小倉日明教会

『神の前で豊かになる』

ルカによる福音書 12章 13〜21節

2023年8月20日 聖霊降臨節第13主日礼拝

ルカによる福音書 12章 13〜21節

『神の前で豊かになる』

【奨励】 川辺 正直 役員

渡辺和子 『絶えず祈りなさい』

 おはようございます。さて、カソリックの修道女で、学校法人ノートルダム清心学園理事長であった方に、渡辺和子さんという方がおられました。9歳の時に2・26事件に遭遇します。お父さんの居間で、当時陸軍大将で教育総監だったお父さんが青年将校に襲撃され、44発の銃弾で命を落としたのを、わずか1mほどの距離から目の当たりにした人です。その後、聖心女子大学に進学し、卒業後、上智大学国際学部事務局で文書作成のアルバイトをしながら、1954年上智大学大学院西洋文化研究科修士課程を修了します。29歳でナミュール・ノートルダム修道女会に入会します。31歳になったときに、アメリカボストンの修道院へ派遣され、修道女会の指示により、1962年にボストンカレッジ大学院で教育学博士号を取得したのちに帰国し、岡山県のノートルダム清心女子大学教授に就任するのです。1963年に36歳という異例の若さで、ノートルダム清心女子大学の日本人で初の学長に就任したという人です。この渡辺和子さんは、アメリカボストンの修道院での思い出を次のように綴っています。

 ボストンのほうで修練をさせていただいて、それからこれまた命令で、学位を取って帰るようにと。それも、いわゆるPh.D.という割に良い学位なのだと思いますけれども、それを取って帰るようにと。私も母があと5年ぐらい生きていてくれるだろうかと思いましたけれども、命令ですし、もう自分が決心をして入った修道院ですから、そこで修業を、同時に勉強をさせていただきました。その修練期という、入ってすぐの1年間、私はいろいろなお仕事を。そのころは100人ほど、シスターの修練をしている方たちが、アメリカにいらしたのです。

 今、カトリックのシスターに入会なさる数は本当に少なくなりました。私どもの修道院でも、後が続きません。今、それが一つの大きな問題なのです。あまりにも世俗化した修道院と同時に少子化の時代で、ご実家のお父様・お母様が自分の娘の子どもを見たい、おじいちゃま・おばあちゃまが孫の顔を見たい。だから、修道院なんかにはやらないでと。そういう、どうしても時代の世相だと思います。

 そんなこともございましたけれども、私がアメリカへ行ったころは100人ほどの修練女がおりまして、そして私たちはみんな手分けをして、お手洗いの掃除、お庭の草取り、アイロンがけ、または洗濯物干し、お食事の下ごしらえと、いろいろなことを命ぜられました。私は、8月のとても暑い日でございましたけれども、お皿並べ、配膳をその1週間、自分の義務として働いておりました。そして、そのころはまだ本当に、私は30いくつ、今から50何年前でございますから、エアコンなどもございませんので、汗をだらだら流しながら、これよりも、もっともっと複雑な修道着を着てお皿を並べておりました。

 私も行った当初は、これが修道院なのだ、何でも言われたことを言われたようにする。初めは、ちょっと幼稚園に逆戻りしたのではないかと思ったこともございましたけれども、「ああ、こういうことに耐えなければ」と。自分としてはばかばかしいと思うような、キャリアをしていた人間としては、「どうしてこんなことまで院長さまに聞かなきゃいけないの」、というそういう気持ちを持っておりましたが、でも何とかそれに慣れて、配膳で100人のお皿を並べて、その脇にコップを置いて、フォークとナイフとスプーンを並べて、そしてパイプいすを一つ一つの前に置いていく。ある意味で、小学生でもできる仕事なのです、肉体労働で。そして、ある意味で易しいお仕事、そんなことが自分の心の中に生意気に入ってきておりました。そうしたら、後ろに修練長、アメリカ人の背の高い50代ぐらいの方でしたけれども、立っていらして、「あなたは何を考えながら仕事をしているのですか」と、英語でお尋ねになりました。”What are you thinking?”私は、何かくだらないことを考えていたと思うのですけれども、それを英語で言うのも面倒くさかったものですから。何も考えておりません。”Nothing.”と、申し上げたのです。それをお聞きになったら、その修練長が、とても厳しいお顔をなさったのです。そして、何とおっしゃったか。 「あなたは時間を無駄にしている。」”You are wasting time.”と、おっしゃったのです。

