難の僕であることまではまだ理解できていないのです。しかし、弟子訓練の文脈の中で、「主イエスは誰か?」というテーマで語られて来た9章1〜27節に続いて、今日の聖書の箇所では、12弟子の中の3人の弟子が主イエスの本当の姿を目撃するのです。すなわち、「主イエスは誰か?」というテーマが、今日の聖書の箇所で明らかになるというクライマックスを迎えているということです。

    

 光輝く主イエス

 本日の箇所はそのようなペトロの信仰の告白、主イエスの受難の予告の後の出来事です。28節には、「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」と記されています。「この話をしてから八日ほどたったとき、」とルカは語っています。これらのこととは、前回の箇所の27節に、「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」とありますが、「神の国を見る」というのは、栄光の主イエスを見ることだということをお話しました。この教えを語られたときから、8日ほどたったとき、ということです。「神の国を見る」という予言があったその日から8日目に、その予言が成就したということです。そして、ルカは「ペトロ、ヨハネ、およびヤコブ」という順番で、同行した3人の弟子たちを紹介しています。通常であれば、ヤコブはヨハネのお兄さんですので、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの順となるのです。ところが、ルカは「ペトロ、ヨハネ、およびヤコブ」という順番にしているのです。なぜかということが、気になるかと思います。しかし、ルカは他の箇所でも、この順序で記しているのです。ルカによる福音書8章51節を見ますと、「イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。」と、このように記しているのです。なぜ、ルカはこの順序にこだわっているのでしょうか?それは、ペトロとヨハネを関連付けようとしているのです。それは、教会時代に入ると、このペトロとヨハネはエルサレム教会の指導者となるのです。ヤコブは早くに殉教の死を遂げるのです。従って、福音記者ルカは、使徒言行録での記述を想定しながら、ペトロとヨハネという順序で関連付けて記述しているのです。

 さらに、「祈るために山に登られた。」と記されています。ここで、英語訳聖書を見ると、山という単語の前に「the」という定冠詞がつけられていることが分かります。ルカはどの山かということを書いていませんが、定冠詞がつけられたということは、既に初代教会の信者たちの間では、よく知られた山であったということが分かります。お互いによく知っているあの山ということです。この山は、前回のペトロの信仰告白が行われたのが、マタイによる福音書ではフィリポ・カイサリア地方であったということがと伝えられていることから、ガリラヤ湖の北から約40kmのフィリポ・カイサリア地方のすぐ北にあるヘルモン山であったと考えられています。それ以外の可能性としては、タボル山という可能性も考えられています。しかし、タボル山は、ガリラヤにあるお椀をひっくり返したような形の山で、この山の上には当時も偶像崇拝の宮が建っていて、人々も住んでいて、静かに主イエスが祈りを捧げ、教えを授けることができるような場所ではなかったのです。従って、本日の聖書の箇所の舞台は、ヘルモン山だと考えるのが通説なのです。そして、主イエスは「祈るために山に登られた。」と、ルカは主イエスの祈りの生活を伝えています。

