【奨 励】 役員 川辺 正直
■急がば回れ
おはようございます。さて、『急がば回れ』ということわざがあります。そのまま現代の言葉に直すと、『急ぐならば回りなさい』になります。私たちは、『急いでいる時ほど、安全な方法を取れ』という意味だとは知っていると思いますが、これが琵琶湖に由来すると知っている人は少ないのではないでしょうか。このことわざは、室町時代の連歌師(れんがし)の宗長(そうちょう)という人が詠った、『もののふの 矢橋(やばせ)の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋』という歌が、『急がば回れ』の始まりだと言われています。『矢橋の船』とは、東海道の草津宿から大津を結んだ琵琶湖上の船です。もちろん、現在の滋賀県にあります。また、『瀬田の長橋』とは『瀬田の唐橋』のことで、日本三大名橋のひとつにあげられています。草津宿から京都へ向かうには、矢橋から琵琶湖を横断する船を利用する方が、草津宿からずっと南に迂回しなくてはならない瀬田の唐橋経由の陸路よりも距離が短く、移動時間も短いのです。しかし、船で湖を移動するこのルートは、比良(ひら)おろしという、比叡山(ひえいざん)から吹き下ろされる突風などにより、船が転覆させられることがあり、危険だったのです。そんなことから詠われたのがこの歌なのです。
普段使っている言葉ですが、その由来や、元々の本当の意味については、よく知らないままに使っているということは、案外多いのではないでしょうか。聖書についても、読みやすい箇所だけを呼んでいると、重要な教えが落ちてしまい、聖書が教える信仰とは離れてしまうということがあるのではないでしょうか。現在、私たちはルカによる福音書を連続して読み進めていますが、本日の箇所は21章5~19節の主イエスがエルサレム神殿の崩壊とその後の時代について予言された箇所を読みたいと思います。21章5~38節は、いわゆる終末論と呼ばれる箇所で、とても難解な箇所ですので、この箇所の説教をお聞きになられた方は少ないかと思います。しかし、私たちはルカによる福音書を1節、1節、丁寧に書かれている意味を読み解きながら、読み進めています。これを講解説教と言いますが、講解説教では難解だから避けて通るという訳には行きませんので、神様によってさし出されたものを頂くことによって与えられる恵みを、本日の聖書の箇所を通して味わってゆきたいと思います。
■神殿の崩壊の予告
さて、本日の聖書の箇所の冒頭の5節には、『ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。』とあります。『神殿』とは、エルサレム神殿のことです。主イエスの時代のエルサレム神殿は、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちが5年かけて建築した小さい第2神殿を、ユダヤの王であったヘロデ大王が、紀元前19年から、エルサレム神殿の大がかりな増築工事を始めたものであったのです。ヘロデ大王の増築工事が完成するのは、紀元63年ですので、足掛け83年に及ぶ大工事です。本日の聖書の箇所で人々が驚嘆した、建築着工後50年のこの当時のエルサレム神殿は、その外見はほとんど出来上がっていて、その全面は金箔で覆われ、日の出の時はあたかも太陽光線そのものを見つめる時のようにまばゆいものであったと言われています。他の部分も白い大理石を用い、贅沢の限りを尽くしたものであったようです。そのような壮大な神殿の建物に感心している人々の言葉を主イエスはお聞きになり、それをきっかけにして語り始められたのです。マタイによる福音書を見ますと、24章1節に、『イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。』とありますことから、神殿域を出て、神殿を見渡すことができるオリーブ山で、この会話が交わされたことが分かります。
