小倉日明教会

『真理とは何か』

ヨハネによる福音書 18章 28〜38節

2024年 4月 7日(日) 復活節第2主日礼拝

ヨハネによる福音書 18章 28〜38節

『真理とは何か』

【説教】 沖村 裕史 牧師

■答えようとしない人

 大学生の頃、一人の友人が足繁(しげ)くわたしの下宿を訪ねて来ました。彼はわたしの前に腰を下ろすと、元気にしゃべり始めます。彼の澱(よど)みのない低音は、新しいニュースをその日も提供してくれます。外で降り出した雨のせいか、彼の言葉は聞き取り難(にく)いものでした。しかし聞き取り難いのは、雨のせいばかりではありません。彼の話そのものがわたしの興味を惹(ひ)かないのです。程(ほど)なくこの会話も退屈なものになるだろうと予想し、そしていつものように予想通りとなります。うんざりするような雨は、しばらく止みそうもありませんでした。

 どうして退屈なのか、分かっていました。

 彼は決して自分の考えを語らないのです。周囲の人間や出来事に関しては、微(び)に入(い)り細(さい)に入(い)り説明をしてくれるのですが、自分のことに関しては一切語ろうとしません。そのことがわたしを退屈にさせました。もちろん、わたしの方から何度か聞いたことがあります。「他の人の考えは分かったよ。ところで、君の考えはどうなの?」けれどもその度(たび)に、彼は恫喝(どうかつ)的な態度で切り返します。「それってどういう意味?」逆にわたしの方が詰問(きつもん)される始末でした。

 小学校の国語のテストで、よくこんな問題が最後に出てきました。「この文章を読んで、あなたの考えたことを書きなさい」。大概(たいがい)この手の問題は配点も小さく、たとえ書けなくても大きな減点は受けないような、そんなオマケのような問題です。たとえて言えば、先ほどの友人はこの問題を前にして、いつも空欄で済ませるような人でした。どうせ配点は小さいのだ、他の問題でがっちり得点すればいいじゃないか、といった感じで振舞(ふるま)うのです。実際、彼は高得点をマークします。しかし「あなたの考えを書きなさい」に関しては、いつも皮肉っぽい笑みを浮かべ、沈黙します。「それが生きるために、どれだけの意味がある?」とでも言いたそうな表情で…。「あなたの考えを書きなさい」という問いに必死に答えるよりも、その他の漢字の読み書きや文法の説明に精力を注いだ方が人生では成功するのではないか、と逆に問い詰めてくるかのようでした。人の意見を聞き出し、それについて注釈はするけれど、自分の考えは決して言わない。

 こんな人に出会うと、わたしはいつも思います。まるでピラトのように退屈な人だ、と。そして自分もそうなってはいないだろうか、と。ポンテオ・ピラト。自分の考えは白紙のままで、ローマ総督という地位まで手にした男です。「真理とは何か。あなたの考えを述べなさい」。この問いに無駄な精力を使わず、他の問題に答えながら、この世で成功した男です。

■役割の中に

 今、イエスさまの周りには誰もいません。誰もいないばかりか、ただ一人、彼を誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)し、事実(じじつ)無根(むこん)の罪に陥(おとしい)れ、殺害しようとする権力者の前に立たされています。それがこの場面です。ユダヤの宗教的な権威をもつ最高法院での審問が終わると、イエスさまはいよいよ、政治的最高権力者であるローマ総督ピラトの前で審問を受けるべく、総督官邸へとその身柄を送られます。

 ピラトの審問が始まります。「お前がユダヤ人の王なのか」。

 「ユダヤ人の王」とは、ローマ帝国の支配から武力闘争によってユダヤの独立を目指そうとする、政治的運動の首謀者の呼び名です。しかしイエスさまは、その尋問に答える代わりに、逆に一つの問いをピラトに突き付けます。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」。

