■信じることと疑うこと
一六章一六節で、ペトロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」とイエスさまに告白しました。しかしペトロは、イエスさまの本当の姿、神の子キリストが十字架につけられるというイエスさまの言葉を理解することができません。いえ、理解できないというよりも、そのことを受け入れることが、認めることができませんでした。
ペトロは決して鈍い人ではありません。イエスさまの覚悟のほどを誰よりも感じ取っていたはずです。ですから、イエスさまが十字架につけられることに定められていると告げられた時、他の弟子たちが戸惑い、うろたえる中で、ただ一人ペトロだけが「そんなことはおっしゃらずに…」とイエスさまを留めました。しかし、そのことで激しく叱責をされます。
ペトロは表面では平静さを保ちながらも、ずいぶんと意気消沈していたに違いありません。それから六日の間、毎日、毎日、十字架の救い主、「自分の十字架を背負って、従いなさい」というイエスさまのみ言葉の意味を、ああでもないこうでもないと考えあぐねていたことでしょう。考え疲れて、イエスさまへの不信、疑いさえ抱き始めていたかもしれません。
信仰とはそのようなものなのかもしれません。
信じることと疑うことは実に紙の裏表、紙一重の差です。信じればこそ疑い、疑えばこそ信じる。疑うことのない信仰は、いわば狂信的で、傲慢で、排他的で、実は神ならぬ自分だけを信じる偶像礼拝のようなものでしかありません。しかしまた、信じることのできない疑うばかりの人生も、満たされることのない無間地獄のようなものです。
わたしたちの世界は、信じることよりも疑うことばかりになっているように思えます。どれほどの疑いや迷いの中にあってもなお信じることのできる人は幸いです。そして、信じていながらも自らの心の奥底をいつも、これでよいだろうかと謙虚に吟味できる人もまた幸いです。信じることと疑うことの狭間で、揺れながら、彷徨いながら、わたしたちの信仰は成長していきます。
しかも、疑ってばかりいる暗闇の中でもがき苦しむわたしたちを救い出し、その疑いを晴らしてくれるのは、わたしたち自身ではなく、いつも神様、イエスさまです。疑いと迷いの中で苦しんでいる時、山の頂で、神様は、神の子としてのイエスさまのみ姿を、ペトロたちにお見せになりました。辺りがまったく見えない雲の中、まさに五里霧中という外ないようなにっちもさっちもいかないその時、山の頂で白く輝くイエスさまの姿。そのお姿を見た時、ペトロは喜びに溢れてこう言いました。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」
ここにこうしていることは、なんとすばらしいことでしょう。
■美しすぎる
「すばらしい」という言葉は、「美しい」という言葉です。「わたしたちがここにいることは、何と美しいのでしょう」、ペトロはそう言うのです。
「美しい」。ある人はこの言葉を「慰めに満ちている」とも訳しています。確かに、美しいものはわたしたちを慰めてくれます。とりわけ、こころがすさみ、何一つ信じることができず、生きていることの意味を見失い、絶望の中にある時ほど、美しいものに触れることで、わたしたちは深い慰めを与えられます。ですから、わたしたちの誰もが、美しい絵画を見たい、美しい文学に触れたい、美しい音楽を聞きたいと思います。
早春の早朝。雑木林の坂道を上っていくと、いっせいに新芽の吹き出した木の枝という枝に無数の水滴が宿って、朝の光にきらめいていました。近づいてその一粒に目をこらすと、春風に揺れるしずくの中に青空と大地が揺れていて、そのあまりの透明さと、今にもこぼれ落ちそうな一瞬の小宇宙のはかなさに心躍り、思わずつぶやきます。「美しすぎる…」
これはわたしの口癖です。夏、日は落ちたけれども、入道雲の頂上だけが輝いているその金色の光に、「美しすぎる…」。秋、舞い落ちた一枚の落ち葉の、赤と黄色の柔らかな色合いに、「美しすぎる…」。冬、広場で見かけた赤ん坊と目があったときの、一瞬のその笑顔に、「美しすぎる…」。そして再び、美しすぎる春がやってこようとしています。
わたしが絵画や映画や自然が好きで、時間があればスケッチをしたり、遠くまで絵の展覧会に出かけ、毎月一本は映画を見たり、ブナの原生林をさまよったりするのも、単なる趣味とか好きだからという以前に、それが生きるための必須条件だから、そう思えてきます。
イエスさまを追い求め、教会を愛し、あまつさえ牧師までしているのも、そこにこそ、この世の領域を超えた究極の感動がここにあふれているから、そう思えます。説教も、いつも結局は感動の分かち合いになってしまいます。たった今、与えられ、朗読されたマタイのみ言葉に、ああ本当にそうだと感動したことと、その福音と響き合う「美しすぎる」現実の出来事を、語ることしかできません。
ところで、美しいものにわたしたちが感動するのはなぜでしょうか。科学はそれを脳の働きとして説明することでしょう。でも、ではなぜ脳はそう働くのでしょうか。世界はなぜ、これほどまでにわたしたちを感動させようとするのでしょうか。わたしは、すべての根底に「神の美」「神の感動」というほかないものがあることを感じます。神様は感動のうちに天地を美しく創造され、その感動を共有してほしいと願っておられるのではないでしょうか。
そんな神様の感動を、完全に共有しておられたのがイエスさまだったのではないでしょうか。イエスさまが春の丘で美しすぎる野の花に感動し、すべてを生かす神の愛を説いているとき、そこに天上の感動があふれていたのではないでしょうか。
■生きていてよかった
