■女性宣教師 エミー・カーマイケル
おはようございます。今から百数十年ほど前に、イギリスの女性宣教師でエミー・カーマイケルという人がいました。彼女の両親はクリスチャンでした。そして、小さい時から聖書の話を聞いてきたのです。
ある時、神様は何でもご存知で、何でもおできになる、祈れば応えていただくことができる。それで彼女は密かに思っていたことを本気で祈り出したのです。それは、自分の目の色を変えるということだったのです。実は彼女のお母さんは透き通るような青い目でした。あんなブルーの目の女の人になりたいと思って本気で真心を込めて「神様、今晩中に青に変えてください」って祈って、そして、朝起きた時に鏡の前まで行って、1、2の3…変わってない。それが幼な心に、神様は祈っても聞いてくださらないのだということで傷になったそうです。ところがそれから何年も経って、彼女は27歳の時に宣教師としてインドの人たちにキリストを伝えるようになったのです。ある時、10歳の女の子が転がり込んで来ました。実は彼女はヒンズー教の寺院を脱走して命からがら逃げてきたというのです。
その頃、インドでは親が自分の娘を人身売買していたのです。貧しい人たちは、生きて行くために自分の娘の意思を聞かずに、ヒンズー教の寺院に娘を売っていたのです。5歳とか4歳とかで売られてしまった小さな女の子たちはどうなるのでしょうか。始めは踊り子です。そして、13歳からは売春婦にさせられてしまうのです。
それは、彼女たちにとって、とても辛く、嫌なことでした。自分たちの将来はどうなるのかということを聞いていたのです。そして、その女の子は10歳になった時に脱走し、お父さんお母さんがいる実家に戻ったそうです。ところが、父も母も戸を閉めて、「お前はヒンズーの女神への捧げものだから私たちのものではない。」そうしてもう一度連れ戻されてしまったそうです。連れ戻された後、その子はどうされたのでしょうか。罰を受けさせられたのです。熱した鉄の棒で大火傷を負わせられたのです。2度と脱走することがないように、心をピシッと折ってしまうのです。
ところが、この少女はまたしても脱走しました。この広いインドの中で、この少女が逃げ込むことができるその場所はどこだったのでしょうか。この少女は、エミー・カーマイケルがいる教会に行って「匿ってください。」と言ったのです。カーマイケルは命がけで守りきることに成功したのですが、その10歳の少女は、「私と同じような境遇の子が何十人も何百人もいます。」と言うのです。そこで彼女は行動を起こすことにしたのです。
証拠となるものを掴んでイギリスのマスコミに流し、政府を動かしてこの問題を解決しようと考えたのです。証拠を掴むためには、寺院の奥の間に入らなければなりません。しかし、外国人は入れないのです。そこで彼女は変装することにしたのです。コーヒーの粉を顔に塗り、次にインドのサリーを身にまといました。そして、ベールを被って鏡の前に立った時、ハッと幼い時に神様に祈った祈りのことを思い出したというのです。白い肌は偽装することができます。しかし、目の色は変えることはできないのです。もし私が青い目になっていたら…。あの時、神様は私の祈りに応えてくださらなかったと思ったけどそうではない。実は神様は、私が一番大切だと思っている任務を行うのに、一番意味のある形に私を最初から造っておいて下さったのだ。
私には価値がある。理由があって私は今の私なのだ。そのことが分かった時、初めて自分自身を抱きしめることができるようになったというのです。 私たちも、もっとイケてる感じに生まれていれば、もっとお金があれば、もっと健康であれば、もっと頭が良ければと思って、自分にがっかりすることが多いのではないでしょうか?しかし、本日の聖書の箇所を通して、現代の社会の中で、私たちは主イエスの弟子として、いかに生きるべきか、ということについて、皆さんと一緒に学びたいと思います。
■何を食べようか、何を着ようか
