小倉日明教会

『涙が笑みに変わる』

ルカによる福音書 6章 17〜26節

2022年2月13日 降誕節第8主日礼拝

ルカによる福音書 6章 17〜26節

『涙が笑みに変わる』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■あなたがたは幸い

 イエスさまは十二人の弟子たちと平らな所に下りてこられ、あらゆる地方から集まってきたおびただしい数の民衆と一緒におられました。マタイがこの話しを語る時、イエスさまは山に登って行かれましたが、今、ルカは、イエスさまがわたしたちの只中に来られた、と語ります。イエスさまは只中に来られ、わたしたちの「病い」を、わたしたちの「汚れた霊」をご覧になって、こう言われました、

 「今、泣いているあなたたちは祝福される。なぜならあなたたちは笑うようになるから」

 この一週間、辛い思いをして泣いた方はおられるでしょうか。

 「今、泣いているあなたは幸い」というこのイエスさまの言葉は、現に泣いている人にとっては、まことの福音、喜びの知らせです。目の前でイエスさまが、その辛い思いを知りながら、なおも「あなたがたは幸いだ」と確信に満ちて宣言してくださる。それは、なすすべもなく泣いている人にとって、大きな慰め、喜びであるはすです。輝くイエスさまのみ顔を仰ぎ見て、イエスさまのお声で直接「あなたがたは幸い」と言ってもらった人たちが、確かにここにいたのです。うらやましい気もいたします。「大丈夫。あなたがたは幸いだ。何があろうと、天には大きな報いがある」。そう言われて、それまで泣いていた人たちが顔を輝かせました。

■顔を輝かせて

 「今、泣いている人は幸いである」というこの言葉を読むと、どうしても、ある葬儀のことをお話ししなければなりません。

 五十四歳でした。クリスチャンであった夫を亡くしてから女手ひとつで育ててきた三人の娘を残して、亡くなられました。亡くなる前、その方が病院で洗礼を受けられました。

 一番下は中学生という三姉妹でした。葬儀の時、ボロボロ泣いていました。そんな涙を前にして、慰めの言葉もありません。しかしそんなときにこそ、「泣いているあなたがたは幸い。天には大きな報いがある」という福音に、わたしたちは救われます。何よりも亡くなられた彼女自身が、その福音に、その信仰に救われました。彼女が真っ暗闇だった時、病室でこの福音の言葉を伝えると彼女の顔がパッと輝き、一週間後に洗礼を受けられました。

 死を意識している人を前にして、死の話をすることは勇気のいることです。けれどわたしは、「死は誕生であり、天には大きな報いがある」、そう信じている者としてお話しをいたしました。「わたしたちは皆、神様から生まれて、神様によって生かされ、そうして天に生まれ出ていって、神様と共に永遠に働けるのです。洗礼はその先取りの誕生なのです」と。彼女の顔がパッと輝き、その輝きは一週間後の洗礼式の時に最高潮に達しました。三人の娘たちが洗礼の証人となってくれました。葬儀のご挨拶で、長女がそのときの母親の輝きをはっきりと語りました。「洗礼式のあの日の、お母さんのあんな明るい顔は見たことがなかった」。わたしも目の前で見ました。

 地では泣いても天には大きな報いがあるし、何とその報いを地において先取りすらできるという、洗礼の、福音の、祝福の輝き。顔から溢れる天上の輝きです。前夜式で、詩編三四篇によって賛美する讃美歌一二七番、「み恵みあふれる」を歌いました。「…主に求める時、主は答えられる、慰めをもって。…主を仰ぐ人は、苦難の中にも、喜びを歌う。…みもとに身を寄せ、畏れる人には、欠けるものはない」。そう歌われる、美しい詩編賛美です。

