小倉日明教会

『生かされる喜び』

ルカによる福音書 13章 1〜9節

2022年10月23日 降誕前第9主日礼拝

ルカによる福音書 13章 1〜9節

『生かされる喜び』

【説教】 沖村 裕史 牧師

■悲劇

 冒頭、ガリラヤからやって来た巡礼者の何人かがエルサレム神殿の中で、ユダヤ総督ピラトの兵士たちによって殺され、その血が彼らの献げようとしていた犠牲(いけにえ)の動物の血に混じってしまうという事件が、イエスさまに報告されています。それが具体的に、どのような事件であったのか明らかではありませんが、歴史家ヨセフスによれば、ピラトのユダヤ人弾圧による流血騒ぎは決して珍しいことではなかったようです。ピラトの部隊がゲリジム山に登るサマリア人たちの指導者たちを殺害したとか、ピラトがエルサレム神殿にローマ皇帝カエサルの像を持ち込んだためにカイサリアで暴動と抗議行動が起こったとか、さらには水道を引くために神殿宝物庫の金を勝手に使ったとか…そのたびに多くの血が流されました。ここに報告されている事件も、当時、至る所で引き起こされていた権力よる暴力が生み起こした悲劇のひとつだったのでしょう。

 続く「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」についても、その詳細は分かりませんが、塔の崩壊によって起こった突然の事故だったのでしょう。シロアムはエルサレムの水源池のひとつでしたから、そこから水道を引くための土木工事に関係があったのかもしれません。あるいは、その水道を守るための砦を築いている間に、何かの原因で塔が倒れたのかもしれません。

 いずれにせよ、この二つの出来事は思いもよらぬ悲劇です。もちろん、時の権力者によってたくさんの人のいのちが奪われるということは、全く予期できないものではなかったかもしれません。それでも、それが避けようのない、理不尽なものであったことは確かです。そして突然塔が倒れ、たまたまその下にいたためにいのちを失うことになった「十八人」は、紛れもなく不慮の事故による犠牲者です。

 災難に遭ったのは不幸なこと、不運だったと言うほかないのかもしれません。しかし当事者にとっては深刻なことです。愛する人に死なれた者にとっても受け入れがたい悲しみです。それを周りで見守る者たちの間に、なぜこんな不幸な事件や事故が起こるのか、という問いが起こるのも当然のことです。それが「ちょうどその時」、この事件を報告した人たちの心の内にもあったのでしょう。「イエスさま、ここに神の裁きを見てよいのでしょうか」、そう尋ねているのです。

■因果応報

 ところが、この問いに対してイエスさまは、「そのガリラヤ人たちやシロアムで亡くなった人たちが、そんな災難に遭ったのは、彼らが他のどの人たちよりも罪深い者だったからだと思うのか」と逆に問い返されます。

 こうしたことが起こると、古今東西、わたしたちがすぐ考えるのは因果応報です。あんなひどい目に遭うのは、それに見合う、それだけの罪を、悪いことをしているからにちがいない、と。ただ、現代を生きるわたしたちは、こういう因果応報の考え方から自由にならないといけない、合理的に、論理的に考えるようになりなさい、と教えられます。自然の災害に遭ってしまったのは、なぜか。この人が、あるいはご先祖様が何か特別に悪いことをしたからか。そのような因果関係はない。事故は何らかの合理的で、論理的な因果関係で起こるべくして起こったのだ。それがこの人に起こったのは、たまたまのこと、偶然が重なっただけのことだ、と。

 しかしそのように考え、納得しようとしても、それで事は収まりません。少なくともイエスさまはここで、そのような合理的な説明を試みてはおられません。イエスさまは今、「あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われます。「イエスさまは因果応報という考え方を否定しておられないのではないか」と言う人がいます。確かに、そう言えるかもしれません。「悔い改めなければ滅びる」と、二度も繰り返し言われます。