 私は、アメリカ人のところで慣れていましたから、仕事も結構手早かったのです。おしゃべりもせず手早く、そして、言われたことを言われたようにしているのに、なぜ叱られたのか。あなたは時間を無駄にしていると叱られなければいけないのだろうかと思いました。そうしたら、シスターが今度は優しい顔つきになって、「同じ並べるのだったら、やがて夕食にお座りになる一人ひとりのために、祈りながら置いていってはどうですか」、と。「お幸せに、お幸せに、お幸せに」と。それまで私は、「つまらない、つまらない、つまらない」、と思って置いていたのですが。それが、同じ仕事をするのだったら、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。それが入ってくるのです。つまり、つまらない、つまらない、つまらないと仏頂面をしている私に、やがてお座りになる一人ひとりのために祈りながら、絶えず祈りながら。何をするにも、小さなことをするにも。お御堂に行って手を合わせている、そういうお祈りではなくて、どうぞ、ここにお座りになる方がお幸せに、そのお気持ちだと思います。そして私に、「時間の使い方はそのまま命の使い方です」、と教えてくださいました。私たちが何気なくしているお仕事、それは本当に何気なくで、かまわないのです。ですけれども、時たま立ち止まって、私はこれを誰のために、何のために、どういう意味を持っているお仕事なのだろうと考えて初めて、人間は 神様の被造物として、神様が作ってくださったかけがえのない、理性と自由意思を持った人として、恥ずかしくないのだと思います。

 渡辺和子さんはこのように語っておられるのです。主イエスは、勤勉に働いて真剣に生きることを否定されませんし、「地上」ではなく、「天に」財産を蓄えることの大事さを繰り返し語っておられます。本日の聖書の箇所を通して、人は何によって生きるか、ということについて、皆さんと共に学びたいと思います。

割り込んで来た群衆の1人

 ルカによる福音書9章51節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅という大きな枠組みの中で、様々な機会を捉えて、主イエスが弟子たちに語った教えが語られています。そして、本日の聖書の箇所を含むルカによる福音書12章1節〜13章17節は、一つの大きなブロックなのです。このブロックは、前のブロックで明らかになった、主イエスと主イエスが語る福音に対する拒否という現実の中で、弟子としていかに生きるべきかを教える、連続したメッセージなのです。この世から歓迎されるわけではない、その中でいかに生きるべきかが語られるのです。そして、このブロックの最後に出てくる腰の曲がった婦人の病の癒しは、主イエスの教えの信頼性を保証するしるしとなっているのです。

 そして、前回お話しましたルカによる福音書の12章1節には、『とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた』とあります。「まず」と言われているのは、主イエスがまず弟子たちに向かって話され、次に群衆に向かって話されたからです。12章1節から始まるこの場面は、13章9節まで続き、13章10〜17節に腰の曲がった婦人の病の癒しが出てくるのです。そして、1節には「まず弟子たちに話し始められた」とあり、54節には「イエスはまた群衆にも言われた」とあります。つまり、53節までは基本的に弟子たちに向かって、54節以下では群衆に向かって、主イエスは話されているのです。主イエスは自分のもとに集まって来た大勢の群衆ではなく、まず弟子たちに向かって話されたのです。ところが本日の箇所では、その冒頭で群衆の一人が主イエスに話しかけ、それに答えて主イエスが語っています。この箇所の直後の22節には「それから、イエスは弟子たちに言われた」とあり、主イエスは再び弟子たちに向かって話されていますから、本日の箇所は、主イエスが弟子たちに向かって話している話と話の合間に、1人の群衆が割り込んできて、主イエスに話しかけたのです。

 遺産相続のトラブル

 群衆の1人はこのように言いました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。この人は遺産相続についての不満を抱えていたようです。今も昔も、遺産相続の問題は、ややこしいことが分かります。ここで、手続き的な話をしますと、ユダヤ人たちは、法律的な争いごとが起きると、ラビのところに行って、裁定をお願いしていました。ラビというのは、ユダヤ教の専門家であり、ラビが裁定を下していたのです。ユダヤ人の律法では、相続の場合には、取り分が決まっていたのです。財産を息子たちに継がせるときには、長男に2倍の遺産を与えることになっていたのです(申命記21章15〜17節)。従って、兄弟が3人いた場合には、長男が1人で、弟が2人ですから、この場合には、財産を4分割して、長男が4分の2、弟たちがそれぞれ、4分の1ずつもらっていたのです。ユダヤの律法で、兄弟各人の取り分が決まっているので、本来は、争いは起こらないはずなのです。しかし、遺産相続の場合には、誰を長男とするのか、本当に父親の息子なのかというように、様々なことが争いの種となるのです。そういうことを背景に、遺産相続のことしか考えられない状態にあった男の人がいて、彼の兄の半分の遺産では満足できず、自分の分け前をもっと増やすよう求めていたのではないかと思います。もっと言えば、彼は主イエスを利用して、遺産相続で自分の取り分を増やそうとしていたのだと思います。「先生」という呼びかけは、この人が主イエスを律法の先生と見なし、律法について教え、その規定に従って裁定したり調停したりする指導者と見なしていたことを示しているのです。

