小倉日明教会

『神の国に入る − 金持ちの議員に欠けているもの』

ルカによる福音書 18章 18〜30節

2024年7月7日 聖霊降臨節第8主日礼拝

ルカによる福音書 18章 18〜30節

『神の国に入る − 金持ちの議員に欠けているもの』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】        役員 川辺 正直

タイ、タムルアン洞窟の遭難事故

 おはようございます。さて、2018年6月23日にタイ王国のタムルアン森林公園内のタムルアン洞窟に12人のサッカー少年たちと1人のコーチが閉じ込められてしまいました。当時は雨季に入っており、大雨で洞窟内に大量の水が流れ込んだ結果、洞窟内の水位が上昇して大半が水没したため、脱出できない状況に追い込まれたのです。しかし、13人のいる位置は洞窟の入口から約5キロメートルの場所で、入口までの多くの箇所が浸水しており、洞窟潜水を行わない限り洞窟内を通過できないのです。

 彼らは自力では脱出不可能です。しかし、大雨の再来の予想、洞窟内の酸素レベルの低下、脱出経路の発見が困難であることなど、複数の危険があり、救出者らは少年たちとコーチを経験豊富なダイバーらによって、一緒に連れ出すという決断を迫られたのです。その結果、世界各国から派遣された特別の訓練を受けたダイバーたちが彼らのもとに向かうことになりました。

 水が非常に濁っているため、ライトがあっても、経験豊かなタイ海軍の特殊部隊のダイバーでも、危険な救出計画であったのです。実際、救出活動中にダイバー1人が殉職しています。さらに翌年には、救出活動に参加したダイバー1人が、作業中の怪我による感染症で亡くなっています。ですから、この時もし、少年たちが自分たちで泳いで脱出できると考えたとしたら、それは大間違いなのです。自分の力ではどうすることもできない、どのような努力をしても自力では救うことは出来ない状況なのです。少年たちにできることは、全てを専門のダイバーに任せて、信頼し委ねきることでした。それによってはじめて彼らは命を得ることができ、外の世界に行くことが出来るのです。

 本日の聖書の箇所で、主イエスは金持ちの議員に、「私に従いなさい。」とおっしゃられたのです。主イエスに従うということは、どういうことなのかということを、皆さんと共に学びたいと思います。

ある議員

 さて、ルカによる福音書の18章9節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅の結論部分となります。この結論部分の内容を解く鍵が、前回もお話しましたが、18章8節なのです。主イエスは、『言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』とおっしゃられています。主イエスが再臨された時に、地上に信仰を持っている人はどれくらい、いるのだろうかという質問をされたのです。このことがポイントになっているのです。ルカは、この主イエスの言葉に応えて、主イエスが再臨された時に、救いは恵みと信仰によるということを前提に、どういう人が救われるのかということを、エルサレムへの旅の結論部分で展開しているのです。本日の聖書の箇所の24節にも、『神の国に入る(エイスポレウオマイ)のは、』とあり、これが鍵となる言葉であることが分かります。

 本日の聖書の箇所の18節には、『ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。』と記されています。福音記者ルカは、『ある議員が、尋ねた。』と書いています。マタイによる福音書の19章20節を見ますと、この議員は青年だということが分かります。青年とは、ギリシア語では、『ネア二スコス』という言葉です。『ネア二スコス』というのは、当時の人の感覚では、20歳〜40歳くらいの男性のことを指す言葉です。ですから、この議員は20歳〜40歳くらいの男性議員であり、本日の聖書の箇所の23節を見ると、この議員は大変な資産家、大金持ちであることが分かります。従って、ルカの記述からこの議員が20歳〜40歳くらいの大金持ちである議員で、おそらくユダヤ議会サンヘドリンの議員であったと考えられます。

 前回のお話しの後半で、乳飲み子が登場しました。前回お話した乳飲み子の特徴というのは、親や大人に依存しなければ、生きて行けない存在であるということです。前回お話しました乳飲み子と、本日の聖書の箇所の議員とは対照的な存在となっています。自信に満ちた議員に対して、他の人に依存しないと生きて行けない乳飲み子とが対照的に、取り上げられているのです。