そして、本日の聖書の箇所の6節には、『「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」』とあります。つまりこの神殿が徹底的に破壊され、崩されてしまう日が来ると主イエスは予言されたのです。『一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。』と聞きますと、私たちは、主イエスは少し大げさに表現されたのかと思ってしまいますが、当時の人にとっては、もっと驚きで、まず起こるはずのないことが起こると言われたと思われたのです。それには、2つの理由があったのです。第1番目の理由としては、このエルサレム神殿を造っている石があまりにも巨大であったということがあったのです。従って、エルサレム神殿を解体するには、大変なエネルギーが必要だと考えられていたのです。そこまでのことをする者はいないだろうと考えられていたのです。このエルサレム第2神殿は、今から2000年位前に作られたものですが、今は地下に埋まっています。しかし、発掘されて地下道ができ、今は当時の石垣を見ることができます。そして、使われている石の中で、特に大きいものは幅13m、高さ3m、重さは600トンもあり、こんなに大きな石を、どうやって直方体に切り、丘の上まで運び、積み上げたのかは、今でも謎なのだそうです。そして、エルサレム神殿は、当時、最高の工法で作られていて、石と石の間には、石を乗せる前に、下の石の上に鉛の粒をばら撒いたそうです。その上で、巨大な石を置くのです。鉛は柔らかい金属ですので、ですから巨石の重みでグチャと潰れて、石と石の間の隙間を埋めて、粘着剤のようにピッタリとくっつくようにしているのです。天才建築家であったヘロデ大王が増築したエルサレム神殿は、このような、当時の知識の粋を凝らして、一度積み上げたら、二度と崩されないような仕掛けも施されているという建築物であったのです。もう一つ破壊されないと考えられていた第2番目の理由は、それは当時のユダヤの世界を支配していたローマ帝国自身が、このエルサレム神殿の建物としての価値を非常に高く評価していたということがあったのです。
ところが、ユダヤ人たちはローマ帝国に対して反乱を起こし、紀元66年にユダヤ戦争を始めてしまうのです。このユダヤ戦争の後半で、指揮を執るのが、天才的な指揮官であったティトスという将軍なのです。ティトスは、エルサレム以外のすべてのユダヤの町を北から、一つずつ撃破して行くのです。そして、エルサレムだけが最後に残るようにしたのです。そして、各地での戦闘での敗残兵がエルサレムに集まるようにしたのです。各地の兵がエルサレムに集まるだけ集めておいて、エルサレムを大群で包囲したのです。また、過ぎ越しの祭りの季節には、ユダヤに住むユダヤ人だけではなくて、外国に居住しているユダヤ人たちも、過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに巡礼にやってくるのです。ところが、エルサレムを包囲しているティトス将軍は、巡礼に来たユダヤ人たちがエルサレムに入ることを許可したのです。しかし、一旦、エルサレムに入ったら、ティトス将軍は、エルサレムから出てくることは許可しなかったのです。こうして、エルサレムの町を過密状態にした上で、兵糧攻めにしたのです。そのため、エルサレムの中は、大変な惨状になったのです。兵糧攻めにした上で、ティトス将軍は何度も降伏を勧めたのです。ローマ帝国は、通常、このような寛容な手段は使わないのですが、なぜそうしたのかと言いますと、エルサレム神殿を建物として無傷のままで残し、ローマ皇帝を礼拝するための神殿に変えたいと考えていたからです。そのため、ティトス将軍は、ローマ兵たちに、戦闘について、エルサレムの町にも、エルサレム神殿にも、火を武器として使うなということを厳命していました。
しかし、これほど厳命していたのに、エルサレム神殿のすぐ近くで火の手が上がるのです。一体、誰が火をつけたのかと言いますと、ユダヤ人であったのです。ユダヤ側の指導者は、シモン・バル・ギオラ、ギスカラのヨハネ、エルアザル・ベン・シモンの3人が3つのグループに分かれて戦っていたと伝えられていますが、いずれも強硬派・原理主義者の熱心党の人間であったのです。その過激派の人々が、自ら火を付けだしたのです。それは、なぜかと言いますと、ローマの兵士がどんどんエルサレムに乱入してきて、神殿のすぐ近く、アントニア要塞に入ってきた、すし詰め状態になっている、そのローマの兵隊たちの頭の上にある家屋に放火して、燃え上がった家屋をローマ兵の上に崩落させて、下敷きになったローマ兵たちを全滅させるという方法を採ったのです。