【奨 励】 役員 川辺 正直
■『Every Praise』
おはようございます。さて、今から10年前、アメリカのアトランタで誘拐事件が起こりました。当時9歳の黒人の少年ウイリー君が、家の前に止まったピックアップトラックでさらわれたのです。そして、そのまま行方不明になってしまったのです。ところが、さらわれた後、車で連れ回される中で、3時間ぶっ通しで『Every Praise』という歌を歌ったのです。この曲の歌詞は、次のようなものです。
Every praise is to our God
精一杯僕達の神さまを讃えよう
Every word of worship with one accord
みんなの言葉をひとつにして
Every praise every praise is to our God
とってもすごい神さまだから 感謝せずにはいられない
Sing hallelujah to our God
ハレルヤって歌えばいいんだ
Glory hallelujah is due our God
最高にハレルヤって叫べばいい’
Every praise every praise is to our God
どんな褒め言葉でも きっと神さまに伝わるから
God my Savior
僕を救ってくれた神
God my Healer
傷を癒してくれたんだ
God my Deliverer
そして僕を生まれ変わらせた
Yes He is, yes He is
そうなんだ 本当なんだ
この歌をウィリー君が3時間ぶっ通しで歌うので、犯人は終いに、「やかましい!黙れ」と言うのですけれど、歌うのを止めないので、とうとう犯人はやりきれなくなったのです。そして、「おまえ、もう降りろ」と言うのです。それから、「今日あったことは、だれにも言うなよ」と言われたのですが、ウィリー君はみんなに言い触らしたのです。そして、その言い触らしたことが、地元のテレビ局のところにまで伝わって、とうとうこの曲を作詞作曲したHezekiah Walkerという人が、ウィリー君に会いに行って、一緒に合唱したYou Tube動画をアップしたのです。本日は、主イエスの宮清めとその後の主イエスと祭司長や律法学者たちとの問答を通して、主イエスが私たちを救って下さる権威を持っていたのか、私たちは主イエスから何を問われているのかということを、皆さんと共に学びたいと思います。
■『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
さて、本日の聖書の箇所から、21章4節までの箇所は主イエスが十字架に架かる前に、エルサレムで語られた数々の教えが語られた箇所で、重要な内容が次々と出てくるのです。本日は、神殿から商人を追い出した箇所と権威についての問答の箇所を学びたいと思います。本日の聖書の箇所の45〜46節には、『それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」』とあります。これは、『宮清め』と言われている出来事です。主イエスは、宮清めと言われることを2度行いました。1回目が公生涯の1番始まりの時の宮清めですが、これはヨハネによる福音書2章13〜22節だけに出てくるのです。2回目の宮清めは、公生涯の最後での宮清めで、これはマタイ、マルコ、ルカの共観福音書の全てに出てきます。メシアである主イエスが公生涯の最初と最後に宮清めを行うのは、当然のことかと思います。主イエスは、イスラエルの民を清めるために来られた訳でもありますので、宮清めを行われた訳ですが、本日の聖書の箇所を見ると、主イエスの怒りを読み取ることができると思います。しかし、私たちが覚えておきたいのは、主イエスの宮清めという行為の背景には、主イエスの涙があるということです。これは、前回、お話しましたようにオリーブ山からエルサレムを見て、主イエスが流された涙があるということを、私たちは覚えておきたいと思います。主イエスはエルサレムに下る裁きを見ているわけですが、そのエルサレムに下る裁きというのは、今日の聖書の箇所で、商売をしていた人々を追い出したところから始まっていると言うことができると思います。
