小倉日明教会

『病と死を越える主イエス』

ルカによる福音書 8章 40〜56節

2022年11月6日 降誕前第7主日礼拝

ルカによる福音書 8章 40〜56節

『病と死を越える主イエス』

【奨励】 川辺 正直 役員

お笑い芸人、ジミー大西

 おはようございます。お笑い芸人にジミー大西さんという方がいます。ジミー大西さんは画家としてのキャリアも長くて、国内外から高い評価を受けています。今年、画業30年を迎え、全国巡回展「POP OUT」が、4月27日に東京・銀座三越を皮切りに、北海道、愛知、大阪、福岡など1年以上かけて全国9会場を巡るのです。

 ジミー大西さんが絵を描き始めたのは、いまから30年前です。彼は当時、明石家さんまさんの運転手をやっていたそうです。ある日、さんまさんの家のリビングで娘のIMALUちゃんとお絵描きをして遊んでいたら、さんまさんに「ジミーお前、変わった絵を描くなあ。」と言われたそうです。そのとき、EXテレビという番組にたまたまタレントが絵を描いて出品するオークション番組の企画があって、さんまさんがジミーさんを推薦してくれたそうです。ただ、ほかに出品するのはみんなうまい人たちばかりだったので、ジミーさんの絵はあくまでオチとして使われるはずだったそうです。ところが、思わぬ高評価で、なんと33万円の値が付くのです。ジミーさんはその金額については特になんも思わなかったそうですが、後日、その番組宛てに岡本太郎画伯から手紙が届いたのです。そこには「キャンバスからはみ出せ」という言葉が書かれていたのです。岡本太郎画伯は、ジミーさんが尊敬する画家です。大阪万博の「太陽の塔」をデザインした方です。その世界にその名を知られた岡本太郎画伯がジミーさんに個人的に激励の言葉を送った。ジミーさんはこの激励に、決定的な衝撃を受けるのです。そして、やがてジミーさんは芸能活動を中止し、絵に専念するようになるのです。自分にとってとても大きな存在の人からの言葉は、人を励まし、生き方を変えてしまう力があると思います。本日の聖書の箇所で、主イエスがどのように人を励まし、導かれたかを見てゆきたいと思います。

2つにして1つの奇跡物語

 本日はルカによる福音書8章40節から56節の箇所を通して、聖書のみ言葉に耳を傾けて行きたいと思います。今日の聖書の箇所は、3つの部分に分けることができます。最初が、40節から42節aの会堂長ヤイロの懇願です。2番目が42節bから48節の長血の女の癒やしです。そして、3番目が49節から56節のヤイロの娘の蘇生です。そして、今日の聖書の箇所は、この3つの部分がサンドイッチ状に、ヤイロの懇願とヤイロの娘の蘇生の間に、長血の女の癒やしがはさまっているという奇跡が複数はいっている複合的奇跡になっているのです。病に打ち勝つ主イエスと死に打ち勝つ主イエスを別々のエピソードとして描いても十分目的を果たせそうなのに、そうはせずに、福音記者ルカはなぜこのような2つの奇跡を複雑に組み合わせたのかということも考えながら、本日の聖書の箇所を読んで行きたいと思います。

 ヤイロの懇願

 さて、本日の聖書の箇所の最初の部分を見てみましょう。40節には、主イエスはガリラヤ湖の向こう岸、ガリラヤ湖の南東部のゲラサ人の地から、ガリラヤ湖の北西部に戻って来られたのです。そして、群衆は主イエスを喜んで迎えただけではなく、待っていたのです。これから複合的奇跡が起こるのですが、その舞台となったのは主イエスが伝道の拠点としていた、カファルナウム周辺であったと考えられます。カファルナウム周辺を舞台として、何が起きたのでしょうか?

 ここで、ヤイロという人が登場します。彼は会堂長であったというのです。当時のユダヤ人がこれを読めば、ヤイロという人がどういう地位の人であったのかが直ぐにわかったのです。ヤイロという名前の意味ですが、「主は目を覚まさせる」、「主は眠りから目を覚まさせる」という意味のある名前です。今日の聖書の箇所の奇跡について、象徴的な名前であると思います。ヤイロは会堂長であったということから、ユダヤ人共同体の長老の一人です。それはただの会堂守ではなくて、安息日礼拝についての大きな責任と権限を持つ務めでした。信仰共同体であるユダヤの社会においては、地域の有力者であり、人々の尊敬を集めていた人です。政治的・経済的な力もある人であったのです。既にこの頃、主イエスとユダヤ教の指導者たちの関係は、難しくなっていました。主イエスを殺そうという相談もされていたほどです。会堂長という立場から考えれば、その彼が主イエスのところにやってきたというのは、ヤイロの家に容易ならざる事態が生じていたということです。「彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。」とあります。彼はひれ伏して、主イエスに自分の家に来てくださるよう、一生懸命お願いしたのです。何が起きてきていたのでしょうか?