 ここで、当時のユダヤ教の考え方について、見てみたいと思います。当時のユダヤ教では、大金持ちである、富を持っているというのは、既に神様の祝福を受けていると考えられていたのです。地上生涯において、既に神様の祝福を受けているので、お金持ちになることができるのだというのが、当時のユダヤ教の考え方であったのです。この議員は、お金持ちですので、既に神様の祝福を得ているわけですが、この人はそれ以上のものを求めたのです。『永遠の命を受け継ぐ』という確信を得たいと考えたのです。確かに自分は今祝福を受けている、しかし、自分は永遠の命を受け継ぐのだという確信が欲しい、ということなのです。この文脈では、永遠の命を受け継ぐというのは、神の国に入ることなのです。つまり、メシア的王国と言われる神の国に、自分は入れるのだという確信が欲しい、これが彼の内なる声なのです。ここで、この議員が大前提としているのは、行いによって、永遠の命が得られるということなのです。この議員が前提としていることが間違っているということが、次第に明らかになってくるのです。このようなバックグラウンドの議員が、主イエスに質問をしたのです。

 この議員は、主イエスにこのように言いました。『善い先生、』と語りかけたのです。『善い』という言葉は、ギリシア語で『アガソス』と言います。この『アガソス』という言葉は、最高に素晴らしいことを表す言葉です。『アガソス』と言うときは、善いというだけではなく、本質的に善であるということを表しているのです。従って、『善い先生、』と語りかけたときに、あなたは本質的に善なるお方ですと、敬意を払って、語りかけているのです。当時、ユダヤ人たちがラビに語りかけるときには、この『アガソス』という言葉は、使わないのです。すなわち、ユダヤ人の宗教的指導者であるラビに対してでさえ使わない尊敬の言葉を使って、この議員は主イエスに対して、語りかけているということです。それでは、この議員は、『善い先生、』という言葉でどういうメッセージを発しているのかと言いますと、『イエス様、私はあなたをラビ以上のお方として、尊敬していますよ』、ということなのです。ここで、この議員が主イエスのことを神様としてみているかどうかは、この後の会話の内容によって、次第に明らかになって来るのです。

神おひとりのほかに、

 この議員の『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』という質問に対して、主イエスが答えます。19節には、『イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。』とあります。この主イエスの言葉は、正しい神学を啓示しています。人間は堕落しており、神様だけが善いお方です。ユダヤ人たちは、このことを強調しました。英語で、The Goodと言いますと、神様のことですので、神学的には神様だけが善いお方なのです。ここで、気をつけなくてはいけないのは、主イエスはここで自らの神様としてのご性質を否定しているのではないということなのです。主イエスは、何をしているのかと言いますと、実はこの議員の信仰を試しているのです。それはどういうことかと言いますと、19節の主イエスのお言葉、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」というお言葉に対して、この議員が、『イエス様、あなたこそ善いお方、あなたこそ神様です』と、告白したならば、主イエスは、この議員に、『あなたは信仰によって、永遠の命を得ている。』と、宣言されたはずなのです。主イエスは、この議員の信仰を試しているのです。しかし、残念ながら、この議員は主イエスを神様であるとは、信じていませんでした。

そういうことはみな、子供の時から守ってきました、

 そのことは、後で明らかになりますが、ここでは、この議員が答えないので、主イエスは次の話しに進まれるのです。20〜21節には、『『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。』とあります。この前の会話で、この議員は、主イエスが神様以外に善い方はいないと言ったことに対して、応えていないのです。ですから、主イエスはこの議員の最初の質問に戻って、答えているのです。因みに、ユダヤ教のラビたちは、律法の全体を守ることは可能であると教えていました。

 さて、20節の主イエスの答えを見てみますと、主イエスは十戒の第5戎〜第9戒を引用しています。『姦淫するな』は第7戎です。『殺すな』は第6戎です。『盗むな』は第8戎です。『偽証するな』は第9戎です。『父母を敬え』は第5戎です。引用される順番は異なっていますが、これらは第5戎〜第9戎の引用なのです。これらを引用することによって、主イエスはこれを行えば救われるということを言いたいのではなくて、これは、これらのことを行って救われるというのは、無理でしょ、ということを示そうとされたのです。主イエスの答えの中には、第1戎〜第4戎が出てきていません。第1戎〜第4戎は、神様との関係に関する戒めなのです。さらに、第10戎も出てきていないのです。第10戎は貪りの罪を禁止した戒めなのですが、それも引用していないのです。第5戎〜第9戒までを引用したのです。これらの戒めを守ることは不可能なのです。律法の役割は、人に罪の認識を与えることなのです。この議員は、律法の本来の目的を理解していなかったのです。ですから、この議員は、21節で、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言っているのです。今の私たちから見ますと、びっくりするような答えが返ってきたのです。しかし、十戒の戒めを守ることは、人間には不可能です。私にはできませんと言うことができれば、救いに近づく訳ですが、「小さい頃からそれらは全部守って来ましたよ。」と、この議員は答えたのです。

