小倉日明教会

『罪人の私を憐れんでください』

ルカによる福音書 18章 9〜17節

2024年6月30日 聖霊降臨節第7主日礼拝

ルカによる福音書 18章 9〜17節

『罪人の私を憐れんでください』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

引越し祝い

 おはようございます。さて、アメリカのニューヨーク州ビンガムトンというところにある銀行が、新しいビルに引越しした別の銀行に、お祝いの花輪を届けさせたことがありました。ところが花屋さんが大変なミスをしてしまったのです。お祝い花輪に添えられていたカードに、なんと「心よりお悔やみ申し上げます」と書かれていたのです。クレームをつけられた花屋さんは平謝りに謝りました。しかし、もっと致命的なミスがあったのです。銀行のお祝い花輪に備えられるはずのカードが、あろうことか、葬式花輪に付いていったのです。しかも、17歳で亡くなったあるクリスチャンの少女のお葬式だったのです。血相を変えた花屋さんは彼女の葬儀場に駆けつけ、そしてご両親に心からお詫びしたのです。しかし、少女の両親は、それほど怒ってはいなかったのです。むしろにこやかに笑ってこう言ったのです。「このほうが娘にふさわしいと思うのですよ」。カードにはこう書かれていたのです。「祝移転・引越しおめでとう」。キリストを信じて亡くなった者にとって、死は地上から天国への引越しに過ぎないのだという話です。

 本日の聖書の箇所には、他人を見下している人々と、乳飲み子たち連れてきた人々が登場します。本日の聖書の箇所を通して、主イエスは、神の国に入ることができる人とはどのような人なのかとおっしゃられているのかということを、皆さんと共に学びたいと思います。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々

 さて、ルカは、エルサレムへの旅という中で、種々の教えを記しています。本日の聖書の箇所からの18章9節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅の結論部分となります。この結論部分の内容を解く鍵が、前回、お話しました18章8節なのです。主イエスは、神の国と再臨についてお語りになった話の最後で、次のように語られました。『言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』と、再臨の時に地上に信仰が見られるだろうかという質問をされたのです。この主イエスの『果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』という質問は、修辞的疑問文で、信じる人がたくさん起こされるわけではないのだ、僅かしか起こされない、でも確かに起こされる人はいるのだ、その人たちがどういう人たちなのかということを問うているのです。

 ルカは、この主イエスの言葉に応えて、『果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』というテーマを本日の聖書の箇所以降で、展開しているのです。ルカは、救いは恵みと信仰によるということを前提に、どういう人が救われるのかということを書いているのです。ルカが、この結論部分で強調しているのは、少しの人しか救われないのだとしたら、救われるのはどういう人なのという点なのです。

 本日の聖書の箇所の9節には、『自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。』と記されています。主イエスは誰に向かって語っているのかと言いますと、『自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々』に語っているのです。つまり、ここでは、自分のことを義人だと考えているファリサイ派の人々のことなのです。ファリサイ派の人々は、主イエスの福音を信じようとはしませんでした。そして、ファリサイ派の人々の特徴は、1つは自己義認です。自分は義人であるという確信を持っているのです。自分は義人であると考えている人の特徴は、自分と他者を比較して、あの人よりもずっと上だと優越感を持っているのです。主イエスが、本日の聖書の箇所で、たとえ話を語っている目的は、彼らを辱めるためではなくて、彼らが自分の真実な姿に気づいて、神様から助けを受けることができるように、彼らを導くことなのです。

