小倉日明教会

『消えかかっていた人』

ルカによる福音書 19章 1〜10節

2024年 6月 9日 聖霊降臨節第4主日礼拝

ルカによる福音書 19章 1〜10節

『消えかかっていた人』

【説教】 沖村 裕史 牧師

■三つ子の魂

 「三つ子の魂、百までも」という諺があります。小さな子どもの時に身についたものは、死ぬまで消えることはないと言います。「氏(うじ)より育ち」とも言われます。氏とはファミリーネームのことで、血筋や家柄よりも、どんな育てられ方、どんな育ち方をしたかが、その人の個性を決めるのだということです。

 人間は、生理学的には、一年ほど早産で生まれているのだそうです。しかしそれが神の知恵です。早産による未熟さが却って、精神の発達を促し、他の生物とは比べ物にならないほど知的な生き物として育つのだそうです。当然、生まれてからの一〇か月は、胎内にいる一〇か月と同じように大切に保護される必要があります。この二〇か月の間に、基本的な人間形成がなされるからです。

 エリクソンという学者によれば、赤ちゃんは生まれて八か月から一〇か月までの間に、基本的な「信頼感」と「不信感」を身につけるそうです。たとえば、赤ちゃんは言葉や認識が発達していないので、お腹が空いても「お腹が減った」と考えることができず、何か自分の存在が消えていくような不安に支配されることになります。だから泣きます。そこでお母さんが授乳をしてくれると、またいのちが活性化してくるように感じ、お母さんに対して基本的な信頼感を持つようになるというわけです。

 しかし、どんなに赤ちゃんを愛しているお母さんでも、赤ちゃんの求めに応えてばかりいるわけにはいきません。忙しくて、手が離せない時もあります。そんな時、泣いても応えてくれないお母さんに赤ちゃんは不信感を持ちます。こうして、基本的信頼と基本的不信が深い記憶の世界で育っていくのだと言います。

 どんなに優しいお母さんでも、赤ちゃんに一〇〇パーセントの基本的信頼を与えることはできません。それでも、六〇~八〇パーセントの基本的信頼を持つことができた赤ちゃんは健やかに育っていきますが、四〇~六〇パーセントの基本的信頼しか育てられなかった赤ちゃんは、性格的な問題で苦労し、何かトラブルに遭うと心にダメージを受けやすくなる、と言います。二〇~四〇パーセントの基本的信頼しか育てられなかった赤ちゃんは、ほんの小さな衝撃でも心に傷を受け、心の病気を起こしやすいのだと言います。

 さて、わずか一〇か月までにわたしたちの人格が決定されてしまうのだとすると、わたしたちは自分の性格を分析しながら、ただ自分の親や自分の境遇を恨み、責め、諦めるしかなくなります。しかし最近の研究で、六歳から一二歳の頃の親の態度によって修正が可能なのだそうです。この機会を逃した人には、一二歳から二五歳までの青年期に、自分で学習することによって自分を変えることができるのだそうです。では、二五歳をとうに過ぎてしまっているわたしには、生まれ変わるチャンスはもうないのかでしょうか。

 いえ、生まれ変わることはできる。人生はやり直せる。そう教えてくれるのが、さきほどのザアカイの話です。

■気づかぬふり

 当時の徴税人の中には、余分に金をだまし取り、私腹を肥やす者がいました。そのこともあって、自分たちを征服し苦しめるローマ帝国の手先となっている徴税人は、ユダヤの人々から嫌われました。ザアカイも相当憎まれていたに違いありません。

 その彼が、町にやってきたイエスさまの噂を聞き、一目見たいと駆けつけます。しかし、背が低かったため、群衆に阻まれてイエスさまを見ることができません。いえ、仮に見えるチャンスがあっても、人々はそれがザアカイだと分かれば、わざと見せないよう彼の前に立ちはだかったことでしょう。詐欺を働いても罰せられず、のうのうと生きている金持ちに、誰が親切にできるでしょう。