 どうも、ここでイエスさまが語っておられるのは、わたしたちが単純に思い描くような因果応報論とは、まるで違っているようです。わたしたちが考える因果応報とは、機械的な運命の裁きです。自然の因果律、原因と結果、信賞必罰と同じようなものです。ここに、こんな目に遭っている人がいる。その原因を辿っていくと、ここにこんな悪いことがある。あいつの責任だ、こいつのミスだ、それが原因で起こる災いである。そう説明しようとします。

 しかしそこに、イエスさまが求めておられるような「悔い改め」は起こりえません。仮に「悔い改め」という言葉を用いるとしても、それは、ひどい目に遭わないように、できるだけ善行を積むことにしよう、と考えるのが精々でしょう。あるいは、よくは分からないが、何かというとすぐに腹をたてる神々のご機嫌を取るためにどうしたらよいか、と考えるかもしれません。そして何かの因縁であるなら、それを取り除くために、霊力があると自称する宗教家を頼ります。そのために金を積みます。しかし金で済むのなら、「心を変える」必要はありません。イエスさまはそのようなすべての考えを退けられます。人の弱みにつけ込んで金儲けをするようなことは、神様のみ心からは遥かに遠いものです。

 よく分からない、不可解な、恐ろしいものの支配を恐れて、ありとあらゆる手だてを尽くして、災害を招かないようにと励む。その手段のひとつとして、悔い改めなさいと言われたのではありません。全く異なることをイエスさまは求めておられます。

■悔い改め

 では、イエスさまの言う「悔い改め」とは何でしょうか。そのことを教えるために、イエスさまはたとえを語られます。六節以下です。

 「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは、一年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』」。

 イザヤ書五章一節以下に、「ぶどう畑の歌」と小見出しが付けられた、これとよく似た話があります。しかしそれは、ぶどう園の「ぶどう」の話。それがここでは、どういうわけか、ぶどう園に植えられた「いちじくの木」の話になっています。ぶどうを上手に育てる方法のひとつに、いちじくの木を植えるという方法があったからだ、と説明されることがあります。あるいは、ここに実の実らないいちじくの木を置いているのは、エルサレムの都をこれになぞらえてのことだ、と解釈されることもあります。そうかもしれません。

 しかし、こう考えることもできるのではないでしょうか。

 周りは皆、ぶどうの木です。その中に自分が独り、ぽつんと立っています。周りの人は皆、言います。どうも場違いなところに場違いな人がいる。場違いな生活をしている。何ともみっともない。ぶどうの実は、ふさふさと美しい。いちじくの木は、それとはまるで違う。ぶどうの実の方が遥かに美味しいのに、なぜ、おまえはそんなところに立っているのか。そう言われて、身のすくむような思いがします。そのうえ、三年も実を結ぶことができません。そこにぶどう園の主人がやって来て、言います。せっかく恩恵を与え、場所を与えてやっているのに、三年経っても何も実らない。周りのぶどうはどんどん実を結ぶのに、このいちじくの木だけは、なぜ、実を結ばないのか。場所をふさぐだけだから、切り倒せ。因果応報、原因と結果、信賞必罰で言えば、当然のことです。

 しかしそのとき、土地を無駄にふさがせておくだけではないかと言われて、言いわけもできないように立ちすくんでいるところで、このいちじくの木のために、心を尽くして栽培している園丁が答えます。

 「ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから」

 この園丁は、自分は精一杯このいちじくのためにも働いているのに、無駄働きでしかないからもう面倒はみない、と放り出したりはしません。これからはお前が責任を取れ、と見捨てることもありません。そうではなく、もう一年待ってください、自分が改めて努力します、これまでのわたしの世話が不十分であったのかもしれません、自分がその周りを掘って肥料をやってみます、だから待ってください、イエスさまは園丁にそう語らせています。

 もちろんこの園丁はイエスさまご自身、ぶどう園の主人は神様です。

 イエスさまは「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われました。その言葉に続いて、このたとえを語られているのです。この繋(つな)がりがお分かりになるでしょうか。