そして今、ペトロたちも、そんな感動に包まれていたのではないでしょうか。
「主よ、ここにいることは、何と美しいことでしょうか。何とわたしたちの慰めとなることでしょう。わたしたちの疑いが、悲しみが、苦しみが取り去られます。そう、イエスさま、あなたは神の子です」
このペトロの言葉に答えるように、今度は、はっきりと輝ける雲の中から神様のみ声が聞こえました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
「そうだ。これはわたしの子だ。わたしもこの子のことを喜んでいる」。「心に適う」とは、「気に入っている」という意味の言葉です。
だから、これに聞くがよい。信頼し切って、その言葉の通りに生きるがよい。このイエスを信じる時に、イエスが告げた「自分の十字架を負う」ということの意味があなたたちの心に沁みてくる。あなたたちは、わたしが与えたいのちのかけがえのなさを見出すことができる。生きていてよかった、ということが分かるようになる。
そう言ってくださるのです。
生きていてよかった。何かにつけて疑い、人を疑い、自分さえ疑うばかりでいる時に、生きていてよかったとは、誰も思えないことでしょう。そう思えるのは、誰かを信じることができる時です。時には人を信じ、時には自分を信じることで、わたしたちは生きていてよかったと思います。
残念ですが、人を、そして自分を信じきることなどできません。だからこそ、どんな時にも信じることのできるお方、美しいもの、感動するものをわたしたちに与えて生きることの素晴らしさを示してくださるお方、永遠の神様を信じ、感じることができる時、わたしたちはどのようなことがあっても生きていてよかったと思えるのではないでしょうか。
信仰に生きるということは、そのような信頼をもって、イエスさまの言葉に従って生きるということです。その信頼を持たずに、聖書の言葉を読んでも意味はありません。こうしたらよいのか、ああしたらよいのか、イエスさまのお言葉通りやってみても、結局は損をするばかりではないか。イエスさまとは、何者であろうか。そんなふうに疑ってばかりいては、従って生きて行くことなどできません。信じるということは、自らのいのちをもって贖い、買い戻して、罪の束縛から自由にしてくださるほどに、わたしをかけがえのないものとして愛してくださる、そんなイエスさまへの信頼を与えられるということです。この方の言うことなら、信じ切って生きることができる、と言えるようになるということです。
この方が「愛しなさい」と言われるのだから、誰に裏切られることがあっても、たとえ自分が自分を裏切ることがあっても、愛そうとするのです。どんなに躓いても、イエスさまがここで「これをしなさい」と言われるから、その愛に生きるのです。その愛に生きるのです。そういう歩みを始めることです。
今、ペトロたちが、イエスさまを光り輝く中で見つけたということは、そのようなイエスさまの真実の姿、自分の人生にとってかけがえのないイエスさまを見出したということ、生きていてよかったと思えたということではないでしょうか。
■十字架で両手を広げて
弟子たちは、神様のみ声を聞いた時に、恐れに顔を上げることもできませんでした。当然です。神様のみ前にあって、疑うばかりの自分たちの正体が、罪の姿があらわになるのです。それは恐ろしいことです。しかし、顔を地に伏せる弟子たちを、イエスさまは立たせておられます。しかも、ここで何と言って、このイエスさまが弟子たちを立たせる姿を描いているでしょうか。
「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』」
近づいてきてくださったのです。神の子として高いみ座に座して、大きな声で「立て」と叫ばれたのではありません。わたしたちであれば、そうするかもしれません。気の弱い者、力のない者が倒れ伏していれば、時に声を荒らげて、「立ちなさい!しっかりしなさい!」と叫ぶでしょう。言葉に、励ましの鞭を込めます。実は、それしか言うことのできない、そんなわたしたちなのです。
しかし、イエスさまは近づいてこられます。身をかがめなければ、弟子たちに触ることはできません。身をかがめて、そのみ手を置いてくださるのです。やさしい父母が小さな子どもにかがんで歩くことを教え、食べ物を与えるように、イエスさまは地に伏している弟子たちに手を触れようとかがみ込み、そのみ手を置いて、耳元で言われるのです。
「恐れることはない。あなたも立つことができる」。
ここに、主の正体が示されます。それは、愛の一語に尽きる姿です。神様は愛、イエスさまのおられるところ、そこに神様の愛があるのです。
山の頂で輝くイエスさまのお姿は、愛に輝くわたしたちの希望であり、そして、ペトロと同じようにそれをいつも見続けていたいと願う、わたしたちの夢でもありました。
今日のみ言葉について、ある人がこんなことを書いています。最後にご紹介して、今日のメッセージを閉じさせていただきます。
「わたしは、この箇所を読むと決まって、イタリアのフィレンツェにある一つの絵を思い起こします。フィレンツェの聖マルコ修道院の聖職者であり、絵描きであった、フラ・アンジェリコの作品です。イエスさまのご生涯を描いた作品の一つに、この変貌の光景があります。光輝く中に立つイエスさまは、両手を広げておられます。それは十字架につけられるイエスさまのみ手をすでにかたどっているものです。しかし、わたしは同時に、あの十字架につけられる姿を示しているイエスさまのみ手が、弟子たちを、そしてわたしたちを招き、祝福するみ手であることをも感じ取ることができます。今、わたしはそれを思い起こしています」と。