イエスさまはこの問いに二つの意味を込めています。一つは、建前上はユダヤ人の上に立って支配しているはずの総督ピラトが、実際にはユダヤ人に強いられてしぶしぶイエスさまへの審問に当たらざるをえなくなっている、彼の権力の実体を見透かし、それを暴露する、皮肉たっぷりの言葉になっています。そしてもう一つは、「ユダヤ人の王」という常套句(じょうとうく)によって、現代の言葉で言えば、秩序と安定を脅かす「テロ」や「悪の枢軸」や「厄介者」というレッテルを貼ることによって、心乱すことなく、不都合な人間や国を簡単に処理していく政治の論理に対して、一人の人間としてのピラトの在り様、生き様を問いかける真っすぐな問いとなっています。

 しかし、ピラトはその問いを受け止めようとはしません。「メシアとかユダヤ人の王とかいう言葉は、もともとユダヤ人の側でつくり出したもので、ユダヤ人ではないわたしには何の関係もない。お前と同じユダヤ人である祭司長や律法学者たちが、その言葉を用いて告発してきたまでのことで、わたしの責任は、実際にお前の言動がローマヘの反逆罪に相当するかどうかを取り調べることにしかない。告発された限りは、何かをしたのだろう。一体、お前は何をしたのか」。

 彼は、どこまでも総督という役割の中で振舞うばかりで、イエスさまの前に自らの、人としての本当の姿を現わそうとはしません。

■真理の国

 この問いに、イエスさまは虚を突くような、全く異なる次元から答えられます。「わたしの国は、この世には属していない」。

 ピラトの限界、わたしたち人間の限界を指摘する言葉です。国とか王とか、政治とか法の枠内でしか、ピラトは考えようとしません。彼にとって、またわたしたちにとっても、関心事は目に見えるもの、自分のこと、今この時のことです。どうしたらお金が儲(もう)かるか、何が楽しいことで、どこにおいしい物があるか、どこでブランド品を手に入れることができるかといった、目先のこと、自分の欲望を満たし、人を思いのままに支配すること、名声をあげることです。目に見えるものだけに確かさを求め、今は目に見えない、本当の確かさを求めようとはしません。ピラトにとって確かなことは、今ここで目に見えているものです。

 そして今、彼の目の前にいるのは、みすぼらしいユダヤ人の男です。何の富も権威もないイエスという一人の男です。ピラトは、イエスさまの姿を見て、この男があのユダヤ人の王に該当するかどうかだけを考えています。そしてそれこそが、ユダヤ人たちが仕組んだ罠でした。ピラトは告発の意図、背後にまで遡って、その事件を解決する努力をしようともしないで、「ユダヤ人の王」という便利な言葉を利用して、この事件を政治的に処理しようとしています。

 そんなピラトに語られた、「わたしの国は、この世には属していない」というイエスさまのこの言葉は、異なる視点―地位や名誉や富や権力ではなく、驚くほどの偶然の重なりの中で、つまり「奇跡」としか言いようのない力によって、人が人を見出し、人と人とが出会うという、「この世のものではない」と言うほかないものへの視点―を、イエスさまとピラトとの一対一の出会いを通して、ピラトに気づかせ、回復させようとするものです。

 それでも、ピラトはイエスさまの口にした「わたしの国」という表現にだけ目をつけ、得たりとばかりに、「それでは、やはり王なのか」と問いかけます。イエスさまは、さらに言葉を重ねて語りかけます。「どうしても、あなたがそう言いたいのであれば、王ということにしておこうか。しかしその王とやらいうわたしは、真理について証しするために生まれ、またそのためにこの世に来たのだ。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。

 イエスさまが王として治める王国は 、この世の国とは全く趣を異にし、民族や国籍の区別なく、富や権力に関わりなく、業績や能力を問われることのない、ただ真理に聞き従う者の国です。真理に従うことだけが、この国を成立させる原理です。

 真理とは、イエスさまが「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(八・三一)と言われたように、わたしたちが作り出した自分勝手な理想や、こうあるべきだという常識や枠組から、わたしたちを自由にするものです。力による支配と抑圧とを捨て去り、人が人を見出し、人と人とが出会い、新しくつながり、解放するものです。妬みや憎しみや怒りではなく、愛によってわたしたちを自由にするものです。

