小倉日明教会

『神の愛に勝るものはない』

ヨハネによる福音書 16章 25〜33節

2024年7月14日 聖霊降臨節第9主日礼拝

ヨハネによる福音書 16章 25〜33節

『神の愛に勝るものはない』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■世に勝っている?

 イエスさまは、十字架につけられる前の日の夜、弟子たちとの最後の食事の席で、弟子たち一人ひとりの足を、それも自分を裏切ることになると言われたユダやペトロの足をも洗われた後、別れの言葉を語り始めました。一三章から一六章まで続いた長い別れの言葉、その最後の最後が三三節の言葉でした。

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」

 「わたしは既に世に勝っている」というこの言葉は、とても意外に思えるものです。このときのイエスさまの姿は、およそ勝利とは遠くかけ離れたものに思えるからです。穏やかな満ち足りた日々、静かな部屋で親しく弟子たちに接し、いつものように共に食事を楽しんでいたというのではありません。「父よ、御心なら、この(苦しみの)杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。そう祈りながら、ご自身の思いではなく、ただ父なる神のみを仰いで歩むその道ゆえに、耐え難いほどの苦難と恥辱を覚悟されていたはずでした。「あなたがたには世で苦難がある」どころではありません。この上もない苦しみと辱めを味わうことになる。その時が刻一刻と迫り来る中で、「わたしは既に世に勝っている」と言われるのです。

 これは一体どういうことなのでしょう。

 しかも、それは、イエスさまだけのことではありません。二八節、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と言われたイエスさまは、弟子たちの裏切りをも予告した上で、この最後の言葉を語っておられます。イエスさまがこの世を去り、弟子たちも散らされて行く、そのようなことを聞かされて、どうして弟子たちの中に平和があるというのでしょうか。

 一体どこに勝利があるというのでしょうか。

 そもそも、勝ち負けを口にされるのは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられたイエスさまには相応しくない、そうお感じにはならないでしょうか。もちろん、そう思うことは、イエスさまを自分に都合良く理解しようとする、いわば偶像礼拝の罪であることは分かっています。分かってはいても、それでも何だか釈然としません。イエスさまがここで語る「勝利」とは、一体どのようなものなのでしょうか。

■負けるが勝ち

 徳川家康という人がいました。今から四二〇年の昔、二六五年にも及ぶ江戸時代を切り開いた人です。その家康の言葉に、「人生は、重い荷物を背負って遠い道を行くようなものである。急ぐ必要はない。不自由が当たり前と思えば、不満は生じない。心に欲が生じたときは、苦しかったときのことを思い出しなさい。足りない方が、やりすぎてしまっているよりは優れている」とあります。

 家康は、子どもの頃から他人(ひと)の家に預けられて苦労して育ち、忍耐することを人一倍学んだようです。特に、軍の神とまで呼ばれた武田信玄との戦では死ぬほどの目に遭い、その時の苦痛にゆがむ自分の顔を描かせて、生涯の教訓にしたと言われています。「勝つ事ばかりを知って負ける事を知らなければ、それは害となる」、この言葉の中に、負け戦から学んだ家康のしたたかさが現れているように思えます。

 「負けるが勝ち」という諺があります。けれども、本当にそう思える人は少なく、誰しも負けず嫌いなところを持っています。「負けた試合のことは、思い出したくもない」とか「負けたらおしまい」などと言って、「勝つ」ことに固執します。しかし、本当に大事な人生の教訓は、負けた時にこそ学ぶことのできるものです。だから、負けた時、失敗した時、うまくいかない時こそ、深く出来事を見つめ、深く自分を考える必要があります。

