■あなたの愛しておられる者が…
末盛千枝子さんという、とても美しく、深い言葉を紡ぎ出す女性がいます。今年八一歳になる、カトリックの信徒です。『ことばのともしび』という著書に「狭い門から入りなさい」という一文があります。
「こういう話を聞きました。ある音楽家が、自分の可能性にむかってひたむきに厳しく生きていました。その姿を見た人が、『あなたは自分にとでも厳しい方なのね』と言ったのです。すると、その音楽家は『いいえ、私は自分に厳しいのではなくて、自分を大切にしているだけです』と答えたのだそうです。
私はこの話を聞いて感動しました。この人の言う、自分を大切にする、ということは、すなわち神さまに造られた自分を大切に生きる、ということにほかならないと思ったからです。神さまが下さった自分の才能だとか、性格だとか、生まれた環境だとか、そのようなもの一切を含めて、自分を受け入れ、自分のあるべき姿に近づこうとすること、それが自分を大切にするということではないでしょうか。それは簡単なようでいて実は厳しく、難しいことだと思います。困難があったときに、それを他人のせいにしてしまりことなどできなくなるからです。
年をとることのすばらしさの一つは、いろいろな経験が、特に苦しく悲しい経験が、結局は自分を育ててきたという実感を持てることではないかと思います。そのとき、人は、そのさまざまな経験が自分を育ててくれたことを思い、周りの人たちの存在がどんなに大きな励ましになっていたかを感謝する謙虚さにたどりつくのでしょう。
自分に厳しいということと、自分を大切にするということが、根っこで一つになっていることに気がついたとき、私は初めて『狭い門から入りなさい』(マタイ七・二二)という言葉が自分の胸にストンと落ちたような気がしました」
絵本の編集者、出版社の代表として数々のすぐれた絵本を世に送り出してきた方ですが、彼女もまた、人生の中で実に様々な苦難を味わいました。
二〇代のときに親しい友が死に、三〇歳を過ぎて結婚した優しい夫が結婚一一年後、小さな息子二人を残して突然死んでしまいます。その少し前から知人の紹介で絵本の編集に携わるようになり、幸いにも何とか生計を立てることができました。夫の死から一三年経った五五歳のとき、思いがけず、昔の知人と再婚することになりました。しかし彼には一〇年以上も前に離婚した女性との間に、傷ついている美しい娘がいました。難しい問題もたくさんありました。それでも、その娘も今は結婚してアメリカで幸福に暮らし、時に孫を連れて帰って来てくれます。再婚した哲学者の夫は一五年前に脳溢血になり、その後遺症が少しずつ現れ、だんだん話をすることも難しくなりました。あれだけの知性の人がと、「悲しくなるのですが、老いていくとはそういうことなのでしょう。話はできなくとも、本当におだやかな笑顔を向けてくれます」。彼女は自分の人生をそう振り返ります。
そんな彼女の「年をとることのすばらしさの一つは、いろいろな経験が、苦しく悲しい経験が、結局は自分を育ててきたという実感を持てることではないか」という言葉が、今日の聖書の言葉と重なるように、心に深く浸みます。
「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」
マルタとマリアの家は、エルサレムの郊外にあって、イエスさまがしばしば訪れ、憩いの家とされていました。イエスさまはこの家庭を愛し、またこの姉妹のことを深く愛しておられました。その姉妹の弟ラザロがこの時、重い死の床に横たわっていました。姉妹たちは使いをヨルダン川の向う岸ペレアの地方にいるイエスさまのもとにつかわして、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と知らせます。
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」
心に少し引っかかってくる言葉です。この言葉には、どうしてこんなことが…、そんな思いが含まれているように思います。あなたの愛しておられる人が今、重病です。あなたの愛にもかかわらず、こういう重い出来事が起こるのは、なぜなのですか、そんな問いを含んでいるように思えます。
わたしたちも、自分自身があるいは愛する家族が重い病気や様々な苦艱に襲われるとき、同じようなことを考えます。神の愛についていつも耳にし、信じてはいるけれども、それなのにどうしてこんなことが起こるのだろう。いったいキリストの愛の内にいるとは、何を意味しているのだろう。神を信じないわけじゃない。でも、このひどい不幸はどういうことだろう。こんな試練が、どうして降りかかってくるのだろうか。そんな思いです。
■死で終わらない
イエスさまの答えはこうでした。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」
わたしたちが病気を恐れるのは、すべての病気の向こう側に、死が見えるからです。二〇二一年の人口動態統計によれば、死因の上位は、悪性新生物(がん)、心(臓)疾患、老衰、脳血管疾患、肺炎です。上位五つの内、四つが病気です。すべての病気は死につながっている。わたしたちはそう考えています。
ところが、ここでイエスさまは言われます。
「この病気は死で終わるものではない」
病状を見て、これは大丈夫でしょう、死には至らないでしょう、と予測しているのではありません。この病気はたぶん死には至らないだろう、と楽観的な見通しを語っているのでもありません。「この病気は死では終わらない」と断言されます。いわば宣言です。この病気は死には至らない。そうではなく、その人間の病や苦難、そこにこそ神の栄光が、神の御心が現される。神がそこで、恵みの、救いの御業を行ってくださる、と言われます。
イエスさまはさらにこう言われます。
「神の子がそれによって栄光を受けるのである」
神の子とはイエス・キリストご自身のことです。つまり、わたしたちの病と死の前に、キリストが立たってくださる、ということです。キリストが、わたしたちと死との間に立ちはだかる。病を死に至らせないように、イエス・キリストが立ちはだかられるのだ、と宣言されます。
一九世紀の思想家キェルケゴールが著書『死に至る病』の冒頭にこう書いています。
