【説 教】 牧師 沖村 裕史
■サヴォナローラ
「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、…その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」
この厳しい言葉を心に刻みつつ、 今日は、イタリアの一人の伝道者のことからお話を始めさせていただきたいと思います。
イタリア中部にフィレンツェという街があります。ルネッサンスの文化が今も鮮やかに残る、まさに古都という名にふさわしい街です。そのフィレンツェには、たくさんのすぐれた芸術品や建築物がありますが、その中にフラ・アンジェリコの名画「受胎告知」があります。聖マルコ修道院という修道院の中にありますが、NHKの美術番組がその修道院の放映をしていました。カメラが、修道院の建物の中へ入って前に進み、階段を上がって踊り場のところでグルっと廻り、レンズが上に向けられると、上の階の開いている扉の奥に、「受胎告知」の絵が見えてきます。さらに奥の方へと進んで行くと、修道士たちの個室が続いていて、そこにもフラ・アンジェリコたちが描いたフレスコ画が掛けられています。その中の一つに、サヴォナローラの肖像画と、彼が十字架につけられている場面が描かれた絵があります。
サヴォナローラ。その修道院の院長だった人です。ルターの宗教改革が始まる少し前、一五世紀後半にこの修道院の院長となり、最後は、罪を断罪する激しさゆえに、焼き殺されてしまった人です。彼は、当時の教会やフィレンツェの支配階級―ローマ教皇やメヂティ家と対立し、神秘的で預言に満ちた力強い説教で、フィレンツェの人々に大きな影響を与えましたが、結局、殺されるほかありませんでした 。
激しい信仰の道を生きたサヴォナローラは、いったい何を語りかけていたのでしょうか。いくつかのメッセージが現代にも伝えられていますが、そこで繰り返し語られていることは、「信仰の怠惰」について、でした。
そして今日の言葉の直前、ヘブライ人への手紙五章一一節にも「あなたがたの耳が鈍くなっているので」と記され、今日の最後六章十二節には「あなたがたが怠け者とならず」とあります。「鈍い」「怠け者」「怠惰」という、それらの言葉のすべてが実は、同じギリシア語でした。
あなたたちの耳が「鈍い」とは、つまり、あなたたちは聴くことに「怠惰」である、ということです。聞くべきことを聞いていない。自分の聞きたいことしか聞き取っていない。面白おかしく、わかりやすく語ってくれる言葉だけ、自分にとって耳障りのよい言葉だけを聞いている、ということです。
そんな信仰の怠け者になって欲しくない、とサヴォナローラも、そしてヘブライ人への手紙の著者も語っているのです。
■十字架につける
この手紙の著者は、わたしたちが最も陥りやすい罪こそ「信仰の怠惰」である、しかもそれは、「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する」ことになる、と書いています。
神の御子イエス・キリストを十字架につけたものとは、いったい何だったのか。それこそ「信仰の怠惰」だ、と言います。イエスさまの言葉を聞いても聞かず、イエスさまの業を見ても見ない。イエスさまが宣べ伝えた福音を聞いても聞き取らず、わたしたちを救いへと招いてくださっている神の愛に背を向けて、ただ自分の願うようにだけ、自分に都合のよいようにだけ聞いて、都合の悪いものはすべて悪だ、誤りだと人を非難し、裁く。それが、イエスさまを十字架につけた。それと同じ罪を犯すことになる。この手紙の著者はそう語ります。
そして、サヴォナローラも同じように語ります。怠慢な司祭たち、怠慢な修道士たちはいったい何をしているのか。彼らが朝から晩まで酒を飲んで酔っ払ったり、眠ったりしているというのではありません。むしろ一生懸命、ミサ―礼拝に励んでいます。しかし…と言います。サヴォナローラは市民にも問いかけます。あなたたちも怠慢だ。あなたたちは礼拝に行き、自分が死んだらできるだけ安楽に天国に行けることばかりを願い、そのために献金をし、蝋燭を献げている。しかし、それが怠慢なのだ、と厳しい言葉を投げつけます。懸命に励んでいるのに怠慢だ、と言います。それは、ちょっと見にはとても信仰深く生きているようでありながら、あなたたちの魂が、傲慢に満ちているからだ、と語ります。そこにこそ、信仰の怠惰がある、と。