 その輝きは抽象的なものではありません。現実の輝きです。三人の娘たちも生涯、その輝きを忘れないでしょう。そしてその娘たちが、今度は顔を輝かせる番になってくれることと今も信じています。末の娘は葬儀で、泣きながら、同級生たちが歌う賛美、祈る祈りに耳を傾けていました。彼女は美しく、輝いていました。そんな彼女の輝きを、同級生もしっかりと見ていました。

「天には大きな報いがある」なんて言われても、今お腹いっぱいで、満ち足り、富んでいる人たちにはあまり意味のない福音なのかもしれません。けれども、もうすぐ自分はいのちを落とす、愛する三人の娘を残して旅立たなければならない、そんな人にとっては、まことの救い、まことの福音です。

■愛は見える

 わたしは、彼女の病室で、わたしの大切なひとりの友人の話をしたことがあります。彼女はすごくうれしかったようで、娘たちに後で「牧師先生が、ご自分の親友の話をしてくださったのよ」と、とても喜んでおられたと聞きました。

 その日彼女は、「娘三人を残して逝くことがくやしい」と言って泣いたのです。その気持ちが本当によくわかりますから、わたしももらい泣きしながら友人の話をしました。わたしの友も「くやしい」と言って死んだからです。その友が亡くなる少し前のことです、彼は「くやしい」と言って泣きました。わたしなどよりも深い信仰に生きていた人ですから、自分の死を、もはや避けることのできない死を受け入れていました。しかし、彼には幼いひとり息子がいました。その愛する子を抱きしめることも、その成長を見届けることもできない。「くやしい」と言って泣くのは当然です。そのときわたしは、「この子が成長して、大きくなって、ちゃんと働いて、これからも生きていけるとしたら、それは君のおかげだよ。君の姿が支え、励ましとなって、君の分までこの子はくじけずにやっていくことができるはずだよ」と言いました。「君は死んでも、この子の中に永遠に生きているよ」、そう言いたかったのです。彼はうれしかったようです。あれから十五年が経ちました。本当に彼はその息子の中で、今も生きています。彼の息子は、死んですぐの時より、そのことをますます強く感じるようになった、と言ってくれています。

 わたしたちも辛くて泣くこともあるけれど、天の父は「おまえは幸い」と言ってくださるし、恐れを抱く時には「天には大きな報いがある」と励ましてくださいます。天の父が生きておられること、そして天に召された愛する人が生きていることは、ここにいる皆さんのお姿を見ればわかります。

 愛は見える。わたしが彼女に話したのは、そのことでした。

 「あなたは死ぬけれども、これから娘のために働ける。娘のうちに、さらにはこの世界のために、永遠に生きるのだ」という福音を伝えたかったのです。彼女はそれを信じ、救われました。だからわたしは葬儀の時、はっきりと三人の姉妹に伝えました。「お母さんは生きています。あなたたちのために、今でも働いています」と。

 信仰の世界は目に見えない世界ではありません。彼女は娘たちの前で顔を輝かせました。それは永遠に消すことのできない光です。その輝きは、生涯、娘たちを支えますし、やがてその娘たちが輝くのもまた目で見ることができます。そうして、すべての見えるものの向こうに、神様の愛が見えるのです。

 「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。

 神の国はあなたがたのものである。

 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。

 飽き足りるようになるからである。

 今泣いている人たちは、さいわいだ。

 笑うようになるからである」

 この言葉は、愛の主から与えられている祝福そのものです。

■自由と祝福を生きるために

 しかしこの後、思いがけない言葉が続きます。きびしい言葉です。

 「富んでいるあなたがたは、不幸である。

 あなたがたはもう慰めを受けているからである。

 今満腹している人たち、あなたがたは不幸だ。

 飢えるようになるからである。

 今笑っている人たちは、不幸である。

 悲しみに泣くようになるからである」

 イエスさまははっきりと、わざわいについて、裁きについて語っておられます。そしてこれは、豊かな社会に生きているわたしたちに向けてイエスさまは語っておられる言葉だ、そう思えてなりません。