 「十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。」(42節a)とあります。大変なことが彼の家庭に起きていたのです。福音記者ルカは「十二歳ぐらいの」とヤイロの娘の年齢を伝えています。12才の女の子と言えば、当時のユダヤ人社会では、ヤイロの娘は結婚可能な年齢になろうとしていたのです。当時は、12歳、13歳くらいからいいなづけができる、そして、結婚関係に入ってゆくというのが可能な年齢であったのです。現代のユダヤ人の女の子は、12歳でバット・ミツバと呼ばれる成人式を迎えます。成人の儀式といっても、お酒が飲めるとか、選挙で投票できるということではなくて、ユダヤ教の戒律(ミツバ)を守って、自分の行動に責任を持つことができる年、という意味で大人の仲間入りができるということです。そして、ここで注意しておかなくてはならないのが、今日の聖書の記事は、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも平行記事が出ているのですが、ルカだけが「十二歳ぐらいの一人娘」と、一人娘であったということを書き記しているのです。「ひとり子」というのはルカによる福音書に於いて、重要なキーワードのひとつです。ルカによる福音書では、7章12節の「ナインのやもめの一人息子」、8章42節の「ヤイロのひとり娘」。9章38節の「悪霊に取りつかれた一人息子」と、繰り返し「ひとり子」が登場します。ひれ伏して、主イエスに懇願するヤイロにとって、死にかけている12歳の娘は、たった一人のかけがえのない娘であったことを伝えるところに、医者として多くの人々を見てきた福音記者ルカの優しい眼差しを見ることができると思います。また、神様ご自身もひとり子を与える、そして、失う悲しみをよくご存知でした。ヨハネによる福音書3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。この神様の思い、さらに、主イエスの憐れみの心が、一人娘が死にかけているという事実と共鳴したのです。そして、このヤイロの必死の願いを受けて、主イエスはヤイロの家に向かわれるのです。

12年間出血の止まらない女性

 ところが、主イエスがヤイロの家に向かおうとされた時、群衆が今にも窒息させるほど周りから押し寄せてきたのです。こうした押し迫った状況の中で、ひとつの出来事が起こるのです。それは、ヤイロにとっては思わぬハプニングでした。主イエスの前に12年間も出血が止まらないという重い病に苦しんでいた女性が現れたのです。「出血が止まらず、」とありますので、出血が止まらない何らかの病です。ルカはそれ以上のことは何も書き記していません。しかし、その病に12年苦しんでいたということは、この女性が当時のユダヤの社会の中で置かれていた状況がよく理解できます。この女性は何に苦しんでいたのか。一つは、健康が害されていたということに苦しんでいた。肉体的な苦しみを抱えていたということは、どんなに不愉快で、不便で、辛かったことでしょうか。さらに、血の流出があるということは、儀式的にも汚れていたということなのです。それは、この女性はユダヤ人の共同体から隔離されていたこと、人々の交わりの中に入って交わることができない状態であったということです。身体が病んでいただけではありません。社会的にも孤立させられていたのです。さらに、そのような病気であり、孤立した状況の中で、どうして自分はこのようなことになっているのか、何か罪が原因なのか、自己嫌悪に陥っていたことと思います。

 しかし、主イエスはこのような、虐げられ、打ちひしがれた人々のために来られたのです。主イエスはこのような女性のために来て下さったのです。この女性は12年間も治療を受けて来ていたのです。ところが、どの医者もこの女性を治すことができませんでした。この女性は治療に財産全てを費やして、もう財産もないのです。経済的な苦痛もこの女性は抱えていたのです。ルカは医者が治せなかったということを書くことで、主イエスだけがこの女性を癒やすことができることを強調しているのです。そのような絶望的な状況の中で、この女性は何をしたのでしょうか。彼女は最後の望みを主イエスにかけ、群衆の中で後ろからそっとその服の房に触れたのです。すると、「直ちに出血が止まった」とあります。それでは、この女性の信仰とは、どのような信仰であったのでしょか。どちらかと言えば、迷信に近い信仰であったということができると思います。しかし、それでもこの女性は12年間苦しんできた病が、たちどころに癒されているのです。なぜなのでしょうか。神様はこのような不完全な信仰を受け容れて下さったということなのです。神様は、あなたの信仰は間違っていると責めるのではなく、迷信的な信仰であっても、受け容れて、癒やして下さったのです。この女性の癒やしのポイントは、神様の恵み、憐れみにあるのです。