ルカによる福音書9章51節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅という大きな枠組みの中で、様々な機会を捉えて、主イエスが弟子たちに語った教えが語られています。そして、本日の聖書の箇所を含むルカによる福音書12章1節〜13章17節は、一つの大きなブロックとなっています。そして、前のブロックで明らかになった、主イエスと主イエスが語る福音に対する拒否という現実の中で、このブロックでは弟子としていかに生きるべきかが教えられる、連続したメッセージとなっているのです。主イエスを信じ、主イエスの弟子として歩んで行くということは、霊的な戦いの中に入ってゆくことなのです。しかし、そのことは驚くことではなくて、主イエスが弟子たちに本日の聖書の箇所などを通して、既に教えて下さっていたことなのです。この世での歩みの中で、キリスト者はさまざまな霊的な戦いに巻き込まれて行き、そのためにいろいろな思い煩いを生じて来るのですが、そのことに打ち勝つことができるというのが、本日の聖書の箇所が語っている内容なのです。
そして、前回お話しましたルカによる福音書の12章13節以下の「愚かな金持ち」のたとえでは、自分が富むことだけを考え、霊的なことを考えない人は愚か者である。永遠の視点がなく、人生の優先順位が混乱している人は愚か者であるということが語られていました。
本日の箇所の冒頭の22〜23節には、『それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。』とあります。『それから』という言葉から始まっています。つまり、前回の「愚かな金持ち」のたとえで語られたテーマが、本日の聖書の箇所でも続いているのです。そして、主イエスが教えておられる対象は、誰かと言いますと、弟子たちなのです。ここで、主イエスが教えておられる内容は何かと言いますと、肉体的なことで過度に思い煩ってはいけないと言われた、これが、主イエスが強調されている点なのです。食事と衣服は、私たちの生活において必要なものです。主イエスはそのことを否定している訳ではないのです。しかし、食事も衣服も、私たちの生活の中では、2次的なものであって、過度に心配するようなものではないというのが、ここでのポイントなのです。『命のことで』とありますが、ここで「命」と訳されている言葉は単なる肉体の命ではありません。ここでの「命」とは「魂」とも訳せる言葉を用いられているのです。それでは、私たちの魂を本当に養い、支え育む糧とは何でしょうか。それは、神様の前で、神様の方を向いて、生きるということです。そのことこそが、人生そのもので、これは食べ物や衣服以上に価値があるものだと言っているのです。それ故、食べ物と衣服を優先する人は、愚か者である。それ以上に大切なものがあるのだから、優先順位を間違えないように、ということを主イエスは語っておられるのです。そのことを、さらに印象付けるために、主イエスは、次に、烏のことを取り上げるのです。
■神が養い、装って下さる
本日の箇所の24節には、『烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。』と記されています。私たちは、ゴミを出した時に、ゴミ袋を破って食い散らかす烏に対しては、あまり良い印象を持っていない人の方が多いかもしれません。しかし、そのような私たちが持つ印象とはまったく異なる次元で、ユダヤ人にとって、烏は「汚らわしいもの」(レビ記11章15節)だから、食物規定上、食べてはならない汚らわしい鳥に分類されていたのです。従って、主イエスは鳥の話をするのですが、その鳥の中で、最も取るに足りない、不浄な食物である烏を取り上げているのです。そして、その「汚らわしいもの」とされた烏をも神様が養っていてくださる、と主イエスは言われたのです。ユダヤ人である弟子たちは、この主イエスの言葉に大きな衝撃を受けたに違いありません。ここでは、小から大の議論という、ユダヤのラビ的教授法が展開されています。律法において「汚らわしいもの」とされた烏でさえも、神様は養ってくださっている。烏以上に価値のある人間を、神様が養って下さらないはずがない、と主イエスは言われているのです。特に、主イエスを信じた弟子たちには、神様の守りが与えられると語っておられるのです。
次に、25〜26節には、『あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。』とあります。いくら心配しても、自分の寿命を1日でも伸ばせる人はいません。神様の時が来たら、天に召されるのです。心配したからといって、寿命を延ばせるわけではないのです。前回取り上げた「愚かな金持ち」のたとえでは、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』(12章20節)と神様は語っておられます。そのことの延長線上に、本日の聖書の箇所があるのです。「愚かな金持ち」のたとえは、人は自分の寿命を1日でも伸ばすことはできないのだということを教えているのです。ここにも、小から大というユダヤのラビ的教授法があるのです。人間は、こんな小さなこともできない。ましてや、それ以上のものを思い通りに動かす力が人間にあるはずがないということが、ここでは言われているのです。