「〈この病は死に至らず〉(ヨハネ一一・四)。… ああしかし、たとえキリストがラザロをよびさまさなかったとしても、この病が、死そのものさえが、死に至るものでないということが、同じように言えるのではあるまいか。…〈復活にして生命〉(同一一・二五)であるキリストが墓に歩み寄るというそのことだけで、この病は死に至らないことを意味していはしないであろうか。キリストが現にそこにいますということが、この病が死に至らないことを意味していはしないであろうか!またラザロが死人の中から呼びさまされたとしても、結局は死ぬことによってそれも終りを告げねばならないのであるとしたら、それがラザロにとって何の役に立つことであろう。…いや、ラザロが死人の中から呼びさまされたから、それだからこの病は死に至ならないと言えるのではなく、よみがえりであり、生命であるキリストが、現にそこにいますから、それだからこの病は死に至らないのである」
ラザロはよみがえらされましたが、永遠に生きるようにされたのではありませんでした。よみがされて死んだのです。「ラザロが死人の中から呼びさまされたから、それだからこの病は死に至ならないと言えるのではなく、よみがえりであり、生命であるキリストが、現にそこにいますから、それだからこの病は死に至らないのである」と言います。
■神のもとに目を覚ます
イエス・キリストと弟子たちとのやりとりが続きます。イエスさまは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われました。弟子たちは「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と応えます。イエスさまはラザロの死について話されたのですが、弟子たちはただ眠りについて話されたものと思ったのです。そこで、ははっきりと言われます。
「ラザロは死んだのだ。わたしがその塲に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」
ラザロは眠っているのか、あるいは死んでいるのか。ラザロは死んでいるのです。しかしキリストにあって、ラザロは眠っている。キリストはラザロのことを「わたしたちの友」と呼びました。キリストに知られた、キリストの友として、ラザロは眠っています。絶対に死なないのです。
どなたもがこの一年の間に、大切な友を失われたことでしょう。その友は、人間的に言えば、亡くなられました。しかし、救い主イエス・キリストの中では眠っているのです。なぜなら、イエス・キリストが全存在をもって、わたしたちの死を排除なさったからです。十字架と復活を通して、永遠のいのち—生まれる前から、生きている今も、そして死んだ後も、すべてのいのちがいつも、ずっと神のもとにあることを示してくださったからです。そのようにして、わたしたちと死とを分けてくださったのです。
ですから、この病は死につながらない。弟子たちは言いました。「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」。そのとおりです。救い主キリストの御手の中で眠っているのですから、人は助かるのです。抱っこされてスヤスヤと眠っている子どもが、十分に眠ったら自分を抱いてくれている者の腕の中で目を覚ますように、眠っているのなら助かるでしょう。そう、助かるのです。
キリストにあって、いつの日か、終わりの時に「目を覚ます」のです。人は霊魂だけで生きているのではありません。体も霊魂も罪赦されて、清められたものとして神のもとに目を覚ますのです。その病気は、死で終わるものではありません。わたしたちの病は死で終わらないのです。この約束のもとに、わたしたちのいのち、存在があるのです。
■キリストの光を受けて
イエスさまは言われました。九節から一〇節、
「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」
この「歩く」という言葉は、生きるという意味の言葉でもあります。人間は光を受けて生きるのです。自分の中に光はありません。そう、人は誰ひとり自分の力だけで生きていくことはできません。自分の内に光がないから、外からの光、神からの光を受けて人は生きるのです。それが人間です。
わたしたちも重い病を経験します。しかし病は死で終わりません。わたしたちと死の間に、身をもって立ちはだかっていてくださる方がいるからです。それが、わたしたちの救いです。イエス・キリストがラザロを愛している。それは、気持ちや感情の問題ではありません。神の子が身を挺して守っていてくださるのです。それが、キリストの愛です。
末盛千枝子さんの言葉をもうひとつご紹介して、このメッセージを閉じさせていただきます。
「自信という言葉について語ることは、私にはとても難しいことです。自信どころか、いつも自分の欠点がたくさん浮かんできて、どんなに人に迷惑をかけてきたことかと、身が縮む思いだからです。
ただ振り返ってみると、私は人生のさまざまな転機に、だいたいにおいて、自分の計画でも希望でもなく、まるで天使のお告げに従うかのように、あちらへ行け、こちらへ行けと言われて、そのまま、困難をともなう道を歩いてきたと思うのです。
子どもたちが小さいときに夫に死なれたこと、長男が難病を持って生まれてきたこと、その上、やっと見つけた彼にもできるスポーツで怪我をし、脊髄損傷になってしまったこと。そんなときにも、本当に苦しいとは思いましたが、不幸だとは思いませんでした。たとえ悲しいことが待っていたとしても、たくさんの幸せもあったと思うからでしょうか。
私がこのような人生を生きるように選んだわけではありません。ただ逃げなかった。涙を流しながらも、この人生を受け入れることができますようにと、願ってきたのです。人間はどのような環境に生まれるかを選べないのですから、生まれたときから、自分の条件を受け入れて生きるしかないのです。 そのようにして私は、あちらへ行け、こちらへ行けという声に従って生きてきたように思います。そのことだけが、私にとっては自信と呼べるものかもしれません。でも、それが自分の手柄ではないのはもちろんです」。