一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人

 本日の聖書の箇所の10節を見ますと、『「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。』とあります。主イエスのこのたとえ話では、ファリサイ派の人と徴税人という、全く対象的な2人の人が対比されているのです。紀元1世紀の当時のユダヤ人にとっては、ファリサイ派の人と徴税人が登場した時に、その対比が絵画的にイメージするということが直感できたのです。ファリサイ派の人たちというのは、ユダヤ人共同体の中で、最も敬虔だと考えられていた人たちなのです。ファリサイ派の人たちは、町の通りの賑やかなところで、祈るのが大好きでした。経札(きょうふだ)、これは革でできた聖句箱とも呼ばれる小さな箱で、額と腕に縛って身につけるのですが、この経札を大きく作って、自分が敬虔そうに見せるということをしていたのです。そのように、ファリサイ派の人たちは、ユダヤ人共同体の中で、最も敬虔だと考えられていたし、自分たちでもそう思っていたのです。そのファリサイ派の人が、祈るために宮に上ったのです。一般論として、ファリサイ派の人たちは、主イエスを拒否し、主イエスが語る福音も拒否したのです。それに対して、もうひとりは徴税人です。徴税人は、当時はローマの手先となって、税金集めに邁進して、不正に金を儲けている、許されざる人種として最も軽蔑されていた人たちで、最も汚れた人たちだと考えられていたのです。そして、これも一般論ですが、徴税人たちは、主イエスの招きに積極的に応答したのです。義の象徴である最高の人と考えられていたファリサイ派の人と、不義の象徴である最低の人と考えられていた徴税人という、全く対象的な2人の人が、祈るために神殿に上って行ったのです。ユダヤ人にとって、祈りの場所は神殿なのです。ユダヤ人は神殿に行って祈るのです。特にエルサレムの近くに住むユダヤ人たちは、祈るために、神殿に上って行っていたのです。神殿は、丘の上に立っていたのです。ですから、神殿に行くのは、上ってゆくということになるのです。

 主イエスの語るたとえ話が、どこに向かって行くのか、聴衆は非常に興味を持ったと思います。全く対象的な2人の人が、祈るために神殿に上って行き、祈りを捧げたのです。この2人はどのような祈りを捧げたのでしょうか。

わたしはほかの人たちのようではない

 本日の聖書の箇所の11〜12節を見ますと、『ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』』と記されています。『ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った』とありますが、これが祈りでということはよく分かるかと思います。この人は、神さまの前で、他の人と比較して、自分のことを自慢しているのです。彼は、まず道徳的な自慢をしています。奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないことを感謝しますと言っています。そして、この徴税人のような者ではないことを感謝しますと言っています。そして、『わたしは週に二度断食し、』と、宗教的な自慢も行っています。敬虔なユダヤ人は、週に2度断食していたのです。曜日は、木曜日と月曜日です。これは水も飲まない断食をしたのです。このファリサイ派の人は、それを実行していたのです。これは、神さまが命じているものではありません。これは口伝律法の内容なのです。なぜ木曜日で、なぜ月曜日なのかと言いますと、彼らは口伝律法で次のように信じていたのです。

 モーセは木曜日にシナイ山に上ったと信じていたのです。それから、月曜日はモーセが律法を受けて、山を下って来た日、最初の律法は破壊されましたので、これは2度目の律法となるのですが、2度目の律法を受けて、山を下って来たのが、月曜日だと信じていたのです。ですから、モーセが律法を受けたことを大事にするために、まず木曜日に断食し、月曜日に断食していたのです。これは、聖書が命じている断食ではありません、ファリサイ派の人々が口伝律法に基づいて、自発的に行っていた断食であったのです。しかし、この断食をこのファリサイ派の人は、自慢したのです。さらに、彼は、『全収入の十分の一を献げています。』と言いました。これは、細かいところまで律法を守っているということです。この人は、何を言いたいかと言いますと、すべて完璧に行っていますということが言いたいのです。私は、道徳的罪を犯していない、宗教的な義務を全て果たしています、私は完璧な信仰者ですと、彼は神さまの前で、自分のことを自慢したのです。