あなたに欠けているもの

 これを聞いて、主イエスは、この議員にお語りになられるのです。本日の聖書の箇所の22節を見ますと、『これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」』と記されています。『あなたに欠けているものがまだ一つある。』と、主イエスがお語りになられるところから、先程、引用しなかった第10戎の貪りの罪が出てくるのです。そして、その後の、『持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』という部分が、主イエスの回答となっているのです。

 この議員は、第5戎〜第9戒までは、全てやっていますと答えたのです。ですから、主イエスは第10戎をここで引用することによって、この議員の貪りの罪を指摘したのです。ここで、何が問題なのかと言いますと、財産がこの議員の心を支配していたのです。この議員は、財産の奴隷となっていたのです。そして、財産を第一とすることは、偶像礼拝をしていることになるのです。財産を第一とするというのは、神様を第一としない罪なのです。それは、十戒の第1戎を違反したということになるのです。ですから、主イエスは第10戎を引用することによって、この議員の第1戎の律法違反を指摘したのです。そして、この議員が財産の束縛から離れるなら、つまり、貪りの罪から離れるならば、永遠の命を持つことになると約束されました。『天に富を積むことになる。』というのは、永遠の命を持つこととなるということと同じ意味なのです。

 つまり、主イエスに従うということは、自己義認の姿勢を捨てて、主イエスに信頼した上で、主イエスに従いなさい、ということなのです。この議員は、律法を守ってきたかのように思っていましたが、第10戎の貪りの罪から解放されていなかった結果として、神様を第1とするという、1番基本的な戒めを実行していなかったのです。この議員は、自らの罪を認めて、どうぞ恵みによって、私を赦して下さい、私は主イエスに従いますと言えば、この議員は救われていたのです。しかし、主イエスの言葉を聞いて、この議員はどのような反応を示したのでしょうか?

これを聞いて非常に悲しんだ。

 次に、本日の聖書の箇所の23節には、『しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。』とあります。この議員は、非常に悲しんだのです。どうしてかと言いますと、大変な金持ちだったからです。つまり、この人は財産を愛したのだけれども、隣人を自分のように愛してはいなかった、つまり、隣人との関係に於いて、律法違反の生活をしていたのです。また、そのことは、神様を第1とする生活もしていなかったということであったのです。出エジプト記20章3節には、『あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。』とありますが、この議員はこの規定に違反していたのです。この聖書の箇所が伝えているのは、この議員は、ユダヤ人共同体の最も高い階層であるユダヤ議会の議員であり、大変な大金持ちでありながら、救われてはいなかったということなのです。

 この議員が、その後、どうなったかは記されていません。救われて欲しいとは思いますが、わからないのです。つまり、今日の聖書の箇所は、私たちにどちらの道を選ぶのかということを問うているのです。さて、ここまでは、この議員と主イエスとの対話でしたが、主イエスはこの機会を捉えて、富に関する大切な教えを、周りにいる多くの人々に語るのです。

神の国に入る

 本日の聖書の箇所の24〜25節には、『イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」』とあります。主イエスは、今度は、弟子たちに向かって、教えているのです。財産のある者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと、誇張法により、それくらい、金持ちが神の国に入るのは、非常に難しいのだよと、教えているのです。福音記者ルカが使っている針の穴の針というのは、手術用の針の穴なのです。他の福音書では、裁縫する時の縫い針の穴となっているのですが、ルカはお医者さんですので、ルカによる福音書では、手術用の針の穴という言葉が使われています。つまり、文字通り、針の穴をイメージすればいいのです。ラクダがそこを通れるはずがないのです。それぐらいに困難なのだよということを、主イエスは誇張法を使って、教えて下さっているのです。