聖書の言葉を聞いても、その聞き方が怠慢になっている。少し難しい、少し厳しい言葉になれば、それを聞こうとしない。それは、あなたたちの心の中の傲慢さゆえだ、と言います。サヴォナローラの言う「傲慢」を、もっとわかりやすく表現すれば、「開き直る」ということでしょうか。座り込んで、これでいいじゃないか、もう十分だろう、と言ってしまう。そこで信仰の歩みが止まってしまう。
サヴォナローラが、なぜ殺されることになったのか。それは、わたしたちの誰もが、 そんな怠慢を指摘されることを嫌うからです。そんな、わたしたちの傲慢さゆえです。
わたしたちはよく人に、「わたしのような至らない者が…」と言います。でも、そう言われた相手の人がわたしに向かって、「そうですね、あなたは至りませんね、勉強し直したらどうですか」と言うとします。それでもわたしたちは「はい、その通りです」と答えるでしょうか。たとえ、そう答えることができたとしても、きっと心の中は、それどころではないでしょう。牧師に厳しく言われれば、うちの牧師はわたしのことを信仰が至らないなどと言った、もうこんな所に二度と来るものか、などとなりかねません。それは、牧師の仲間内にあっても、同じです。他人事ではありません。
サヴォナローラは、そしてこの手紙の著者は、そのことを見抜いていたからこそ、傲慢に生きるとき、そこにはもう信仰は見つからない、わたしたちの傲慢さが、かたくなさが、イエス・キリストを十字架につけたのではないか、そのことに気づかなくてはならない、そう言います。
かたくなさとは、傲慢さとは、一体何か。それは、神の姿を、イエス・キリストを見失っている、ということです。すべてを与え、すべて必要なものを備えてくださっている、神の愛を見失うということです。このいのちも人生も、この友も兄弟姉妹も、この世界のすべては、神が与えてくださっているのではなかったでしょうか。神の愛ゆえではなかったでしょうか。それを見失い、自分で何でもしなければならない、何でも自分でできると思ってしまう。それが、かたくなさであり、傲慢さでした。
■愛の中を生きる
神は、神の主権を侵す人間の傲慢さに対して、最も激しい怒りを表されます。しかしそれでもなお、神は愛の神であるがゆえに、その罪を赦してくださったのでした。一度限りの決定的なとりなしがイエス・キリストによってなされたのでした。ヘブライ人への手紙の著者がここで語っていることも、九節以下にあるように、そのような主の愛について、でした。九節から一一節、
「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」。
「聖なる者たち」とは「聖徒」ということです。使徒信条で「聖徒の交わり」と祈る、あの「聖徒」です。今ここにいる皆さん、そして今はすでに天に召されている方々のことです。救われて、神のものとされた者のことです。その聖徒たちに、以前も今もあなたたちは仕え、そして今も互いに仕え合っている。そして、その仕え合うことの中に愛が働いている。その愛はあなたたちの愛ではない。主の愛において初めて、隣人に仕えることができる。そこに愛がある。その愛を、神は決して忘れられないと言うのです。
いえ、たとえあなたたちが忘れても、神は忘れられることはない。その愛の働きを大事にしてほしい。神は決して不義な方ではない、あなたたちがたとえ不義であったとしても神の義、神の正しさは変わらない。その神の義は、あなたたちを裁くことによってではなく、むしろ、あなたたちの愛の奉仕を忘れないことによって示される、そう語るのです。
こう考えると、「義」とは、善悪の判断ができるための規準というにとどまらない、むしろ神の義、神の愛そのものについてわきまえることだ、と言えるでしょう。その神の正しさ、神の愛は必ず貫かれます。そして続けて、その神の義について次のように語ります。一二節、
「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしい」
「約束」は、この手紙がもっとも大切にしている信仰の教えのひとつです。神の約束がある。その約束に従って生きようということです。だからこそ、九節「あなたがたについて確信を持つことができる」とも言えるのでしょう。あなたたちは必ず救われる。あなたたちの怠慢も必ず克服される。だから一一節、