そのユダヤ人たちの戦い方を見て、頭に血が上ったローマ兵は、ユダヤ人が火を武器として使っているなら、自分たちも、ということで、ローマ兵も松明を建物に投げ入れ始めたのです。火の手が上がる様子を見ていたティトス将軍は、直ぐに戦場の現場に駆け付け、消火活動を直ぐに行うように命令するのですが、現場のローマ兵は興奮状態になっていて、ティトス将軍の声は届かなかったのです。そして、あっという間に、火は燃え広がって、町にも、神殿にも、火は燃え移って、炎上し始めたのです。エルサレム神殿は、石で作られていたのですが、石の表面を杉板で囲っていたのです。そして、その杉板の上には、金や銀などの貴金属で装飾が施されていたのです。そして、このエルサレム神殿には、宝物庫がありました。また、神殿で使われる祭器の多くは、純金でできていたのです。金でできていたものが、沢山あったのです。そういった沢山の金が、神殿が炎上することによって、どろどろに溶けてしまったのです。そして、その溶けた金が床面である敷石や壁となっている石と石の隙間に流れ込んだのです。さて、戦争で勝利したローマ兵たちはこれらの金を戦利品と見なしたのです。そして、石と石の間にこびりついた金を剥がして取り出すために、石を取り除けて行ったのです。一つの大きな石を取り除けると、その石の下には純金が広がっているわけなのです。その金を剥がし取って、自分たちの戦利品としたのです。ヨセフスのユダヤ戦記を読みますと、ユダヤ戦争の後、金の現金化が進んだので、ローマ世界で金の価格が下がったことが記録されているのです。それぐらい沢山の金をローマ兵たちが集めるために、神殿の石と石を全部崩して行ったのです。その瞬間に、本日の聖書の箇所の6節の主イエスの言葉が、そのままの形で実現したのです。
福音記者ルカがこの福音書を書き記した時、人々の記憶には、エルサレム神殿崩壊の記憶は生々しかったと思います。従って、主イエスの『一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。』と語った言葉に、主イエスの予言がいかに正しく、耳を傾けるべき予言であるかということを思ったと思います。現代に生きる私たちの中には、『そんなことを言ったところで、所詮、後知恵でしょ。主イエスの終末予言の信憑性を高めるための作り話でしょ』と裏読みをする方もおられるかもしれません。しかし、主イエスのこの時の発言が、ユダヤの最高法院、サンヘドリンでの主イエスの裁判で、主イエスは死刑が相当であるとの裁定が下される根拠となったことから、主イエスは確かにエルサレム神殿崩壊の予言をされたということが分かります。マタイによる福音書26章59〜66節を見ると、『さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。』と記されているのです。
従って、主イエスは、人々が神殿について語っている会話をきっかけに、深刻で重大な予言をされたのは、弟子たちだけではなく、全ての人にとって重要な教えに導こうとされているのです。従って、主イエスがここで本当に語ろうとしておられるのは、エルサレム神殿がもうじき崩壊する、ということではありません。それは、この後の問いを引き出すためのきっかけに過ぎないのです。
■「終わり」を象徴する出来事
本日の聖書の箇所の7節を見ますと、『そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」』と記されていることが分かります。『そのこと』というのは、6節の主イエスの言葉からすれば、エルサレム神殿の崩壊です。それはいつ起るのか、それが起る前にどんな前兆があるのか、とこの人々は問うた、論理的にはそういうことになります。しかし、このあたりから話はもう、エルサレム神殿という一つの建物の話ではなくなっていきます。まさに世の終わり、終末の話になっていくのです。これは決して話のすり替えではありません。エルサレム神殿の崩壊を予告した主イエスは、そのことによって、この世の終わりへと人々の思いを向けさせようとしておられたのです。ですから話はまさに主イエスが意図しておられた方向へと進んでいるのです。