 もうひとつ、四億六千万年前の地球の海の中には、「奇妙なエビ」という意味の名を持つ「アノマロカリス」という生態系の頂点にいた巨大生物が我が物顔に生息し、餌にされていた「ピカイア」というウナギのような無力な生き物はただただ逃げ廻っていました。しかしやがて、このアノマロカリスは滅んでしまい、負けてばかりいたピカイアの子孫が、哺乳類の先祖として生き延び、そこからわたしたち人間も誕生した、と言われます。古代の海の中でも、強いもの、勝ったものが生き延びたのではなく、弱くて負けていたものたちが新しい時代の開拓者になるべく、新しい環境に適応することができました。

 さらにもうひとつ、小判草という草をご存知でしょうか。明治時代に、ヨーロッパから観賞用として日本に輸入されたものです。いつの時代に捨てられたのか脱走したのか、野の雑草の一種として、生き延びてきました。ところが、よそ者であったはずの、その小判草が他の草花を駆逐し、海岸一帯を占拠するようになりました。しかしそれも長くは続かないようで、近頃は、同じくヨーロッパ原産の「ヒゲナガ スズメノ チャヒキ」というイネ科の植物が、だんだんと小判草の独占地域を侵略し始めています。観賞用から雑草へ、少数者から独占者へ、そしてまた追われる身に。何だか人間の人生にもありそうな話です。

■愛してくださる

 ルカによる福音書六章二五節にも、「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」というイエスさまの言葉があります。さきほどお話ししたように、人生の勝利者のような気持ちでいると、泣くようなことになる、ということでしょうか。その真意について、聖書はこう教えます。神がイスラエルの民を宝の民として選ばれ、愛してくださったのは、彼らが強くて正しい民であったからではなく、小さく愚かな集団であったからだ、と。イスラエルの民が金の子牛像を造って礼拝する罪を犯したため、天幕を張ってとりなしの祈りをささげるモーセの前に、神は、雲の柱の内に現れ、「人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(三三・一一)と、出エジプト記に記されています。モーセも民も、最も厳しい裁きを覚悟したに違いないその時に、最も親しい姿でモーセの前に現れる神に、わたしたちの思いを超える深い、深い愛を見ることができます。とはいえ、神がそれほどまでにわたしたちを愛してくださるのは、なぜなのか。

 神は、この世界を造られた時に「良し」と言われ、すべてのものを、そしてわたしたち人間を「愛の対象」として造られたのだ、と聖書は教えています。神が愛であるからには、その愛を注ぐ相手をどうしても必要とします。神はやむにやまれぬ愛の心から、愛の対象としての人間を造られ、それも愛の分かる自由な者として創造されたのでした。ところがその人間が今や、その自由のゆえに罪を選んで神に叛き、神の怒りの対象となっていることは、神の側から見て、どんなにか痛み苦しみを感じることでしょうか。神としては、愛を貫いたらよいのか、義を押し通したらよいのか。人間の罪により、本来ひとつであった神の義と愛が分裂し、正面衝突しているかのようです。

 罪を解決する道は根本的には、この神の側の矛盾をどう解決するかにかかっています。神は最後の方法として思い切った非常手段をとられました。その独り子をこの世に下し、人間の罪を負わせて十字架の上に罰し、それによって罪を赦すという方法です。これは、神の一方的な自己犠牲による解決であり、わたしたち人間の考えもつかない驚くべき方法です。しかし真の愛とは本来こういうものなのでしょう。こうまでしなければならない、わたしたちの罪の深刻さと、何よりも神の愛のたとえようもない深さとを思わずにはおれません。まさにパウロが、「死も、命も、天使も、支配するものも…他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(招詞)と確信するように、神の大いなる愛は、キリストの十字架と復活において現れ、その愛は、この世の何ものの力によっても、わたしたちから離れることはありません。

 イエスさまが、今ここで、「わたしは既に世に勝っている」と語られたのも、これからご自身が進みゆく十字架と復活において全うされる、神の愛に勝る力はこの世にはない、ということなのでしょう。「勝つ」「負ける」ということよりも、勝っても負けても、いのちある者をすべて愛して生かそうと、弱っている者や小さな者、苦しむ者や貧しい者にこそ特別なまなざしを注いでおられる神の愛が、今ここに宣言されているのです。だからこそ、弟子たちも、そしてわたしたちもまた、どれほどの苦難の中にあっても、平和を見いだすことができます、勇気を持つことができるのです。

