小倉日明教会

『火と分裂と平和』

ルカによる福音書 12章 49〜53節

2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日礼拝

ルカによる福音書 12章 49〜53節

『火と分裂と平和』

【奨励】 川辺 正直 役員

地上に火を投ずるため

 おはようございます。本日の聖書の箇所は、わたしたちにとってかなり難解な箇所だと言うことができるのではないでしょうか。「地上に火を投ずる」、「むしろ分裂だ」というような主イエスの言葉に出会うと、私たちは戸惑ってしまうのではないでしょうか。主イエスは地上に平和をもたらすために来てくださったはずではないか、と思うからです。実際、主イエスの誕生物語において、羊飼いたちに救い主の誕生を告げた主の天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカによる福音書 2章 14節)と神様を讃美しました。私たちは、救い主イエス・キリストは、地に平和をもたらすために来てくださった、誕生してくださったはずだと思うのです。それ故、私たちの戸惑いは大きくなります。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。ほかならぬ私たちが主イエスは「地上に平和をもたらすために来た」と思っています。その私たちに、主イエスは「そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言われるのです。

 しかし、キリスト者の数が、1%に満たない、日本という異教社会の中で、私たちは一致よりも、分裂を意識せざるを得ないということの方が、むしろ、多いのではないでしょうか?クリスチャン・ホームで育ったのでなければ、信仰を持ち、洗礼を受けたとしても、微妙な空気感を感じたという経験を持っておられる方も多いのではないかと思います。また、親しい人に、「教会、そんなところに行っていて、大丈夫か?」というようなことを言われた経験をお持ちの方も多いのではないかと思います。

 そう考えますと、本日の聖書の箇所は、現代の日本に生きる私たちにとって、決して無関係な話ではないと思います。では、ユダヤ人の場合は、どうでしょうか。キリスト者に対する否定的な感情というのは、日本人以上に激しいのです。本日の聖書の箇所が、私たちにとって、難解なのは、主イエスがメシアであると告白することに対する、否定的な激しい感情がなかなか分からないということがあるのだと思います。本日の聖書の箇所は、短い箇所ですので、丁寧に読んでゆきたいと思います。

弟子たちへの教え

 ルカによる福音書9章51節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅という大きな枠組みの中で、様々な機会を捉えて、拒否という現実の中で、弟子としていかに生きるべきかについて、主イエスが弟子たちに語った教えが語られています。前回は、「人の子の来臨」に備える重要性を教える4つのたとえ話について、学びました。そして、本日の聖書の箇所では、主イエスは弟子たちに、誤解されることを恐れるな、拒否されることを恐れるな、仲間はずれにされることを恐れるな、ということを語られるのです。

    

 主イエスが投ずる火

 さて、本日の聖書の箇所の49節には、『「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。』とあります。主イエスは、地上に火を投ずるために来たと、おっしゃられるのです。こういう意味でしょうか。今日の礼拝の中に、誰かが火を投げ込んだら、どうなりますでしょうか。私たちは、混乱して、大騒ぎで、逃げ出すことになるかと思います。

 なぜ、主イエスはこのようなことを、おっしゃられたのでしょうか?主イエスは、公生涯の最初の時期では、地に平和をもたらすために活動されました。例えば、マタイによる福音書、5章、9節で、主イエスは、『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。』とおっしゃられています。また、使徒言行録10章36〜37節では、『神がイエス・キリストによって―この方こそ、すべての人の主です―平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。』とあります。『神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせて、』とありますので、神様は主イエス・キリストによって、『平和を告げ知らせて、』とありますので、主イエスが来られた目的は、平和を作り上げると考えることは、間違っていないのです。しかし、主イエスの公生涯を見ておりますと、公生涯の後半に入った頃から、地に火を投ずるようなものだと、言い始めるのです。自分の働きは、平和をもたらすために来たのだけれども、地に火を投げ込むような結果が始まっているとおっしゃっておられるのです。地に火を投げ込むというのは、分裂が起こるという意味なのです。あるいは、争いが起こるという意味なのです。あるいは、迫害が起こるということです。これが、地に火を投げ込むということの意味です。

 最初に、信仰を持ち、洗礼を受けたとしても、微妙な疎外感を感じたということや、あるいは、親しい人に、「教会、そんなところに行っていて、大丈夫か?」というようなことを言われたりした経験をお持ちではないかということをお話しましたが、具体的な激しい争いや、分裂や、迫害があったでしょうか?なかなか、そこまでのことはないかと思います。しかし、ユダヤ人の場合には、そうではないのです。

