■教育者、津田梅子
おはようございます。さて、今年の7月3日から、日本の紙幣のデザインが新しいものに変わります。5千円紙幣の肖像画に使用されるのは津田梅子です。津田梅子という人は、現在の津田塾大学の創設者で、日本の女子高等教育の先駆者なのです。津田梅子のお父さんの津田仙も、幕府の通訳官を努めた後、青山学院大学の創立にも関わった、日本の近代化の基礎を築いた教育者でした。そして、この津田梅子と仙は二人ともクリスチャンだったのです。当時、クリスチャンの存在そのものが珍しかった時代に、親子二代のクリスチャンとして、日本の未来の基礎を築いたのです。
津田家の人々の中で、最初にクリスチャンとなったのは梅子でした。彼女は明治4年、岩倉使節団の一員として6歳でアメリカに渡ったのです。そして、そのまま11年間をアメリカで過ごしたのです。彼女がホームステイしたのは、ワシントン近郊のジョージタウンに住むランマン夫妻の家でした。そして、このランマン夫妻はクリスチャンだったのです。毎週日曜日、教会に行くにつれ、言葉の理解も進み、心も解かされ、8歳の頃、イエス・キリストを信じ、洗礼を自ら志願したのです。洗礼式を行った司祭は当初、梅子に幼児洗礼を授けようと考えていましたが、彼女がたいへんしっかりしていたことから、成人の洗礼を授けたことが記録に残されています。キリストを受け入れた彼女は喜びに満ちました。罪の赦しと天国の希望が嬉しくてならなかったのです。
このランマン家の敷地の中にお庭番の小屋がありました。そこに黒人の夫婦が住んでいたのです。彼女は毎日のようにその小屋に通い、文字が読めない彼らに聖書を説明し、福音を伝えたのです。「私らが天国に入るニュースを聞くことができたのは、あのお嬢ちゃんが熱心に伝えてくれたからだ」とこの夫婦は言っていたそうです。さてその頃、日本から悲しい知らせが届きました。彼女の弟が病気で死んでしまったのです。悲嘆にくれる母親に対して、弟の魂は天国にいるということを、そして、天国で神に大歓迎され慰められているということ。そして、「お母様があの子と再会するためにはお母様もキリストを信じて欲しい。そうするならば必ず再会できるから」と伝えたというのです。それがきっかけで両親も教会へ通うようになり、とうとう両親ともにキリストを信じたというのです。さて、本日の聖書の箇所で、主イエスは福音の最も重要なポイントである、神の国と主イエスの再臨について語っているのですが、とても難解な箇所です。この箇所を、みなさんと共に読んでゆきたいと思います。
■神の国はあなたがたの間にある
さて、本日の聖書の箇所のルカによる福音書17章には、20〜21節の主イエスがファリサイ派の人々に向けて答えられた教えと、22〜37節の主イエスが弟子たちに向けて語られた長い教えとがあることが分かります。本日の聖書の箇所は難解で、長い箇所ですが、順に見てゆきたいと思います。まず、20〜21節を見ますと、『ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」』と記されています。ここで、「神の国はいつ来るのか」とファリサイ派の人々は尋ねています。それは『神の国が来る』ということを前提として、それが『いつ』なのかを知りたいという問いです。神の国が来ることは、問うた人も問われた主イエスも、当然の前提としてこの問答がなされているのです。従って、私たちは、この前提について、受け入れる必要があると思います。今日、日本のキリスト教会では、このことがあまり語られることがないからです。
この問いを主イエスに投げかけたのは、ファリサイ派の人々だったと20節にあります。主イエスの弟子たちではなくて、ファリサイ派の人々がこのように問うていることに、私たちは注目する必要があると思います。なぜなら、ファリサイ派の人々は、主イエスを受け入れておらず、主イエスに対して、批判的、対立的な姿勢を取っている人々であったからです。
主イエスに敵対するファリサイ派の人々にとっても、『神の国が来る』ということは、当然の前提で、大きな関心事であったのです。つまり、この問いは、当時のユダヤの人々が普通に抱いていた思いであり、期待であったのです。神の国の『国』という言葉は、『王としての支配』という意味です。ですから「神の国が来る」というのは言い換えれば、『神の王としてのご支配が来る、それが実現する』ということです。ユダヤ人たちはそのことを信じ、期待していたのです。期待する、というのは、現在はまだそれが実現していない、ということです。それでは今支配しているのは誰か、それはユダヤ人たちの当時の状況から言うならば、主なる神様の民であるはずの自分たちを、圧倒的な軍事力によって征服し、支配しているローマ人によるローマ帝国だということです。従って、当時のユダヤ人たちは、神様は、いつまでも敵対する者たちの支配を許しておかれるはずはない。神様がまことの王となり、支配して下さる神の国がいつか必ず実現するはずだという、神の国の到来を待ち望む信仰、期待があったのです。ファリサイ派の人々はその期待に基づいて、神の国はいつ実現するのか、と問うたのです。それに対して、主イエスは、神の国はあなたがたが期待し、思い描いているような仕方では来ない。それは実は既にあなたがたの間にあるのだ、とおっしゃったのです。