主イエスの変貌

 そして、29節を見ますと、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」と記されています。ルカは、主イエスの変貌の出来事は、祈りに対する答えとして描いていることが分かります。主イエスの祈りの結果、弟子たちに啓示が与えられたのです。その啓示の内容は、「主イエスとは誰か?」、主イエスというお方は、本当はどういうお方なのか、この方を信頼できるのかどうか、ということであり、この3人の弟子たちはそのことを目撃するのです。そして、そのことは祈りの答えとして与えられた啓示なのです。神様は、主イエスがどういうお方であるかということを、今日の聖書の箇所を通して、私たちに語っておられるのです。「顔の様子が変わり」と訳されている言葉ですが、マタイによる福音書とマルコによる福音書では、ギリシア語で「メタモルフォオー」という言葉が使われています。この言葉は、「変質する」、「変形する」、あるいは、蛹(さなぎ)が成虫に変わってゆく、生物学上の変態を意味する言葉です。しかし、ルカによる福音書では、「別の姿に変わった」、英語で言えば「became different」という言葉が使用されています。なぜ、マタイ、マルコとルカで違っているのかと言いますと、ルカはギリシア人の信者、異邦人の信者に誤解を与えないように、配慮して言葉を選んでいるのです。ギリシア語の「メタモルフォオー」という動詞は、ギリシア神話の神々が変身するときに用いるときに使用する言葉なのです。そのため、ギリシア神話に親しんで来た人たちには、「メタモルフォオー」という動詞を見たときに、聖書の神も、主イエスご自身も、ギリシア神話の神々と同じように変身するのだと誤解する可能性があるのです。しかし、ルカはそうではなく、主イエスはギリシア神話の神々以上のお方であるということを伝えようとしているのです。そのため、動詞が違うのです。さらに、ルカは「服は真っ白に輝いた。」と記しています。なぜ、服が真っ白に輝くのでしょうか。ルカが書き記したルカによる福音書や使徒言行録を見ますと、その人が来ている服というのは、その人の地位や本質を表していると考えることができます。従って、ルカは「服は真っ白に輝いた。」ということを通して、主イエスの本質を伝えようとしているのです。真っ白に輝く服というのは、そのお方が天からの存在であること、天の栄光の現れであることを表現しています。

 例えば、ルカによる福音書24章4節を見ますと、「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。」とあります。この二人の天使は、光り輝く衣を着ていた天から来た天使であったということを伝えているのです。あるいは、使徒言行録1章10節では、「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、」と記しています。「白い服を着た二人の人」というのも、天からの存在であること示しています。二人の天使が立っていたということを示しているのです。主イエスの服が真っ白に輝いたと言うとき、真っ白な輝きというのは、主イエスの内側にあった神としての神性を表す栄光の輝きなのです。ここでは、栄光の輝きが、主イエスの肉体という幕屋をくぐり抜けて、外に輝き出たということを示しているのです。そして、そのことを3人の弟子たちは目撃したのです。主イエスの姿が、栄光に変わったということを目撃したのです。弟子たちの訓練のために、この出来事は起こったのです。使徒たちの時代、教会時代に入ると、弟子たちは多くの迫害に会います。そのときに、「主イエスとは誰か」、「私たちはこの方の栄光を見た」ということが、弟子たちに確信を与え続けたのです。

モーセとエリヤ

 次に、30節〜31節aを見ますと、『見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、』と記されています。主イエスは二人の人と語り合っていた。主イエスがこれから受ける苦難を理解する人が、弟子たちも含めて、地上にはいなかったのです。モーセとエリヤがここで登場しているのは、主イエスを励ますためだと思います。私たちにとっても、自分を理解する人がそばにいるということは、本当に慰めになると思います。拒絶される、理解されない歩みというのは、本当につらいものだと思います。苦難の道を歩もうとする主イエスを理解するモーセとエリヤという2人が現れたのです。

 それでは、ここで旧約聖書に描かれているモーセという人は、どのような人であるかということを見てみたいと思います。モーセは皆さんもよくご存知のように、イスラエルの民をエジプトから開放した指導者です。モーセはシナイ山で神様と出会った預言者です(出エジプト記24章)。また、彼はイスラエルの民に神様の律法を伝えることによってヤハウェ礼拝を確立した人でもあります。さらに、モーセは神様によって葬られ、その墓を知る人がいない、どこに葬られたのか分からないという人でもあります(申命記34章5〜6節)。そして、モーセは主イエスの復活の予表でもあるのです。モーセは死んだのですが、今、ヘルモン山で主イエスの傍に立っているのです。モーセは肉体的には死んだのですが、実は死んだのではなくて、弟子たちの目の前に現れているのです。そういう意味で、主イエスの復活の予表となっているのです。さらに、モーセは私たちキリスト者の復活の予表ともなっているのです。私たちキリスト者も、死後も命はあるのだ、死んでも必ず復活するのだ、ということの予表となっているのです。モーセはそのような特徴を持っている人で、その人が主イエスの傍に立って、主イエスと語り合ったのです。