 主イエスは、49節の後半で、『その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。』とおっしゃられています。主イエスは、真の平和が来る前に、まず裁きが来なければならないということをご存知でした。特に、ユダヤ人たちが主イエスを救い主として受け入れないで、拒否して以降は、彼らの不信仰が裁かれ、その後に真の平和が来るという教えになって行くのです。従って、今日の聖書の箇所の文脈では、神様の裁きのこと、特に終末的な裁きのことを指しています。『火(プル)』は罪を清める働きをします。ですから、主イエスが『その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。』とおっしゃられているのは、罪を清める裁きの火が燃えていたら、真の平和が間もなく来るからです。しかし、主イエスがおっしゃられているのは、まだその火は燃えていないということなのです。なぜかと言いますと、メシアがまだ十字架に架けられていないからです。ですから、主イエスが十字架に架かるまでは、その火が炎のように燃え上がることはないのです。そこで、次に主イエスは、50節にありますように、『しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。』とおっしゃられるのです。その火がまだ燃えていないのはなぜか、それは主イエスが受けねばならない洗礼があり、それが終わっていないからだと言うのです。十字架に架けられて死ぬということが起こるまでは、私はどんなに苦しむだろうかと、主イエスはおっしゃったのです。ここでおっしゃられているバプテスマは、火によるバプテスマ(洗礼)なのです。もっと具体的に言いますと、主イエスが私たち罪人の身代わりとして受ける裁き、十字架での死のことを言っているのです。主イエスは火のバプテスマを受ける、それは罪人として裁かれることですが、『それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。』とおっしゃっておられます。この言葉を語っている時の主イエスは、お腹の底から、言葉を絞り出すようにして、語られたことと思います。

 主イエスが十字架に架かられる前に、ゲッセマネの園での、苦悶の祈りがありました。今日の聖書の箇所での主イエスのこの言葉は、ゲッセマネの園での苦悶の祈りを予表していると思います。今日の聖書の箇所で語っている主イエスの苦しみがピークになるのが、ゲッセマネの園での主イエスの苦悶の祈りなのです。それでは、ゲッセマネの園で、何が起きたのかということをここで見てみたいと思います。ルカによる福音書22章40〜46節には、『いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」』と記されています。

 主イエスは、『それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。』とおっしゃられました。主イエスは、ゲッセマネの苦悶の祈りの予表を味わっておられるのです。しかし、弟子たちは誰一人、その苦しみを理解する人はいなかったのです。主イエスは、ここで弟子たちが理解していない内容を予言的に語っておられるのです。ゲッセマネの園で、私たち罪人の身代わりとして、十字架に架かって死なれる決心の祈りをして下さったのです。先程、主イエスは『しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。』ということを語られました。それを、主イエスの受ける火のバプテスマと言いましたが、ゲッセマネの園の祈りの中では、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」とありますように、『この杯』という言葉が使われています。従って、洗礼(バプテスマ)は、火のバプテスマであり、『この杯』なのです。これらは、全て神様の裁きを意味する言葉なのです。主イエスは、神様の裁きを一身に受け、罪なきお方が罪とされ、父と子の関係が断ち切られるという苦しみを味わい尽くしたのです。それ故、福音記者ルカは、『汗が血の滴るように地面に落ちた。』と書き記しているのです。主イエスが、この苦悶の祈りを捧げている時に、汗が血の滴るように地面に落ちたのです。

 私たちは、人生を歩んでゆく時に、様々な苦難に遭遇し、祈りを捧げます。苦難の祈りの中で、絞り出すような汗が落ちた。それが、真っ赤な汗であったという体験をお持ちの方は、おそらくおられないかと思います。主イエスの場合には、あまりの衝撃のために、血が混じった、赤い汗をここで流したのです。福音記者ルカは、医者でありましたので、汗の色という点に注目して、書き記しているのです。主イエスは、弟子たちにこの十字架の苦しみとゲッセマネの園での苦悶の祈りを、ここで予言的に語っておられるのです。

主イエスがもたらす分裂

 次に、本日の聖書の箇所の51節には、『あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。』と記されています。主イエスは、弟子たちの期待を粉々にすることを語っておられるのです。真の平和が来る前には、分裂が起こらなければならないとおっしゃられるのです。主イエスの世界観は、火による清めの過程を経なければ、平和を期待することはできないというものです。私たちキリスト者は、気をつけていないと、信仰という錦の御旗の下で、現実を無視することが、立派な振る舞いであるかのような錯覚に陥ることがあるかと思います。それは、どういうことかと言いますと、信仰について考える時に、主イエス・キリストを信じたら問題が全て解決するかのように考えてしまうということがあるのだということです。