わたしに触れたのはだれか

 これだけなら、主イエスの神秘的な力、あるいは主イエスの服の房に宿る癒しの力が語られているということになるわけですが、この話が示そうとしているのはそういうことではありません。大切なのはその後の記事なのです。この女性は癒やされたことを感じ取ったのですが、主イエスもまた誰かが触ったことを感じ取られたのです。それで、「わたしに触れたのはだれか」と言われたのです。ここで、主イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と尋ねていますが、主イエスは本当に分からなかったのでしょうか。そうではないと思います。主イエスはある意図があって、「わたしに触れたのはだれか」と尋ねていると思います。奇跡物語を読んでいると、主イエスは、癒やしによって、自分がメシアであることを示すために、ときには信仰のない人を癒やされることがあります。しかし、今日の聖書の箇所では、信仰によって、主イエスの力を引き出した人がいるというのです。この力というのは、聖霊の力です。主イエスの内にある神の力、聖霊の力が移動したと言うのです。主イエスの力を引き出した人がいる。そして、主イエスはその人を公の場に引き出そうとしているのです。なぜかと言いますと、その人を励まし、その信仰を育てるためです。12年間出血の止まらなかった女性は、こっそりと触ったのです。そして、出血が癒やされたのです。ところが、主イエスは「わたしに触れたのはだれか」と尋ねているのです。それで、この女性は黙ってはいることは、できなくなってしまったのです。この女性は、震えながら進み出て、ひれ伏したのです。なぜ、震えているのでしょうか。この女性は、大変な恐怖心を抱いているのです。この女性は出血が止まらないという病によって、儀式的に汚れているとされているのです。それにもかかわらず、群衆の中にいたというのは、律法違反なのです。さらに、汚れている彼女が主イエスの衣に触れたというのも、律法違反になるのです。その彼女が、「震えながら進み出てひれ伏し、」というのは、恐れと共に、主イエスに感謝を表しているのです。その上で、この女性は「触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。」とあります。この女性は、皆の前で「証し」をしたのです。なぜ主イエスに触ったのかという理由、それから、たちまち癒やされた次第、そのことを「証し」したのです。勇気が必要だったと思いますが、主イエスの言葉に応答して、この女性は「証し」をしたのです。その結果、主イエスはどうされたのでしょうか。主イエスはこの女性を祝福されたのです。それも、主イエスはこの女性を個人的にではなく、公に祝福されたのです。なぜでしょうか。それは、この女性にはそうすることが必要だったからです。主イエスは、この女性のことを「娘よ、」と呼んでいます。この女性は、主イエスを信じることによって、癒やしを経験するだけではなく、主イエスを「証し」することによって、神様の家族として迎え入れられたのです。そして、「あなたの信仰があなたを救った。」とあります。魔術によるのではなく、この女性の信仰が、この癒やしをもたらしたというのです。そして、主イエスは「安心して行きなさい。」と宣言されたのです。これは、この女性が共同体の生活に復帰するために必要な宣言なのです。この主イエスの宣言を聞いていた人々は、この女性を清められた女性として、共同体に喜んで迎えるわけです。ですから、主イエスはこの女性に癒やしを与えただけではなく、社会生活に復帰できるように、道備えをして下さったのです。ここに、主イエスがこの女性を探しだした意図があったのです。素晴らしい恵みの出来事が起きているのですが、会堂長ヤイロは気が気でなかったと思います。「イエス様、ひとり娘が死にかけているのです。早く切り上げて、私の家に向かって頂けませんか」。ヤイロはハラハラとそのように考えていたと思います。