 次に、26〜27節を見てみますと、『これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。』とあります。『人間にはできないことも、神にはできる』、まさにその通りなのです。マタイによる福音書19章25節を見ますと、『弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。』とあり、弟子たちも同じ言葉を使っていることが分かります。つまり、弟子たちも、ファリサイ派の神学の影響を受けていたのです。福音記者ルカはここで、それを聞いた弟子たちではなくて、人々はという言葉を使っています。それはどうしてかと言いますと、ここでの教えは、弟子たちだけではなくて、全ての人に適用される教えであるということ、普遍的な適用があるということなのです。初めにも申しましたが、ファリサイ派の神学では、金持ちは神様の祝福を受けているという教えがあったのです。ですから、神様の祝福を受けているのに、その金持ちでも救われないとしたら、誰が救われるのだろうかというのが、ここでのファリサイ派の神学の影響を受けた人々の疑問なのです。

 しかし、『人間にはできないことも、神にはできる』と主イエスは教えられたのです。神様は、人間には不可能なことことも、なさるのです。つまり、金持ちが救われるのが難しいというのは、どういう理由かと言いますと、金持ちは財産という見えるものを信頼しているので、見えない神様を信頼することが非常に難しいのです。大きな財産を持っているが故に、金持ちは貧しい人たちに対して、優越感を持っているので、謙遜になることができないのです。しかし、神様だけが金持ちの救いを可能にして下さる、即ち、神様は金持ちにも、貧しい人にも、救いの可能性が等しく備えて下さっているということなのです。そして、貧しい人を救う時と同じように、神様は豊かな人を救う時にも、まず、その人の心に、罪の意識と悔い改めを与えて下さるのです。そして、金持ちも貧しい人も、私は自分で自分を救うことができませんから、どうぞ神様お救い下さいと、霊的に貧しい者となって、神様に祈るならば、神様は救って下さるのだというのです。しかし、金持ちはなかなか救われない、なぜかと言いますと、目に見えるものに信頼しているので、目に見えない神様を信頼することが少ないのです。それでもなお、神様は金持ちを救うこともできるお方なのです。ですから、救われる人は少ないけれど、それでもなお、救われる人は起こされるのだというのが、ここでの主イエスの教えなのです。

 それを聞いていた弟子の中のペトロが、弟子たちを代表して言うのです。

わたしたちは自分の物を捨てて

 本日の聖書の箇所の28節には、『するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。』とあります。マタイによる福音書の同じ箇所を見ますと、ペトロのこの言葉は、「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と続いています。ペトロは主イエスの教えを、自分は理解したと思ったのです。それで、ペトロは、私たちはものに束縛されていない、こだわりを持っていない、私たちは貪りの心を捨てて、主イエスに従って来ましたと、自分たちの行い、自分のことを主張しています。そして、更に『私たちは何をいただけるのでしょうか』と、その見返り、報酬を求めているというのが、ここでのペトロの質問なのです。つまり、ペトロは、私たちはこの金持ちの議員ができなかったことをしてきた、それ故、そのことに見合うものを下さい、ということをリクエストしているのです。主イエスは、ペトロの問いかけを理解しています。なぜなら、主イエスは、神様としてのあり方の全てを捨てて、この世に来たのです。何をいただけますかと問うペトロに対して、主イエスは驚くべきことを答えられるのです。神の国のために、犠牲を払ったものは、祝福を受けるのだという約束が、次に与えられるのです。

 本日の聖書の箇所の29〜30節には、『イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」』とあります。主イエスは、私たちの目から見れば、ペトロのこの不適切とも思える言葉に対して、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」とおっしゃったのです。神の国のために自分のものを、自分が大事にしているものを捨てて、主イエスに従って行くのなら、この世においてその捨てたものの何倍もの報いを受けるし、後の世、この世の終わりに実現する神の国において、永遠の命にあずかることができる、と約束して下さっているのです。主イエスは、この段階で、既に地上に神の国、千年王国がくることを前提に語っておられるのです。主イエスは、『はっきり言っておく。』とありますように、このことは確かな約束なのです。

 マタイによる福音書19章28〜30節では、「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と語られています。主イエスは私に従ってきたあなたがたには、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めるという大きな報いが与えられると言っておられるのです。また、十二人の弟子たちだけではありません。マタイによる福音書19章29節にあるのは、誰であれ、主イエスの名のために、つまり主イエスを信じる信仰のために、大切なものを捨てて従った者には、その百倍の報いがあるということです。それは私たちに対しても語られていることで、私たちも、主イエスのために、信仰のゆえに大事なものを捨てて従うならば、大きな報いを期待してよいのだと言っておられるのです。

 神の国のために、大切なものを捨てた者は、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受けるという、主イエスの言葉は、信仰と恵みによって救いが与えられるという聖書の福音の原則に反するように思われます。主イエスの言葉の真実はどこにあるのかということを、次に、考えたいと思います。

