小倉日明教会

『肩の荷を下ろしてごらん』

ルカによる福音書 10章 38〜42節

2024年10月13日 聖霊降臨節第22主日礼拝

ルカによる福音書 10章 38〜42節

『肩の荷を下ろしてごらん』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■聖書研究でのこと

 今日の場面は、先日のBible Caféでお話した箇所と同じです。そのため、その時のお話しと重なってしまうところがあるかもしれません。どうぞお許しください。

 さて、今から三十年以上前のことです。当時奉職していたYMCAで、スタッフの学びの会、いわゆる聖書研究の担当に当たり、今日のみ言葉について話し合ったことがあります。

 最初はわたしも含め、誰もが上品なことを言っていました。「マリアのようにイエスさまのみ言葉をまず聞くことが大切だよね。マルタのように忙しすぎてはいけない」と。イエスさまに聞き従うマリアは正しく、ガサガサと動き回るマルタは間違っているという図式です。

 ところがこの図式、ある人のひとことで崩れ始めました。「マリアは嫌い。こんな人がいたら困りません?このもてなしは結局、誰かがやらなければならない仕事なんでしょう!」この発言は、そこにいたみんなの心の奥底にあったものを少なからず剌激したようでした。やがて少しずつ、それぞれの本音がもれ始めます。どうしてマリアは、マルタの手伝いをしないのだろう、マルタが可哀想ではないか、と。誰もが、マルタの立場に立たされた、悲しい思い出があるようでした。

 マルタは、自分でイエスさまを招待しました。その責任上、どうしても自分でもてなさないわけにはいきません。本当は、彼女もイエスさまの話をゆっくりと聞きたかったはずです。でも、マリアと同じようにイエスさまのそばに座ってしまえば、誰がもてなしをするというのか。自分がやらなければ、誰もやってはくれません。その嫌な仕事を、マルタは率先して引き受けているのです。

 実に立派ではないか。妹のマリアも座ってないで、一緒に手伝ってやるのが筋ではないのか。二人でやれば、もてなしもすぐに終わり、姉妹なかよく、イエスさまの話を聞けただろうに。イエスさまも、「マリア、お姉さんがうるさいから、ちょっとお手伝いしてきたらどうですか」と言ってあげればいいのに。

 みんなの話が深まる中、わたしは混乱していました。わたしは自分のノートに目を落としました。そこには、自分で用意した聖書研究の成果が長々と書かれてありました。しかし、その字面も空々しくなり、話をまとめることもできず、その会はそのまま終わってしまいました。

■共感と反発

 告別式の準備のために慌ただしくしていました。年配と思われる一人の男性かそのとき、わたしもマルタに同情をしていました。しかしそれ以上に、イエスさまという人が分からなくなっていました。

 果たしてマルタは、イエスさまから注意された後、どんな反応を示したのでしょうか。「イエスの分からず屋!」と言って、不貞腐(ふてくさ)れたのではないのか。イエスさまももう少し、マルタの気持ちに寄り添ってあげればいいのに、と。

 もちろん、マルタにも欠点はあります。マルタはきっと、そのときのわたしと同じように、「あの人も手伝わない、この人も手伝わない」と、口に出すかどうかは別にして、他人(ひと)をうるさく批判していたかもしれません。そういう人と一緒にいると、そして実は本人自身も、本当に疲れるものです。マルタには、自分と同じ働きをしない人間、マリアを理由も考えずに批判する、そんな軽率さがありました。自らの価値観を他人に押しつける、鼻持ちならない部分も感じ取ることができます。しかも、その押しつけを、マリアに直接訴えるのではなく、イエスさまを通して間接的に行うというのは、どうにもいただけません。イエスさまの権威を使って、マリアに圧力をかける気なのでしょうか。

 誰もが思い当たる、こういうマルタの問題に、イエスさまはお答えになります。

 「マルタ、あなたは心乱し、かなり混乱しています。落ち着きなさい。本当に必要なこと、やるべきことはただ一つです。ほら、マリアは、その一つを見つけました」

 そして、こう諭されます。

 「マリアのやっていることを、とりあげてはなりません。妨げ、禁止してはなりません」

 イエスさまはマルタに、もてなしが間違っていると言っておられるのではありません。ただ、あなたは混乱していると指摘されます。そして、マルタがマリアの行いを奪わないよう戒められます。これは、マルタ、あなたがもてなしをするのは自由だ。しかし、もてなしをしないマリアの自由も大切なのです、ということでしょうか。多くの注解書や文学者はそう説明します。しかし、果たしてそうなのでしょうか。

 イエスさまの指摘は正しい、そう思われます。しかし結局、もてなしは誰がするというのでしょうか。やはりこの後、マルタが一人でするのでしょうか。

 「いやいや、もてなしなんか、誰もやらなくてもいいのだ」という人もいます。しかし、それは嘘です。それは、もてなしを受ける側の人の台詞です。自分では指一つ動かさず、もてなされていることにも気づかないでいる人がいう言葉です。

 よく見てください。多くのもてなし、心づかいで、わたしたちの周囲は成り立ってはいないでしょうか。一杯のお茶、一輪の花、掃除の行き届いた部屋、それら小さなものが、わたしたちを支えています。小難しい言葉より、細(ささ)やかなもてなしが、わたしたちの「いのち」を励ましてくれます。もてなしのまったくない世界は砂漠です。イエスさまが繰り返し口にされる「あなたたちが頑ななので」という言葉の「頑な」とは、「カラカラに乾いている」「砂漠のように乾いている」心を意味します。