 ある映画を思い出します。オードリー・ヘップバーン主演の『尼僧物語』です。医者の娘ガブリエルはベルギーの修道院に入って、尼、尼僧になることを決心します。尼僧になるための厳しい訓練の中、彼女は医学を学んで優秀な成績を修め、ガブリエルという世俗の名前を捨てて、この福音書のルカと同じシスター・ルークという修道女の名を与えられます。最初はブリュッセル近郊の精神病院に、次には念願だったアフリカのコンゴヘと派遣されましたが、しかしシスターとなったルークもひとりの女性です。次第に医者としての使命と修道院の戒律との狭間で苦しむようになります。やがてベルギー国境近くの病院に転勤。そこで働くことになったころ、第二次世界大戦が始まり、父親がドイツ軍の銃弾に倒れたことを知らされます。尼僧という立場から、彼女はあくまで戦争には中立の立場で働くことが求められます。しかし、病院へ運ばれてきたドイツ人をどうしても嫌ってしまう自分が許せません。何でもない素振りをして周りをだませても、神様と自分はだませない…彼女は葛藤を繰り返します。

 「もし完全になりたいのなら、行ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」とイエスさまは教えられました。また「天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」とも言われました。清貧と独身の勧めです。聖書のイエスさまはなぜ、繰返しそのような厳しい教えを説かれたのでしょうか。

 人には、神様から与えられた二つの大切なものがあります。それは家族と財産です。そしてこの二つは、互いに切っても切り離すことのできない関係にあります。結婚すれば、男も女も互いに義務を負い、子どものために生計も立て、財産を得なければなりません。それはそれで、人としての大切な道で、教会も男と女が結ばれ家族を形づくることを神様の御心として尊重します。家族も財産も神様が与えてくださるものだからです。

 しかしわたしたちは、次第に家族も財産も神様に属していることを忘れ去り、この世的な物事だけに気をとられ、それに縛られるようになってしまいます。イエスさまが財産を持たず貧しくありなさいと教えられたのは、人間を縛るこうした思いからわたしたちを自由にし、神の国の理想へ、福音の真理へと魂を高めるためでした。このためにイエスさまご自身も、一切のものを捨て、家族の絆からも解き放たれて、自由に各地を巡回し、人々に神の国の福音を告げ知らせたのでした。

 ガブリエルが選んだ修道女の生活は、確かにこの世の自由を犠牲にすることでした。しかし、矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、別の意味からすれば、それは自由を取り戻すことでもあったのです。修道院の世界ではこの世の自由―財産を所有し、結婚生活を楽しみ、自分の思いのままに生きることを犠牲にします。しかしそれは、逆説的には、神様の子どもとしての自由を取り戻すことでもあったのです。

 イエスさまは、豊かになること、満ち足りること、笑うようになることがいけないことだと言われているのではありません。貧しい人が、飢えている人が、泣いている人が、豊かになり、満ち足り、笑うようになると約束して、祝福をしてくださっています。問題なのは、わたしたちが豊かになり、満ち足りるようになり、笑みにあふれるようになると、それを自分の力と努力で得たもの、自分だけのものだと思うようになることです。自分の力で得た自分だけのものだと思うようになると、もっと豊かになりたい、もっと満ち足りたい、もっと笑ってばかりでいたい、と思うようになります。そして結局の所、満ち足りることなく、ただ自分のものを失いたくないという恐れと疑いに支配され、笑みを忘れ、人の持っているものまでも奪い取ろうとします。

 イエスさまは、わたしたちに与えられている神様からの福音に、祝福に、恵みの約束に目を向けることを望んでおられるのです。手にしているすべてのものは神様からの恵みです。そしてその恵みは尽きることがありません。そのことを信頼して、安心して、与えられている恵みを隣人と共に分かち合って生きていくことの幸いを、イエスさまは教えてくださっているのです。

 涙は必ず笑みに変えられるのです。ですから、いつも感謝をしていましょう。