罪人のわたしを憐れんでください。

 次に、本日の聖書の箇所の13節には、『ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』』とあります。ここで、はっきりとした対比が示されています。ここで、罪人の祈り、徴税人の祈りを見てみたいと思います。これは、祈りであることは、よく分かるかと思います。13節のはじめの『ところが、』という言葉、これは明確な対比であることを示しています。彼は、遠くに立ったのです。これは、ファリサイ派の人との位置関係を示しています。さらに、この徴税人は、目を天に上げようともしなかったのです。ユダヤ人の普通の祈りは、両手と目を天に向けて祈るというのが、普通の祈りの姿勢なのです。しかし、この徴税人は、目を天に上げようともしなかった、目を天に上げようともせず、そして、自分の胸を打ちながら言ったとあります。自分の胸を打つのは。悲しみの表現です。つまり、彼は自分の現状について、非常に悲しみながら、神様の憐れみを求めているのです。それが、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』という言葉で、これが心からの本当の祈りなのです。先程のファリサイ派の人の自分の自慢の言葉とは、対象的な祈りの言葉です。この徴税人は、どうしてこのような祈りの言葉が出てくるのかと言いますと、彼は自分と他人を比較していないのです。彼は、神様の基準に基づいて祈っているのです。神様の基準から見ると、私はなんと憐れな存在だろうか、さらに、彼は神様に向かって祈っているのです。ファリサイ派の人は、神様の前で、自分の自慢をしただけなのです。徴税人は、自力で自分を救うことはできないと考え、神様の恵みによってのみ、自分は救われるのだと信じているのです。

 当時の一般的なユダヤ人の認識では、ファリサイ派の人の祈りが合格なのです。さすが、ファリサイ派の人はすごいな、神様はこのような人を褒めて、救って下さるに違いない、徴税人の祈りは何も誇るところがなく失格だ、神様の憐れみを求めているだけだ、これは失格の祈りだ。これが、当時のユダヤ人の一般的な認識であったのです。しかし、この当時の認識がひっくり返されるようなことを、主イエスはお語りになったのです。

義とされて家に帰ったのは、

 本日の聖書の箇所の14節には、『言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』とあります。主イエスは、当時のユダヤ人の認識を逆転させることをお語りになられました。聖書に書かれている原則は、何度も、何度も出て来ていますが、私たちが忘れてしまう原則、それは何かと言いますと、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるという原則なのです。ということは、ここで義とされたのは誰なのか、ファリサイ派の人ではなく、徴税人が義とされて、家に帰ったのだ、つまり神様は、この徴税人の祈りを受け入れ、その祈りに応えて下さったということなのです。

 ここで、ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りの対比をもう一度確認したいと思います。ファリサイ派の人の祈りは、他の人たちとの比較に基づく祈りです。ファリサイ派の人は、自分の罪は見えないが、他人の罪はよく見えている、そういう祈りなのです。このファリサイ派の人の祈りは、神様に届いていません。自分のことを自慢しているだけの独り言なのです。それに対して、この徴税人の祈りの特徴は何かと言いますと、彼は神様の基準に基づく祈りを捧げているのです。さらに、自分の罪に焦点を合わせて、祈っています。この徴税人の祈りは、自分には誇れる点は何もないという認識から出た、真実な祈りです。そして、彼の祈りは神様に届く祈りなのです。このように、主イエスは、ファリサイ派の人と徴税人を対比することによって、どちらが神様に受け入れられたかという教訓を弟子たちに、また、人々にお語りになったのです。

人々は乳飲み子までも

 本日の聖書の箇所の15節には、『イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。』とあります。14節までのたとえ話で、神様の救いを受けるためには、謙遜が必要であるということを学びました。そして、福音記者ルカはそのことの実例として、15〜17節のエピソードを紹介しているのです。先程のたとえ話とこのエピソードとは、内容が繋がって来ているのです。乳飲み子をラビのもとに連れてくる、そして、ラビがその子たちの頭に手を置いて、祝福を祈るというのは、ユダヤ人の習慣であったのです。