ひとり娘の死

 そして、何が起きるのでしょうか。ヤイロの心配は現実のものとなったのです。『イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」』という知らせを聞いて、ヤイロが何を思ったのか、聖書は何も記していません。しかし、ヤイロの願いは断ち切られたのです。ヤイロが願ったのは、死にかけている自分の娘に主が手を置いて、その命を助けてくださることでした。数多くの病をいやしてこられた主イエス。だからこそ、娘を助けてくださるに違いないと望みをかけて、出かけてきたのです。間に合わないと分かっていたなら、死にかけている娘の手を握り、その傍らに身を寄せて、最期を看取っていたことと思います。しかし、死にかけている娘を家においたまま、主イエスを訪ね、ひれ伏して願ったのです。しかし、その願いは断ち切られてしまったのです。恐らく、ヤイロは極度に混乱したと思います。何が起きたのか、すぐには分からなかったかもしれません。いずれ来る娘の死を頭ではよく分かっていたはずです。けれども、頭で分かっているということと、現実を受け入れるということは別のことです。愛する者を亡くしたとき、その現実に対処することとそれを受け入れることの間には大きな開きがあります。それでも、大切な人の死は、動かない事実なのです。「お嬢さんは亡くなりました」。この知らせに、ヤイロの心は、真っ白に凍りついたのではないかと思うのです。「この上、先生を煩わすことはありません。」とは、実に、理性的で、事務的な言葉だと思います。

恐れることはない

 しかし、主イエスがそこに割って入られますしかし、主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とおっしゃいました。この言葉は、主イエスがたった今あの女性にお語りになった「あなたの信仰があなたを救った」という言葉と同じことを語っていると言えます。信仰があなたを救う、信じることによって救われる、信仰による救いということです。それが、この二つの奇跡物語を結び付けている絆であると言うことができるでしょう。この二つの物語が語っているのは、主イエスが奇跡を行う力を持ったお方であることだけではなく、信仰による救い、ということなのです。誰もが心を捕らわれて、そこから先に進めなくなるような死の告知を受けたヤイロの心に、主イエスは信仰を吹き込むようにして語られます。「恐れることはない。ただ信じなさい」。

 それでは、ここでヤイロが主イエスに問われている信仰とは、どのような信仰なのでしょうか。ヤイロは今しがた目撃したのです。主イエスが儀式的な汚れと病に勝利するのを目撃したばかりです。そして、今度は、ヤイロは、主イエスが儀式的な汚れと死に勝利することを信じることが試されているのです。そして、主イエスはヤイロを励まし、ヤイロの信仰を支えるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と、主イエスはヤイロを励ましているのです。どのような信仰が要求されているのでしょうか。ここで、要求されている信仰は、神様が働かれる「時」についての信仰です。つまり、出血が止まらない女性の割り込みは、神様の力を無効にするものではないということです。想定外の出来事が、異物のように入ったのだけれども、だからといって、神様の力が制限されるものではないということなのです。それ故、主イエスはヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい」と問われたのです。そして、ヤイロは信じ続けたのです。そのことは、ヤイロが主イエスを家に迎えたことから分かります。

娘よ、起きなさい

 51節から53節には、『イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。』とあります。主イエスは少数の者だけを入室を許可しました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの名前が挙がっていますが、彼らは弟子たちの中で、主イエスに最も近いところにいた者たちです。さらに、その子の父と母だけが入室を許可されたのです。主イエスはヤイロの娘の蘇生は公にしたくなかったと思います。それ故、少人数に限定したのだと思います。

 さて、『人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。』とありますが、これは娘が死んで、皆、悲しんだという意味ではないのです。これは、葬式の準備が始まっているということなのです。当時は、人が死ぬと、直ぐに葬式の準備を始めます。パレスチナは暑いので、直ぐに遺体の腐敗が始まってしまうからなのです。ヤイロの家には、もう泣き女たちが来ていて、葬儀の準備を始めていたのです。人々には、主イエスに対する信仰はありません。主イエスは、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。主イエスには答えがあるのです。ひとり娘の死は、一時的なものだ。直ぐに目を覚ますということを、主イエスは約束されたのです。主イエスの視点からすれば、死は一時的な眠りに過ぎないということです。そして、主イエスはヤイロの娘を蘇生させるのです。しかし、人々は主イエスをあざ笑ったのです。