なぜ、商売をする人々がいて、主イエスは彼らを追い出したのかと言いますと、神殿では商売が行われていたのです。ユダヤ人たちは、神殿に行って、生贄の動物を捧げるのですが、そのときに生贄として用いられる動物は、祭司たちがチェックして、傷もシミもないと認定されたものが神殿の中で、一般の市場価格よりもはるかに高い値段で売買されていたのです。さらに、神殿の中で、その生贄を買うためには、神殿の中だけで通用する特別な通貨に両替する必要があったのです。しかも、その神殿の中で通用する特別な通貨を得るためには、バカ高い手数料を両替商に払う必要があったのです。従って、真摯な思いで神殿に、礼拝に来た一般のユダヤ人たちは、両替商からたくさん手数料を取られ、そして、生贄に使う羊を買うときに、さらに多くの利益を取られてしまう、このように2重に利益を取られるということが行われていたのです。これらの商売は、大祭司一家のファミリービジネスになっていて、大祭司たちはそこから莫大な利益を得ていたのです。信仰がビジネスになっている時には、必ず堕落と腐敗が生じているのです。その結果、神殿での礼拝が形式的なものになっていたのです。
主イエスはそのことについて、怒りを覚え、そして、商売人たちを追い出し始めたのです。その時に、主イエスは旧約聖書から引用されました。1つが、イザヤ書56章7節で、もう1つが、エレミヤ書7章11節で、この2つの箇所から引用されたのです。イザヤ書56章7節の預言では、『わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』とあります。このイザヤ書の預言では、神殿はあらゆる民の祈りの家として預言されています。また、エレミヤ書7章11節では、『わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。』とあります。このエレミヤ書の預言では、神殿が強盗の巣になったということが語られています。今日の聖書の箇所の主イエスの言葉を見ますと、『『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」』とあります。福音記者ルカの記録を見ると、この2節で終わっているのです。宮清めの記録は、他の共観福音書の記録と比べると、とても短いのです。ルカは詳細な記述を書き連ねるよりは、シンプルに事実を記録し、そして、主イエスが神殿に上った時の霊的な状態がどうであったのかということを伝えようとしているのだと思います。つまり、これから主イエスが神殿で数々の教えを語ってゆくのですが、そのための舞台設定をここで行っているのです。ルカは主イエスの宮清めを簡潔に記すことによって、これ以降の教えの舞台設定が出来上がった、つまり、宗教的指導者たちが主イエスに対して、なぜ敵対心を抱いたのかという説明になっているのです。主イエスの種々の教えは、当時のユダヤの宗教的指導者たちとの敵対関係の中で、教えられたということがこれからの背景となっているのです。
もう1つ注目したいことは、ルカは『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いています。先程のイザヤ書の預言では、『すべての民の祈りの家』となっていました。『すべての民の祈りの家』を、ルカは『すべての民の』という言葉を省略して、『祈りの家』とだけ書いているのです。ルカが『すべての民の』という言葉を省略している理由は、ルカは異邦人の読者に向けてこの福音書を書いているわけですが、『すべての民の』と書きますと、異邦人もこの神殿は私たちのものだったと誤解するかもしれない、このイザヤ書56章の預言はメシア的王国が成就する時の預言なのです。その時には、異邦人も神殿に招かれてやって来るという預言なのです。そういう誤解が起こらないように、ルカはあえて『すべての民の』という言葉を省いて、『わたしの家は、祈りの家』とだけ書いたのです。ここに、福音記者ルカの配慮が見られると思います。主イエスは宮清めを行われたのですが、それは、汚れた、罪の中にある神殿を清めるための行いであったのと同時に、その結果、ユダヤ人の指導者たちが主イエスに敵対するようになり、その敵対関係の中で、主イエスの展開されて行くのです。
■エルサレム神殿で
