■籤(くじ)や占いに頼るとき
わたしたちは、神のみ心をどのようにして知ることができるのでしょうか。
昔から人は、神の意志、神のみ心を知ろうと、さまざまな手段、方法を考えてきました。籤、占い、神託など、今日も、姓名判断、血液型による占い、タロットカード、果てはコンピューター占いまで、形を変え、品を変え、自分の定めを知ろうとする工夫は絶えません。しかし、そうした籤、占いによって、果たして、真実や神のみ心を知ることはできるのでしょうか。
現代を生きるわたしたちは、もはや、籤や占いなどを神のみ心とは思わないでしょう。籤や占いなど、およそ、非科学的で、非合理なものだからです。わたしたちは、科学的でないもの、合理的でないものを信じようとしません。
しかし、わたしたちが籤や占いを神のみ心だと考えない、本当の理由は別のところにあるように思われます。
そもそもわたしたちが普段の生活の中で、いつも合理的に考え、行動しているかというと、あやしいものです。わたしたちは、ただ自分の目で見、耳で聞き、手に触れることのできるものだけを信じ、それだけを頼りに生きようとしているに過ぎません。自分の感覚、自分の思い、自分の体験、つまり自分だけを信じて生きているのです。
ところが、わたしたちの周りには、見ることも、聞くことも、触れることもできないものがあふれています。何よりもわたしたちのいのちや心がそうです。遠くにあるものも、とても小さなものも、ずっと昔にあったことも、これから先に起こるであろうことも、他人だけでなく、それが自分のことであっても分かりません。見て、聞いて、触れることで確かめることのできるもの、知ることのできることの方がはるかに少ないのです。
科学とは本来、目に見えないもの、手に触れることのできないことをこそ探求するものなのに、わたしたちは実に頑なに、目に見て、手に触れることのできないものを、疑わしいものとして否定し、無視しようとします。それが科学的な態度だ、合理的だと勘違いをしています。そうして、多くの人々は、自分・エゴの枠に閉じこもって、神など存在しない、と考えます。神だけではありません。時には、真実や真理さえも、人の良心や愛さえも、そんなものなどありはしないと、心のどこかでうそぶき、諦め、絶望をします。籤や占いを神のみ心だと考えないのは、籤や占いが非科学的なものだからではなく、実は、信じるに値するのは自分だけだ、という狭く頑なな考えゆえではないでしょうか。
だからこそ逆に、現代という時代にあってなお、籤や占いというおよそ非科学的なものが廃れることがありません。それは、わたしたちが限りある自分しか信じることができないためだ、と言えるのでしょう。見えないもの、触れることできないものを拒もうとすればするほど、わたしたちは、いわく言いがたい不安を抱きながら生きざるを得なくなります。ましてや、様々な制度やシステムが複雑に絡み合い、情報が溢れかえる現代社会の中で、わたしたちはいよいよ、正体も原因も分からない、どうしようもない不安に囚われています。ある社会学者は、そんな現代人の不安を、現代社会というシステムが生み出した病である、と言っています。
いずれにせよ、人々は漠とした不安にとりあえずの区切りをつけようと、籤や占いに頼ろうとします。襲い来る不安、災難や困難は、自分でも原因のはっきりとしないものです。人はそれをとりあえずは「運命」という形で説明しようとします。運命とは本来、知ることのできないもの、自分の力では如何ともしがたいもの、ただ受け入れる他ないものです。本当のところは、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」、籤や占いといったものが大して役に立つとも、意味があるとも思っていません。当然、不安が本当の意味で解決されることも、消えてなくなることもありません。ときには、毎朝、テレビで流される「今日の運勢」と呼ばれるものに一喜一憂しつつも、その実、自分に都合のよいことだけを信じ、そうでなければなかったことにしようとします。わたしたちが自分だけの経験に囚われ、自分のことしか信じることができなければ、不安に晒され、不安にいらつき、不安に耐えつつ、ただ日々を生きるほかなくなるのは、しごく当然のことです。
■神のみ心は実現する
そんなわたしたちに、今日のみ言葉は、目に見て、手に触れることのできない真理なる神のみ心をどのようにして知ることができるのか、そのことを教えようとしています。 二二節、
「その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない」
イスラエルの人々は、自分たちの経験している現実、出来事を、単なる偶然としてではなく、実感を持って、預言者を通して語られた神のみ言葉、神の約束、神のみ心が実現したもの、その成就として受け取りました。モーセを通して語られた神のみ言葉は、奴隷であった父祖たちをエジプトから解放し、約束の地カナンへと導きました。そしてこの申命記が書かれている今も、アモス、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど預言者たちが語った神のみ言葉によって明かされたとおり、神の約束、神のみ心は、バビロンからの解放、エルサレムへの帰還の出来事として成就されました。
思い出します。広島の教会にいたとき、年四回、島根県隠岐の島にある教会の社会福祉法人の理事会に出席するときにはいつも、牧師の家に一泊していました。ある日の朝食後、教師でもあるその母親との何気ない会話を楽しんでいた時のことです。「神のみ心がどこにあるのか、時々、わからなくなる時があります」とお話ししたら、即答が帰ってきました。「それはね、み心だったら必ず実現するし、実現しなければみ心ではないということよ」。
申命記は、その確信をもってモーセの言葉をここに書き記しています。一五節、
「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」