次に、27節には、『野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。』とあります。ここで、野原の花は、神様に依存することによって、育っていると言うのです。しかし、神様はその野原の花のために、素晴らしいことをしておられる。そのことを説明するために、栄華を極めたソロモン王との対比が語られているのです。ソロモン王はイスラエルの歴史の中で、最も栄華を極めた王です。そのソロモン王でさえ、比較すると、この花の一つほどには、着飾っていなかったと言うのです。弟子たちにとっては、衝撃的な主イエスの言葉であったと思います。神様がデザインされた野原の花の素晴らしさ、神様が野原の花に注がれる愛の素晴らしさが見えてくると思います。従って、どれほどソロモン王が飾り立てていたとしても、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった、という驚くべきメッセージがここで語られているのです。
さらに、28節には、『今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。』と記されています。これも小から大の議論という、ラビ的教授法になっています。『草』は植物の総称で、当時は、植物を刈り取ってきて、枯れてきた段階で、炉に投げ込んで、暖を取っていたのです。それが、『今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、』という言葉となっているのです。当時のユダヤの人たちにとっては、これは実感として、よく知っていたことなのです。どのみち炉になげこむのだから、そんなに綺麗にしなくても良さそうなものなのに、こんなに取るに足りない草でも、神様は華麗に装ってくださる。野原の花がそうなのであれば、ましてや、人間、特に弟子たちに良くして下さらないはずがないと、主イエスは言っているのです。そして、28節の最後で、主イエスは、『信仰の薄い者たちよ。』ということをおっしゃられました。これは、誰のことを言っているのかと言いますと、弟子たちに話しておりますので、弟子たちのことなのです。弟子たちが未だに思い煩っている姿を見て、主イエスは『信仰の薄い者たちよ。』とおっしゃられたのです。いつも思い煩っているというのは、神様を信頼しきれていないという、信仰の問題なのです。弟子たちは、生活の必需品のことで、思い煩っていたのです。その思い煩いを捨てて、神様に信頼し、必要なものは与えられるという信仰を、弟子たちは持つべきであったのです。ところが、それが出来ていなかったので、『信仰の薄い者たちよ。』と言われているのです。不安や思い煩いは、詰まる所、不信仰の問題だと言われているのです。神様は、かならず最善を行われる、すべてのことを働かせて、益としてくださる、その信仰が問われているのです。
■ただ、神の国を求めなさい。
次に、29〜30節には、『あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。』と記されています。『何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。』とあります。生活をする上で、食べるもの、飲むものは必要です。しかし、ここでは、思い悩むことはやめなさいと、主イエスはおしゃっているのです。これは、誇張法という表現方法となっています。これは、過度に心配する必要はないということを教えるために、この誇張法という手法を用いておられるのです。主イエス自身は、生活の必要を得るために、労することは否定していないのです。
例えば、テサロニケの信徒への手紙二、3章12節で、パウロは、『そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。』と語っています。仕事をして、収入を得て、パンを手に入れるということ、これが否定されているわけではないのです。それでは、何が否定されているのでしょうか?