主イエスが捨てたのは

 本日の聖書の29〜30節で、『イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」』とあります。主イエスは、最初に『はっきり言っておく。』とおっしゃられています。『はっきり言っておく。』と、他ならぬ主イエスがおっしゃられておりますので、『この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。』という約束は、そのまま字義通り、信じてよい約束なのだということです。しかし、マタイによる福音書の19章30節には、『しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる』と書かれていることから、主イエスが語られているこの約束は、この世の契約関係では図ることのできない、約束だということが分かります。このマタイのこの30節の記載は、私たち人間は、神様と、もので測ることのできる対価を伴う、取引はできないのだということを教えているのだと思います。神様のために、何かを犠牲にしたら、それは必ず報われるのです。しかし、利己的な動機で、何がもらえるのかということが中心にあって、何かを犠牲にするならば、自分の思う通りにはならないのです。自分が先頭を走っているつもりになっていても、気がついたら、後になっているということなのです。どこで、間違ってしまったのでしょうか。それは、神様の恵みに対する応答の仕方が違っている、心のあり方が違っているのです。

 そして、マタイによる福音書の19章30節の『しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる』という言葉は、次の20章1〜16節の「ぶどう園の労働者」のたとえ話の導入の言葉であり、「ぶどう園の労働者」のたとえ話の締めくくりの言葉となっているのです。「ぶどう園の労働者」のたとえ話は同じ言葉で、終わっているのです。この手法は、古代の文章を書く人がよく用いた文学手法なのです。私たち自身を、この「ぶどう園の労働者」のたとえ話の登場人物に当てはめると、自分はどこにいるのでしょうか。夜明けに雇ってもらった人でしょうか、それとも、夕方5時頃に雇ってもらえた人でしょうか。大切なことは、神様と自分との関係が「ぶどう園の労働者」のたとえ話の中に示されているということです。私たち一人ひとりもまた、神様のぶどう園に雇われている者なのです。広場に立っている私たちに神様は声を掛けて、神様のぶどう園へと招いてくださるのです。この物語はぶどう園に雇い入れられ、働いて、その賃金をもらう、という設定になっています。神様のぶどう園に雇われて働くということは、信仰を持って生きるということです。雇われて働くのは、賃金という報酬を得るためです。1日につき1デナリオンという雇用契約を結んで働く、それは、1デナリオンという報酬を求めてのことです。それが約束されているから、希望をもって働くのです。主イエスに従い、神様を信じて生きるとは、そういうことだとこのたとえ話は語っているのです。信仰には、報いが与えられるのです。その報いは勿論お金ではありません。1デナリオンは神様の救いです。この物語は、『神の国』の譬えとなっているのです。1日の生活を支えるお金よりもさらにすばらしいこの報いを求めて、私たちは主イエスに従い、神様を信じて生きるのです。神様のぶどう園の労働者になるのです。

 この報いは、神様の恵みによって与えられるものなのです。そのことを示すために、19章30節と20章16節の『後にいる者を先に、先にいる者を後に』という言葉は、神様の恵みを表しています。神様は、『自分のものを自分のしたいようにする』、その自由なみ心によって、順序を越えて救いのみ業をなさるのです。時に私たちの理解を超えることがあります。それによって、私たちは、不平不満を覚えることがあります。人間の思いと神様の思い、この両者の間には大きな隔たりがあります。このような神様の思いが最も示されているのは、主イエス・キリストの十字架においてです。それ故、本日の聖書の箇所のすぐ後に、福音記者ルカは、次回、お話します主イエスの3度目の受難の予告を記しているのです。神様は私たちのために、私たちを救うために、最も小さな、最後の者となってくださいました。神様としてのあり方を捨てて、この世の最も低いところに主イエスは来られたのです。

 フィリピの信徒への手紙の2章6〜8節には、『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。』と記されています。罪人に代わって、罪の支払う報酬である死を十字架の上で引き受けて下さったのです。主イエスの贖いの死によって、死が無力になり、滅ぼされるためです。神様の思い、愛の思いはこのキリストの十字架において示されています。この十字架の出来事こそ、神様の私たちへの自由な憐れみです。神様は、自由なご意志によって、独り子主イエスをこの世に遣わされました。その十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さったのです。

 私たちは、私たちを赦し、私たちを愛し、報いて下さる神様を信頼し、主イエスに従う者とされたいと思います。

 それでは、お祈り致します