私たちが現在使用している新共同訳聖書では、『あなたがたの間に』という言葉で翻訳されています。この箇所は以前の口語訳聖書では『あなたがたのただ中にあるのだ』となっていました。さらに昔の文語訳聖書では、『汝らの中(うち)に在るなり』でした。この翻訳の変遷において見えてくることは、この言葉の意味を間違って受け取られる恐れのあった訳が次第に修正されてきた、ということです。つまり、口語訳聖書や文語訳聖書の訳ですと、神の国はあなたがたの心の中にある、という意味にとらえられがちです。従って、神の国と言いますと、この地上に於いて実際に実現するようなものではなくて、人間の心の中、内面にある、のを比喩的にそう言っているのだよという解釈をお聞きになられた方も多いかと思います。しかし、新共同訳の『神の国はあなたがたの間にある』という訳は、人間の心とか内面を意味しているのではなく、あなたがたが集っているそのまん中に神の国が現にある、という意味を明確にしていて、翻訳として分かりやすく、優れていると思います。
そして、ここで『あなたがた』と言われているのは、弟子たちではなくて、『神の国はいつ来るのか』と問うたファリサイ派の人々です。つまり主イエスを受け入れずに敵対し、あざ笑っているそのファリサイ派の人々のまん中に、神の国は現にある、と主イエスはおっしゃったのです。それはどういうことでしょうか。今、ファリサイ派の人々のまん中には主イエスがおられます。彼らの間にいるのは主イエスなのです。『実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』。それは、主イエス・キリストご自身が彼らの間に来ておられることを指して語られているみ言葉です。神様の独り子であられる主イエスが、父なる神様に遣わされて今ここに、この地上に、人々のただ中におられる、そのことによって、神の国が、神様のご支配が、あなたがたの間に実現しているのだ、と主イエスは語っておられるのです。しかし、ファリサイ派の人々に対する、主イエスの教えはここまでです。主イエスがこのような素っ気ない教え方をされているのは、なぜかと言いますと、でもあなた方はそのことを受け入れもしないし、信じもしないでしょ、ということなのです。ファリサイ派の人々が、主イエスのことをメシアだと受け入れないことで、神の国の実現は、主イエスの再臨の時まで、延期され、初臨の主イエスは、このとき人々の救いのために、十字架に架かって死なれるために、エルサレムに向けて、旅を続けているのです。
■弟子たちに対して
本日の聖書の箇所の22節からは、主イエスを救い主と信じて従ってきた弟子たちに対する、主イエスの長い教えが続くのです。22節で主イエスはこうおっしゃいました。『あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう』。ここで、『人の子の日』とは何のことかと言うことですが、『人の子』というのは、主イエスがご自身のことを呼んでおられた言葉です。ですから、ここは、『主イエスの日』と言い換えることができます。従って、『主イエスの日』というのは、主イエスのご支配が確立、完成し、誰の目にもそれが明らかになる日、ということです。即ち、それが『神の国が来る日』ということなのです。『あなたがたが、神の国の到来、完成を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかしそれを見ることはできないだろう』と主イエスはおっしゃったのです。これはどういうことなのでしょうか。主イエスが来られたことによって、神の国は既に実現していたはずなのに、弟子たちが、その到来を見たいと望むが見ることができない、とはどういうことなのでしょうか。
弟子たちが、『主イエスが再び来られる日を一日だけでも見たい』と切に願うようになるのは、彼らが困難な現実に直面して生きることになるからです。主イエスの十字架と復活によって救われた後も、彼らはなお困難な現実を生きることになります。特に、弟子たちは、使徒言行録に語られているように、主イエスを信じるゆえに、厳しい迫害を受けることになるのです。主イエスの再臨、つまり神の国の実現を一日だけでもこの目で見たいと願うが、それを見ることができない、そういう主イエスの初臨と再臨の間の時を、私たちは歩んでいるのです。この世の様々な悲惨な現実を前にして、私たちは、神様の、主イエスのご支配、神の国の実現を一目でも見たいと願います。それは、主イエスの再臨による神の国の到来を信じるが故の嘆きであり、願いなのです。
■出ていってはならない