 しかし、主イエスは娘の手を取って、呼びかけられたのです。モーセの律法によれば、死体は汚れており、汚れに触れれば、その人は汚れてしまうのですが、主イエスは汚れに触れても、汚れることはないのです。すなわち、主イエスはモーセの律法の上に立つお方なのだということです。そして、主イエスは「娘よ、起きなさい」と呼びかけることによって、娘を蘇生させたのです。主イエスは言葉によって、死者をよみがえさせられるお方なのです。よみがえることをルカは「霊が戻った」と表現しています。逆に言うならは、死とは身体から霊が離れること意味するということです。その「霊が戻る」ことこそ「よみがえり」であり、「復活」なのです。主イエスは、ヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃいました。しかし、この主イエスの「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃるこの言葉は、現代の私たちにも語られている言葉なのです。では、私たちが主イエスをただ信じるとはどのようなことなのでしょうか。そのことを次に考えてみたいと思います。

トップアスリート、ケイラ・モンゴメリー

 アメリカにおける最も速い長距離ランナーの一人は、ケイラ・モンゴメリーという人です。彼女が14歳の時に、サッカーをしているときに、首と尾骨を強く打った後、多発性硬化症(MS)という免疫異常を起こす病気を発症するのです。この病気のために、体温調節ができなくなるのです。走ることによって体温が上がると、腰から下の感覚が全くなくなります。そうなると、まるで自動操縦のように勢いを保ったまま、延々と走り続けてしまうのです。

 これは競技において、ある種有利なことのようにも思います。しかし、問題があります。競技の途中で、転倒すると、自分の力では起き上がれないのです。また、ゴールを切った後も、彼女は自分で止まることができないのです。これは命取りです。そのため止まることについては、全面的にコーチに頼ることしかないのです。コーチの仕事はゴールした後も走り続ける彼女を、全身で止めることです。コーチはゴールの前で両手を広げて待ち構え、ケイラ選手はその胸に飛び込むのです。全速力で体当たりされた時の衝撃は、決して小さくないでしょう。しかし、コーチはびくともしません。それどころか、ケイラ選手が壊れないように彼女の走りを止めると、155センチの彼女の身体を持ち上げて、競技場の外に運び出すのです。

 その間、彼女はずっと泣き叫んでいます。「私の足はどこへ行ったの。お願い、助けて」コーチは繰り返し「大丈夫だよ。僕がちゃんと受けとめたから、大丈夫だ」このように言って励ますのです。コーチは彼女を安全な場所に降ろし、すぐに足に氷を注いで神経の失火を和らげると、少しずつ体温は下がってゆき、足の感覚が戻っていくのです。ケイラが安心して全力で走れるのは、ゴールの向こうに安全圏に運んでくれるコーチがいるからです。さて、人生の最後に私たちを待ち受ける死の向こう側に、私たちは信頼できるお方を持っています。私たちを、死と死後のさばきに飲み込まれないように、しっかりと私たちを受けとめ、絶対安全圏に移してくださる方がいらっしゃるのです。主イエス・キリストは私たちの魂を正面から受けとめて、天の御国に届けてくださる方なのだと思います。先週、私たちは、私たちの大切なお友達である局さんを神様の元に見送りましたが、神様は局さんをしかりと受け止めてくださったと思います。

■「ただ信じなさい」

  今日の聖書の箇所のこの二つの物語の中心には、命の源なる救い主イエス・キリストが立っておられます。死はまさに人間にとっての「最後の敵」(コリントの信徒への手紙1第15章26節)ですが、それが自分の愛する者に襲いかかる瞬間ほど、その恐ろしさに震撼させられることはありません。ところが主は、「恐れることはない。ただ信じなさい」、とおっしゃるのです。死の事実を前にして、どのような信仰が求められているのでしょうか。主イエスは「わたしを信じなさい」、と言われたのです。「今、あなたが見ているこのわたしを信じなさい」。それは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書第14章6節)と言われる主、命の源なる主です。「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネによる福音書第11章25~26節)、と言われる主です。そのわたしを信じなさい。そうすれば、あなたがたは立つことが出来る。そのように主は言われたのです。信仰とは、私たちを受け止めて下さる主イエスを信じることです。その主イエスは命を与えられるお方です。そして、私たちに神様の言葉を掛けて下さいます。私たちは、その主イエスを信ずることによって、生きている時にも、死ぬ時にも、私たちはもはや自分自身のものではなく、救い主イエス・キリストのものとされるのです。出血が止まらなかった女性も会堂長ヤイロも、主イエスと共に歩み始めたのです。これは、私たちの物語でもあるのです。私たちは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語って下さる主イエスの言葉に励まされて、主に従って歩んでゆきたいと思います。

 それでは、お祈り致します。