 私たちが、主イエス・キリストを信じて、一番何が変わるのかと言いますと、神様との平和を持つということです。神様と自分との関係が根本的に変わるということです。しかし、神様と自分との関係がはっきりと築かれたならば、神様は私たちをご自分の子として扱うならば、訓練の過程に入って行くということがあるのです。そうすると、人によっては、キリスト者になってから、むしろこの世の問題が増えるということがあるのだということです。それは、クリスチャンでなかったときには、悩まなかったようなことや、苦労しなかったことで、悩んだり、苦労するようになったりするのだということです。なぜかと言いますと、それは神様の訓練の期間に、私たちが入っているからなのだということなのです。祝福を受けるのと同時に、訓練も受けることとなるのです。主イエスの弟子であることは、信仰における戦いや神様の火による清めの過程を経なければ、真の霊的な成長や真の平和というのは、来ないのです。祈っても、神様は祈りを聞いてくれない、なぜ神様は私の祈りを聞いてくれないのか、もう信じても意味がないのではなか、という話を聞かれたことがある方は多いのではないでしょうか。

 しかし、私たちは、主イエスが全世界の人々の救いという理想を追い求めながら、主イエスに対する人々の拒絶という現実に向き合っておられるという事実に、目を向ける必要があると思います。神様は、私たちを愛する子として扱っておられます。それ故、通らなければならない、火の過程があるということを受け止めなくてはならないと思います。主イエスは、ここで非常に厳しいことをおっしゃっておられます。『あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。』、このように語っておられます。この言葉の中は、主イエスの愛の言葉だと言うことができると思います。それはなぜかと言いますと、主イエスは弟子たちに愛の警告を伝えているのです。主イエスの奉仕は、結果的に分裂を招くのです。そうであるが故に、主イエスの働きを継承してゆく弟子たちも、結果的には分裂を招くのです。主イエスの価値観は、この世の価値観とは革命的に異なっているのです。革命的に異なっているために、2つのものがぶつかりあった時に、そこに分裂が起こるのは当然のことなのです。主イエスは当然のことを教え、愛の警告を伝えておられるのです。それ故、弟子たちに消え去るものに固執するのではなく、主イエスと同じ価値観、世界観に立ちなさいと勧めておられるのです。主イエスは弟子たちに警告を伝えて、将来の迫害に対して、備えさせているのです。主イエスは、これまでに語って来られた、一時的なもので、やがて消え去るものに固執する生き方が愚かであるという教えの延長線上で、このことを語っておられるのです。世界観と世界観のぶつかり合いがあるが故に、分裂が起こるのです。

分裂と平和

 本日の聖書の箇所の52〜53節には、『今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」』と記されています。このことを主イエスは、弟子たちに語っているのですが、弟子たちは、これは一体どういうこと、と驚いたことと思います。それは、弟子たちはユダヤ人であったわけですが、ユダヤ人ほど家族の絆を重視する民族はないからです。ユダヤ人の共同体の強さは、家族関係の絆の強さという力が源泉になっているのです。その家族の絆を重視するユダヤ人に向かって、主イエスはこの驚くべき言葉を発したのです。主イエスに従おうとすると、家族が分裂すると言うのです。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、分裂すると言うのです。ユダヤ人にとっては、驚きの言葉なのです。

 なぜ、このような結果を招くことになるのでしょうか。それは、主イエスの招きには、応答が要求されるからです。そして、主イエスの招きに対しては、中立的な態度を取ることはできないのです。それ故、主イエスは人々を、信じる人と拒絶する人とに、二つに分けて行くことになるのです。主イエスは普遍的な人類愛を教えるために来られたということがよく言われますが、そうではないということが、2つに分裂するということから分かります。普遍的な人類愛という考え方は、主イエスの現実認識の中にはないのです。主イエスの語る厳しいプロセスを通って、真の平和が来た時に、真の人類愛が実現すると言っているのです。そこに達するまでは、火が燃えていることを、どれほど願っているだろうかという、主イエスの言葉が真実であるということが、分かってくるのではないかと思います。