そのような初臨と再臨の間の困難な時を歩んでいる私たちに、主イエスはここで、弟子たちに注意をするように教えておられる言葉が23節です。『『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない』とあります。神の国、神様のご支配を見ることができない状況の中で、『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と言う人々が現れるというのです。これはどういうことかと言いますと、その再臨の主イエスがここにいる、あの人がそうだ、という人々が現れるのだと言うのです。『私が再臨のメシアだ』という怪しげな教えを語る人が現れるのが、初臨と再臨の間の時代の特徴だと言うのです。主イエスはここで、そういう話を信じるな、そういう人についていくな、と言っておられるのです。『ここに再臨のキリストがいる』、『あそこに神の国が実現している』という怪しげな教えに惑わされて、『出て行ってはならない』と語られているのです。それは、正しい教えから離れてはならない、主イエスの教えにしっかりと留まりなさい、という教えなのです。
■人の子が現れるときには
24節には、『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』という話が、怪しい教えであることの根拠が語られています。24節を見ると、『稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである』とあります。人の子が現れる、つまり主イエスの再臨によってついに神の国が完成するその時には、『稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように』、それが実現する。つまり一瞬にして、しかも誰もがはっきりと見ることができる仕方でそれは起るというのです。だから、人の子が現れたのに、多くの人がそれを知らずにいて、『実はあそこに』とか、『実はあの人が』などと教えてもらわなければならないということはないというのです。神の国の完成においては、『実は』という話は全て誤った教えなのです。そういう話が全く必要ないくらいはっきりとした仕方で、神の国が完成したことは明らかになるのです。信仰者は主イエスの再臨によるこの世の終わりに完成する神の国を信じて待ち望みつつ、主イエスの教えにしっかりと留まって歩みたいと思います。
しかし、それは雲をつかむような話であると共に、はるかに遠い将来に望みを置くようなことであって、この世の現実の中を実際に生きていくためにはあまり頼りにならないものにより頼むという話に感じられるかもしれません。しかし、主イエスはここで、弟子たちの、そして私たちの目を、そのようなはるか遠くの、世の終わりに起る事柄ばかりに向けさせようとはしておられません。むしろ私たちの目をそこから引き離して、この地上において実際に起る、私たちにとっては既に起った、一つの出来事へと向けさせておられるのです。それが25節です。『しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている』と記されています。原文においては、この文章の冒頭に『しかし先ず』と訳される言葉があるのです。英語訳聖書では、『But first』と訳されています。人の子が稲妻のように現れ、神の国が完成する、そのようにしてこの世が終わることが語られましたが、しかし、先ずその前に起らなければならないことがある。世の終わりを思うよりも先にしっかりと見つめなければならないことがあると言うのです。それは、人の子主イエスが多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥される、ということだと言うのです。『排斥されることになっている』とあります。それは、神様のみ心によって必ずそうならなければならない、という意味です。神様の独り子である主イエスが、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されるということが先ず起らなければならない、神様はそのことによってこそ、神の国を、ご自分のご支配を確立しようとしておられるのだ、だからそこにこそ、あなたがたの目を向けなさい、と主イエスは言っておられるのです。
主イエスは多くの苦しみを受け、排斥されて十字架に架かって殺される、その歩みにおいて、私たちの罪を全てご自分の身に背負い、赦しのための犠牲となって下さいました。主イエスの苦しみと死とによって、私たちの罪を赦し、神の子として下さる神様の恵みの支配が実現したのです。私たちは、この主イエスの苦しみと十字架の死にこそ、神の国の到来の確かな約束を見ることができると思います。私たちが神の国の到来を信じ、キリストの再臨に希望を置いて生きることができるのは、主イエス・キリストが私たちのために多くの苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったという事実によってなのです。主イエス・キリストは、私たちと同じ人としてこの世を歩んで下さり、私たちが体験する苦しみや悲しみを味わって下さり、また、私たちがいつか必ず迎えることになる死の苦しみをも引き受けて下さいました。それらのことを通して、私たちはこの世の悲惨な現実、苦しみや悲しみが支配しているような目に見える現実の中で、なお神の国を、神様の恵みのご支配を信じて生きることができるのだと思います。この主イエス・キリストの苦しみと死、そして、主イエス・キリストを父なる神様が復活させて下さったこと、そして、今や天に昇り父なる神様の右に座しておられる主イエス・キリストが、もう一度来て下さり、そのご支配を目に見える仕方で完成して下さる、そこに希望を置いて生きることができるようになると思います。