本日の聖書の箇所の47〜48節には、『毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。』とあります。指導者たちは、主イエスに対して、殺意を抱いているということが分かります。そして、主イエスは十字架に架けられるのを待っていた訳ではないのです。主イエスは、毎日、神殿の境内で教えておられたのです。ここで、境内でというのは、いわゆる神殿の中ではなくて、神殿域を指していて、p.3の図の異邦人の庭と呼ばれるところで教えておられたのです。そこでは、主イエスだけではなくて、多くのラビたちがそこで教えていたのです。そして、異邦人の庭に行けば、自分が好きなラビの講話を聞くことができたのです。当然、人気のあるラビや尊敬されているラビの周りには多くの聴衆が群がったのです。主イエスがそこで教えた時には、間違いなく、1番大きな人だかりができたことと思います。それを見て、宗教的指導者たちはおもしろいはずがないのです。
ここでのルカの視点は、宗教的指導者たちと一般民衆との対比です。主イエスの教えに対して、指導者たちと一般民衆という2つの集団が異なる反応を見せたのか、そのことが次に続いてゆくもろもろの教えについてのイントロダクションになっているのです。宮清めによって、指導者たちが敵対した。そして、主イエスの教えを要約することによって、この後に続く種々の教えのイントロダクションにしている。これが、ルカの書き方なのです。
さて、一般民衆はどのような態度を取ったのでしょうか。一般民衆は、夢中になってイエスの話に聞き入っていたのです。宗教的な利害関係のない人々は、主イエスの教えに心を開いていたのです。そして、民衆は、主イエスの周りに群がっていたのです。ところが、利害関係のある宗教的指導者たち、具体的には、祭司長たち、律法学者たち、そして、民の指導者たちは、主イエスを殺そうと考えていたのです。しかし、この時点では、どうすることもできなかったと、ルカは伝えているのです。何故かと言いますと、民衆が主イエスを支持しているから、そして、霊的な理由を付け加えるならば、主イエスの時はまだ来ていなかったからです。主イエスが十字架に架かる時が来たならば、宗教的指導者たちは主イエスを捕らえることができるようになるのです。そのような状況の中で、1つの論争が持ち上がるのです。
■何の権威で
本日の聖書の箇所の20章1〜2節を見ると、『ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」』とあります。ここでのキーワードは権威です。この権威というテーマは、当時のユダヤ人だけではなくて、ルカによる福音書の読者にとっても重要なテーマであったのです。何故かと言いますと、あなたはなぜ主イエス・キリストの福音を信じたのですか、あなたはなぜ主イエス・キリストを救い主として信じたのですか、その理由は何なのでしょうかと聞かれた時に、答えは、主イエス・キリストには権威があるというもとを認めたからですという答えになるからです。つまり、権威があるので、信頼できるということを認めたからですということになるのです。
この箇所で、主イエスは最後の1週間の中を歩んでいるのですが、『ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、』とあります。主イエスは、最後まで福音を宣べ伝えて、教えておられたということが分かります。その福音が何なのかと言いますと、十字架の福音ではなく、神の国の福音なのです。主イエス・キリストの到来によって、神の国が近づいたという神の国の福音を最後まで宣べ伝えていたのです。そこに、祭司長や律法学者たちと、長老たちが一緒にになって主イエスのもとにやって来たのです。つまり、これは当時のユダヤ人であればすぐに分かることなのですが、サンヘドリン、ユダヤの最高法院の議員たちがやって来たということなのです。従って、聖書のこの箇所で何が起きているのかと言いますと、サンヘドリンの議員たちがオフィシャルに主イエスに質問をしているということなのです。彼らが何を尋ねているかと言いますと、『我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。』(2節)と、挑戦的に尋ねているのです。彼らが何と言っているかと分かりやすく言いますと、1つは、あなたは自分を誰だと言っているのですかという質問で、2つ目は、あなたは誰から派遣されているのですか、あなたの後ろにいる権威は何なのですかという、2つの質問なのです。そして、この2つの質問は、サンヘドリンからのオフィシャルな、正式の質問なのです。さらに、この質問は、主イエスを罠にかけるための質問でもあるのです。引っ掛ける仕掛けが、両方についている質問なのです。もし、主イエスが神様から権威を受けたと言えば、たちまち神様を冒涜した罪で石打ちの刑が行われてしまいます。もし、人から権威を受けたと言えば、その権威は認められず、主イエスの主張は無効にされてしまうのです。ですから、神様からと言っても、人からと言っても、どちらでも困ったことになる質問となっているのです。