「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたい」
あなたたちの中にもう熱心さが芽生えています。その熱心さを消してはいけません、そう言うのです。四節の「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験した」という言葉を思い起こさせます。この四節の言葉に心を留めれば、この手紙の言いたいことがよく分かるでしょう。
悔い改めて洗礼を受けて、そこでわたしたちは何を体験したのでしょう。光を見、光の子にならせていただきました。イエスさまの教えを心に深く聞くことができました。そこで熱い思いを抱いて、信仰の道を歩み始めたのではなかったでしょうか。そうです。わたしたちも、洗礼を受けた頃は実に熱い心を抱いていました。その熱心さを、ただ深めていけばそれでいいのです。そうすれば、信仰が怠慢になって澱(よど)んでしまうことはありません。信じるということは、生涯を通してイエスさまの言葉に従い歩むということです。歩まずに信じるということはありません。それが、信仰が生きているということです。
この手紙は、神の恵みから落ちてはならない、恵みの中に生きるということこそ、自分の生涯を通して信じる道を歩み続けることだ、と教えています。そのためにこそ、神の愛について語る、わたしの言葉に耳を傾けてほしい、と訴えているのです。
■イエスさまの愛
メラミン・スポンジというものをご存知でしょうか。水を含ませて軽くこするだけで、お鍋などについた取れにくい汚れを、みるみるうちに落として綺麗にピカピカにしてくれる、あの真っ白なスポンジのことです。
ある友人が、メラミン・スポンジの構造について説明してくれました。その話によれば、お鍋などには細かい傷がたくさんあって、その傷の中に入り込んでこびりついた汚れは、表面からゴシゴシこすっても落ちないのだそうです。ところが、このメラミン・スポンジは、とても柔らかく細かい繊維でできているために、小さな傷の中にまで入って汚れをかき出してくれるそうです。こする力によってではなく、メラミンの柔らかさと繊細さが、汚れをかき出してくれるというのです。
自分自身やこの世界が、どうしようもなく荒んで汚れているように感じることがあります。そんな時、思わず否定したり、嫌悪感を持ったりします。でも、メラミン・スポンジについての説明を通して気づかされました。もしかして、自分やこの世界を汚れていると感じる時、そこには同時に、無数の傷や痛みがあるのかもしれない、と。その傷の中に入り込んでこびりついている汚れを、固いものでゴシゴシこするかのように、自分やこの世を責めているだけでは、汚れは落ちないでしょう。むしろ新たな傷を作ってしまうだけかもしれません。そして新しい傷に、また新しい汚れが入り込みます。自分もこの世界も、ますます汚れて荒んでしまうことでしょう。
自分やこの世の傷や痛みに、メラミンのような繊細な心で気づいて、そうっと優しく触れて、傷の中に入り込んで、くっついている汚れを落とせたらどんなに素敵でしょう。
『このメラミン・スポンジって、イエスさまみたいだなぁ』、そう思いました。人を愛し、この世を愛し、傷や痛みの深いところにまで優しく入り込み、癒してくださり、最後にはボロボロになって捨てられた、そんなわたしたちの主、友の中の友となってくださった、イエスさまを想いました。
ヘブライ人への手紙は、ちっとも勉強しない生徒たちを抱え込んで、きりきりしている校長先生の小言のようなことを言っているのではありません。そうではなくて、自分もすばらしい神の光の中を歩まされている喜びを味わいながら、わたしたちに語りかけているのです。イエスさまの語られる言葉には、少しも難しいものはありません。難しくしているのは、わたしたちの中に何度でも現れてくるかたくなさ、傲慢の罪ゆえです。
今も、わたしたちはイエスさまのみ前に招かれています。わたしたちは今ここで、そのような傲慢の罪を捨てて、へりくだって、み言葉を、生きたみ言葉として聞きながら、み言葉の証しを受け止めることが求められています。互いに支え合う愛の思いをもって、愛の神のみ前に跪きたいと心から願います。