30節には、『あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。』とありますが、何が問題なのかと言いますと、『世の異邦人が切に求めているもの』、つまり、主イエスは生活の必需品のために、過度に心配することを戒めているのです。さらに、『世の異邦人』、つまり、信仰を持たない人たちは霊的なことよりも、物質的なことに関心が強いのです。生活の必需品のために、過度に心配するのは、信仰を持たない人たちの特徴だと言うのです。主イエスの弟子たる者は、神様の備えを信じて、霊的な関心を第一に歩むべきである、天の父は弟子たちの必要をご存知である、と仰っておられるのです。それでは、弟子たちは何を求めたら良いのでしょうか。
31節には、『ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。』とあります。主イエスが、『神の国』と言われた時、その言葉を聞いて弟子たちは、どう理解したのでしょうか。弟子たちは、ユダヤ人で、旧約聖書の預言を理解しています。そのような中で、弟子たちは主イエスのこの言葉を理解したのです。そして、弟子たちが理解した、主イエスの『神の国』の意味は、メシア的王国、メシアが王となって統治する地上の王国、千年王国のことなのです。従って、主イエスがここで、弟子たちに求めているのは、メシア的王国及びそれに付随した永遠に続くものを求めるべきであるということなのです。私たちが第一にしているものが、永遠に続くものかどうなのかということが、ここで問われているのです。そして、『神の国』が実現するための働きに参加すべきであると言うのです。そのような奉仕は永遠に残ると言うのです。『神の国』が地上に成就することを信じた私たちは、『神の国』が地上に実現するための働き、永遠に続くものを求めるべきであると言うのです。一時的な地上の食べ物や衣服に過剰に思い煩うのではなくて、やがて来ようとしている『神の国』を求めること、そして、永遠に続くものを求めなさいと、主イエスは命じられているのです。そして、この主イエスの命令が素晴らしいのは、この命令には約束が伴っているのです。『神の国』を求めるのなら、必要なものはそれに加えて与えられるという約束なのです。
しかし、今のこの世界はアダムの罪によって堕落した状態にあるというのが、現実なのです。理想的な世界ではないのです。このため、このような約束が与えられてはいますが、弟子であっても予想しない苦難に会うことがあるのです。これがこの世の世界の現実なのです。ですから、必要なものは与えられるという大きな約束はあるのですが、その中には罪多き世界という現実の中で、苦難が襲ってくることはあるのだということです。しかし、大切なことは、今からそのような苦難を心配する必要はないということです。たとえ苦難に会うことが来るとしても、その時が来れば、必ず恵みによって支えて下さるからです。恵みというのは、超自然的な力によって支えてくださるということです。ですから、今、それを心配する必要はないのです。
■小さな群れよ、恐れるな。
本日の聖書の箇所の32節には、『小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。』と記されています。主イエスは、今、弟子たちに語りかけています。主イエスが導いている群れは、小さな群れなのです。握り潰せば、消えてしまうような小さな群れなのです。しかも、彼らは今、ファリサイ派の人々や律法学者たちから敵視されていたのです。ユダヤの宗教的指導者たちから目をつけられている、そういう現実の中にいたのです。主イエスが、『ただ、神の国を求めなさい。』という教えを与えましたが、おそらく弟子たちは『ただ、神の国を求めなさい。』という命令を聞いて、さらに恐れを覚えたのではないかと思います。その様子を見て、主イエスは彼らに何とおっしゃられたのかと言いますと、『小さな群れよ、恐れるな。』とおっしゃられたのです。なぜでしょうか。次の約束があるからです。『あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。』とあります。あなた方に神の国を与えるのは、父の御心だと言うのです。主イエスに従う弟子は、天の父の所有物を相続するようになる。主イエスと共に、被造世界を相続するようになるのだから、恐れる必要はないというのです。『小さな群れよ、恐れるな。』というこの言葉は、私たちにとって、大きな励ましだと思います。
次に、33〜34節には、『自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」』と記されています。ここでは、擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積むための具体的な道が示されています。それは、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」ということです。自分の持っているものを全て、貧しい人にあげてしまう、それが富を天に積むことだと言われているのです。これはすばらしい愛の行為です。貧しい人、困っている人のために自分を犠牲にして尽くす、究極の愛の行為であります。天に富を積むとは、そういう愛の行為をすること、世のため人のために尽くすこと、良い行いをすることだということなのでしょうか。このような良い行いを神様が私たちの富として天に蓄えて下さり、後で豊かに報いて下さる、ということなのでしょうか。ここでは、持ち物を売り払って施せというのは、私たちの富、蓄えを全て捨てよということです。それでは、安心、確かさの基が失われてしまいます。