 一方、エリヤという人は、旧約聖書でそのように描かれているでしょうか。エリヤは、将来イスラエルの民の心を神様に向けさせる預言者です。そして、シナイ山で神様と出会ったのは、モーセとエリヤだけなのです(列王記上19章)。そして、エリヤは背教の時代にヤハウェ礼拝を守った預言者なのです。エリヤがモーセと異なる点は、エリヤは生きたまま天に挙げられたということです。モーセは死んだのですが、エリヤは生きたまま、天に挙げられたのです。そのため、エリヤは主イエスの昇天の予表となっているのです。そして、エリヤはキリスト者たちの携挙の予表でもあるのです。教会が天に挙げられる日が来る、キリストの空中再臨のときに、地上で生きていたキリスト者たちが生きたまま、栄光の姿に変えられて、天に挙げられる携挙の予表ともなっているのです。これらがエリヤの本質なのです。

 このようにモーセは律法の代表、そして、エリヤは預言者の代表として、旧約聖書の中でも、飛び抜けた預言者だと思います。このように飛び抜けた預言者たちですが、30節に、『見ると、二人の人が』と書かれていますように、モーセとエリヤの二人は『人』なのです。そして、主イエスのように、内側から真っ白に輝いて変貌したわけではないのです。彼らは、『二人は栄光に包まれて現れ、』とありますように、主イエスの内側から出た栄光の光に包まれただけなのです。福音記者ルカは、慎重に言葉を選びながら、神である主イエスと人間であるこの二人がいかに違う存在であるかということを書き記しているのです。ルカは、主イエスはこの二人の旧約聖書の偉人よりも、遥かに偉大なお方であることを語っているのです。

 それでは、モーセとエリヤは主イエスと何を話していたのでしょうか?31節bには、『イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。』と記されています。話の内容は、『エルサレムで遂げようとしておられる最期』であったのです。ここで、『最期』と訳されているギリシア語は、「「外への道、外へ出ること、この世を去ること」を意味する名詞「エクソドス」という言葉が用いられています。「出エジプト記」のことを英語で「エクソダス」と言うことをご存知の方も多いと思います。同じ言葉なのです。その場合には「脱出」という意味で使われています。主イエスはエルサレムで、この「エクソドス」を成し遂げたのです。主イエスご自身のこととして言えばそれは、十字架の死と三日目の復活、そして天に昇られたことまでを含みます。これらのことによって主イエスは、この地上を出て、父なる神様のもとへと帰られたのです。そして、そのことによって、私たちのための霊的な「出エジプト」、罪の奴隷状態からの解放、罪の赦しによる救いのみ業を成し遂げて下さったのです。この主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた罪からの解放であり、死からの解放こそが、旧新約聖書全体の中心主題、聖書全体を貫いているテーマである受難の僕の預言の成就なのです。モーセの律法も、エリヤに代表される預言者も、この主イエスによる救いを指し示し、預言しているのです。モーセに率いられたイスラエルの民は、エジプトを出発して、直ぐに約束の地に入ったわけではありません。エジプトを出発した後、40年に及ぶ荒野の旅があったのです。主イエスの十字架と復活は何の幕開けなのでしょうか?教会は主イエスの十字架と復活という出エジプトを経験した民として荒野の旅を開始するための、教会時代の幕開けであったのです。従って、主イエスの変貌を目撃した弟子たちは、教会時代の荒野の旅をするための訓練を受けているのです。