 そのことをザアカイも十分に分かっていて、先回りし、いちじく桑の木に登ったのかも知れません。

 やがてイエスさまとそれを取り巻く多くの人々が、ザアカイの登った木に近づいて来ます。待ち受けるザアカイは目を凝らし、求める人を捜します。「あ、あれか…イエスっていうのは」。ザアカイは見つめます。じっと見つめます。

 群衆の誰一人、ザアカイのことに気づきません。いえ、そうではありません。気づいていても、気づかないふりをしているのでしょう。木に登った珍妙な大人がいるのです。普通に歩けば、少しは目にも入ろうというものです。しかし、誰もザアカイに関心を払おうとしません。

 ところが…。イエスさまだけがザアカイに気づきます。誰もが気づかずに済ませようと思っていたのに、です。そのことが我慢できません。

 「これを見た人々は皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』」

 この出来事を見た人々は「皆」こう呟きました。怒っていました。当然です。だまし取った豊かさの中、国家に守られ、罰せられずぬくぬくと生きている人が、今日もそこにいる。イエスさまはそんな人間と、今から楽しく宴会を開く気なのだ!信じられない。

■大きな喜び

 そんな群衆の憤慨をよそに、イエスさまに出会ったザアカイは喜びにあふれます。

 周囲の憎しみとは対照的に、ザアカイは喜びの中、財産の半分を貧しい人に施す、と言い出します。おそらく残った半分の財産も、だましとったお金の返済に使うわけですから、結局は一文無しになるつもりなのでしょう。

 信じがたいほどの激変ぶりです。

 それでも、どうもザアカイは、イエスさまの呼びかけの中に「高価な真珠を一つ見つけた」ので、「持ち物をすっかり売り払う」(マタイ一三・四六)気になったのでしょう。彼は本当に、本当にイエスさまの呼びかけが嬉しかったのでしょう。

 ザアカイのこの喜びを見て、気づかされます。イエスさまの一声は、ザアカイが一番求めていたことにピタリと嵌()まったのだ、と。イエスさまの言葉は、ザアカイにとって最も辛い部分に慰めを与えたのだ、と。

 他人(ひと)に恨まれることでも、気づかれないことでもありません。気づいているのに気づかぬふりをされるという、人間にとって根源的な心の穴に、イエスさまの呼びかけはしっかりと嵌まり込んだのでしょう。

 周囲の人々は、ザアカイがそばにいても、まるでいないかのように平然と演技してきました。どんなにザアカイが派手に振舞おうと、彼を憎む人々はあえて見ようともしなかったのでしょう。

 そんな中でザアカイは、自分が透明人間のようになってしまった、自分の存在が消えていくと感じていたに違いありません。そうなってしまえば、彼にできることはせめて、見事に詐欺を働いて自分は透明人間じゃないと存在を誇示すること、必死に財力を貯め込み周囲に見せつけることだけです。そのほかに何もありません。

 イエスさまがいちじく桑の木の上に見たのは、この消えていく、「失われ」(ルカ一九・一〇)ていく、ザアカイの存在でした。イエスさまにとって大切なことは、ザアカイが体制側かどうか、悪い奴かどうか、金持ちかどうか、ではありません。イエスさまがこだわるのは、積極的な無視によって、存在が消えかかっている人間のことだけです。イエスさまには「徴税人」ではなく、豊かな財産をもちながらも、気体のように透()き通りかけた「人間」ザアカイが見えたのです。だから、イエスさまだけは遠慮なく、真っ直ぐに近づいて来たのでした。

 「ザアカイ、派手なカッコウだな。金持ってんだ。お前、ちっこいなあ。今日は絶対、お前の家に泊りたい!いいか、俺には見えてるぞ、お前が!」

 ザアカイはこのとき初めて、気づかないふりをしない人に出会ったのです。初対面なのに、いきなり泊まらせろとは、イエスさまも随分と不躾な男ではあります。

 しかしこのイエスさまの言葉が、ザアカイの消えかけた存在に待ったをかけます。ぼやけた白黒の映像が、カラーでくっきり蘇るように、ザアカイの身体は肉体を持ちはじめます。彼はひたすら待っていたのでした、自分がここに在ると伝えてくれる人を。