イスラエルの人々は、預言者を通して神のみ心を知らされ、これに聞くようにと命じられていますが、これは実は、直前九節から一四節との対比として語られた言葉でした。カナン人は占い師に聞き従うが、イスラエルの民はそうしてはならない。彼らは人身御供(ひとみごくう)と占いと魔術、死者に問うことによって神のみ心を知ろうとする。しかしそれは、神ヤハウェにとって「いとうべき行い」である。なぜなら、神ご自身がそれらの代りに「預言者を立てられた」からだ。モーセはそう語っています。
神のみ心は籤や占いのように、自分に都合よく自由にできるものではない。預言者の口を通して語られる神のみ言葉として、わたしたちに先だって、わたしたちに語りかけ、与えられるもの。神はそのようにして、たとえわたしたちが神に背を向けていたとしても、神ご自身の方から働きかけてくださっている、というのです。 神のみ言葉を聞く用意、備えがなされているのです。イスラエルも、わたしたちも孤独な民ではありません。神は、いかなる時にもみ言葉を告げてくださるのです。
その意味で、律法の書と呼ばれる申命記は、単なる律法主義の書ではありません。パウロの表現を借りるなら、古い契約もまた文字ではなく霊なのです。イスラエルの民は本来、過去の伝統をただそのまま固守するのでなく、それぞれの時代に生きた神のみ声を聞くことができたのです。そして、今ここにいるわたしたちも、ただ過去にすがり、過去の出来事や慣習に固守することによって生きようとするのでなく、生きたみ言葉を聞きつつ、今ここにある歴史の中に、一人ひとりの日々の生活の中で生かされています。
■み言葉を聞き入れ、信じる
教会には、さまざまな人が相談にやって来ます。病気に苦しんでいる人、人間関係に悩んでいる人、自分に自信がもてず落ち込んでいる人。その多くの方が、最初は何から話していいのかというふうに口ごもっていますが、やがて一気に話し始めます。過去がどんなにつらかったか、未来がいかに不安かを分かってもらおうと、熱心に語り続けます。
大したアドバイスもできないままに、わたしは聞き役に徹し、「はあ」とか「ほお」とか「それはつらかったでしょう」などと相づちを打ちます。語るうちに涙をこぼす人も多く、こちらもつられて思わず涙ぐむことも、しばしばです。それでも一通り語り終えると、だいぶ晴れ晴れとした感じになり、「でもまあ、もう少し頑張ってみます」といった言葉も出てきます。たぶんわたしは、教会は、そのひと言を、本人が自分自身で語れるようになるお手伝いをしているのでしょう。
どんな人にも、その人を支えるような素敵な言葉が、物語が必要です。どこで生まれ、どんな親から愛され、どのように育ち、どんな試練を越えて、どんな未来へ向かっているのか。押しつけられたストーリーではなく、その人にだけ語りかけられ、その人を救う聖なる言葉がなければ、この混沌とした人生を心安らかに生きていくことなどできません。問題は、それを聞き取ることです。いくら助言者が、あなたの人生は無意味じゃない、あなたには価値があると言ったとしても、最終的には本人自身が、あなたの人生はすばらしいというみ言葉に信頼しない限り、決して悩みも不安も解決しません。
同じ交通事故にあって同じケガをしたとしても、「なんてついてないんだろう。やっぱりバチが当たったんだ」と語る人と、「死なずにすんだのは奇跡だ。これからの人生を大切に生きよう」と語れる人とでは、人生の意味が天地ほど違ってきます。「昨日までの苦難は、すべてすばらしい今日のための準備だった」「今日のこの悩みも、わたしの人生のかけがえのない一瞬だ」「明日はきっといい日だ。わたしはいつも新しく生き直すことができる」。自分の人生を、たとえ何があっても前向きに生きることができるのは、ただ、神のみ言葉を聞き入れ、それに信頼することができるかどうかにかかっています。
別の言い方をすれば、「天」に通じるみ言葉は、どのようなときにも与えられているのだ、ということです。つらい思いを抱えている人は、当然のことながら現実の世界で苦しんでいます。弱い体、傷つきやすい心、暴力的な社会、つまりこの世という限界ある「地」を生きているからこそ苦しんでいるのですから、最終的にはどうしたって「地上」の努力では救われません。どれほど科学や医学が進歩しても、どんなに優れた思想家や政治家が現れたとしても、それは、実は赤ん坊が赤ん坊を助けようとしているようなことで、究極的にはすべての生みの親である「天」とつながらなければ、「地上」の苦しみをいやすことはできません。
出口のない闇の底でうずくまり、つらい思いから逃れられずに苦しんでいる人が、ふと目を上げさえすれば、きっと神のみ言葉が目に入ってくるはずです。たとえば、こんな言葉、「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ六・三四)。なぜ、明日が思い煩いのない、「いい日」なのか。どうして「十分」などと断言できるのか。何の根拠もありません。どういうつもりで「思い悩むな」などと呼びかけているのか。それでも、本当につらい思いをして、本当に救いを求めたことのある人なら、きっと分かるはずです。これは「地上」の言葉ではなく、「天」からのみ言葉だ、と。そんな完全な世界、永遠の世界に触れなければ、決して真の救いはない、ということが分かるはずです。
そんな神のみ言葉を信じて眠りについた者には、必ず「いい日」はやってきます。健康だろうが、病気だろうが、成功していようが、失敗続きだろうが、「地上」のどんな条件ともまったく無縁に、「いい日」がやってきます。なにしろ天の声、神のみ言葉なのです。百パーセント断言できます。さあ、もう寝よう。あしたは、きっと、いい日。 神のみ言葉は必ず成就いたします。たとえ、わたしたちが神に背を向けるときがあっても、それでもなお、神はわたしたちを愛し、決して見放されることはないと神はわたしたちに語りかけてくださっています。み言葉の成就は、現実はわたしたちが望むものとは異なっているかもしれません。しかし、それは確かに、恵みとしてわたしたちに与えられ、わたしたちにかなえられるものです。道は必ず備えられているのです。現実の中に示されているわたしたちへの神のみ心、使命に気づかされ、神のみ言葉の恵みに感謝しつつ、共に新しい週を歩みたいと願う次第です。