■神の国を見つめて生きる
26節以下には、このキリストの苦しみと死とを見つめつつ、そこに神の国の到来があることを信じ、そして、それが世の終わりにキリストの再臨によって完成することを待ち望みつつ生きる信仰者の生き方、その生き方の中で、何を大事にして歩むべきかが語られています。先ず、ノアのことが語られています。創世記第6章から9章にかけて語られている、洪水と、ノアの箱舟の話です。27節を見ますと、『ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった』とあります。人の子が現れる時にも、ノアの時と同じことが起るというのです。この話は何を語っているのでしょうか。洪水がある日突然始まったように、キリストの再臨もある日突然起る、ということでしょうか。そうではなくて、それよりも重要なことは、ノアが大きな箱舟を造っているのを見ながら、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた、ということだと思います。ノアが箱舟を造っているのは、人間の罪に対する神の怒りによる滅びが迫っている、という警告です。しかし、その警告を見ながら、人々はそれに目を留めようとせず、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりという目に見える現実的な自分の生活にかまけていたのです。
28節以下のロトの話、つまりソドムの滅亡の話も同じです。ソドムの人々の罪のゆえにこの町は滅ぼされようとしている、ロトはそのことを嫁いでいる娘たちに伝え、共に逃げ出すことを勧めますが、娘婿たちはそれを冗談だと思って聞き流し、『食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたり』という日々の営みを続けたのです。そのために彼らは滅ぼされてしまった。それは、彼らが迫っている滅びと、そこから救われるために必要な悔い改めへの招きを真剣に受け止めなかったからです。そのことは、現代の私たちに適用して言えば、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによる罪の赦しの恵みが示され、そのことによって『神の国は既にあなたがたの間にある』と宣言されているのに、その神の恵みのご支配に即して生きることよりも、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりという目に見える地上の生活のみに目を向けている、ということです。あなたがたはこのような歩みに陥らないように、主イエスの初臨によって、既に約束されている主イエスの再臨によって実現する神の国を信じ、今はまだ、そのことが目に見える現実とはなっていない、困難に満ちた、この世の現実の中で、信仰の目で神の国を見つめつつ生きなさい、と主イエスは語っておられるのです。
■命を失う者
本日の聖書の箇所の31節には、『その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない』とあります。家財道具や自分の大切なものを取りに行くな、ということです。それが32節では、『ロトの妻のことを思い出しなさい。』と記されています。ソドムの滅亡の際のロトの妻の話が記されています。旧約聖書の創世記19章23節以下の話です。ソドムから逃げていく時に、ロトの妻は後ろを振り向いたために塩の柱となってしまった、という話です。ロトの妻が後ろを振り向いたのは、ソドムに遺してきた家族や財産、あるいは自分の生まれ育った町への愛着、これまでの生活の思い出へのこだわりによることだと思います。神様による救いにあずかること、神の国にひたすら目を向けて前を向いて走って行くのでなく、自分の過去の歩みに捕われて、後ろ向きになり、前に進むことができなくなってしまうことが戒められていると思います。それは、神様の恵みではなくて、自分の持っているものによって生きようとするということです。
そのことが、33節では、『自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである』と語られています。私たちは、自分の命を、自分の力で生かそうとします。食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりという人間の営みは全てそのためになされることだと思います。この営みの中で、私たちは、自分の持っている財産や能力や人間関係を用いて、何事かを成し遂げようとしますし、あるいは、自分が成し遂げてきた業績にこだわり、それにしがみつこうとします。しかし、そのようにして、自分で自分の命を生かそうとすることは、洪水が迫っているのに、箱舟を無視することであり、滅亡が迫っているのにソドムに留まったり、滅んでいく町を振り返って、塩の柱になったりしてしまうことであり、命を失うことにつながるのだと言うのです。