ペトロの願い

 さて、主イエスの変貌に対して、弟子たちの反応はどうだったのでしょうか。32節には、『ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。』とあります。主イエスが祈りを捧げている間、弟子たちは居眠りをしていたのです。ゲッセマネの園での、主イエスの祈りでも同じようなことが起こります。3人の弟子たちは、『ひどく眠かったが、』ということを伝えているのは、ルカだけです。弟子たちはひどく眠かったということは、弟子たちは、栄光に輝く主イエスの変貌を受け止めるだけの、霊的準備がまだ出来ていなかったということです。主イエスは祈りの必要性を覚えて、祈られたときに、祈りの答えとして、変貌があったのです。主イエスが祈りの必要性を覚えたとしたら、弟子たちは本来それに習って、続くべきです。しかし、弟子たちは『ひどく眠かった』のです。従って、弟子たちはモーセとエリヤが主イエスと語り合っている会話の内容を理解することが出来なかったのです。それでも、じっとこらえていたようです。そして、栄光に輝く主イエスを見たのです。そして、主イエスと、そばに立っている二人の人を見たのです。そして、33節には、『その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。』と記されています。

 ペトロは、栄光に輝く主イエスのお姿と、モーセとエリヤが主イエスと共にいる、というこの素晴らしい出来事を見て、ある提案をするのです。しかし、ペトロの提案は的外れです。『ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。』とあります。ペトロの提案は、仮小屋を三つ建てるということです。ここで、仮小屋と書かれているのは、簡単な仮庵のことです。これは、仮庵の祭りのときに建てられる仮庵のことを言っているのです。「仮庵の祭り」で神の民は仮小屋に住み、かつての荒野の生活の時を思い起こすのです。「荒野」は何もないところです。仮庵の祭りの意義は、生存と防衛の保障がすべて神様から来るということを教えるためのものでした。ペトロはここで、モーセとエリヤと主イエスのために、仮庵を3つ立てましょうと言っているのです。ペトロは主イエスを、モーセとエリヤと同等に扱っていることが分かります。ここに、ペトロの大きな誤解があることが分かります。

 さらに、ペトロはいつまでもここに留まりたいと願っているわけですが、そのことによって、エルサレムに向かって旅を始めようとされている主イエスの旅立ちを遅らせようとしているのです。ここにも、ペトロの誤解と誤りがあります。『ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。』とあります。ペトロは確かに、主イエスが向き合っておられることの本質が分かっていなかったのですが、彼には彼なりの信仰的な理解があったのです。ペトロは主イエスの変貌を見て、神の国が到来したのだと誤解したのです。この誤解は、当時のユダヤ人たちが考えるメシア的王国という神の国が到来したと誤解したのです。主イエスが栄光に輝くのを見たときに、主イエスが王として来られたと誤解したのです。そのため、危険な場所であるエルサレムに行くよりも、ヘルモン山の山上で、仮庵の祭りをした方がよいと、ペトロは判断したのです。仮庵の祭りは、先程、述べましたように荒野の旅を思い起こす祭りであると同時に、メシア的王国を予表する祭りでもあるのです。メシア的王国が到来したと誤解したペトロが、ヘルモン山の山上で、仮庵の祭りをしようと提案したのは、ペトロにとって、ユダヤ人の視点からは、理屈が通った話であったのです。しかし、ペトロは神様の思いを理解してはいなかったのです。

雲に覆われて

 34節には、「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」とあります。彼らというのは、栄光に輝く主イエスと、モーセとエリヤのことです。そして、この雲は、旧約聖書において、神様が人間にご自身を現し、出会おうとなさる時に現れる栄光の雲です。この雲は神様が出会って下さることの印であると同時に、神様のお姿を人間の目からは隠す働きもしています。人間は、神様と出会う時に、神様のお姿を直接見るのではなくて、雲を見るのです。ここでも、雲が現れ、その雲の中から神様のみ声が聞えたのです。その雲によって、栄光に輝く主イエスと、モーセとエリヤの3人の姿は隠されていきました。それを見た「弟子たちは恐れた」とありますが、恐れを覚えるのは自然なことだと思います。神様に対する信頼と親しみは、神様を恐れる気持ちとは同時に成り立つ思いだと思います。