私たちは、自分の富、自分が持っているものを、確保して、自分の人生の土台としたい、しっかりとした拠り所を得たいと思っています。天に富を蓄えることで、それが保証されるならそうしようと思います。しかし、主イエスがここで求めておられるのは、自分の富を捨てると言うことです。それは、自分が持っているものや様々な意味での自分の富として信頼しているもの、心の拠り所を捨てると言うことです。主イエスが、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と言われたのは、愛の業、良い行いという富を蓄えなさいという意味ではありません。ここで、主イエスは「施す」ことを言われたのでなく、「自分の持ち物を売り払う」こと、つまり、自分の富、財産を捨てることを言われたのです。自分の持っているものにより頼み、そこに安心、確かさを求めることをやめることです。
アメリカ人のある男性が、テレビ局のインタビューに答えているのが、放映されたことがあります。若い時に実業家として成功し、日本円で300億の財産を築いたのです。ところがその後、その人は事業に失敗し、自己破産して、現在は、奥さんと1L DKの部屋に住んでいるのです。そこにテレビ局の取材が入ったのです。
「財産を得た幸せ、財産を失った不幸、あなたは今どのようなお気持ちですか。」とインタビュアーが尋ねます。随分な質問だと思います。しかし、インタビューを受けた彼は、穏やかに答えるのです。
「信じてもらえないかもしれませんが、今の方が幸せです。」
インタビューアーが「うそでしょ?」と再度聞くと、彼は次のように答えました。
「300億稼いだ時、私が何を考えていたか教えましょう。この300億をどうやって500億にしようかと考えていたのです。その時どれだけ不安だったか。もっともっとという思い、そしてそれを失ってしまったらどうしようという恐れ、全てを失って、初めて落ち着いた生活ができるようになったのです」。
天に富を積むとは、そういう地上の富を捨てることです。自分の豊かさを求め、それにより頼むことをやめることです。それではいったい何を拠り所として生きればよいのか。それは天の父なる神様の恵みです。 私たちが持っていると思っているものは全て、自分の物ではなくて、神様から委ねられ、与えられているものです。自分に与えられた豊かさにより頼んで生きることをやめ、全てを与えて下さる天の父である神様の恵みにより頼んで生きる者となること。そのことこそが、『天に富を積む』ことなのです。私たちは神様の恵みによって与えられているものを、喜んで用いているだけの者なのです。ただ、神様が与えて下さる恵み、憐れみに拠り頼んで生きるしかない者なのです。自分の物ではないないのですから、喜んで他人に施すことができるのです。それは与えられているものを自分のものとしないで、神様から与えられた物として用いることになります。私たちが愛の行いをするなどと言うことではなく、感謝をもって、神様から託された物を神様が喜ばれるように用いたということになるということなのです。カルヴァンは『富はわれわれの物ではなく、神の物である』と言いました。主イエスはマタイによる福音書25章40節で、『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』とおっしゃられているのです。
■あなたがたの心のあるところ
主イエスは34節で、『あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。』とおっしゃられています。何故、天に富を積まなければならないのかと言いますと、あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるからなのだ、と言うのです。地上の富、天における富とは、あなたがたの心はどこにあるのか、ということが大切なのです。それは、私たちは、私たちの心をどこに置いているのかということです。富のあるところに、どうして心があるのでしょうか。富が何故大事なのでしょうか。富とは何でしょうか。富は私たちの命を守るもの、生活を守るものだ、と考えているからです。確かに、私たちの地上の肉体における生命はそれによって支えられます。いや、究極的には地上の富によって、肉体の生命を完全に守ることは出来きません。この地上の富は死を防ぐことができないからです。これが私たちの限界であります。死さえに打ち勝つ道とは、天に富を持っていることです。神様が富と認めて下さるものを持っているということです。神様に喜んでもらえるという確信です。その時、死の棘である罪に打ち勝つことができるのです。この地上における、私たちの信頼するもの、拠り処とするもの、頼むものと言うのはいつ形が変わるか分からないなのです。そのようなものにしがみつく生き方ではなく、変わることのない、まこと父である神様を頼みとする生き方ができるのです。その神様が、地上に御子イエス・キリストとして来られました。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事とは、私たちのために、このような、決して失われることのない富が天に蓄えられたということです。主イエスのお言葉は、私たちが富として寄り頼んでいるもの、最も大事にしているもの、そこに私たちの心が向いている、と言うことです。その私たちが富として寄り頼んでいるものが地上の富、自分の豊かさであるならば、私たちの心はそこへと、つまり自分自身へと向いているということです。もしそれが天の富、神様の恵みであれば、私たちの心は神様へと向いている」、ということです。私たちに問われていることは、私たちが何を本当に自分にとっての富として、拠り所としているかということです。その問いに対してどう応答して行くのか。そこでは、神様が主イエスにおいて与えて下さった恵みこそ私の富です、そこにこそ私の拠り所があります、と答えること、それが「富を天に積む」ことなのです。私たちは、主イエスの勧めに従って、歩んでゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。