到底ありえないと思われるような神殿の崩壊の予言を聞いて、弟子たちはとてつもなく不安になったことと思います。バビロン捕囚のときのような、エルサレム神殿の崩壊、それはユダヤ人たちにとっては、一つの大きな建物が壊れるというだけではすまない、もっと象徴的な意味を持っていたのです。それは自分たちの培ってきた伝統、信仰、文化、生活全体の崩壊です。国の崩壊、滅亡でもあるのです。一つの建物だけでなく、社会全体が崩壊し、破局が訪れるのです。ユダヤ人たちにとってそれは神様がお造りになったこの世の終わりをも意味するような事柄でした。自分たちが生きてきたユダヤ教の世界が『終わる』ことを、彼らは主イエスのこのお言葉によって意識させられたのです。弟子たちは、いつ起こるのか、徴は何かということを知りたいのです。弟子たちは心底、驚いたのです。バビロン捕囚のようなことが起こるのですが、神様の超自然的な介入があって、今生きているこの世が終わり、み国が到来するかも知れない。だから、そのことが起こる徴は何ですか、という質問になったのです。
そこで、主イエスが答えます。本日の聖書の箇所の8〜9節を見ますと、『イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」』とあります。ここで、主イエスは神殿崩壊の話やそのしるしについて話しているのではないのです。
マタイによる福音書24章3節を見ると、弟子たちは3つのことを尋ねています。『イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」』とあります。弟子たちは3つのことを尋ねと言いましたが、それが何かと言いますと、1つ目が、そのことはいつ起こるのかということです。2つ目が、あなたが来られるときにはどんな徴があるのでしょうか、ということです。そして、3つ目が世の終わるときにはどんな徴があるのですか、というものです。
そして、主イエスが答えておられるのは、マタイによる福音書の3つの質問の中の3つ目の世の終わるときにはどんな徴があるのですか、という質問に答えているのです。『世の終わるとき』というのは、英語訳聖書であるNew Revised Standard Versionを見ますと、”(The sign) of the end of the age?”となっていて、主イエスの十字架と復活、及び、昇天のあとに誕生する教会時代の終わる時の徴について答えておられることが分かります。主イエスはまず教会時代に見られる特徴を挙げています。その特徴は何かと言いますと、『わたしの名を名乗る者が大勢現れ』ると言うのです。つまり、偽のキリストが大勢現れる、これが教会時代の特徴だと言うのです。それから、その偽のキリストたちは、『時が近づいた』、つまり、キリストの再臨は近いと預言します。さらに、『戦争とか暴動のことを聞』く、つまり、戦争や暴動が起こるけれども、終わりはすぐには来ない。つまり、教会時代の特徴として、偽キリストの出現、それから、再臨の予告、それから、戦争や暴動が起こる、こういったことは教会時代を通して、ずっと起こることであって、これらが起きているからといって、終わりがすぐに来るということではないのだということを、主イエスはまず言われたのです。
■終わりの時代の徴
主イエスは先ず、『惑わされないように気をつけなさい』とおっしゃっています。崩壊に直面し、また今後起る崩壊への不安、終わりへの恐れの中で私たちは、惑わされないように気をつけなければならないのです。社会がこのような不安の中にある時には必ず、私たちを惑わそうとする者たちが現れて来るからです。どのような『惑わし』に気をつけなければならないのでしょうか。一つは、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか『時が近づいた』とか言う」という惑わしです。わたしの名、つまり主イエスの名を名乗る人々が現れて「わたしがそれだ」と言う、それはつまり自分こそ救い主だと言うということでしょう。『時が近づいた』というのも、『あなたがたの救いの時が近づいた』ということで、つまり『救い主である私が現れたのだからもう大丈夫だ、私のところに来なさい、そうすれば救われる』ということです。しかし、そういう者たちに『ついて行ってはならない』と主イエスは警告しておられます。崩壊に直面し、苦しみや不安が社会に満ちる時には必ず、『私に従っていれば大丈夫だ』と言って人々を安心させ、そしてとんでもない所に連れて行こうとする者が現れるのです。