 ここで、主イエスは、この人に向かって語っていますが、実際には弟子たちへのメッセージとして語りかけているのです。さて、主イエスはこの人の求めに対してこのように答えられました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。この主イエスのお言葉は、この人の求めを冷たく拒んだ言葉のように思えますが、ここで主イエスが言われているのは、ご自分がユダヤ教の律法の先生とは違うということです。主イエスは人々の生活上の問題を律法の規定に従って解決するために世に来てくださったのではありません。律法の規定に従っていかに生きるかを示すためではなく、罪人を救うために来られたのです。私たちが神様と共に生きられるようになるため、そして、私たちが神様と共にいかに生きるかを示すために世に来てくださったのです。この段階での主イエスの視線は、十字架に向けられているのです。

貪欲に用心しなさい

 続けて主イエスは、この問題は単にお金の問題ではなく、精神的、霊的な問題であることを指摘されています。そこで、主イエスは、この人だけでなく、そこにいたすべての人に向かって次のように言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。ここで、貪欲とは「もっともっと欲しい」という欲求です。それは、十分に持っているにもかかわらず、それ以上に「もっともっと欲しい」と求めることです。

 もちろん貪欲は、遺産を始めとするお金だけに関わるものではありません。物質的なものであれ、そうでないものであれ、今、持っているものに満足せず、「もっともっと欲しい」と求めることが貪欲だからです。たとえば今の自分の地位や名声に満足できず、より高い地位や大きな名声を求めることがあります。あるいは今の自分の置かれている境遇に満足できず、より良い境遇を求めることがあります。そのような貪欲が起こるのは、あるいはそのような貪欲に拍車がかかるのは、自分と人を比べることによってです。その人と同じ境遇を、その人よりも良い境遇を欲します。人と比べることによって、私たちはその人が羨ましくなり、自分の持っているものに満足できず、もっともっと欲しいと求めるようになるのです。主イエスはこのようなあらゆる貪欲に注意を払い、用心しなさいと言われたのです。

 主イエスは貪欲に対する注意の喚起に続いて、人生のあり方、人生のクォリティ、質について語っておられます。人生のクォリティは財産がどれだけあるかによって決まるのではないのだ、人間としてのあり方がその人の豊かさを決めるのだと言っているのです。人生の質を破壊するものが、貪欲だと言ったのです。この主イエスが語った言葉は、紀元1世紀のユダヤの人々にとっては、驚くべき内容となっています。主イエスの周りに集まってきた群衆のほとんどの人は農民であったと思います。僅かばかりの農地を耕している人もいたことと思います。あるいは、農地を持たない小作農として働いている人もいたことと思います。この人たちは、自分が所有する農地を増やして、自分の収穫物を増やすことが夢であったのです。そうなったら、自分たちは豊かな生活を送ることができるようになると思っている人々の真ん中で、主イエスはいくら豊かになっても、決して本当の豊かさは来ないよと言ったのです。本当の豊かさは、その人のあり方、存在そのものにあるのだよ、と主イエスはおっしゃられたのです。さて、このことを主イエスが言われてから、2000年が経過した、現代の日本で、私たちはどれほど進んだ価値観を持っているでしょうか?多くの人が、この主イエスの教えを聞いた時に、小馬鹿にしたり、笑ったり、無関心でいたりするのではないでしょうか?なぜでしょうか、それは主イエスの見る目と、私たちの見る目とは異なっているからです。この世の物差しでは、富が増せば、増すほど、豊かそうに見えるのです。あるいは、立派そうに見えるのです。しかし、主イエスの物差しでは、その人の価値は、その人のあり方そのものにあると言うのです。この主イエスの言葉は、あなたの豊かさはどこにありますか、と私たちに価値観と人生観の変更を迫る言葉なのです。そして、『貪欲』に囚われた価値観、人生観に注意しなさいということを、もっと分かりやすく教えるために、よく知られた、有名なたとえ話を主イエスは話されるのです。