■命を保つ者
33節の後半で、『それを失う者は、かえって保つのである。』とあるのは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とにおいて神の国が実現していることを信じ、その主イエスに従っていくことだと思います。主イエスに従っていくことによって、私たちは主イエスと同じように、『今の時代の者たちから排斥される』のです。『今の時代』という言葉が用いられているのは、私たちがそこに、自分が生きている今のこの時代を重ね合わせることができるのだよ、ということだと思います。主イエスの十字架に神の国の実現を見つめて生きる者は、初臨と再臨の間の困難な時代にあって、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりという、人間の営みの中には、自分を本当に生かすものがないと考え、主イエスに従って歩むのだと言うのです。そのために、今の時代の人々から排斥されることが起ります。しかし、主イエスの十字架での死と復活によって、確かなものとされている神の国を信じ、主イエスの言葉に従って歩む者こそが、永遠の命を保つ者だと言うのです。
■はげ鷹が集まるところ
34節では、二人の男が一つの寝室に寝ていれば一人は連れて行かれ、他の一人は残されると言われ、35節では、二人の女が一緒に臼をひいていれば一人は連れて行かれ、他の一人は残されると言われています。これらのことは、救われるか滅ぼされるかは五分五分だということではありません。半分が救われ、半分が滅ぼされるから、救われる半分に入るために必死に生きろ、と脅しているのでもありません。そうではなくて、私たち一人ひとりが、自分の日々の一つ一つの営みの中で、神様の支配を信じて生きることが問われているのです。たとえ二人の人が共にいたとしても、一人ひとりが問われているのです。そして、日々の営みの中に神様の支配を信じて生きる人は、人の子の日に連れて行かれるのです。『連れて行かれる』と訳されたギリシア語の「パラランバノー」いう言葉は、神の国に入れない者を意味しています。それに対して、『残される』と訳されたギリシア語の「アフィエーミ」は「取り残される」という意味で、神の国に入れる者を意味しています。従って、神様の支配を信じて生きる人は、人の子の現れるときに、再び来てくださる主イエスに迎え入れられ、受け入れられるのだということです。
最後の37節には、『主よ、それはどこで起こるのですか』という弟子たちの問いに対して主イエスが、『死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ』とお答えになったことが語られています。この弟子たちと主イエスのやり取りは、謎めいていて、難解です。弟子たちは、終わりの日の裁き、これがどこで起こるのかを知りたがったのです。主イエスは場所を教えていません。その代わりに、どういうしるしを探すべきかを教えたのです。『死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ』。これはどういうことかと言いますと、これはしるしなのです。『死体』とは、艱難期の終わりにおけるイスラエルの民の状態なのです。まさに死んだような状態になると言うのです。それに対して、『はげ鷹』とは、イスラエルの民を襲う軍勢のことです。ですから、もう瀕死の状態になっているイスラエルの民に向かって、諸国の軍勢が攻撃してくる、それを『はげ鷹』と呼んでいるのです。
従って、『神の国の到来、完成のしるしをどこに見ればよいのですか』という弟子たちの問いに対して、主イエスは、『こういうことが起っているところにそのしるしがある』、『こういうことにこそ、神の国の完成が現れている』とおっしゃったのです。その『こういうこと』を示しているのが、次回、お話しますルカによる福音書18章の1〜8節の「やもめと裁判官のたとえ」なのです。つまり、私たちがこのやもめのように、神の国の完成、神による正しい裁きの実現を信じて、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官(力)が支配しているこの世の現実の中で、気を落とさずに絶えず祈り続けていく、そういう信仰のある所にこそ、神の国の完成を指し示すしるしがある、このような祈りと信仰こそが、厳しいこの世の現実の中で、神の国、神様のご支配を現し、証ししているのだ、と語られているのだと思います。私たちがこの世の現実の中で、神の国を、つまり神様のご支配を望むことができるのは、気を落とさずに絶えず祈ることにおいてなのだ、ということが示されているのだと思います。私たちは、主イエスによって約束された神の国を信じ、困難な現実の中で、祈り続けて行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。