 ユダヤ人が主イエスを信じた時に、家族が分裂するというのは、ユダヤ人にとっては、現代にあっても深刻な問題なのです。主イエスの時代と現代との間で、状況はあまり変わってはいないのです。あるユダヤ人のキリスト教の宣教師は、中学生の時に、旧約聖書が教える預言から、主イエスがメシアでなければならないと、大変な確信を持って、主イエスをイスラエルのメシアとして受け入れたのです。彼の祖父は正統派のユダヤ教のラビであったのです。そして、彼のお父さんは第二次世界大戦があったので、ラビにはならなかったのですが、家系的には非常に学者肌で、信仰的な家庭であったのです。彼が主イエスを信じた時に、そのような正統派のユダヤ教の家庭に何が起きたのでしょうか?当時、一家はニューヨークで暮らしていましたが、お父さんはニューヨークからカルフォルニアに移住したのです。なぜかと言いますと、自分の息子が主イエスを信じたとなったら、お父さんはニューヨークのユダヤ人コミュニティでもう受け入れられなくなるのです。仕事もなくなります。ですから、誰も知らないカルフォルニアに移住したのです。そして、彼が高校生になると、お父さんは彼とは一切、口をきかなくなるのです。お父さんが彼に何か伝えたいことがあると、ノートに書いて、お母さん経由で彼に届くのです。父親と息子が分裂しているのです。そして、高校を卒業する直前に、卒業式が終わったら、この家から出ていくように伝えられるのです。そう言われて、彼は出てゆくのです。どうしてかと言うと、主イエスに対する応答に、中立はないからです。彼は、主イエスに従うことを選んだのです。それ以降の話は、神様が彼を守り、導いた歴史なのです。彼は、勘当され、家から追放されたのです。主イエスが語っている通りのことが起きたのです。

 私たちは、52〜53節で、主イエスがありえないことを語っているように思うかも知れませんが、この主イエスの言葉は、ユダヤ人が主イエスをメシアとして信じた子を勘当し、追い出した後、その子のお葬式を上げるケースが、少なからずあるということを知れば、主イエスが現実の問題と真実に向き合って、このことを語っているということが分かるかと思います。クリスチャンになっても、どうしてこんな目に遭わなくてはならないのだろうかという問いに、主イエスはこの言葉で答えておられるのです。ここに私たちの問いに対する答えがあるのです。それ故、主イエスを信じない人からの誤解を恐れない、分裂を恐れない、迫害を恐れない、ということを主イエスは私たちに勧めておられるのです。それはなぜか。それは、主イエスに対する応答に、中立はないからです。主イエス・キリストに従う弟子には、他の人からの誤解、中傷、迫害が最初から、想定されているのです。それが、キリスト者としての生き方だよと、主イエスはおっしゃっておられるのです。あなたは平和で、平穏な人生を歩みたいと考えていましたかと、主イエスは問うておられるのです。主イエスは私たちの人生に、火を投げ入れるために来たんだよ、そのプロセスを通過して、初めて本当の平和が訪れるのだよと、教えておられるのです。

分裂の世界の中で

 主イエスが私たちの内に投じる神様の火は、人間の火、私たちの火と真っ向から対立するものです。神様の火を投じられることによって、私たちは、自分の中にある火、自分が努力して燃え上がらせようとする火、人間の理想の火であったり、あるいは信仰という火であっても、それを自分で燃え立たせて歩もうとすることを否定されるのです。そのように生きている生まれつきの古い自分が神様からの火によって焼き滅ぼされるのです。

 つまり、自分で燃え立たせる火ではなく、主イエスが私たちの内に投じて下さる神様の火によって生きよ、ということです。自分の持っているもの、自分の努力、自分の熱心、自分の信仰、自分の掲げる理想の火によって歩みたいという、古い私たちの思いが、神様の火と分裂し、対立していくのです。そのような分裂と対立が、私たち自身の中に起るし、またこの神様の火によって歩もうとする時に、私たちと周囲の人々との間にも起ってきます。主イエスが投ずる火はそういう意味で、私たちの間に平和ではなく、分裂と対立を引き起こすのです。

 この世の火、人間の火どうしの対立の炎がそこらじゅうに燃え上がり、私たちから平和を奪い、恐れさせ、不安にしています。しかしだからこそ私たちは、主イエスが投じて下さる火を、私たちを焼き滅ぼすと同時に新しく生かして下さる火を祈り求め、この火のもとにしっかりと留まり、この火によって新しくされ、主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって示して下さった愛に生きる者となりたいと思います。

 今、私たちは対立が新たな分裂や分断を生み出して行くのを目の当たりにしています。ウクライナにおける戦争もそうですし、直近のイスラエルでのテロによる惨劇もそうですが、国際社会に新たな分断がもたらされているのです。

 私たちは、主イエスが投じて下さる神様の火を受け、その火によって燃やされていくことによって、私たちは、今日の招詞でお読みしました詩編122篇のように、『エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」 わたしは願おう、わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」』と分裂と対立を越えて、主と共に祈って行きたいと思います。 

 それでは、お祈り致します。