『愚かな金持ち』のたとえ

 たとえ話というものは、聞いている人にはすぐにはわからないものです。従って、主イエスは『一同に言われた』とありますが、信じていない人には意味が不明で、弟子たちにだけ分かる話をしていると考えるべきだと思います。従って、このたとえ話も弟子たちへの教えとなっているのです。さて、たとえ話の内容は次のようになっています。16〜19節には、『それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』』とあります。たとえ話は、実際の生活の中で、日常的に起こり得る話です。実際には起こり得ないおとぎ話の場合には、寓話あるいは寓喩と言います。主イエスの話しているこの話は、日常的に起こり得る話なのです。世の中には、私たちが想像できないどの大金持ちと呼ばれる人たちがいて、自分がどれくらいの資産を持っているかが分からないのだそうです。どれくらいの資産を持っているのか分からないくらいのお金持ちが、主イエスのたとえ話に登場するお金持ちなのです。主イエスが幼少期を過ごされたナザレの北西、約6kmのところに、現在はツィポリと呼ばれているセフォリスという町があります。セフォリスは、主イエスの時代、ガリラヤ地方の最大の都市で、ギリシア・ローマ風の都市であったところで、特にビザンチン時代に栄えた裕福な都市です。このセフォリスを発掘すると、当時の建造物がたくさん出てきているのですが、そこに一つの興味深いものが発掘されたのです。

 裕福な不在地主というのは、農地をたくさん持っているわけですが、農地は小作農に耕させて、自分は便利な都市に住んでいて、近くの農地に巨大なサイロを作っているのです。サイロというのは、穀物を貯蔵する円筒状の倉庫ですね。そういうサイロを作っているのです。従って、今日の話のこの金持ちも、小作人に耕させて、収穫物を自分が住んでいる近くの農地のサイロに貯蔵していたと考えられます。先程のセフォリスからは、巨大なサイロがいくつも見つかっているのです。このたとえ話に登場する金持ちは、そういう富豪なのです。当時、このような少数の富豪は、どれ位いたのかと言いますと、考古学者の研究によれば、おそらく人口の1%以下であったろうと言われています。この金持ちは自分で働く必要がないのです。自営農の人々も、小作農の人々もこのような金持ちのライフスタイルに憧れていたのです。主イエスがこのような金持ちのライフスタイルの話をしているのは、このようなライフスタイルに潜む危険について、語っているのだと思います。英語で『セレブリティ(celebrity)』という言葉があります。日本語では、その言葉を略して、セレブと言っています。英語の『セレブリティ』というのは、本来は有名人、著名人といった意味が強いのです。しかし、日本語で『セレブ』と言いますと、金持ちである、優雅である、高級な趣味を持っている、そんな意味が強いかと思います。特に、日本語で『セレブ』といった場合、形容詞のように使われます。従って、『セレブな人』、『セレブ犬』といった言葉の使われ方をします。そういう意味で、本日の聖書の箇所の金持ちは、日本語の『セレブな人』という言葉がピッタリとハマる人だということが言えます。この人は、セレブなのです。セフォリスの町のセレブで、その町では、知らない人はいないくらいの、みんなが羨ましがっているセレブの話なのです。

 さて、セレブにはセレブの悩みがあると言うのです。私たちのような庶民には分からないような悩みがあると言うのです。豊作になって、収穫物を蓄えておく場所がないほどになってしまったというのです。そこで、彼はどうしたら良いかと、頭の中であれこれと考え始めるのです。そして、出てきた結論が、最低の結論であったのです。18〜19節にありますように、貯蔵するサイロが小さいので、もっと大きなものを立てればいいのだと考えたのです。そして、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(19節)と、言ったのです。これは、誰もが憧れるセレブの生活です。働かなくても、毎日、好き放題やって、生きていけるのだと、この金持ちは言ったのです。

神の前に富まない者

 この金持ちの言ったことに対して、この人のことを神様は何とおっしゃられているかと言いますと、『愚かな者』と言っているのです。本日の聖書の箇所の20、21節には、『しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」』とあります。

 この金持ちの希望はやっと満たされたかに見えたが、しかし、その時待ち受けていたのは、彼の死であったのです。神様の言う、『愚かな者』とは、詩編14篇1節に、『神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。』とありますように、神様を忘れた者のことです。この金持の大きな誤りの1つ目は、この世の自分の命を、希望通りにいつまでも長く、自分で持ち続けうると、考えたことです。自分の命も魂も、神様からの預かりものであり、時期がくれば神様の御心次第で引き上げてしまわれるものであること、即ち人の寿命を支配しているのは神様であるという重大な真理を、この金持ちは頭に置いていなかったことです。

 この金持の誤りの2つ目は、自分のために沢山の資産を蓄えることにより、自分の魂に平安を与えうると考えていたことです。肉体的に楽をして、自分の好きなことをしておれば、その暮らしが裕福でおだやかなのに平行して、自分の魂もそれで平安であることが出来る、とこの人は考えています。これは彼が、人の魂の平安とは何であるかを考えていなかった誤りでした。人の魂の平安はどんな時にも神様が共にいて下さることによって与えられるものだからです。