 そんな砂漠を避けるため、マルタは一生懸命やってきました。ポケッとしているマリアをよそに、マルタは頑張ってきました。

 そう考えると、もうわたしはなんだか腹が立ってきて、イエスさまに言いたくなります。イエスさま、そんなに偉そうなことを言われるのなら、あなたがマルタと一緒に台所に立ってくださったらいいでないですか。一緒に料理を作られたらいいのです。人が生きるということは、そのような生活の細々(こまごま)とした雑事に思い悩み、心を乱しつつ耐え抜くということなのではないですか。そのどこがおかしいのですか、と。

■どうぞ助けてください

 その時、そんな怒りを抱えたまま、わたしは春先に休暇を取って郷里に帰省しました。表面的には、ゆっくり休んだように見えたかもしれません。しかし、実際は違いました。仕事を中断した途端、体中で多くの悩みが吹き荒れ、じっとしていても心が乱れ、苦しくて堪らないのです。仕事、生活、自分や家族のこれから、解決されない悩みが層をなして両肩に乗っています。もう、何もかもやめたくなりました。けれども、こんな気持ちは何も、今に始まったことでもありません。まあ、しばらくこの不安と付き合っていくかと諦めます。このぐらいで負けるわけにはいかないと、自分を励ます休暇でした。

 そんな日曜日、近くの教会の礼拝に出ました。久しぶりに役員として何かをする必要もない、何もしなくていい礼拝です。二十人ほどの大人とこども、そして盲導犬が一匹いました。誰も、わたしが誰か知りません。そこでのわたしは、忙しくもてなしてきたマルタではなく、新来者として静かに何もしないマリアのようでした。礼拝は時間通りに始まりません。また始まっても、こどもたちの歓声でざわついていました。何だか、自分の教会よりもいい加減だな、といやらしい目を向けていました。すると、唐突に礼拝の奏楽が始まり、司会の人が祈り始めました。

 「弱いわたしたちを助けてくださる神様…」

 わたしは、この時の感情を正確に表現できません。ただ状況だけを説明すれば、「弱いわたしたち」という祈りを聞き、わたしの目から突然涙があふれ出しました。何だか、自分は本当に弱いのだと強烈に示された気がしたのです。わたしは涙を拭うこともできず、ただ下を向いて顔を隠しました。周囲の人は、突然現れたおっさんがユラユラ揺れながら、涙を流しているので、当惑されていたかもしれません。目を上げると女性の牧師が、こどものための説教を始めていました。なんと、マルタとマリアの話です。彼女は一枚の紙を見せました。そこには、こう書かれていました。

 「必要なことはただ一つだけである」

 心の奥底に、その言葉がスルスルと入ってきたようでした。

 「必要なことはただ一つ。あなたは、多くのことに思い悩んで心が乱れている。あれもこれもと必死に突っ張って生きてきた。しかし、もういい。疲れたでしょう。何もしなくてもいいよ。わたしがここにいる」

 そう聞こえました。わたしは心の中で答えます。

 「本当?本当に一つだけでいいのですか?そうですよね…本当はわたしも知っていたのです。礼拝が定刻に始まらなくても、騒々しくてもどうでもいいのです。本当は教会も生活も自分も家族も、どうでもいいのです。本当に必要なものなんて、ほとんどないのです。ただ、あなたの言葉が欲しい。イエスさま、どうぞ助けてください」

 突っ張っていた心の棒が、ポキンと折れた感じがしました。わたしは実際、マリアのように静かになってしまい、ふ抜けのようになって帰宅しました。

■イエスさまのもてなし

 帰宅して考えました。マルタは、イエスさまの言葉を聞いて、「分からず屋!」と反応したのではなく、わたしのようにその場で泣いてしまったのではないか。

 マルタもきっと、もてなしで疲れ果てていたに違いない。しかしそれが分かっていても、忙しく働いてしまう。このままでは、自分は駄目になると分かっていても止めることができない。そんな暴走する自分を押しとどめてくれる誰かを、待っていたのではないのか。周囲に対し批判的でいつも強そうに見えるけれども、本当は誰よりも弱い人。その自分の弱さを突っ張って隠し通し、働いてきた女性。周囲からは「あの人はもてなしを好きでやっている強い女だ」と誤解されながら、「もうやめたい!誰か止めさせてほしい!」と心では叫んでいたのではないか、と。

 イエスさまは、このマルタの内なる声に答えられたのです。

 マルタ、もう頑張らなくていい。あなたがどんなに心を乱し、配慮してきたか知っている。自分の弱さを認め、わたしに委ねなさい。必要なことはただ一つ。わたしのもとに身を寄せ、重荷を下ろすこと。さあ、「休ませてあげよう」(マタイ11:28)と。

 マルタも、わたしも、突っ張って働き続けることもできます。あれこれと思い悩み、心を乱しながらも、強引に突き進むこともできました。しかし幸いにも、そんなわたしたちの前に、イエスさまは優しく立ちふさがって、誰にも理解されなかった重荷を受けとめてくださったのです。イエスさまは分からず屋ではありませんでした。

 マルタはイエスさまとの出会いの後でも、やはりもてなしは続けたに違いありません。しかしその出会いで流した涙を忘れることはなかったでしょう。わたしが教会の床に落とした涙の跡を忘れられずに、今ここで牧師として働かせていただいているように。マルタも同じように、心からのもてなしを、新たな気持ちで再開したに違いありません。

 「もてなし」、それこそ「愛」です。今日のみ言葉の直前は、皆さんよくご存じの、あの「善きサマリア人のたとえ」です。イエスさまはその譬えを通して、こう教えてくださいました。

 わたしたちにとって大切なことは、だれが隣人なのかということではない。そうではなく、イエスさまが今も、どのようなときにも共にいてくださることを感謝すること。そしてその大いなる愛に応えて、すべてを委ね、だれかの隣人になる、ということでした。

 そしてそれこそが、イエスさまが今ここで求められている「もてなし」、「愛」でした。