■恵みに泣いて

 ある先輩からお聞きした話です。

 戦時中の困難な時代、田舎の小教会に重症の結核患者がいました。当時は結核の薬はなく、戦中の不自由な時代で入院もできず、わずかに親類の厚意にすがって死骸のような体を小さい小屋の中に横たえ、ひとりぼっちで療養していました。田舎の人々はこの病気に恐怖と嫌悪を抱き近寄ろうともせず、ごく少数の教会員が彼の下の世話をしてあげなければならない、といった悲惨な状況でした。彼が危篤という知らせで、他の地方に転任していた牧師が駆けつけた時、すでに安らかに永眠していました。その遺品のノートを見て、牧師は胸を打たれます。

 「夜半目ざめ 恵みに泣けり 床深く」

 そこには、恵みを詠んだ句が折々に書き記されていたからです。うまい句というのではありません。しかしその真情が、信仰が、牧師に深く刻まれました。

 わたしたちは、自分を守り、自分中心の生き方に夢中で、不平や愚痴の多い人間です。ましてこの病いの人のように、不幸と孤独と苦痛の中に追い込まれた人が、夜半に闇の底に目を覚まし、死の近いことを思ってどんなに心細く辛かったことか、不安と悲しさが限りなく湧いて、絶望的になっても仕方がないところです。しかし彼は、恵みを思って、薄い布団の中に顔を埋めて泣いた、と言います。神の恵みの不思議さ、またその力に、ただただ驚かされます。

 先輩によれば、彼は、自分が重病の床にありながら、その頃の暗い世の中で、希望もなくただ死を待っているような病人たちのために祈り、もし回復したら、世間の身よりのない貧しい人々に奉仕し、慰めてあげることに一生を捧げたい、と繰り返し語っていたそうです。彼は、信仰に入る前には、特殊な技術を持った職人として面白おかしく世を送っていた人でしたが、信仰を持つことで、他人の苦痛に気づかされ、他人のために仕えることを考える人間になっていたのだ、と話してくれました。

 これこそ信仰に生きる者の姿です。生活が変わります。しかもそれは、何か人のためになる善いことをしてやろうという勇ましい気持ちからでも、それが人間の為すべきことだからという義務感からでもありません。ただ自分に注がれている神の「恵みに泣いて」、今までの自己中心が打ち砕かれてくると、何とか、この恵みを人にも分け慰めたいという気持ちに自然になってくるのです。

 わたしたちの現実の世界、日々の生活には、いろんな苦しみや問題があります。しかしそれらは誰かの問題ではなく、すべて自分に関わる問題です。自分のことだけ考えて、イエスさまが生きた愛と正義と公平に背を向けて生きる生活は、どんなに豊かで気楽そうでも、それはもう「死んでいる」人生です。

 この世の理不尽な力、不条理としか言いようのない出来事によって、今も、多くの人々が傷つき、いのちを奪われることさえあります。しかしこの世のいかなる力も、いのちを与える神の愛を滅ぼすことはできず、苦難のただ中に、今もここに生き続けおられるイエスさまが必ず、すべての人を真の平和と自由へと導いてくださるという確信と希望を、わたしたちは抱くことができます。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」のです。この「わたしは既に世に勝っている」という勝利宣言のゆえに、愛が世の中を完成にむけて変えてゆくことを信じて、自分もまた敬愛する先達たちからそうされたように、わたしたちも自分の宝と時間と心と力を献げ、助けを必要としている、すべての隣人と共に生きていきたいものです。そのことを決心する時、わたしたちはまた新たな苦しみを経験することになるでしょう。しかしそのときにこそ、わたしたちは「もう勝っている」のです。