 この金持の誤りの3つ目は、他人のことなど考えてみたこともない様な、ただ自分のことだけを考えているという自己中心的であったということです。17〜19節には、日本語訳には訳出されていない言葉があります。その訳出されていない言葉をいちいち訳出して直訳すると、『金持ちは、『どうしよう。私の作物(my cropsをしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。私の倉(my barnsを壊して、もっと大きいのを建て、そこに私の穀物(my grain私の財産(my goodsをみなしまい、こう私の魂(my soulに言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』』、となりますように、「私の」という語が、ギリシヤ語原典や英語訳では5回も使われていて、「今だけ・金だけ・自分だけ」を追及する、自己中心性(エゴイズム)と富(マモン)崇拝のなかに埋没してしまい、人間として共に生きる隣人も神様も見ることなく、あたかも自力で生き続けることができるかのように思い上がってしまったことでした。収穫物が満ちあふれる殼倉に魅惑されてしまい、神様の恵みによる産物であることを認めない傲慢によって、彼は「貪欲」という欲望の罠に捕らわれてしまったのです。

 このような誤った考えのために、この金持ちは、はかない生涯を閉じなければなりませんでした。この金持ちはこの世限りの金持ちであって、神様の所には何の蓄えもありません。神様の目には、全く価値のない、『愚かな者』と認定されることになってしまったのです。この金持は、自分のことだけを追い求めるのでなく、神様のことを思い、隣人のことを顧みて、そのために彼の豊かな財産を用いるべきだったのです。ここで、触れておかなくてはいけないことは、労働して富を得ること、労働して対価を得ることは、罪ではないということです。聖書は労働を高く評価しています。最初にお話しました渡辺和子さんのお話しにありましたように、労働は礼拝でさえあるというのが、聖書の立場です。また、富を蓄えて、将来のために計画することも罪ではありません。むしろ、備えがないことは、怠惰であり、愚かです。しかし、ここで彼が愚か者と言われているのは、富を蓄えたことや、将来のために備えたことが愚かなのではないのです。彼の愚かさは、全部、自分のものだと思い込んで、与えられている富の使い方が自己中心的になっているところが、問題なのです。

神の前に豊かになる

 紀元4世紀にミラノの大司教となった聖アンブローズという方がいます。彼は、今日の聖書の箇所について、次のような言葉を残しています。彼はこう言っているのです。『貧しい人々の懐、やもめの家、子どもたちの口、これらこそが永遠に残る倉である。』。今日の聖書の箇所のセレブの金持ちは、自分のために蓄えようとして、倉の増改築を考えました。それは、愚かだと神様はおっしゃるのです。本当に蓄えるべき倉は天国にあるのです。その富の使い方は、神様の愛を反映させて、隣人を愛する目的のために使うところに価値があるのだと神様はおっしゃっておられるのです。それが、主イエスが21節で「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われていることの意味なのです。「神の前に豊かになる」は、直訳すれば「神の中へ豊かになる」となります。それは、神様の中へ入れられ、その恵みの内に入れられて豊かになることであり、神様と共に生きることによって豊かになることにほかなりません。私たちが神様の前に豊かに生きるとは、私たちのために独り子を十字架に架けてくださった神様の愛の中で生き、いつ死を迎えるとしても自分の命を神様に安心して委ね、世の終わりの復活と永遠の命の約束に希望を置いて生きることです。

 主イエスによって自分の生活を変えられていくのです。どう変えられるのか。根本的なことは、人は何によって生きるか、についての考え方が変わるのです。自分が持っているもの、蓄えているものによって人生が決定づけられるという偶像から解放され、私たちに命を与え、それを養い育み、そしてそれを取り去られる父なる神様と共に生きる者となるのです。そのように変えられることによって、日々の生活もまた変わっていきます。主イエスはここで、自分の労働の対価を得ることをいけないと言っておられるわけではありません。しかし、その時に、自分は何によって生きているのか、生きようとしているのか、自分の持っているものに依り頼んでいるのか、それとも父なる神様の恵みに信頼し依り頼んでいるのか、ということを常に振り返ることを求めておられるのです。そこには、自分に与えられているものを、自分の倉にしまいこむだけでなく、隣人のために用いていくという生き方が与えられます。貪欲から解放されるとはそういうことです。私たちは、本当に賢い生き方、自分のために富を積むのではなく、父なる神様から与えられている恵みによって、豊かにされて生きて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。