 しかし、弟子たちは、人々が乳飲み子までも連れてくるのを見て、弟子たちはそれを見て、親たちを叱ったのです。なぜ叱ったのでしょうか?弟子たちの思いは、乳飲み子を近づけてはいけない、主イエスにはもっと重要な使命があるのだから、乳飲み子のことで煩わしてはいけないというものだったと思います。非常に残念な判断であったと思います。

 16〜17節を見ますと、『しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」』とあります。同じ教訓が教えられています。主イエスは、弟子たちの誤りを正しました。主イエスは、乳飲み子たちを呼び寄せたのです。乳飲み子たちを主イエスのもとに連れてくるように、親たちを励ましたのです。主イエスは、乳飲み子に深い関心を払われたのです。なぜかと言いますと、乳飲み子は神の国に入るために必要な謙遜になることの実例になっているからなのです。乳飲み子というのは、いろいろな特徴があります。この聖書の箇所で取り上げられている乳飲み子の特徴は何かと言いますと、乳飲み子というのは、親や大人に依存しなければ、生きて行けない存在なのだという点にあると思います。つまり、乳飲み子は与えるよりも、受けることによって生存しているのです。生存そのものが祝福になっている、これが乳飲み子の特徴なのです。そういう意味で、乳飲み子は謙遜の実例になっているのです。

 主イエスは、乳飲み子のこの性質を持っていないならば、神の国に入ることはできないと言っているのです。これはどういうことかと言いますと、自分の力で自分を救うことは不可能だということなのです。私たちは、神様の憐れみと恵みにすがるしか、他はないのだということなのです。神様の赦しを受け取る信仰を持つ人というのは、このような謙遜な人、自分の力で自分を救うことは不可能だということを認識している人が、神様の赦しを受け取る信仰を持つ人になるのです。

 本日の聖書の箇所は、前回の18章8節の『地上に信仰を見いだすだろうか』という問いに対して、それは少数である、それではどういう人が救われるのかということを、たとえ話を通して、ファリサイ派の人と徴税人との対比を通して、神さまの前にへりくだって、心砕かれた人が救いに預かるのだ、この乳飲み子のエピソードを通して、乳飲み子のように、自分ではできない、他の人に依存しないと生きることができないということが分かっている、そのように自分で自分を救うことができない、神様に依存するしかない、ということが分かっているという人が神様の赦しを受け取る信仰を持つようになるのだということです。

自己義認の危険性

 本日の聖書の箇所で、主イエスは祈りについて教えられている訳ではないのです。主イエスは、再臨の時に地上に信仰が見られるだろうかという質問をされたことに対して、神の国に入ることができるのは、どのような人たちであるのということについて、語っておられるのです。そして、本日の聖書の箇所のたとえ話は、主イエスを信じていない人たち、つまり、自分の力で自分を救うことが可能だと考えている人たち、救いは恵みと信仰によってもたらされるということを理解できない人たちに対して、語られているのです。エフェソの信徒への手紙2章8〜9節には、『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。』と書かれています。自分の行いによるのではない、神様が値のないものに、プレゼントとして贈って下さったもの、それが救いなのだと言うのです。従って、キリスト者になると、私たちが誇ることができるのは、十字架だけになってくるのです。神様の賜物としての救い、それは信仰と恵みによって与えられる、恵みのゆえに、信仰によって与えられるのです。これが、聖書が教えている救いなのです。このことが分かると、どんな人でも救われるのです。神様の前で、罪人の私を憐れんで下さいという祈りを捧げたいと思います。