■愛の道筋

 高校生の時、ある女性を好きになったことがあります。わたしは彼女とある程度親しくはなりましたが、いつも不安でした。なぜなら、彼女は自分の考えをわたしに言うことがほとんどなかったからです。そこでわたしはある日、彼女に聞きました。「ぼくのこと、どう思ってる?」彼女はしばらく考え込んで答えました。「おもしろいって言う人もいるし、まじめでいい人だって言ってる人もいるし…」。ガックリきました。そんなことを聞いているのではない、「他人」がどう思っているか、そんなこと聞きたいのではありません。「あなた」が「わたし」をどう思っているか、それが聞きたいのです。彼女は、他人がわたしをどう思っているか、明快に解説してくれました。しかし、彼女自身がわたしをどう思っているかについては、ついに告白してくれませんでした。ピラトのように、のらりくらりと逃げながら、わたしを、わたしと自分との関係をはっきりと答えようとはしません。彼女は、わたしのことが好きではなかったのです。

 友人も彼女も、そしてピラトも、みんなギリギリのところで、自分の考えを言いません。自分だけの答えを語ろうとしないのです。それは要するに、相手を愛していないということです。そう、それが言い知れぬ退屈さの、空しさの原因でした。

 「あなたにとって、わたしは何者ですか?あなたの考えを述べてください」という問いが、愛し合う二人、それぞれから生まれてくるものです。そして相手が好きなら、わたしたちはこの問いを真剣に受けとめ、相手を自分の言葉で答え始めるはずです。こうした答えのない恋愛を、少なくともわたしは信じません。そして、互いに問いを避ける関係を愛とは呼びません。本当に目の前の人のことを愛しているのなら、借り物ではない、自分の言葉で相手に答える、答えようとするのが本来です。愛の道筋には、必ずその一瞬があるものです。

 頻繁に会うけれど、友人も、そして彼女も、どうもわたしのことを愛していない。だからわたしは退屈し、空しくなります。そして、ピラトもイエスさまを理解しようとしているように見えて、実際は、イエスさまを愛してなどいません。だから、つまらない人間に、問いに見えるのです。愛さない人間ほど、人を退屈させ、空しくさせるものはありません。

■愛において生かす

 逆を言えば、愛そうとする人間ほど魅力的なものはありません。

 イエスさまの御心にあるものは、死を免れることではなく、むしろ自らの死を通して、ピラトやわたしたちが求め、また求めることによって、逆に自らを縛り付けてしまっているものとは全く異なる価値を、神の御心に従うという全く新しいいのちのあり方を、わたしたちに証しし、教え、示すことでした。

 大切なことは、イエスさまを釈放するか処刑するかではなく、もっと深く、ピラトがイエスさまを通して聞こえてくる真理の声に耳を傾けることができるかどうか、ということでした。ピラトは、みすぼらしい姿をした一人の男の真理の声よりも、がなりたてるユダヤ人たちの脅迫の声に屈し、結局はその歩みを変えることなく歩み通すことになります。こうして、驕り高ぶる権力者ピラトの姿はいつの間にか、イエスさまに問われて逃げ廻る、弱く愚かで、小さな人間にその姿を変えてしまいます。そんなピラトこそ、わたしたち自身です。

 夫と妻の関係であれ、親と子の関係であれ、先生と生徒であれ、上司と部下であれ、政治家と市民であれ、役割の中でわたしたちが自らの人間性を失い、他者の人間の姿も見えなくなっているとき、思わぬ方向から、わたしたちを真理へと解放する声が聞こえてくるではないしょうか。そんなとき、わたしたちは苛立ち、舌打ちしながら、「真理とは何か」と吐きすてるように呟くかもしれません。しかしそのときこそが、実はわたしたちにとっての大切な別れ目なのだ、イエスさまに従おうとする者にとっての正念場なのだと、今日の言葉はわたしたちに教えているのではないでしょうか。 神の御子イエス・キリストが、わたしたちのような自分のことしか考えない罪人のために、身代わりに十字架上で死に、そしてよみがえられました。そのことを通して、わたしたちに本当のいのちを、今も与えてくださっています。これこそが、キリストの真理であり、大いなる愛の表明にほかなりません。この永遠の真理こそ、わたしたちを本当に愛において生かすものなのです。