それでは、歴史的にこれまでどのような偽のキリストが登場してきているのでしょうか。ユダヤ人の歴史の中で、最初にメシアを名乗った偽キリストが誰かと言いますと、バル・コホバという人です。紀元132年に偽のメシアが出て、ローマに反乱を起こしました。これが、バル・コホバの乱と言います。バルというのが息子という意味です。コホバというのは、星という意味なのです。ですから、バル・コホバというのは、星の子という意味なのです。星の子というのは、旧約聖書の民数記の中で、メシアを指す言葉として使われていますから、このようなニックネームをつけることによって、自分がメシアだと宣言した訳なのです。
次に、ユダヤ人の歴史の中で有名な偽キリストは、シャブタイ・ツヴィという人です。この人は、1626年生まれで、1676年に亡くなっています。17世紀の半ばに、メシア宣言をしたのです。彼は、トルコのスミルナ(現在イズミール)の出身と言われています。メシア宣言を行い、自分がメシアで、ユダヤ人を聖地に帰還させるために現れたと言いました。彼の言うことを信じて、財産を全部処分して、聖地に向かう人がたくさん出たのです。歴史の中では、こういう話はよくあるのです。彼は、最後はオスマン帝国において逮捕されて、裁判にかけられます。彼にはイスラム教への改宗か死刑かという二者択一が迫られ、彼はイスラム教に改宗するのです。
その次が、シャブタイ・ツヴィから約100年後の18世紀の半ばに、当時はポーランド領、現在のウクライナにおいてヤコブ・フランクという人が現れます。フランクは自らがシャブタイ・ツヴィの生まれ変わりであると言ったのです。生まれ変わりだと称して、メシア宣言を行ったのです。フランクはモーセ5書を否定し、仲間を集めて擬似家族と小規模な王国を作り、仲間内で道徳的に堕落した生活を送ったため、非常に評判の悪い人でした。
さらに、20世紀の後半に出たのが、メナヘム・メンデル・シュネルソンという人です。この人は、1902年に生まれ、1994年に92歳で亡くなっています。ニューヨーク出身のラビなのです。とても影響力のある人で、多くの人がシュネルソンのことをメシアだと信じたのです。彼の派が「ルバヴィッチ・ハシディーム」と言います。今でも、彼が蘇ると信じている人がいるのです。
このように偽キリストはユダヤ人の歴史の中で、繰り返し出てきているのです。異邦人の中でも、同じです。しかし、これは教会時代の特徴であって、世の終わりの徴ではないのです。
■民は民に、国は国に
そして、本日の聖書の箇所の10〜11節では、『そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』と記されています。ここで、『そして更に、』とありますことから、ここでテーマが変わっていることが分かります。教会時代の特徴について語っていたところから、ここで、終わりの時代の徴というテーマに入っていると考えることができます。主イエスが語る終わりの時代の徴とは何なのかと言いますと、それは『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる』時代だと言うのです。これは、地域戦争のことではありません。これは、世界戦争のことなのです。ラビ用語で、『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる』ということは、世界戦争を意味しているのです。主イエスは、当時使われていたラビ用語を用いて、世界戦争について語られたのです。既に、第一次世界大戦、第二次世界大戦は起こっています。つまり、終わりの時代の徴が起こり始めていると考えることは可能なのです。さらに、世界的に大きな地震が起こるというのです。東日本大震災や昨年のトルコの南部からシリアにかけて大地震など、世界の大地震のニュースを私たちは聞くようになりました。さらに、『方々に飢饉や疫病が起こり、』ということを、コロナのことを引き合いに出すまでもなく、私たちは実感するようになっています。さらに、これから『恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』といったものが時代の終わりの徴になるのだということです。それらが今の時代が終わり、新しい時代が始まる徴になるのだというのです。