ユダヤ教における権威というのは、何かと言いますと、ラビは自分の意見を言う前に、過去のラビたちの教えを引用するのです。その上で、自分の意見を付け加えるのです。つまり、過去のラビたちが、今のラビたちの権威の源になっているのです。それに対して、主イエスがどのような教え方をされたかと言いますと、主イエスは過去のラビたちの教えを全く引用していないのです。主イエスが引用しているのは、聖書だけなのです。それ故、権威が認められないユダヤ人の宗教的指導者たちにとっては、結局、主イエスというのは、ナザレの大工の息子で、専門的なラビ教育を受けていない、学歴のない、何の権威もない田舎の大工の息子だというのが、サンヘドリンの議員たちの言葉に表現されている彼らの理解なのです。そして、彼らにとって、何の権威もない主イエスの存在の何が不都合なのかと言うと、神殿の雰囲気を壊しているというのです。彼らにとって、神殿というのは、一定の秩序を持って、平安な、静寂な雰囲気の中で、物事が全て行われている場所なのです。
ところが、主イエスが来て、宮清めで大混乱を引き起こし、さらに、異邦人の庭で、主イエスが教える時に、群衆がたくさん来て、普段見られないような騒ぎになっている。主イエスによって、神殿の雰囲気が壊されている。たった1人の人間が神殿の雰囲気を壊しているのがけしからんというのが、この質問の背後にある指導者たちの思いなのです。
それに対して、主イエスは何と答えられるのでしょうか。
■天からのものか人からのものか
次に、本日の聖書の箇所の3〜4節を見ますと、『イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼(バプテスマ)は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」』とあります。主イエスは、質問を受けましたが、質問をもって、質問に答えているのです。これは、ラビ的対話法になります。主イエスは、宗教的指導者たちに質問を投げかけることによって、宗教的指導者たちをジレンマに陥れたのです。彼らは質問することによって、主イエスをジレンマに陥れようとしたのですが、今度は逆に、主イエスの質問によって、立場が逆転するのです。『ヨハネの洗礼(バプテスマ)は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。』と4節にあります。天というのは、ユダヤ的な文脈では、神様のことです。神様という言葉は口にしないので、神様とは言わないで、天と言うのです。バプテスマのヨハネの奉仕は、どこから来たのか。ヨハネの洗礼(バプテスマ)というのは、バプテスマのヨハネの奉仕のことを言っているのです。ヨハネの洗礼(バプテスマ)のような奉仕は、神様からのものか、人からのものか。ユダヤ人の指導者たちはバプテスマのヨハネに敵対していたのです。ところが、バプテスマのヨハネは民衆に人気があったのです。それで、民衆はバプテスマのヨハネに従ったのです。従って、バプテスマのヨハネの奉仕を否定したら、危険な目に遭うということが懸念されたのです。宗教的指導者たちは、この質問が自分たちをジレンマに陥れているということを、よく理解したのです。
それで、5〜6節を見ますと、『彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」』とあります。指導者たちがジレンマに陥った内容が、彼らの会話からよく理解することができます。ヨハネの権威は神様からだと言えば、それではあなた方はなぜ信じなかったのかと追求されます。ヨハネの権威は人からだと言えば、民衆は怒って、自分たちを石で打ち殺すだろう。指導者たちは、逆に民衆から殺される危険性を覚えているのです。それくらいに、民衆はこの段階で、熱狂しているわけなのです。石で打ち殺すだろうと言われている理由は、申命記13章1〜11節にありますように、偽預言者は石打ちの刑に処せられるという教えがあったからです。神様からの預言者であるヨハネの権威を否定すれば、偽預言者と同じ刑をうけるのだ、そのことが教えられているので、石打ちの刑になる危険性を彼らは感じたのです。ヨハネは、神様からだと言っても、人からだと言っても、指導者たちにとって困ったことになるのです。そこで、どのように彼らは答えるのでしょうか。