 そして、35節には、『すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。』と記されています。このことは、自分の理屈を述べるペトロの言葉に対する神様の答えであると言うことができます。父なる神様が直接語られるというのは、非常に稀なことなのです。ルカによる福音書では、3章の22節に、『聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。』と記されています。

 今日の聖書の箇所では、父なる神様は主イエスのことを、「あなたはわたしの愛する子」というのではなく、「これはわたしの子、選ばれた者」と言われたのです。このことは、主イエスは神様としての権威が与えられているということを、父なる神様は言われたのです。主イエスには、神様としての権威があるのです。それ故、主イエスの言うことを聞けと、父なる神様はお命じになられたのです。このことは、主イエスの教えよりも、人間の教えを優先させることはあってはならないと、神様はおっしゃっておられるのです。現代の日本に於いて、信仰が崩壊しつつあるのだとすれば、それは神様の教えよりも人間の理屈を優先させているところにあるのだと思います。主イエスの言葉に従うことが最優先だということを、神様は私たちに語っておられるのです。

 さらに、36節には、『その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。』とあります。声が去ると、主イエスだけでした。モーセとエリヤはいなくなっていたのです。このことは、主イエスの卓越性を啓示しています。ルカは主イエスだけが、特別なお方であるということを伝えているのです。その後、弟子たちはどうしたのかと言うと、弟子たちは沈黙を守ったのです。沈黙を守った背景には、マタイによる福音書17章9節に、『一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。』とありますように、主イエスが復活を見るまでは、話してはいけないとお命じになったことがあります。マタイによる福音書では、この後、エリヤとは誰かという議論がありますが、福音記者ルカはその議論を全て省略しています。それは、ルカのここでの強調点は、主イエスの権威と卓越性だからです。

「これに聞け」

 さて、本日の聖書の箇所で、「主イエスは誰か?」ということが明らかにされたということをお話しました。主イエスの変貌という出来事は、主イエスは神であり人であるということ、そして、主イエスは、受難の僕であるということ、また、主イエスは霊的な「出エジプト」、罪の奴隷状態からの解放、罪の赦しによる救いのみ業を成し遂げてくださるお方であること、さらに、主イエスは神様としての権威が与えられているお方であるということを啓示しています。

 「主イエスは誰か?」ということについて、主イエスは栄光に輝くお方であり、やがて栄光に包まれて戻ってくるお方であるということが主イエスの変貌という出来事で示されているのです。しかし、同時に、その主イエスの栄光は、どこかに行けば見ることができるようなものではない、それを人間の営みの中に位置づけ、人間の手の中に確保するようなことはできない、ということが示されています。この栄光に輝く主イエスに向き合う私たちに、神様が求めておられるのは、「これに聞け」ということです。神様の独り子であられ、神様が選びお遣わしになった救い主であられる主イエス・キリストに聞くこと、そのみ言葉に耳を傾け、従っていくこと、そのことの中でこそ、私たちは、栄光に輝く主イエスの本当のお姿と出会うことができるというのです。しかし、栄光に輝く主イエスは、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活されるために来られた方なのです。その主イエスに聞き従う時に、私たちの歩みも、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従っていくことになります。主イエスに従って歩む信仰の人生は、決して祝福と喜びのみに満ちた栄光ある勝利の人生ではありません。しかし、この主イエスに聞き従っていくことの中でこそ私たちは、弱く罪深い私たちをご自身の十字架の死によって赦し、神様の民として新しく生かして下さるまことの救い主と出会い、その方のもとに生きることができると思います。三人の弟子たちが目撃した主イエスの栄光に輝く姿は、その約束が確かであることを示しているのです。私たちは、どんなに困難な時にあっても、この主イエスを信頼し、まことの神のキリストであると、告白してゆきたいと思います。

 それでは、お祈り致します。