 この呼びかけの中に、ザアカイは救いの「真珠」を直感したのです。もうそれさえ分かれば、自分の存在を証明するための詐欺も、財産も、全く不要になります。だから彼は、財産の半分を寄付しようと大胆に宣言します。

 気づかないふりをしない、ずうずうしい人の前で、初めて自分の存在が確認できる時があります。まっすぐな声で切り込んでくれる人の前で、わたしたちはザアカイのように生まれ変わることさえできるのです。不躾なたった一声で「真珠」を発見する時があるのです。

■暖かいひと言

 YMCAで働いていたころ、わたしは職場の中で少々行きづまっていた時があります。当時、わたしは嫌われるとまではいかなくとも、厳しい立場に立たされていました。気分を一新しようと、古い眼鏡を捨て、新しい眼鏡を買いました。数日後、ドキドキしながらその眼鏡をかけて職場に行きました。冷かされたら恥ずかしいな、似合ってるかなと考え、一人で赤くなってニヤニヤしていました。ところが…。冷かされるどころか、職場のだれ一人、わたしの眼鏡に気づいてくれませんでした。いえ、たぶん気がついても、何も言わなかっただけなのでしょう。みんな大人だし、いちいち眼鏡ぐらいでねえ…。ところが、キッズクラブに来ていた一人の小さな男の子だけが、帰り際に言ってくれました。

 「あ!新しい眼鏡。変なの!」

 とても、とても嬉しかった。消えかかりそうな自分が、息をふきかえしたような感じでした。馬鹿馬鹿しいと思われるようですが、それは当時の辛かったわたしを生かした、小さな、小さな真珠でした。

 この眼鏡の件の後、改めて職場を見ると、実はわたし自身も、他の人に対して多くの「気づかないふり」があったことを思い知らされました。嫌いな人、親密な関係を避けたい人に対して、当然のように無視を決め込んでいた自分が見えてきました。

 よく見ると、内にも外にも、たくさんのいちじく桑の木がニョキニョキ生えていました。やがてそのいちじく桑の木の上にみんなが座り込んで、ザアカイと一緒に呼んでいるのが聞こえてくるようでした。

 「わたしはここにいるぞ!新しい眼鏡を買ったぞ!わたしは消えてない。仕事もできる。金もある。悪事も働く。さあ、わたしが見えるかい?」

 幸い、わたしの叫び声には、一人の少年が答えてくれました。ありがとう、少年。しかし、多くの人は答えられずに叫び続けています。「真珠が欲しい」と。

 知らないことを発見しようと、あれもこれも手を出す前に、まずは身近な場所で気づかぬふりを止めること、そのあたりからわたしたちは、互いの「真珠」を見つけられるのではないでしょうか。あなたにもわたしにも、憎しみゆえに、そして親密さを拒むゆえに、様々な理由ゆえに、わざと気づこうとしないザアカイが隣にいないでしょうか。そんな時、少々不躾でも言ってみたらいいでしょう。「お、変な眼鏡」って。

 わたしもあなたも、いちじく桑の木の上で消えかかってはいないでしょうか。たくさんの財産も、一生懸命の奉仕も、本当はそれ自体が欲しいのではありません。実は消えかかる自分を取り戻すための手段として、使っているだけではないでしょうか。気づかぬふりをする人々の中で、「自分はここにいる!見てください。消えていません!」こう主張するために、毎日飽きもせず、派手にドンチャン振る舞っているだけかもしれません。

 豊かさと仕事に恵まれ、平然とした顔をしていても、だれかの切り込んでくる暖かい一声を、みんなが本当は心の底でひたすら待っているのではないでしょうか。

 「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という、図々しいけれど、まっすぐな神の声を待っているのではないでしょうか。そして今もここに、そのひと言がわたしたち一人ひとりに語りかけられているのです。

 「わたしのところに来なさい。わたしは今、あなたと一緒にいるよ!」

 感謝して、祈ります。