現在の世界の状況を見ていますと、世界は異なった歴史段階に近づいているように思われるかと思います。そのような中で、いちばん重要なのは世界戦争です。第一次世界大戦が1914年に勃発して、1918年まで続きますが、これが人類史上初の世界戦争です。この出来事が重要なのは、この世界大戦の結果、いわゆるシオニズム運動が現実化して来たのです。19世紀後半にロシアや東ヨーロッパに居住していたユダヤ人たちが、パレスチナにユダヤ人の国家を建設しようとした運動がシオニズム運動ですが、第一次世界大戦中にイギリスはオスマン帝国と敵対しており、戦いを有利に進めるためにシオニスト運動を支持したことで、多くのユダヤ人がパレスチナに向かうきっかけとなりました。第一次世界大戦と第二次世界大戦を比較すると、第一次世界大戦の方が重要ですが、この2つの世界大戦の結果、イスラエル国家が1948年に誕生しました。イスラエルが滅びたのは紀元70年です。それから、約1900年後にユダヤ人国家が誕生したのです。
それでは、このような2つの世界大戦を経て、ユダヤ人国家が成立したことが、今の時代の終わりの徴かと言うと、主イエスはそうではないとおっしゃっておられるのではないでしょうか。戦争や災害のような破局、崩壊の出来事は、今の時代の特徴として必ず起ることであって、時代の終わりの徴と見えても、本当の今の時代の『終わり』はそれとは別のものによってもたらされるのだ、と主イエスは語っておられるのです。だから、主イエスは『おびえてははならない』(9節)と、私たちを励まされるのです。おびえずにはいられないような悲惨な現実の中で、なお私たちがおびえることなく、惑わされることなく歩むことができるとしたら、それは、私たちを、この世界を、最終的に支配するのは、戦争や災害によって引き起こされる崩壊や破局ではない、ということを聖書の一つ一つの言葉の上に立って、見つめる信仰によってのみなのだと思います。
■主の再臨を信じて
本日は11節までしか、読むことができませんでしたが、続きは次回お話したいと思います。それでは、今の時代の終わりは何によってもたらされるのか、ということについて考えてみたいと思います。今の時代の終わりは、この21章の後半に語られていきます。先取りして見ておくと、27節には、『そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。』とあります。『人の子』とは主イエス・キリストのことです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られる、そのことによって今の時代は終わる、と聖書は語っているのです。それは、主イエス・キリストのご支配が誰の目にも明らかな仕方で確立し、完成するということです。神様の独り子、まことの神である主イエス・キリストは、既に人間となってこの世に来て下さり、私たち全ての者の罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、私たちの罪の赦しを成し遂げて下さいました。そして、復活して、永遠の命を生きる者とされ、天に昇り、父なる神様の右の座に着いておられます。主イエスは今既にこの世界を、私たちを、支配して下さっているのです。しかし、そのご支配は、今は目に見えません。信じるしかない事柄です。現在の世界の現実と私たちの目に映る現実には、なお罪が満ちており、苦しみや悲しみがあり、天災や人災による苦難があります。それらは、私たちをともすればおびえさせます。そのような苦しみに満ちたこの時代にあって、目に見えない主イエスのご支配、父なる神様のご支配を信じて生きていくのが信仰者だと思います。主イエスのご支配は、いつまでも見えないままではありません。救い主イエス・キリストがもう一度来て下さり、そのご支配が目に見える仕方で完成して下さる時が来るのです。私たちが生きる現在の教会時代は、主イエスの再臨によって、新しい時代へと移行するのです。このことを信じて待ち望みつつ生きるなら、私たちは、崩壊の現実に直面する時にもそれが『終わり』ではないことを、それらは『まず』起るに決まっているが、その先に神様の救いの恵みの完成があることを信じて、私たちは生きることができるのです。
私たちは、主の再臨の時を知らなくても、主の再臨の時を信じて、おびえから解放されて、偽りを語る者たちによって惑わされることなく、本当に見つめるべきことを見つめつつ生きることができるようになりたいと思います。
それでは、お祈り致します。