本日の聖書の箇所の7〜8節を見ますと、『そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」』とあります。指導者たちは、『どこからか、分からない』と、回答を避けたのです。霊的指導者というのは、民衆を正しい方向に導く責任があるのです。その責任を、彼らはここで放棄しているのです。彼らには、預言者が主からのものかどうか吟味する責務が与えられていたのですが、その責任を放棄して、ヨハネに敵対していたのです。彼らは、責任を回避した。主イエスは、彼らが回答を拒否したので、『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。』と、主イエスはご自分も答えないとおっしゃられたのです。
主イエスは、回答されていないのですが、主イエスが言外に込められた意味は、ヨハネの奉仕は神様からのものである、つまり、ヨハネの奉仕の権威は神様からのものである、あなた方がそのことを認めたくなかっただけなのだ、その神様から権威を受けたヨハネが、私のことをメシアと認めた、ヨハネがメシアと認めた私は神である、私自身が神の権威を持って、語っているのだ、ということが、主イエスが言外に語っている意味なのです。主イエスはこれまでも数々の奇跡によって、自らがメシアであり、神様の子であることを示して来られました。これまで繰り返し、既に主イエスは、示して来られたのです。それ故、主イエスの権威を認めないのは、主イエスの責任ではないのです。主イエスの権威を認めない指導者たちの問題なのだということなのです。
■主イエスから問われていること
サンヘドリンの議員である宗教的指導者たちは主イエスの権威を問いながら、自分たち自身が主イエスの権威について問われていることを、真剣に受けとめようとはしませんでした。そもそも主イエスの権威を問うよりも、自分たちにこそ権威がある、と彼らは主張したかったのです。そして、自分たちの命が危険に晒されると思ったら、自分たちの責任と主張を放棄して、曖昧な答えでごまかしたのです。それでは、主イエスの権威を真剣に問うことはできないのです。主イエスに問いかける中で、主イエスから主イエスの権威が神様からのものなのかどうかを問われていることを受けとめ、その答えを真剣に求めていく中でこそ、答えが与えられていくのです。主イエスに権威について問うとは、そういうことなのです。私たちにとって、主イエスの権威を問い、主イエスが何者かを問うことは切実な問いです。しかし、私たちは問うと同時に、問われているのです。そのことを真剣に受けとめ、その答えを真剣に求めていく歩みこそが、信仰を求めて生きる歩みなのだと思います。
■主イエスの権威に私たちは
主イエスの権威を受け入れ、跪く(ひざまずく)時、主イエスは、私たちに本当の自由を、罪と死の支配からの自由を与えて下さるのです。しかし、私たちは、しばしば主イエスの権威を受け入れず、跪こうとしない者に違いないと思います。私たちは、自分を高くし、力を誇ることによって、自分の権威を示そうとし、自分の城を守ろうとして、主イエスの権威を拒んでしまう者なのではないでしょうか。そのような私たちに対して、主イエスは力づくで、私たちを跪かせようとしたのでしょうか。ご自分の権威を、神様から与えられた権威を、力によって示され、ご自分を高くされることによって示されたのでしょうか。そうではありませんでした。主イエスは力を示すことなく、まったくの無力となった十字架の死において、ご自身の権威を示されたのです。主イエスは、ご自身を私たちよりも低くされることによって、十字架の死に至るまで低くされることによって、ご自身の権威を示されたのです。十字架の死において、私たちの誰よりも無力となり、低くなって下さったことによって、主イエスはご自分の権威を示されたのです。そのことに目を向けることによってこそ、私たちは主イエスの権威に跪くよう導かれるのです。弱さと低さの極みまで降ってくださった主イエスだからこそ、私たちを救って下さり、罪と死の支配からの本当の自由を与えて下さるのだと思います。私たちは、主イエスから問われている主イエスの権威に心を開いて、主イエスの十字架で示された、神様の救いの恵みの中を、歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。