 しかし、恵みと信仰によって義とされということを知って、救われていながら、内側にまだ、古い性質が残っていて、自分の力で自分を救うことが可能だと考える性質が顔を出す人はいないでしょうか?キリスト者の葛藤というのは、そこにあるのだと思います。このような人たちは、依然として、自己義認の性質が残っているのです。そのような、自己義認の性質がなぜ危険なのかということについて、考えてみたいと思います。1つ目は、プライドを生み出すということかと思います。私は、こうだと、私が、私が、ということになって来るかと思います。2つ目が、感謝の心が失われて行くことかと思います。自分で自分を誇っているのですから、感謝の心がないのです。感謝というのは、贈り物、恵みを受けた時に生まれる感情のことです。恵みを受けたから、感謝するのです。一切、自分には値しないものを受けているのですから、感謝の心が生まれるのです。自分は、その贈り物を受けるに値しないという認識が根底にあって、感謝があるのです。自己義認をしている人の危険性、1つ目がプライドを生み出す、2つ目が感謝の心が失われる、ということでした。そして、3つ目が、他の人たちを軽蔑するようになるということだと思います。これは、他の人たちとの比較が義の基準となるので、他の人たちを軽蔑するようになるのだと思います。せっかく、恵みと信仰によって救われているのに、まだ自己義認の性質が残っていると、やがて自分と他の人たちを比較し、あの人よりも自分の方が信仰的だと考え、他の人たちを軽蔑するようになるのです。そして、4つ目が、神様の教えを学ばなくなるということだと思います。なぜなら、自分でできていると考えているので、自己充足しており、聖書は脇に置いておいて、神様に信頼しなくても、自己流で生活していても良くなるからなのです。これら4つが、クリスチャンであっても持つことになる、自己義認に伴う危険性だと思います。

乳飲み子の心で

 本日の聖書の箇所で、主イエスが神の国に入ることができるのは、どのような人たちであるかと語っているのかと言いますと、乳飲み子のような心を持っている信者、これが霊的に成長した信者だと言っているのです。乳飲み子と言いますと、何か成長以前の状態のように思われるかもしれませんが、実はこのような人たちは、霊的に成長した人だと、主イエスは語っているのです。つまり、霊的に成長するということは、神様に信頼して、神様に依存してゆく生活こそ、安全で、豊かな生活だということが分かる人たちなのです。霊的に成長した人たちは、乳飲み子のように、自分が無力であることを認識しています。そして、神様の恵みに信頼を置いている人たちなのです。さらに、この人たちは神様との和解の方法を知っている人たちなのです。神様との関係に歪みが入った時に、それを取り除く方法を知っている人たちなのです。詩編51篇18〜19節のダビデの詩には、『もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。//しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。』とあります。何かを捧げることを神様は望んでおられるのではないのです。徴税人の祈りを思い返せば、この詩編の書いてあることが、よく分かるのではないでしょうか。神様の前に立つことができない、何とか自分で体裁を整えたいと思って、もう少し頑張らなくてはいけないかと、私たちは思っていないでしょうか?しかし、そうではないのです。神様が求めているのは、打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心なのです。これを神様は、求めておられるのです。私たちは、安心して神様の前に出て、今日の聖書の箇所の徴税人のような祈りを捧げたいと思います。

 神様の恵みに信頼してと言ったところで、神様は何をしてくれると思われる方もおられるかもしれません。しかし、ここで1つの詩をお読みしたいと思います。玉島教会名誉牧師で、マザー・テレサに協力するおにぎり運動にも尽力された河野進(こうのすすむ)牧師が作られた『上中下』という詩です。

 

 『上中下』      河野進

 

 言われてしないのは 下の下

 言われてするのは 下

 黙っていてもするのは 中

 気がつかなくてもするのは 上

 そっとして気づかせないのは 上の上

 眠っている赤ちゃんの

 おむつをかえる

 お母さんのように

 

 私たちを愛してやまない神様は、寝ている赤ちゃんのおしめを替える母のように、私たちが信じていても信じていなくても、生きていくのに必要な空気や水やいのちを黙々とさりげなく与えていてくださる方です。私たちは、私たちを生かし、私たちを愛して下さる神様を信頼し、砕かれた心で、祈りを捧げたいと思います。

 それでは、お祈り致します