 悔い改めなければ、皆、同じように滅びる。一人ひとり、よく考えてみなさい。怖い顔をして、そう言われたのではありません。「悔い改めなければ」と言われた時に、立ち竦(すく)まざるを得ないようなわたしたちであることを、イエスさまは百も承知です。

 これからも、自然の災害には遭わないかもしれません。泰平無事に、八〇年、九〇年、生きるかもしれません。お金もどんどん儲かるかもしれません。しかしその中で、悔い改めの心に生きることがなければ、神様の方に心の向きを変えることがなければ、神様から遠ざかり続け、真のいのちに生きることはできません。

 問題はそこです。そこに立ち現れてくるわたしたちの滅びが、どうしてわたしたちを滅び尽くすことがなくて済むのでしょうか。それは、イエスさまがわたしたちの弁護をし続けてくださるからです。そしてイエスさまが立ち塞がって、「この木を守る」と言われ、神様もそれを赦してくださるからです。

■共に

 わたしたちは皆、程度の差こそあれ、様々な問題に振り回されて生きています。健康の問題、家庭の問題、職業の問題、能力の問題、性格の問題、そしてお金の問題など、どうしてこうなんだろう、なんという不公平なんだろう、他の人はそうでもないのに、どうしてわたしだけがこうなんだろう…どうしてどうしてと問うても、答えの出せない運命的なことがたくさんあります。そして、どうあがいてもしようがなく、解決することもできず、さりとて投げ出すこともできず、与えられた限界の中で生きています。

 宿命と言ったらよいのか、運命と言ったらよいのか、いずれにしても人間の手で片付けることを許さない、神の領域ともいうべきものに、わたしたちは限界づけられ、支配されています。これは何も、悲観的なことを言っているのではありません。丁寧に、ありのままに見た人生の普通の事実を言っているのです。それは、特別の人にだけ起こることではありません。

 実のならないいちじくの木のたとえで語られているように、不可解な人生のただ中に、イエスさまが神様の裁きの前に立ち塞がって、今もここに共にいてくださるというのなら、悔い改めとは「生かされていることへの感謝」と言い換えることもできるのではないでしょうか。なぜなら、どんなに理不尽で、不可解な状況でも、それを拒まずに受け容れるところで、共におられる神様に、イエスさまに出会えるのです。だから、「生かされている」と、いつでもどこでも感謝をもって言えるのは、ごく自然なことです。そしてそう言えるということこそ、イエス・キリストが与えてくださる救いに外なりません。

 「生かされている」と言うと、それは諦めではないか、居直りではないか、やせ我慢ではないか、無気力ではないか、と言われるかも知れません。しかし決してそうではありません。主が共におられる、主に生かされているとは、取り乱して迷う者への恵みです。この恵みは、取り乱さない者には分かりません。取り乱しているところで出会い、支えてくださるお方、それが「共におられる」神様、イエスさまです。

 しかも、その「共に」には限りがありません。ここまでは共にいるが、これ以上はもう共にいるわけにはいかない、そんな限度つきの「共に」ではありません。それは限度のない「共に」です。ですから、「共におられる」神様、イエスさまに対して、人は、そのまま、ありのまま取り乱したままでよいのです。

 このことは、取り乱すこともなく、キチンとしっかり信仰を生きていると思っている人には、分かりません。そういう人には、「神」は分かるかも知れませんが、「共におられる」神は分かりません。そして、イエスさまが語られる悔い改めとは、神様はただ「神」なのではなくて、「共におられる」神であり、どんな時どんな状態でも、それでも「共におられる」神、それが神様なのだ、ということを知ることなのです。 そんな神様の恵みが、わたしたち一人ひとりに、今、すでに注がれているのです。そこに立ち帰りましょう。その時なお、分からないことがあれば、神様のみ胸を打ち叩いて叫んだらよいのです。神様は答えてくださいます。呼び戻してくださいます。神様は待ち続け、共にいてくださる神です。この共にいて、待ち続けてくださる神様の恵みの中で、わたしたちもまた、悔い改める、柔らかな心に生きることをこそ願いたいものです。